Vischio

ほしいのは、あなただけ(中編)


- 4 -

 こはねからの好意に対して目を逸らすのはやめる。
 そう決めたのは彰人自身で、それからは向き合うつもりでこはねを見ることにしたけれど、彰人は自分がこはねをどういう位置に置いているのか――置いておきたいのか、よくわからないままだった。
 好きか嫌いかの二択しかないのならば、好きの方に傾く。
 ビビッドストリートの顔見知りや、さほど会話する機会のないクラスメイトよりは確実に親しい存在で、特別だろう。だけど、こはねは同じ夢を追う仲間なのだからそれが当たり前ともいえた。
 現に、彰人は冬弥と杏に対しても同じように“特別”だと思っている。
 それぞれに感じる“特別”は微妙に違うし、相手にあわせて接し方が変わるのも当然だ。
 だから、彰人がこはねの体調を気にしたのも、練習に付き合う提案をしたのも、別に相手がこはねに限ったことじゃない。

 ――そのはずなのに、忘れるなとでも言うように、彰人はこはねとのやり取りを再現する夢を見ていた。

 これを夢だと認識したのは、目の前にいるこはねだけがはっきりしていて、周囲の景色が曖昧ににじんで見えるせいだ。
 記憶の再現ならば夕方の公園のはずだが、時間帯すらも曖昧だった。

「ありがとう東雲くん」

 そう言って、こはねは嬉しそうに笑う。
 このとき彰人が内心ホッとしたのだって、青白い顔でしょぼくれていたこはねが見慣れた表情に戻ったからだ。他に理由なんかない。
 彰人の思考を邪魔するように、伸びてきた手が腕に触れてくる。記憶と違う行動に驚きながらこはねを見ると、彼女はじわりと頬を染めて彰人を見つめた。わかりやすく、好意を宿した瞳。

「――あのね、」

 そっと開かれた唇に、どくりと心臓が跳ねる。
 彰人は思わずこはねを見つめ返したまま、息を潜めながら耳を澄ませていた。

「私、東雲くんのこと――」

 こはねの唇は動いているのに、その先は音になっていない。
 これは彰人の夢で、目の前にいるこはねは本物じゃないのだと改めて突きつけられた気がした。

(……言われたいってことか?)

 いっそはっきりさせてほしいとは思っていたが、ここまでとは。自問したことで頭を抱えたくなりながらも、ぐっと息を詰めた。

 ――好きだと言われたところで、返す答えを持っていないくせに。

 少なからず衝撃を受けている彰人をよそに、こはねはさらに彰人との距離を詰めてくる。
 彼女の手が肩に触れ、そのままやんわりと抱きつかれたことに息を呑んだ。当然、これも記憶にはない。
 それならば、こはねの行動は彰人が望んでいることなのだろうか――混乱しながらも、彰人は咄嗟に彼女を支えた。
 こはねの背に添えた手から、ふわふわふにゃふにゃした頼りない柔さがフラッシュバックする。倒れそうになったこはねを抱えたときは焦りしかなかったはずなのに、どうして覚えているのか謎だ。
 こはねを呼ぼうと息を吸えば、鼻先を掠める甘い香りに固まった。こんなのは知らない――本当に?



 セットしてあったアラームが鳴る前に目を覚ました彰人は、身を起こして顔を覆う。起きて早々、項垂れながらうめき声をあげた。
 ――まったく、なんて夢だ。
 こういうときに限って、ばっちり内容を覚えたままなのはどうしてなのか。
 感触だの匂いだの、やけに鮮明だったのもよくないと思う。
 こはねを意識してしまうことについてはもう諦めているが、この夢はさすがに“仲間”の範疇を超えている気がする。
 こんな夢を見るということは、彰人はこはねが好きで彼女の特別になりたいのだろうか。
 考えてみたが、モヤモヤしたものが渦巻くばかりで、結局わからないという答えになってしまう。仲間と、それ以上の境界線はどこなのだろう。


「彰人」

 冬弥の呼びかけとともに、ガサリとビニール袋の音がする。
 どうやら昼食の時間になったらしい。肘をついて居眠りをしていた彰人は、ぼんやりと目を開けながらあくびをした。その間に、冬弥は食べ始める準備を終えたようだ。

「大丈夫か?」
「あー……単に眠いだけだ。食ったら寝るわ」
「食後は少し休憩を挟んだほうがいいと思うが……まあ、時間になったら起こしてやる」
「サンキュ」

 冬弥が言うなら、確実に予鈴の前には起こしてもらえそうだ。
 彰人も自分の昼食を取り出していると、冬弥はなにやら考え込みながら「夜ふかしでもしたのか?」と問いかけてきた。

「ちゃんと寝たけど、夢のせいで寝た気がしねーんだよ……そういや、今日向こうで練習するけどお前どうする?」
「今日? 彰人はバイト帰りに個人練習をすると言っていなかったか」
「そのつもりだったけど、昨日はこはねが参加できなかったろ。だからバイト終わってからパート練付き合うことにした」

 冬弥に言いながら、杏にも同じ内容――セカイで練習することと、参加を確認するメッセージを送る。
 本来ならこはねが帰るときに言おうと思っていたのに、杏が過保護を発揮したおかげで――こはねは私が家まで送るvs杏ちゃんの練習時間減らしたくない、が勃発した――タイミングを逃した。

「小豆沢と? ふたりで?」
「いや、だからお前と杏も一緒にどうだって」
「……白石はなんて言ってた?」
「さっき送ったばっかだわ」

 既読がついたと思ったら「むり」「とうやも」「むりだなら!」と細切れに返信がきた。
 全部ひらがなだし、立て続けに送ってくるから妙に焦っているように見える。しかし、冬弥の予定まで勝手に決めつけているのはどうなのか。

「杏と用事あったのか?」
「ん? 特に予定はないが」

 冬弥の返事に呆れながら返ってきた内容を見せると「誤字してるな」と明後日の方向にツッコミが入った。そこはどうでもいいだろ。

「まあ、今日は三田の練習に付き合う約束をしているから、白石の言うことも間違ってはいない」
「そういや前に言ってたな。今日だったのか」
「ああ。だから今回は遠慮しておく」

 三田と約束があるのも本当なのだろうが、杏の反応を聞いてからの答えには、“参加できなくもないが”という部分が隠れている気がした。
 杏と揃って彰人とこはねをふたりにしてやろうという意図を感じたが、杏はともかく冬弥からもそういう空気が伝わってきたのは意外だった。こはねのわかりやすさで察しているだろうとは思っていたが、今までは触れてこなかったはずだ。
 意外に思いながらも、あっさりと“こはねの後押しか”と受け入れている自分に気づいた彰人は、ぎょっとしながら目を見開いた。

「彰人?」
「……オレ、やっぱこはねのこと好きなのか?」
「ごほっ、ど、どうしたんだ、いきなり」

 珍しく動揺を露わにした冬弥が咳き込む。
 彰人は彰人で、声に出してしまったのは完全に無意識だったため、内心で悪態をつきながら溜め息混じりに顔を覆った。

「わっかんねえ……」

 漏れ出た呟きに、落ち着いたらしい冬弥が微かに笑った。

「彰人ははっきりした答えを出したいんだな」
「さすがに考え疲れたわ」
「わからないというのは? 小豆沢を恋愛対象として見られないということか?」
「れんあ……言い方どうにかなんねえのか……」

 思わず眉間にしわを寄せてしまったが、内容は近いところをついていると思う。
 見られないというより、どう見たらいいのかわからない。仲間との違いはどこなんだ。

「……それなら、恋愛感情としてよく描かれるものと比較してみたらどうだろう」

 冬弥が大真面目に提案するから乗っかってみたが(なお冬弥の知識も本頼りらしい)、冬弥の言った“一緒にいると気分が高揚する”とか“もっと近づきたい”にはあまりピンとこなかった。

「――あとは、触れたくなるかどうか」
「っ、」

 (さわ)りたくなる。ふいに浮かんだのは、今朝見た夢だ。
 夢ではこはねから触れてきたが、あれも願望の一部なら当てはまるのだろうか。

「それから……そうだな、別の相手を想像してみるというのはどうだ?」
「例えば?」
「もし小豆沢が好意を向ける相手が彰人ではなく、三田や遠野さんだったら」

 こはねを呼んで返ってくる表情や弾んだ声。見つめたときの照れた仕草、感情のわかりやすい瞳が、三田や遠野に向けられる。
 言われるまま想像した彰人は、勝手に湧いてきた苛立ちで顔をしかめ、それに気づいた冬弥に笑われた。

「嫌なのか」
「……なんか、むかつく」
「だが彰人が小豆沢を選ばないなら、可能性はあるぞ」

 からかうように言う冬弥をチラ見する。冬弥は先ほどの選択肢から自分を除外していたが、こはねの目が冬弥に向く可能性も生まれるのだろう。
 相手が相棒ならばと考えてはみたが、苛立ちはむしろ増したような気がする。

「彰人、白石が誰かを好きだと言い出した場合はどうだ?」
「杏? あいつはこはね一色すぎて想像できねえけど……まあ、たぶん邪魔しねえようにするだろうな」
「……では、絵名さんの場合は?」
「なんで絵名だよ……あんま関わりたくねえ。八つ当たりとかされそうだろ」

 渋りながらも答えた内容を聞いて冬弥が笑う。
 小豆沢だけ全然違うんだな、と言われて初めて、彰人は自分の返答と感情を反芻した。


「どうだ彰人、俺も少しは力になれただろうか」
「…………そーだな。つーか、独占欲だけあんの微妙じゃねえ?」
「これから出てくるかもしれないだろう。というか、他のはまったくないのか?」

 なくはないが、“触れたくなる”も好きかどうかわからない相手に抱く感情としては微妙ではなかろうか。
 しかし、少なくとも独占欲はあると自覚した今なら、またこはねの見かたが変わるのかもしれない。

「今日、会ったときに確かめるわ」
「そうか。答えが出るといいな」

 頷いた彰人はこはね宛てに体調を問うメッセージを送り、中断していた食事を再開した。
 残念ながら、昼寝をする時間の余裕はなさそうだった。





- 5 -



 ――時間ズレるかもだから、終わったらまた連絡する。

 こはねはベッドの上で頭からシーツを被ったまま、彰人から送られてきたメッセージを眺めた。彰人のバイトが終わる予定時間の連絡だった。
 先にセカイで練習を始めていると送りたかったけれど、今のままでは嘘を重ねることになるかもしれない。少し迷ってから、簡単にスタンプで了解を返した。
 薄暗いシーツの中で光るスマホの画面が眩しい。
 
 もぞもぞとシーツから這い出したこはねは、不快感の残る胃と、涙を流しすぎたせいで重たい頭を抱えながら、ひく、と喉を引きつらせた。
 手の甲で拭った目元は擦りすぎて少し痛いし熱い。
 これより少し前、こはねの体調を問う彰人へ「大丈夫」と返信したのだ。時間までに、なんとしても回復しなくてはならない。


 ***


 杏と冬弥に体調が悪いから練習は休むと伝えた時点では、貧血か風邪のひき始めあたりだろうと思っていた。
 倒れかけたことには自分でも驚いたものの、熱はないし目眩はすぐにおさまったし、ふたりが来るまで彰人と話ができたことを喜ぶ余裕もあった。
 ――異様だったのは、喉の渇き具合だ。
 帰り道に買い足した水では誤魔化せず、身体は次第に重く、かつ熱っぽくなっていく。頭がぼんやりし始めたことには、さすがに危機感を覚えた。
 歩き続けるのがつらくて、無理をしない程度に少しずつ休憩を挟みつつ、やっとの思いで帰宅した。

 ただいま、と家の中に声をかけ、靴を脱いだところでこはねの足から力が抜けた。家で良かったと思いながら玄関の段差に座り込み、のろのろした動きでスマホを取り出す。
 杏にメッセージを送らなければ、という使命感のようなものに突き動かされた結果だ。
 ひとりで帰ると告げたこはねに、当たり前のように家まで送っていくと言ってくれた杏の気持ちは嬉しかったけれど、自分のせいで彼女の練習時間が減ってしまうのはどうしても嫌だった。
 どうにか杏を説得し「こはねが家についたら絶対、絶対! ぜーったい! 連絡して!」に頷いたことで送り出してもらったので、約束は守らなくては。

 ――家についたよ。

 送ったメッセージが画面に現れたのを確認したところで、こはねの身体は限界を迎えたらしい。
 ぷつりと意識が途切れ、気づいたときにはリビングのソファに寝かされていた。
 あら、と聞こえてきた声につられて視線をやると母が寄ってくる。ほっとしながら呼びかけると、こはねのそばにしゃがんだ母に柔らかく頭を撫でられた。
 なんだかくすぐったさを感じるくらいには恥ずかしいけれど、体調が悪かったのもあって母の手には安心感を覚える。
 目を閉じておとなしく受け入れていたこはねに笑った母は、ちょっと待っててね、と言いおいてキッチンから赤い液体が入った小さなグラスを持ってきた。一口分専用のグラスかと思うくらいに小さい。

「はい、こはね。喉渇いてるでしょう?」
「……うん。でも、お母さん……これ」
「飲みやすいように加工されてるんだけど、美味しくないのがねえ……ごめんね。我慢して飲んでね」

 頬に手を当て溜め息混じりに言いながらも、肝心の中身については教えてくれない。
 信じたくないが、グラスから漂ってくるのは――血の匂いだ。
 色の鮮やかさやサラサラした感じが血液とは異なるけれど、おそらく匂いは間違いない。
 どうしても、これを飲まないと駄目なのだろうか。
 恐る恐る母を伺えば、大丈夫だからとでも言うように頷かれる。
 ――飲みたくない。
 嫌悪感なのか胸の中がザワザワして落ち着かないのに、身体の方はこれを欲しているようで、ごくりと喉が鳴った――今の感覚は、記憶にある。
 嫌な動き方をした心臓と、ふと脳裏をよぎった彰人の姿に不安な気持ちが湧いたけれど、こはねは目を閉じることでそれを振り払う。それから息を止め、一気にグラスの中身を飲み込んだ。
 続けて手渡された水で流し込んでも、口内に残る血の味に涙が出る。先ほどまでの喉の渇きは嘘のように消えたけれど、心に大きなダメージを負った気分だった。気持ちが悪い。涙が止まらない。

「お母さん……私、どうして……」
「うん、ちゃんと話すからね」

 止まらない涙を拭うのを諦めながら母から聞いた話をざっくりまとめると、こはねが突然体調を崩したのは母の家系に混じる吸血鬼の血のせいらしい。
 突拍子もない話が始まったことに困惑するこはねに、母は困った顔で「ごめんね」と謝りながらこはねの手を握った。

 混血が進み、今ではかなり薄くなっているものの特性は消えずに残っているらしい。特にこはねは種族の特性――吸血衝動が強めに発現してしまったのかもしれないと。
 第二次性徴と似たようなものらしいが、発現したばかりのころは身体に不調をきたしやすいようだ。

 こはねは母から告げられる話を黙って聞いていたけれど、全部、母の冗談だと思いたかった。
 しかし、冗談で血液を準備されたうえに飲まされたとは思いたくない。
 それに――

「お母さんも……さっきの、飲むの?」
「どうしても辛いときだけ。あれ、本当に美味しくないもの」

 うんざりと、かなりの実感が籠もった言い方をされ、なにも言えなくなってしまった。


 こはねは自身に起こった変化を受け入れきれないまま、ふらふらと部屋のベッドにダイブした。
 実はあなたは吸血鬼の血を引いています、と言われて素直に受け入れられる人はどのくらいいるのだろう。
 実感の伴わない話と先ほど口にしたもののせいで、身体のだるさは増したし熱っぽい気がする。胸焼けと吐き気に襲われ、おさまったはずの涙がまたじわりと滲んできた。

(……おなか、きもちわるい)

 こはねは胃のあたりに手をやって身体を丸める。
 これから喉が渇いたら、あの赤い液体を飲まないといけなくなるのだろうか。
 口内に残る血の味、気づけば鋭くなっている犬歯、部屋は暗いのに妙にはっきり映る視界。どれも、数時間前まではなかったものだ。
 どうして、と思っても、こはねにはどうすることもできなくて苦しい。
 なにもする気が起きず、寝る準備だけを整えてベッドに潜り込んだ。

 翌朝早くに目を覚ましたこはねは、せめてシャワーを浴びなければと身体を起こし、体調が全く回復していないことに泣きそうな気分だった。身体は重くて熱っぽい。
 ――今日こそ、歌の練習がしたいのに。
 だって、せっかく彰人がパート練習に付き合うと言ってくれたのだ。しかも彰人はバイトがあって「元々ソロ練するつもりだった」と言っていた。
 今までもそれを聞く機会があったから、普段はバイト帰りにビビッドストリートの方へ寄って練習していることも知っている。
 それなのに、わざわざセカイを指定したのはこはねのためだろう。

 学校にも行くつもりで最悪のコンディションのままシャワーを浴びたこはねは、部屋へ戻る途中に母に見つかって無理をするなと叱られた。

「……まだ熱あるじゃない。喉は渇いてる?」

 考えたくなかったのに、問われたことで渇いていることを自覚させられる。
 鬱々とした気分で、母が持ってきたグラス――昨日と同じ一口分の小さなものだ――を受け取った。
 飲まなくて済むのなら飲みたくない。でも、このままでいたら喉の渇きを気にして歌えなくなる。それはもっと嫌だ。

「こはね、これ」
「…………絵本?」
「他にも方法はあるんだけど……とりあえず今日は学校にお休みの連絡しておくから、ゆっくり休みなさい」

 母はこはねに絵本を渡すと部屋から出ていった。
 手作り感あふれる絵本はだいぶ年季が入っているようだ。表紙には可愛らしい文字で『はじめてのきゅうけつ』と書かれていて、まるっこくファンシーなコウモリのイラスト付きだった。

「きゅうけつ……」

 ぽつりと呟いて表紙をなでたこはねは、それをしないといけない可能性を考えてまた気分が沈んだ。

 息を止めて赤い液体を飲み込んで、水で無理やり胃へ送る。
 ボタボタと勝手に落ちてくる涙を雑に拭うと、シーツを被って身体を丸めた。
 ――こんなの、みんなと違う。
 こはねが血を飲む怪物だと知られたら、もう一緒に居られなくなるかもしれない。
 こはねの頭に真っ先に浮かんだのは、チームで歌えなくなる可能性だった。

「…………ど…しよう……やだ……やだよ……」

 恐怖心から逃げるようにぎゅっと目を閉じ、ベッドへ顔を押し付けて声を押し殺す。
 まぶたの裏に浮かんだのは、笑っている彰人の姿だった。
 特別なことなんてなくていい。仲間として、一緒にいられるだけで十分だったのに――それすらも、消えてしまうかもしれない。
 こはねは嗚咽を飲み込み、声が漏れないように息をひそめる。
 ズキズキと痛む胸を押さえ、身体を小さく丸めているうちに、泣きつかれたのか眠りに落ちていた。

 どれくらい時間が経ったのか、目を覚まして身体を起こしたときには頭が痛かった。目元は熱く、まぶたは腫れぼったくなっている気がする。
 こはねはぐす、と鼻を鳴らすと重たい溜め息を吐き出した。
 これからどうしたらいいのだろう。みんなに打ち明けて、拒絶されたらと思うと怖い。だけど秘密にしたままで、衝動的に噛みついてしまったら――
 無意識に考えないようにしていたけれど、昨日のこはねは彰人に噛みつこうとしたのだ。母から渡される液体の匂いには拒絶反応がでるのに、あのときは確かに“おいしそう”と考えた。あれがまた起きないとは言い切れない。

 ぼうっとしていたこはねの目を覚まさせるかのように、スマホが鳴った。
 明るくなったロック画面に、受信したメッセージが表示されている。

 ――体調どうだ?

 通知で見える部分だけで完結している短い文章。
 彰人からこはねへ送られたそれを読んで、知らないうちにまた涙が落ちた。
 一緒にいたい。怖い。嫌われたくない。
 ぐるぐると渦巻く感情に目を閉じて、スマホを胸元へ押し付ける。逃げたくないと思うのに、どうしても自身が怪物だと告げるための勇気が出てこなかった。

「……今日だけ」

 せめて今日が終わるまでは、普通の人間だった昨日までのこはねで彰人と接したい。
 こはねはごしごし目元を擦り、メッセージアプリを立ち上げる。

(嘘ついて、ごめんね)

 数回深呼吸をしてから、彰人へ「大丈夫、回復したよ!」とメッセージを返した。
 昨日は三人と同じ学校じゃないことが寂しかったのに、今日は別でよかったと思うなんて我ながら調子がいい。
 けれど、回復しきれていないことを知られて練習が中止になるのだけは避けたかった。

 彰人とはセカイで待ち合わせることになったが、あと数時間もすれば約束の時間になってしまう。
 それまでに涙の跡を誤魔化して、歌えるようになるまで身体を回復させなければならない。
 嘘を本当にするために、こはねは火照った頬を軽く叩いて自分を鼓舞した。





- 6 -


 バイト先のスタッフルームで、帰り支度をしながら時間を確認する。
 デジタル時計に表示されている時間は、こはねに教えたものと大して変わらないようだ。ずれこむ可能性については前もって言っておいたけれど、予定通りであることに安心した。
 今から向かう旨を伝えるべくスマホを見れば、先に練習を始めているとこはねからのメッセージが入っていた。

(……どこだここ)

 ここで練習してます、と壁のグラフィティを写した写真がくっついていたが、彰人の記憶にはないデザインだった。少なくとも、メイコの店の近くではなさそうだ。
 そのままスクロールすれば「ごめんね、東雲くんは来たことないかも。東雲くんが来るころにはいつもの練習場所にいます」と追加がきていた。
 写真の場所は杏と一緒のときか、こはねが個人練習で使っている場所なのかもしれない。機会があれば直接案内してもらうかと考えながら、彰人はひと気のない路地裏のほうへ移動した。



 こはねとの待ち合わせ場所――チーム練習で使っている袋小路へ近づくにつれて、じわじわと謎の緊張感が湧いてくる。彰人は思わず頭を掻いて、小さく溜め息を漏らした。
 おそらく、今朝見た夢と昼に冬弥と話した内容のせいだ。これから当の本人に会うわけだが、普段どおり話せるだろうか。意識しすぎてぎこちなくなるのだけは避けたい。
 悶々と考えながら歩いているうちに、こはねの歌声が聞こえてきた。
 ふと違和感を覚えて一度立ち止まった彰人は、自分でも気づかぬうちに眉根を寄せた。

(……体調戻ってねえだろこれ)

 こはねを止めるべく、ずんずんと足早に路地を進む。直接対面することへの躊躇いはどこかへ消えていた。

「こはね!」
「ひょあ!?」

 半端なところで止めたせいなのか、こはねはすっとんきょうな声を上げながらびくりと身体を跳ねさせた。
 振り返り、いかにも驚きましたと言いたげだった顔が、彰人を認識した途端ふにゃりと緩む。

「東雲くん」

 柔らかく細まる目と嬉しそうに彰人を呼ぶ声。もう慣れたと思っていたのに、ぎくりと身体が強ばった。
 心臓まで変則的な動き方をした気がして、思わず手のひらを握る。直前まで言おうとしていたはずの言葉は、すっかり飛んでいってしまった。
 彰人がそれを思い出そうと「あー」と意味のない音を漏らしつつ首の後ろを(さす)っていると、突然こはねの様子がおかしくなった。

「――な、んで……」
「……こはね?」

 呆然と呟いたと思えば、こはねはじりじり後ずさっている。顔色が悪い。
 彼女に何か起きたようだが、原因がさっぱりわからない。けれど、彼女自身の口を覆う両手が小刻みに震えているようで、また倒れるんじゃないかと心配になった彰人はこはねに近づこうとした。

「だめ!」
「っ!?」
「きちゃ、だめ……こないで……」

 こはねらしくない大きな声に反射的に足を止め、明確に拒絶されたことに驚く。同時に、彰人は少なからずショックを受けている自分に動揺した。
 こはねにも自分にも“なんでだ”と問いたい気持ちが湧いたが、彰人はそれを口にすることなく彼女を見た。
 彰人を止めたこはねの声が、か細く震えて今にも泣きだしそうだったからだ。
 俯いているせいで表情は確認できない。しかし、皺ができるほど胸元を握るこはねを見ていると、胸が詰まるような息苦しさを覚えた。ジリ、と靴の裏で地面を擦る。

「ご…ごめん、ね……ごめんなさい!」
「こは……、おい!」

 少しずつ彰人から距離を取っていたこはねは、急に駆け出して彰人の視界から消えた。バタバタと走り去る音が遠ざかっていくから、セカイから出たわけではなく路地を曲がったのだろう。
 ハッとした彰人は、こはねの足音を追って駆け出した。
 咄嗟のことについ見送ってしまったが、理由も言わずに謝罪だけされても納得できるわけがない。

「……つーか、あいつ体調悪いんじゃねえのかよ」

 走れるくらいには元気なのだと、安心するところだろうか。


 幸いにも、こはねが逃げ込んだ路地の先は一本道だった。頻繁に右や左へ道が曲がるせいでこはねの姿は見えないが、反響した足音は聞こえてくる。
 それがだんだん遅くなっているのを察した彰人は速度をあげ、ついに彼女の背中を捉えた。

「こ、の……、こはね!」
「きゃあ!?」

 腕を掴んだ勢いで自分の方へ傾いてきた身体を抱える。胸に飛び込んできたこはねを反射的に支えたが、手のひらに感じた柔らかさでばくんと心臓が跳ねた。
 戸惑う彰人に追い打ちをかけるように、今朝の夢までチラついてくる。
 思わず奥歯を噛みしめていると、こはねがカタカタと震えだした。

「し、東雲くん、ごめ……ごめんね……」

 泣きそうだと思った瞬間、ぽろぽろ涙がこぼれ落ちていく。
 なにに対して謝られているのかはわからない。わからないが、泣いているこはねを見ていると、胸が痛くて、苦しい。
 彰人はこはねを隠すように抱きこみながら、泣くな、と無意識に呟いていた。

 原因があるなら、どうにかしてやりたい――こはねにはいつもどおり、笑っていてほしかった。
 彰人はこはねを悲しませたくないし、悲しむところを見たくないのだ。
 思えば、これはこはねから好意を向けられていると気づいたときから彰人の根底にあった感情だった。

 泣いているこはねを見るのは苦しい。だけど今のこはねのことは、冬弥にも、杏にも――自分以外には、誰にも見せたくない。

(……こんなの、認めるしかねえだろ)

 “仲間”に、こんな独占欲は抱かないだろう。
 こはねは彰人にとって“仲間”以外の特別が存在するのだと、ようやく答えに辿り着いた。
 トクトクと速まる心音に目を閉じて、ぎゅう、とこはねを抱きしめる。細い身体が跳ね、震える声が途切れがちに彰人を呼んだ。

「だ、め……っ、東雲く……おねが……、はな、して……」
「……なんで、急に逃げたんだよ。納得したら離してやる」

 ひく、と喉を鳴らすのを聞いて抱きしめる腕の力を強めると、こはねは彰人の服を握りながら小さく首を振った。

「か、かん、じゃう」
「…………なんだって?」
「私……かみたく、ない…のに、どうして」

 途中から独り言のように、細切れになった呟きがこぼれていく。
 彰人の腕の中で身体を震わせるこはねは泣き濡れた声のままだ。彰人はどうしたらいいのかわからず、ただ彼女を呼んだ。
 びくんと跳ねたこはねが、思い出したかのように身じろぐ。彰人の拘束から抜け出そうとする動きを抱きしめることで押さえ込み、「まだ納得してねえ」と暗に説明を求めた。


「……きらいに、ならないで」


 ぽつりと落とされた言葉に思わず瞬く。腕を緩めてこはねを見下ろすと、ぐす、と鼻を鳴らしたこはねもわずかに顔をあげた。

「一緒に、いたいの」
「っ、」
「……それだけで、いいから」

 赤い目尻に溜まった涙がまたぽろぽろ落ちていく。
 こはねは泣きじゃっくり混じりに、途切れさせながらも懇願するように再度「嫌いにならないで」と彰人へ告げた。

「……ならねえよ」

 こはねの悲痛な様子に不安を煽られながら、彼女を再び懐へ抱き寄せる。あまりにささやかな願いを聞いて、なぜか胸が痛くなった。

「絶対ねえから、心配すんな」

 彰人はこはねを抱きしめたまま、ゆっくりと言い直す。なんとなく“嫌い”と口に出すのが嫌でわかりづらい言い方になってしまったが、こはねにはきちんと伝わったらしい。小さく頷いたのを胸元に触れている頭から感じ取った彰人は、ほっとしながら耳を澄ませた。

「のど、が……喉が、渇くの。東雲くんは、おいしそうな、匂いがして……っ……かみたく、なる」

 だから離してほしいとこはねは言うが、彰人は告げられた内容を理解するのに必死だった。
 美味しそうな匂いとはどういうことだ。バイトの休憩中に軽く食事は取ったが、まさかそれではないだろう。
 噛みたいというのも、よくわからない。噛んだところでどうにかなるのか。


「私、吸血鬼、だって」


「…………こはね。少し、時間くれ」

 涙声から想定外な話が出てきたことで更に混乱し、思わずこはねを止める。いつものように「は?」と不躾に返さなかった自分を褒めてやりたいくらいだ。
 混乱する彰人を察したらしく、こはねがもぞりと身じろぐ。そうなるよね、とこぼす彼女はどこか自嘲気味だった。

「私も、お母さんに言われてびっくりして……今も……ううん、さっきまで、あんまり実感、なかったのに」
「こはね?」
「しっ、しの、めくんのこと、おいしそ…って……っく、こん…な、こんなの、やだ……」

 身体を震わせて静かに泣き出すこはねに驚きながら、彰人は彼女を抱きしめる腕に力を込める。こはねは、自分自身に怯えているように見えた。

「……正直、お前が言ってることあんまわかってねえんだけど……オレが噛んでいいって言えば、お前泣き止むか?」

 彰人が聞き返すと、こはねはびくりと身体を震わせた。
 戸惑う気配と服を強く握られたのが伝わってくる。彰人自身、なにを言い出すのかと自問したいところではあるが、彰人がしたいことは変わっていないのだ。
 原因があるならなんとかしてやりたい、こはねが泣いているのを見たくない、いつも彰人が見ている笑顔になってほしい。

 吸血鬼とはまたファンタジーな話が出てきたとは思ったが、こんな場所(セカイ)に来ておいて、不思議要素が一つや二つ増えたところで今更という気持ちが強かったせいもあるかもしれない。
 
「なん、で?」
「噛みたいんだろ?」
「か、噛むだけじゃ、なくて……血、が……ほし…んだよ」
「漫画で見たことあるわ」
「…………わ、私、きもち、わるくない?」
「全然」

 消え入りそうな声での問いに即答してやれば、こはねの身体から力が抜ける。彰人はぎょっとしながらも彼女を支えたまま、ゆっくりとその場に座り込んだ。

「おい、大丈夫かよ」

 ぎゅう、と彰人の服を握りしめたこはねから、微かに「よかった」と呟く声が聞こえた。彰人は片腕でこはねを抱え込むと、空いた手でポンポンと彼女の背を宥めるように叩いた。





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