Vischio

東雲彰人が赤点を取らなくなった理由


 パタ、とシャープペンシルがノートの上に倒れる。
 それを握っていたはずの彰人は後ろへ重心を傾けて、ベッドに頭を寄りかからせながら天井を仰いだ。

「しんどい……」

 歌の練習をしているときは絶対に出てこない言葉。声からもうんざりしているのがわかりやすく伝わってきて、こはねは思わず笑ってしまった。

「東雲くん、まだ始めたばっかりだよ」
「嘘だろ。絶対二時間くらい経って……ねえわ」

 頭をベッドに預けたまま、彰人が室内にある時計を確認する。
 二時間どころかまだ一時間も経っていない。マジか、と言いながら長々と溜め息を吐き出す様子に微笑ましさを感じて、こはねはまた小さな笑い声を漏らした。

 もうすぐ始まる定期テストについて話をした数日前、彰人は今回のテストを赤点ゼロで突破したいのだと言った。冬弥の小言を聞き飽きた、杏との勝負に負けるわけにいかない等の理由を聞きながら、同じ学校の三人がほんの少し羨ましくなったのは秘密だ。

(東雲くんのやる気次第であっさり達成できそうだけどなあ……) 

 以前、冬弥が「彰人はやればできるのにやらない」とぼやいていたのを思い出し、こはねはシャープペンシルの頭――ノック部分を口元に当てる。なにかいい方法はないものか。

「……東雲くん、欲しいものある?」
「お前な、いくらなんでも唐突すぎんだろ」
「ご褒美あったらやる気でるかなって」
「まあ、確かに」

 身体を起こし、テーブルに頬杖をついた彰人がこはねをじっと見つめる。
 数回瞬く間も外れない視線に段々と落ち着かなくなり、こはねは身じろぎながら意味もなく頬をこすった。

「――で、くれんの? ごほーび」

 からかうように彰人が笑う。
 できるのか、というニュアンスも含まれた聞き方だったから、こはねは自分自身にも問いかけたうえで頷きを返した。

「私にできることなら」
「こはねにしかできねえよ」
「そうなの? なあに?」

 パンケーキやチーズケーキを食べに行くとか、WEEKEND GARAGEのメニューをご馳走するとか――食べ物のほうへ思考を寄せていたこはねは、彰人の言葉に瞬きをした。
 こはねにしかできないと限定されるようなことはあまりないように思うが、彰人はふっと満足げに笑うだけで答えてくれなかった。

「結果出てから言うわ。お前も考えとけよ」
「え、私も?」
「オレの赤点を回避させてくれた礼」
「……まだテスト始まってないのに」

 彰人の気の早さに笑いながら、こはねにも同じものを返そうとしてくれるのが嬉しい。
 そんなこはねを見て、彰人も優しく目元を和らげる。胸の中に温かいものが満ちるような感覚がくすぐったくて、こはねは服を握りながらゆっくり息を吐いた。



***



「――返ってきたぞ」

 したり顔の彰人が数枚のテスト用紙をテーブルに広げる。
 表情から既に目標は達成できたんだろうと察しながら、嬉しそうな彰人につられてこはねも嬉しくなった。

「ほら、ちゃんと見ろ」

 促されるまま視線を下げて、すごい、と口から感嘆がこぼれた。赤点回避どころか、全教科で平均点を上回ったらしい。

「東雲くんすごいね!」
「今回はお前のおかげでもあるからな」
「……? あ!」
「忘れてたのかよ。褒美くれるんだろ」
「う…、でも、ちゃんと思い出したから大丈夫だよ。なにがいい?」

 背筋を伸ばし、聞く姿勢をとったこはねを見て彰人が笑う。こはねの腕を引き、ぽすんと自身に寄りかからせたこはねを抱え込んでから、あらわになっている耳元へ顔を寄せてきた。

「ふぁ、え……、え!?」

 彰人から囁くように告げられた内容に、ぞわりと肌が粟立つ。こはねは反射的に身体を離そうとしたものの、彰人にしっかり抱きしめられていたせいで無理だった。

「き、キス…?」
「お前、全然想像してなかったんだな。こはねにしかできねえって言っといただろ」
「だって、だって……」
「キスしてほしい。こはねから。エロいやつ」
「う、うぅ」

 わざわざ一言一言を区切って言い直す彰人は、明らかにこはねの動揺を見て楽しんでいる。少しでもその視線から逃れようとするが、今のこはねは身動きが取れない状態だ。こはねは彰人の胸に頬の熱を押し付けながら、ぎゅっと彼のシャツを握りしめた。

「……無理か?」

 ぽつりと落ちてきた声にハッとして、思わず顔を上げる。自分からというのが慣れなくて恥ずかしいだけで、嫌なわけじゃない。
 ――無理じゃないよ。
 それが音になったかはわからないが、彰人は嬉しそうに微笑んでこはねの頬にキスをした。ちゅ、ちゅ、と軽く触れて離れていく感触がくすぐったい。

「こはね」

 彰人は音に感情を乗せるのが上手だと思う。ときどき、“好き”の代わりにこはねを呼ぶ――今のように。

(……ずるい)

 ぎゅうっと胸が締め付けられ、鼓動が大きくなる。深呼吸をして、彰人が離れたタイミングに合わせて彼のシャツを引いた。



 そっと唇を触れ合わせたまではよかったけれど、ここからどうしたらいいのかわからなくなった。彰人はいつもどんな風にしていただろう。
 こはねは早鐘を打つ心臓と、触れている唇の感触に頭が真っ白になり、息苦しさに負けて顔を離した。

「はぁ、ふ……ま、待って、もういっかい」

 抱えられ、見上げる体勢が良くなかったのかもしれない。こはねは彰人の肩に手を置いて腰を上げる。膝立ちになり、彰人を見下ろすようにしてから彼の頬に触れた。 

(東雲くんは、こんな感じだったかも)
「……こはね。お前ちょっと落ちつ、んむ」

 ちゅ、と微かに鳴る音にドキッとしてしまう。さっきは鳴らなかった気がするのに。
 何度か触れて離れてを繰り返すうちに、なんとなく音の鳴らし方がわかった。触れて、離れる前に吸ったときに聞こえる。
 ドクドクうるさい心臓は相変わらずだけど、段々と触れる唇の柔らかさや温かさを心地良く感じるようになっていた。それから、もどかしさも。

「ん……、ん」
「っ、こは、ね、」
「ひあっ!?」

 唐突に腰を掴まれてびくっと身体が跳ねる。
 眼下にある彰人の顔が赤い。呼吸も僅かに乱れているのがわかって、こはねの顔も一気に熱くなった。

「なあ、もう焦らすのやめてくれ」
「じら……、え!? し、してないよ」
「嘘だろ……」

 呆然と呟いた彰人がこはねの腕を引く。
 引かれるままにかがむと唇が触れ合った。こはねは咄嗟に目を閉じながら、彰人の言っていた“ご褒美”の内容を思い出そうとしたけれど、ぬるりと唇を這う舌の感触に驚いて思考が飛んだ。

「こはね、口」

 言いながら、彰人の親指がこはねの唇をなぞる。
 促され、僅かに開いた隙間から彼の指先を舐めると、彰人の目が益々熱を帯びた。



「ん、ぁ……んん、」

 じゅ、と水音を伴って舌が吸われる。びくりと跳ねた身体は、なだめるように抱きしめられた。
 こはねの舌は何度も吸われ、彰人の舌で撫でられて、今はしびれたように動かない。
 気持ちいい。頭がぼうっとする。口から溢れそうな唾液を嚥下すると、彰人が上機嫌に笑った。

「しの……め、く……」
「ん」

 乱れた吐息混じりに彰人を呼ぶが、まともに形になっていない。こはねの状態を察してか、彰人がこれで最後と言いたげに唇を吸って、ちゅっと可愛らしい音を鳴らして離れていった。
 音に対して行為は可愛くないなあと思いながら、こはねは力の入らない身体を彰人に預ける。

「……大丈夫かよ」

 とん、と背中を叩かれて聞かれるが、大丈夫とは言えなかった。
 息切れはまだ続いているし、舌はしびれているし、足には力が入らない。逆に、なぜ彰人がこんなにケロリとしているのかわからないくらいだ。
 こはねは曖昧な返事をしながら彰人の肩に頭を押し付ける。
 不自然に身体を揺らした彼はぐっと喉を詰まらせると、悪い、と呟いてからこはねの膝裏を掬って抱き上げ、ベッドへ降ろした。

「ひゃあ!?」
「こはね、オレが戻ってくる前にそっから移動しとけ」
「えっ、しの……んんっ、東雲くん、は?」
「便所!」

 言葉の勢いに反して、ドアは静かに閉じられる。
 こはねは閉じられた扉を眺めながら、足元からじわじわと上がってくる熱が落ち着かなくて膝を抱えた。
 こはねが思うほど彰人は平然としていたわけではなかったらしい。なんとなくほっとした気持ちになりながら、彰人に言われたとおり移動するため、ベッドの縁に足を掛けた。



***



 こはねを自分に寄りかからせて、彰人は戯れに彼女の手を掬う。
 こはねはどこもかしこも柔らかい。彰人よりも一回り小さい手の感触を確かめながら彼女の頭に顎を乗せれば、ふふ、と笑う声がした。

「東雲くん」

 控えめに彰人を呼ぶ声まで柔らかい。甘さがにじむその響きごと、食べてしまいたくなる。
 先ほどまでさんざん味わっていたくせに――彰人は疼きそうになる唇を一度噛んで、ゆるく息を吐いた。
 こはねの顎をつかんで上向かせたくなる衝動を逃し、代わりに頭頂部に口づける。びくりと大きく跳ねた肩と赤くなる耳。こはねから彰人の行動は見えないだろうに、案外伝わるものらしい。

(……もっとやらしーことしてんのに)

 初々しい反応が可愛くて愛おしい。彰人は彼女を強く抱きしめながら、想いを込めて名を呼んだ。


「結局エロいやつはこはねからしてもらってねえんだよな」 

 “キスしてほしい”という要求には予想以上に応えてもらったが、途中から焦れた彰人が先に手を出したので、目的は半分しか達成できなかった。

(めちゃくちゃ気持ちよかったけど……)

 ただ、こはねからのキスは生殺しもいいところだったと思う。そうっと唇を触れあわせ、軽く押し付けてから感触を確かめるように柔く食む。ときおり、ちぅ、と可愛らしい音を鳴らす――のを、何度も繰り返された。あくまで触れあうだけのキス。
 あれで焦らしているつもりがなかったと言うのだから驚きだ。

「え、ろ……うぅ……え、えっちなやつって……」

 ――言い直すの逆にやらしくないか?
 彰人の手をぎゅうっと握り返しつつ、首まで桜色に染めながらこはねが縮こまる。
 わずかに首をひねり、彰人の方を見た彼女の顔は真っ赤だった。

「次……頑張る」
「は? あ? 次?」
「え? ちゃんと覚えたから……あれ、次の定期テストの話じゃないの?」

 彰人は次回のことなんて全く考えていなかったが、こはねは次もご褒美を――しかも、同じものをくれるつもりらしい。
 さらりと言われた“覚えた”は、彰人がこはねに覚えさせたのだということを強調していて、彰人を堪らない気持ちにさせた。

「そーだな……次も回避してくるわ」

 こくりと頷くのを見届けて、こはねを再度引き寄せる。顔が見たくなったから横抱きになるように抱え直しながら、こはねへの褒美がまだだったことを思い出した。

「お前のほうは? 褒美決めてあんのか?」

 おとなしく彰人の思いどおり収まったこはねが、ぱちぱちと二度ほど瞬いてから表情を緩める。

「決めてなかった」
「まあ、予想はしてたけどな」

 彰人に褒美をやるという話がすっぽぬけていたくらいだ。自分のことだって当然忘れていただろう。

「なんでもいいから考えとけよ。できることならしてやるから」

 こはねのことだから、おそらく彰人にできないような無茶な話は持ってこないはずだ。
 特に期限は設けないから思いついたときに言え、と念押しするように告げれば、こはねは嬉しそうに笑う。

「ありがとう、東雲くん」
「礼言うの早すぎんだろ……」
「そんなことないよ」

 言いながら、やんわりと身体を預けてくるこはねが甘えているようで、彰人はそんな可愛い彼女を抱きしめるために腕を動かした。





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