Vischio

ほしいのは、あなただけ(後編)


- 7 -

 ポン、ポン、と背中を叩くリズムにあわせ、ゆっくり呼吸を繰り返す。
 力が抜けて立てないこはねは、脳裏に“噛みたい”や“おいしそう”がチラつくたびに、ぐっと息を止めて衝動を抑え込んでいた。

 隠し通すつもりだった諸々を、彰人へ全部打ち明けることになったときは怖くて仕方がなかった。言わなくていいことまで口走った気もするけれど、彰人が近くにきただけで喉が鳴ったことに対する混乱が大きくて、よく思い出せない。

(……あったかい)

 こはねのことを支えてくれている手の温かさにホッとする。
 まさか、吸血鬼だと打ち明けてこんなにあっさり受け入れてもらえるなんて思わなかった。
 当事者のこはねでさえ一晩必要だったのに(しかもきちんと受け止めているとは言い切れない)――まるで夢のようだとこはねは思う。
 もしかしたら、本当に都合のいい夢を見ているのかもしれない。
 にじむ視界に瞬いて、ぼんやりしたままの頭を起こすと、ひくりと喉が引きつった。
 こはねの背を叩いていた動きが止まり、代わりに彰人との距離がさらに近づく。拘束されたように身動きが取れず、少し息苦しかった。

「しの、のめ、くん……」

 呼びかけたあとになって、距離の近さを認識して動揺してしまう。
 今まで衝動を抑え込む方に必死になっていたけれど、ほぼゼロ距離なのはこはねの心臓によろしくない。

「あ、の……もう、離して」
「なんでだよ。噛むんだろ」

 はっきり言葉にされたことで、身体が震える。抑え込んでいた“噛みたい”が、じわじわとこはねの思考を侵食していく感覚が怖かった。
 こくりと唾を飲み込んで、視線をあげる。本当に、噛んでもいいのだろうか。
 不安が消えないこはねを見てなにを思ったのか、彰人は一度視線を逃し、パーカーの袖を引っ張り出すとこはねの頬に押し当てた。

「わっ、東雲く、んっ」
「……今ハンカチねーんだよ」

 頬と目尻に残る涙を吸い取るように、とんとん、と触れて離れてを繰り返す。
 泣いたあとの顔を見られるのは恥ずかしい。見ないでほしいと思うのに、それ以上に甲斐甲斐しい彰人の行動が嬉しくて、こはねはなにも言えないままだった。

「あとで冷やしたほうがいいかもな」
「う、ん……あり、がと……」

 泣いた余韻が残っているせいで、定期的にひくりと喉が痙攣する。
 今更ながら、このまま膝を抱えて蹲りたい気分だ。こはねの影になってわかりづらいが、彰人のシャツはこはねの涙で一部分がぐっしょりと濡れているし、思いきり握りしめていたせいで皺までできている。
 さらに先ほどパーカーまで……と気落ちしながら、こはねは彰人の服を引いた。

「東雲くん、ごめんね、シャツ……」
「お前今日謝ってばっか。どうせ洗うんだから気にすんな」

 微かな笑いを滲ませて、返ってきた答えの近さに心臓が早鐘を打つ。
 優しい声に、話し方。加えてこの距離は、まるで恋人同士のようだ。彰人はただ泣いているこはねを宥めてくれていただけなのに、錯覚してしまいそうだった。

 こはねが頭を振って錯覚を追い払っていると、唐突に彰人がブレザーを脱ぎ始めた。「え」とこぼれた呟きが自分のものだと認識する間もなく、シュル、と聞こえた衣擦れの音に目が吸い寄せられる。
 片手でネクタイを引き抜く彰人の姿に固まったこはねは、ドキリと跳ねた心臓と上昇していく体温を自覚しながら口を覆った。
 ドキン、ドキン、と激しさを増す鼓動は、つい見とれたせいだけではない。
 ふわりと彰人から漂ってくる香りに刺激され、再び衝動に呑まれそうな緊張感も混じっていた。

「し、しの、東雲くん、」
「ん」

 ぐい、とシャツの襟を開き、彰人がこはねの前に首元をさらけ出す。
 噛んでいい、ということなのだろうが、こはねは必死で首を横に振った。

「噛むならここじゃねえの?」
「で、き、ないよ……」

 かろうじて言葉にしてから、ごくりと唾を飲み込む。
 喉の渇きは強くなっているけれど、自ら彰人に抱きついてそこに噛み付くだなんて――難易度が高すぎる。心臓も持つ気がしない。
 しかも、こはねにとっては初めての行為だ。上手くできるかどうかもわからないのに、急所を傷つけるのは怖かった。

「したこと、ない、から……こわい」
「……ふーん。ならどこがいいんだ? 腕か?」
「え、と……じゃあ、うん。うで、で……」

 戸惑ってしどろもどろに返事をするこはねに比べ、彰人はあっさり「わかった」と頷いた。
 ワイシャツごとパーカーの袖が引き上げられる。ん、と改めて促されたこはねは、目の前にさらけ出されている腕にそっと触れてみた。
 彰人が微かに震えたことにつられそうになる。ドキドキしながら、自分とは違う温度と感触を確かめていた。

「……くすぐってえ」
「あ。ご、ごめんね」
「いいから。早くやれよ」

 頷いて身体をひねる。こはねは両手で彰人の腕を支えてから、座り直したほうが楽かもしれないと身体ごと向きを変えた。
 ふと母から渡された『はじめてのきゅうけつ』の絵本を思い浮かべたけれど、受け取ったときにパラパラと流し見ただけだったため、内容はよく覚えていなかった。
 ちゃんと読んでおけばよかったと思ってももう遅い。

 ――だから、ここからはもうこはねの本能による行動だ。

 あ、と口を開けて、彰人の腕を食む。勢いがつきすぎたのか、はぷ、と空気が抜ける音がした。ぴくりと彰人が震えたのを感じながらも口を離すことなく歯を立てる。

(え…っと……、あれ? ど、どうして?)

 噛んでいるのに、血がでてこない。
 噛む力が弱いせいかもしれない、と何度か食むのを繰り返すうち、口内に唾液が溜まってきてしまった。

「ん、う」

 吸い付きながら嚥下したときに、じゅう、と思いのほか大きな音がして恥ずかしくなる。
 とりあえず仕切り直そうと一旦離れ、呼吸をしてから再度噛み付いた。

「っ、」

 息を呑むような音がして、彰人が微かに動く。
 なにも言わずにまた噛み付いたのだから、驚かせてしまったのだろう。力を入れて噛む前にちらりと様子をうかがえば、彼はこはねを凝視したまま息を止めているようだった。

(はやく、しなきゃ)

 苦しそうな彰人を見て焦りを感じつつ、改めて歯を立てる。
 彰人を傷つけることへの恐怖心に目をつむり、ぐっと力を入れた。ぷつりと皮膚を貫く感触にぞわりと肌が粟立つ。

「いっ……、ッ、」

 彰人の声がして、腰に腕が巻き付く。そのまま力を入れられたことはわかったけれど、こはねは舌先に触れた彰人の血にすべての意識を持っていかれていた。
 とろりとした舌触りに血の匂い。美味しいはずがないと思いながらも、美味しいと言いたくなる。これは、きっと錯覚を起こしているに違いない。
 母から提供された液体とは全然違う。こはねはぼうっとしながら、夢中で彰人の血を嚥下した。美味しい。好き。もっと欲しい。

「ん……、んく、ぷあ……はぁ……ぁむ」

 上手な飲み方がよくわからず、貫いた皮膚を食み、ちう、と吸いついた。牙の分、4箇所を順番に。

「は…、ん、む……んっ」

 ぷくりと盛り上がっていた血を舐め取って、ちゅ、ちゅ、と何度か吸ううちに、血は止まったようだった。
 こはねが名残惜しいような気持ちで牙の跡を舐めていると、腰に回された腕に力がこめられる。ハッとして口を離し、顔を上げる途中で彰人がこつりと頭をぶつけてきた。

「お、まえ、こんな……」
「ひぁ!?」

 耳元で掠れた声がしたことに驚いて変な声が出てしまった。なんだか、ゾワゾワと鳥肌が立つような感じがする。

「なあ……これ、他のヤツにもやんの?」
「っ、わ…わか…、ない……」

 こはねは自分の体温が上昇していくのを実感しながら、考える余裕もなく答えた。とりあえず、そこで囁くのをやめてほしい。ゾワゾワする感覚が引かないし、耳に当たる吐息はくすぐったいし、ひたすらに恥ずかしい。

「なら、次もオレに言え」
「で、でも」
「うまそうって言ってたろ。マズかったのかよ」

 こはねは首を振って否定しながら身じろいで距離を稼ぎ、ちらりと彰人を見上げた。
 ――嬉しい。
 真っ先にそう考えたが、彰人はそれでいいのだろうか。
 血が出るほど噛まれるのは絶対痛いに決まっている(実際、彰人は痛そうにしていた)。加えて、血を抜かれるのだ。下手したら体調が悪くなるかもしれないのに、どうして。

(私が、仲間だから?)

 きっとそうだ。だから彰人の優しさを受け取れるのはこはねだけじゃない。困っていたのがこはねじゃなくても、彰人は同じようにするのだろう。

(……モヤモヤする)

 いやだな、と脳裏をよぎった言葉に心臓がぎくりと跳ねて、思わず胸元を握りしめた。
 一瞬でも、みんなと同じが嫌だと――自分だけならいいのにと思った時点で、こはねの“仲間のままでいい”は崩れたのだ。

「おい、こはね。聞いてんのか」
「東雲くん……私、私ね……東雲くんが、好き、です」
「…………は? は!? つーか言うのかよ! いま!?」

 彰人は目を見開いて固まったと思えば、かっと顔を赤くしてわかりやすく混乱している。
 反射的に飛び出たと思われる言葉から、こはねの気持ちはとっくに察されていたようだ。今まで追求も拒絶もせずにいてくれた彰人は、やっぱり優しい。
 照れている姿を見られたことも嬉しくて、目に焼き付けておこうと思いながら彼を見つめた。

「ずっと、チームメイトで十分って思ってたのに……足りなくなっちゃったみたい…………わ、私…東雲くんの、特別に、なりたいです」

 こはねは胸元を強く握り、彰人から目を逸らさないように必死だった。
 なにを言われても、ちゃんと受け止める覚悟だけはしておこうとゆっくり息を吸って、軽く止めてから吐き出した。言ってしまった、とは思いながらも、後悔はない。
 彰人は赤い顔のまま、ぐっと息を詰めている。
 数拍おいて、わずかに逸らされた目に悪い予感がした瞬間、こはねは彰人に抱きしめられていた。

「へ!? えっ、あ、あの……、東雲、くん?」
「……もう、なってんだよ」

 ぽつりと落ちてきた呟きに耳を澄ませる。鼓動は勝手に大きく、かつ速くなってこはねの手を押し返していた。緊張と不安と期待がぐるぐる混ざり合って、息がうまくできない。

「こういう……今みたいなこととか、お前にしかやろうと思わねえし……血やるとかも、あんな……お前じゃなきゃ無理だわ」

 普段の彰人からは想像できないような、途切れ途切れで曖昧な言葉。声が小さくて聞き取りづらい代わりのように、こはねを抱きしめる力は強かった。

「オレだけでいいだろって思ったし、他のヤツにしてんのとか想像もしたくねえ……だから……あぁ、くそ」

 彰人はもどかしげに悪態をつくと、こはねの頭上で大きく息を吐いた。
 ぎゅう、とこはねを抱きしめてから腕を緩め、互いの顔が見える距離まで身体を離す。まっすぐこはねを見つめる目が真剣で、思わず呼吸を忘れた。

「――こはね」
「は、い」
「オレ、お前のこと好きだ」
「っ」
「ぶっちゃけ今日っつーか……さっきまで? けっこー曖昧だったけどな。……なあ、あんま泣くと目腫れるぞ」

 言いながら、彰人がこはねの腕を引く。ぽすりと彼の胸元へぶつかった拍子に、勝手に出てきた涙が落ちていった。

「わた、し……うれし、のに……しの、のめくん」

 悲しいわけではなく嬉しいのだと――どうしたら、この気持ちが伝えられるだろう。言葉にできないままシャツを握れば、彰人は「見てりゃわかる」と笑い混じりに言いながら、トンとこはねの背中を叩いた。

「こはね、お前後悔すんなよ。オレ結構めんどくせーからな、たぶん」

 ――しない。するはずない。夢なら、どうか覚めないで。

「落ち着いたら、冷やせるもの借りにメイコさんとこ行くか」
「……れん、しゅ、したい」
「それはお前の体調と、時間次第だな」

 一定のリズムでこはねの背を叩く手のひらも、こはねに語りかける声も優しくて、涙がなかなか止まりそうにない。

「しの、めくん、シャツ、また…」
「今更……好きなだけ使えよ。ハンカチねーからな」

 微かに笑った彰人が胸元へ押し付けるようにこはねを抱き寄せる。嬉しいときもこんなに涙が出るのかと驚きながら、こはねは彼のシャツを濡らした。





- 8 -



「――東雲くん、もう、だいじょうぶ」

 そう言いながらこはねは彰人の服を引いたが、こはねの“大丈夫”はあまり信用ならない。ぐす、と鼻を鳴らしながらだったのもあって、彰人はこはねを解放しながら様子を確認した。
 目元はもちろん鼻の頭も赤くなっている。彰人は指の背で彼女の目元に触れ、びくりと肩を跳ねさせたこはねの反応で慌てて手を引いた。完全に無意識による行動だった。

「……悪い」
「だ、だい、じょうぶ……だけど、いま、顔ひどい…から……あんまり、見ないで」

 恥ずかしいと俯くこはねを見て心臓が跳ね、落ち着かない気持ちになった。隠されると見たくなる心理だろうか。
 引いたばかりの手をまた伸ばしそうになった彰人は、それを誤魔化すために首の側面を撫でながら視線を逸らした。

「じゃあ、メイコさんとこ行くか」

 とは言ったものの、がむしゃらにこはねを追いかけて路地を走ったため現在地がわからない。一旦セカイから出ることを考えたが、こはねを置いて戻るのは避けたかった。
 周囲を見回してから来た道のほうを振り返る。あ、と思わず声が漏れたのは、ちょうど彰人が背を向けていた壁一面に、見覚えのあるグラフィティがあったからだ。こはねが彰人に送ってきた写真に写っていたのと同じもの。

「ここ、お前の練習場所か」
「うん。このまえ、散歩してるときに、見つけたの」

 ひく、と言葉の合間に涙の余韻を覗かせながらこはねが頷く。
 メイコのカフェからも来られるし、チームでの練習場所へも行きやすい。道中の景色や、ここへつながる路地の入り口が見つけづらいのも、お気に入りのポイントらしかった。

「今度、杏ちゃんに案内するって、約束したんだよ」
「ふーん……オレも知っちまったけどいいのか?」
「うん……うん?」
「いや、秘密じゃねえのかって」

 レンが“普段は内緒のとっておきだ”と教えてくれたときのことを思い出したのだが、こはねにそういった認識はなかったようだ。
 気恥ずかしさが湧いて口をつぐんだが、こはねは“なるほど”とでも言い出しそうな顔で彰人を見上げ、ふふ、と小さく笑った。

「今度、杏ちゃんに言ってみる」

 どうやら、杏と一緒にそういう場所を探すことにしたらしい。こはねの反応にドキリと跳ねた心音と、モヤッとしたものが同時に発生して胸中が忙しかった。
 自覚したせいなのか、自分の反応が以前と違う気がする。それとも覚えていないだけで、似たような反応はしていたのだろうか。

「東雲くん、あの……さっき、ありがとう。腕、痛くない?」

 連れ立って歩きだしながら、こはねが不安そうに彰人の腕を見た。
 別のことを考えていたせいで一瞬なんのことかと思ったが、すぐに思い出した。噛みつかれた瞬間の痛みより、押し付けられた柔らかい唇や、ぬるりと肌を伝う熱い舌の感触。やらしい声に音が、非常に心臓と下半身に悪かったことを。

「全然痛くねえ。それより、ちゃんと返事聞いてなかったよな」
「え、返事?」
「血、欲しいときは次もオレに言えって言ったろ。あれ言い直すわ」

 本当に痛くないのかと聞きたそうな視線をスルーして――実際、痛みは全く無い――足を止める。つられて足を止めたこはねに向き直ると、彰人はそっと彼女の手を握った。

「……ずっと、オレだけにしてくれ」

 あ、う、とこはねが形になっていない音を漏らしながら顔を赤くする。
 小さく開閉を繰り返していた唇がきゅっと結ばれ、同時に彰人の手を握り返してきた。

「いい、の? 毎日かも、しれないよ」
「いい。向こうで無理そうならこっち呼んでくれりゃ来るし……お前のエロいとこ他のヤツに見せたくねえ」
「エ……、そっ!? そん、そんなはずないもん!」
「見てたオレが言うんだからそうなんだよ。なあ、こはね、頼む」
「……わか、った。東雲くんに、だけ、おねがい、する」

 真っ赤な顔で動揺しているこはねが頷いたのを確認して、ほっと息をつく。これで言質は取った。
 本当は、自分に言えと提案したときにも同じことを言いたかったのだ。
 さすがにそこまで口を出す権利はないと自重した結果あのような言い回しになったが、もう自重しなくて良い立場を得たのだ。遠慮する気はない。

 歩みを再開させながら、彰人は斜め下にあるこはねの頭を見下ろす。頬をこすっている彼女の耳の先まで色づいているのに気づいて、そこに触れてみたいと思ってしまった。
 今まで自覚していなかったのが不思議なくらい、彰人はこはねに触れたいと思うし、触れている。今も、指摘されないのをいいことに彼女の手を握ったままだ。

「そういや、お前さっきの初めてっぽいこと言ってたけど今までどうしてたんだ?」
「えっと……こうなったの、昨日からなの。喉が渇いて苦しかったときは、お母さんに用意してもらったやつ飲んだよ。加工品って言ってた」
「加工品……そんなのあんのか」

 彰人が知らないだけで、意外と世間には吸血鬼がいるのかもしれない。
 ふいに黙り込んだこはねが彰人を見上げてくる。なんだ、と問う代わりに見返せば、こはねは微かに首を傾げた。

「なんで東雲くんは美味しかったのかなって」
「は?」
「お母さんが出してくれたのは飲みたくなかったのに……東雲くんのは、もっとほしいなって思ったから」

 こはねは不思議そうに考え込んでいるが、もう少し言い方をどうにかしてほしい。
 これは血の話だと自分に言い聞かせながら、彰人は小さく息を吐いた。

「ナマモノだからじゃねーの」
「そう、なのかな」
「とりあえず、マズいよりいいだろ」
「うん」

 即座に頷いたこはねが、噛みしめるように「おいしかった」と呟く。妙に恥ずかしくなった彰人は、再び“これは血の話だ”と自分に言い聞かせる羽目になった。



 メイコのカフェに顔を出すと、店主のメイコひとりしかいなかった。
 彼女はこはねを視界に入れた途端目を丸くして、歓迎の挨拶もそこそこに店の奥へ引っ込んで、すぐにタオル片手に戻ってきた。

「はい、どうぞ。彰人くん」

 必要としているのはこはねなのだが、なぜかメイコは彰人をご指名だ。
 礼を言いながら受け取れば、ヒヤリと冷たい。タオルに巻かれて見えないが、中にはソフトタイプの保冷剤が入っているようだ。

「奥にいるから、なにかあったら呼んでね」

 メイコは柔らかく言うと、手を振りながらウィンクを残して行ってしまった。
 保冷剤がじわじわと手のひらの感覚を奪っていくことにハッとして、彰人はこはねの手を引いて店の中――ボックス席へ移動し、彼女が座ったのを確認してから手を離した。「あ」と漏らしながらビクついたこはねは、今になって手を繋ぎっぱなしだったことに気づいたらしい。
 鈍過ぎやしないかと思ったが、このまま改善されなくてもいいと思った彰人は指摘せず、タオルごと保冷剤を渡した。

「ありがとう」
「おう。時間は大丈夫なのか?」
「うん。もう寝るって言ってあるから、大丈夫」
「寝るには早すぎねえ?」

 ぎくりと身体を揺らしたこはねに何かあるなと察した彰人は、向かい側ではなく、あえて彼女の隣へ腰を下ろした。

「……お前の体調と関係あるだろ」
「な、んで……」
「やっぱりな。つーか、こっち見てねえで、ちゃんと冷やしとけ」

 目元に当てていたタオルを外して彰人を見るこはねに、見なくていいからと手を振る。
 こちらへ来たときに聞こえた歌声に違和感があったのだと理由を言えば、こはねは身体を縮こまらせながら「ごめんね」と謝ってきた。

「練習、したくて……嘘ついちゃった」
「気持ちはわからなくもねーけど、無理すんなよ」
「どうしても、東雲くんと一緒に……その、今日じゃなきゃ駄目だったの。でも、隠そうとしてたこと、全部話しちゃったから……うん、無理しないように気をつけるね」

 こはねの言葉で、ここに来るまでの諸々が脳裏をよぎる。
 今のこはねは本人が言うとおり全部吐き出したせいなのか、スッキリしているように見えた。泣いたせいで目元は赤いが体調も良さそうだ。
 ふと、こはねの泣いている姿を思い出した彰人は、泣き方にも種類があったのだと思いながら自身の手のひらを見つめた。
 逃げたこはねを捕まえた直後は、見ているだけで胸が痛くて苦しくなった。どうにか泣き止んでほしくて、でも何もできないのがもどかしくて、ただこはねを閉じ込めるように抱きしめるしかなかった。
 けれど、嬉しいのだと言いながら泣いていたときは、好きなだけ泣けばいいと思いながら抱きしめていたと思う。

(……どっちにしろ、誰にも見せたくねえってのは変わんねーな)

 この先、泣きたくなったら彰人のところへ来てほしい。これはそのうちきちんと伝えようと決めて、彰人は手のひらを握りしめた。

「こはね、集中して練習したいとこあるか? 優先してやるぞ」
「……! うん!」

 あのね、と言いながら片手で目元のタオルを押さえつつ、空いた手をふらふら彷徨わせるこはねに笑う。
 荷物はすべて練習場所へ置いてきてしまったから、すぐにここだと示すのは難しいだろう。戻ってからでいいと返した彰人はスマホを取り出し、冬弥からメッセージが届いていることに気づいた。

 ――答えはでたか?

「……昼のやつか」
「? なにか言った?」
「冬弥から連絡きてた。お前とのこと、もう言っていいか?」
「私と、東雲くんのこと」
「…………オレ、お前のこと好きだっつったよな」

 呆けたように呟くこはねに、ちゃんとわかっているのかと声が低くなる。
 ひゅっと息を呑んだこはねは、目元に触れさせたままのタオルを握りしめながら少しずつ彰人とは逆側へ身体を傾けていた。
 じわり、じわりと赤くなっていく耳が温かそうだ。やはり、そのうち直に触れてみたいと思いながら、彰人はそっと顔を近づけた。

「忘れたとは言わせねえ」
「ひあ!? ちゃ、ちゃんと、覚えてる、けど」
「けど? 付き合う気はなかったってことか?」
「その先は、ぜんぜん、考えてなかったから……ど、どうしよう……いいのかな」

 きつく握りしめたタオルを目元から外して膝に乗せ、真っ赤な顔をしたこはねが縮こまる。その姿と、次第に小さくなっていく声に彰人の心臓が跳ねた。
 思わず抱き寄せそうになった衝動をこらえ、代わりに膝に置かれた手を握る。ビクッと身体を震わせたこはねに笑って、顔を覗き込むようにテーブルに肘をついた。

「こはねはどうしたい?」
「……わ、私、東雲くんが好き、で……」
「…………そ、れは、知ってる」
「あの、だから……よろしく、おねがいします」

 彰人の手を両手で握り、目までぎゅっと閉じているこはねに内心安堵の息を吐く。これで付き合う気はなかっただの、付き合うのはイヤだの言われたら、彰人が納得できるように説明しろと迫るところだった。
 冬弥にも伝えて良いというので(杏にはこはねが伝えるらしい)、彰人は先ほど確認した冬弥からのメッセージに「付き合うことになった」とシンプルな一文を返信した。

 ――そうか。おめでとう。

 冬弥から来るものも極めて簡素だが、穏やかに微笑んで祝う姿は容易に想像できる。湧き上がる照れくささをこらえながら、彰人はこれまた短く礼だけを返した。





- 9 -


 今日は放課後を使ったチーム練習の日だ。先日はこはねが一番乗りを果たしたが、今回は最後の到着だった。
 慌てて時計を確認したけれど、集合時間にはまだ余裕があったので、神高の終了時間が早かったのかもしれない。

「こはねーーー!!」
「わっ、危ないよ杏ちゃん」

 駆け寄ってきた杏に抱きつかれ、慌てて彼女の背に手を添える。
 今日も、杏は華やかな香りがした。

「…………あれ?」
「ん? どしたの?」
「うん……杏ちゃんいい匂いだなって」
「えっ、なんか照れる。こはねもいい匂いするよ~」

 ぎゅう、と強まる力とふわふわした髪がくすぐったくて、こはねは笑いながら杏の肩に顔を埋めた。

「……おい杏。いい加減こはね離せよ」
「えー、まだ集合時間じゃないじゃん」
「だから言ってんだろ。こはね、ちょっといいか」

 手招く彰人に頷くと、杏は彰人に対しては渋る様子を見せながら、こはねには嬉しそうに笑って背中をポンと叩いた。優しい微笑みに見送られ、胸の中が温かい。
 杏は、こはねが彰人と付き合うことになったと伝えたときにも、驚きつつ自分のことのように全力で喜んでくれた。優しくてかっこいい、自慢の相棒。
 こはねも、いつか彼女と同じように返せたらいいと密かに決意しているところだ。

「冬弥ー、今の聞いた? なにあれ彼氏ヅラってやつ?」
「彰人は実際に付き合っているから、彼氏ヅラとは言わないんじゃないか?」
「…………あいつ、オレに聞こえるように言ってやがる」
「ふふ。杏ちゃん優しいよね」
「こはねには特にな。それより、お前さっきの……あいつのことも美味(うま)そうって思うのか?」

 彰人は妙に渋い顔をしながら声をひそめた。
 彰人と付き合うことは話したが、こはねが吸血鬼だという話はまだ彰人しか知らない。今日、杏と冬弥にも話すつもりで来た。
 こはねは彰人との距離に緊張しながら数歩後ずさったが、彰人はこはねの腕を掴み、離れた分の距離を詰めてきた。

「……東雲くん、あの、近い」
「慣れろ。こはね……一応言っとくけど、杏から貰うのも無しだからな」

 どこか不機嫌そうに言う彰人に、こはねの心音が速くなる。そわそわしてしまう気持ちごと胸元を押さえつけ、頷いてみせた。

「あのね、私も皆おいしそうって感じるのかなって思ってたんだけど、違うみたい」
「違う? 匂いが、とか言ってたろ」
「杏ちゃんは、シャンプー? 香水かな? いつもお花みたいな、いい匂いがするの……あっ、あの、でも、東雲くんは……確かめないで、ほしい」

 香りの説明は難しい。思いつくままに言葉にしてみたが、とっさに嫌だと思ったことまで口に出してしまった。
 ちら、と視線を見上げると、彰人は何度か瞬いてから、楽しそうにゆっくりと目を細めた。

「…………へえ。元からそんな気ねえけど、お前がそういうこと言うの結構くるな」

 言いながら彰人が少しずつ距離を詰めてくるせいで、こはねの視界には彰人しかいない状態だった。杏とは違うものの、ふわりと漂う香水(推定)の香りに混じって、こはねの吸血欲を刺激するおいしそうな匂いがする。
 思わず喉を鳴らしてしまったけれど、昨日ほどどうしても飲みたい、という強い衝動はないし、喉も渇いていない。
 でも、もう一度、あのときの味と高揚感を確かめてみたい気持ちはあった。

(……練習、終わったあと、なら)

 少しだけ、飲ませてほしい、とお願いしてもいいだろうか。

「こはね……お前やらしい顔してる」
「――えっ、え!? やっ、あ、う……ご、ごめ…なさ……」
「なんで謝ってんだよ。見たい。なあ、今なに考えてた?」

 指摘され、一気に熱が上がった顔を覆って俯くものの、彰人がやんわりと手のひらを割り込ませてくる。指先でこはねの頬に触れ、耳には囁くような声を吹き込んで、自身の身体と腕でこはねを囲う彰人はとても楽しそうだった。

「あ、の……私、」
「ちょっと彰人ー! そろそろこはね返してよね!」

 聞こえてきた杏の声に身体が震える。視界に入るのが彰人だけだったために忘れかけていたが、ここは現実世界の公園だ。当然、杏も冬弥もいる。

「……お前のじゃねーだろ」
「あ、あんちゃん……」

 縋るような呼びかけと、彰人のぼやく声が重なる。
 彰人が一歩離れたことによって明るくなった視界で、こはねは彼との今までの近さを実感させられていた。
 油断すると座り込んでしまいそうになる足を叱咤して、顔の熱くなっているところを擦る。

「こはね」
「ひゃあ!?」

 もう集合時間だろうから熱をさまそうとしているのに、彰人がまたもや至近距離で話しだすせいで全然うまくいかない。
 またあとで聞く、と言い残す声が笑い混じりに揺れていたから、わざとかもしれなかった。

「っていうか、彰人がこはねをカツアゲしてるようにしか見えなかったんだけど」
「彰人は活き活きしていたな」
「……つーか見てんなよ」
「じゃあ見えるところでやらないでくれる?」
「見せているのだと思ったが、違うのか」
「あー、ねー! 彰人そういうとこありそう。こはねー、そろそろ声出し始めるよー」

 杏が大きく手を降りながら、こはねを呼ぶ。
 いくらかマシになった頬に触れ、ピシャリと軽く叩いてから気持ちを切り替えるために両手で拳をつくった。



 練習が終わったあと、こはねは話がしたいと言ってみんなの時間をもらった。
 さすがに吸血鬼云々の話をWEEKEND GARAGEのほうでする勇気はなかったため、場所はメイコの店だ。
 どうしても、拒絶されるかもしれないという恐怖感が拭えずに緊張するこはねを見かねたのか、隣に座っていた彰人がポンポンとこはねの背を叩いた。

「だい、じょうぶ。ありがとう、東雲くん」
「ん」
「……彼氏ヅラ」
「白石」

 すう、はあ、と深呼吸をして、こはねは昨日彰人に話した内容――自分に吸血鬼の血が混じっていること、稀に血が飲みたくなること――をふたりにも告げた。
 ふたりは驚きながらも、こはねを否定することなく逆に生活環境に問題はないのかと心配してくれた。

「喉が渇く以外は、今までと変わらないみたい……ありがとう」

 ほっとして大きく息を吐きだしながら、こはねは胸をなでおろす。信じてくれたことも、受け入れてくれたことも嬉しかった。

「小豆沢、答えにくかったら答えなくていいんだが……小豆沢にとっては、血は美味いものなのか?」
「うぅん……お母さんがくれるやつは美味しくなかったけど、東雲くんは美味しかったよ」

 ごふっ、ガチャン、うわ汚!と立て続けに聞こえてきた音に驚いて身体が跳ねる。
 見れば、背中を丸めて咳き込む彰人と水に濡れたテーブルが目に入った。

「だ、大丈夫? 背中、触るね」

 彰人の背をさすっているうちに、苦しそうな咳はある程度落ち着き、ゼェゼェと荒い息に変わった。

「東雲くん水飲む?」

 呼びかければちらりと見上げられ、心臓がどくりと大きな音を鳴らした――涙目は、初めて見た。

「こは、ね、お前な……」
(涙……も、おいしかったり、するのかな)

 ぼうっと見ていると、数回瞬いた彰人が目を見開く。
 直後、カシャッ、と響いた電子音にビクッと跳ねたこはねは「え?」と無意識に声を漏らしながら顔を上げてきょろきょろした。
 横向きにスマホを構えている冬弥と、顔を覆って唸っている杏がいる。

「杏ちゃん、どうしたの?」
「こはねー! どうって……えっ、無自覚? それも習性とか? と、とりあえず、ここではやんないほうがいいと思う!」

 オロオロとまくしたてる杏に首を傾げていると、冬弥が「どうだろうか」とどこか機嫌良さげにスマホを差し出してきた。そういえば、先ほどシャッター音がしたような。

「……ひえ」
「お前、その反応どうなんだよ……冬弥、これオレに送ってくれ」

 写っていたのは、いまにも彰人の目元へ口づけそうなこはねの姿である。どうして。


「こはね、そろそろオレたちも帰るぞ」

 トン、とテーブルの表面を叩く音にハッとして、思わず彰人の袖を掴む。「違うの」と言いながら見返せば、笑う彰人にやんわりと頬を撫でられた。

「違うって、なにが」
「あ、あれは…さっきのは、キ、スじゃ……なくて、涙の味が、気になって」

 ちょうど味の話をしていたからと言い訳を重ねても、無意識に動いていたこはねは、あのまま涙の滲む目元へ口づけて味を確認していたかもしれない。

「…………やっぱり、違わないかも」

 恥ずかしさで頬を押さえながら俯く。彰人はこはねのほうへ身体を寄せ、嬉しそうに笑った。

「つーか、涙って。個人差とかあんのかよ。だいたい同じじゃねーの」
「東雲くんのは、おいしいかもしれないなって」
「……それ、あんま言うなよ。変な気分になる。あと確認とか無理だからな」

 変な気分とやらについて聞きたかったのに、気になっていた涙の味が確認不可だと言われたことに「え」と反射で声が出た。
 彰人は軽く溜め息をついて、ぐっとこはねの方へ体重をかけてくる。重さはあまりなく、彰人に触れている腕が温かい。

「お前、オレがそんな頻繁に泣くと思うか?」

 聞かれて考えてみたが、先ほど初めて見たくらいだ。機会はほんとうに少ないのだろう。
 他に涙が出るようなこと、と考え込むこはねを遮るように、彰人は「それより」と話を切り替えた。

「こはね、練習前にした話」

 言いながら、彰人の指先がこはねの頬に触れる。肩を跳ねさせたこはねを楽しげに見つめてから耳元へ口を寄せた。

「あのとき、なに考えてた?」
「ッ、」

 耳から広がるゾワゾワした感覚に息を詰めながら、こはねは彰人の袖を握る。いつのまにか杏も冬弥もいない――こはねが混乱している間に帰宅したらしい――今、答えるまでは解放してもらえそうになかった。

「あのときは、東雲くんから……おいしそうな、においがして」

 こはねの頬に触れている指が微かに反応する。頬を包み、耳の下や首の方をなぞられて、とっさに息を止めた。

「も、いっかい……東雲くんの、飲んでみたいなって、ひぁ!?」
「こはね」
「しの、めく……あっ、え!? 待っ、んゃ……」

 直接吹き込まれる声や吐息をやりすごそうとしても、耳を食まれるたびに声が出てしまう。
 ゾワゾワした感覚は続いているし、彰人に耳を食べられてしまいそうで、こはねはきつく目を閉じながら「食べないで」と懇願した。


「――このままだとやべえ。オレが」

 こはねの肩に顔を埋めて、彰人が独り言を漏らしている。この近さも肩がくすぐったいのも気になるが、こはねは耳がちゃんとあることを確かめて、ようやく息をついた。

(び……びっくり、した……)

 かじられ、舐められた感触や音が真っ先に思い出されるけれど、香りも、視界も彰人が埋めていたのだと思うととても恥ずかしい。頬や耳は熱く、耳の形を確かめた指が微かに震えていた。

「ごめんな。色々飛んでた……悪い」
「し、東雲くん、少し、怖かった」
「ぐ……」

 びくりと肩を揺らした彰人がゆっくり頭を起こす。気まずそうに目を泳がせ、ときどきこはねを見る視線の動きを可愛いと思ってしまった。

「なるべく、気をつけるけど……自信ねえわ」

 彰人の口から出てきた弱気な言葉に驚いて何度も瞬いてしまう。
 本人も言いたくなかったようで、苦々しい顔をしている。彰人は小さく息をつくと、ゆるくこはねの手を握った。

「だから、我慢とかすんなよ。嫌ならぶん殴って止めていいから」
「なぐ……で、できないよ!?」
「なら噛みつくとか、爪で引っ掻くとかあるだろ」

 そこまでするほど嫌なことをされるとは思えなかったが、やけに深刻そうに言われて頷く。「よし」と呟いた彰人は脱力したのか椅子にもたれ掛かり、静かに長い溜め息を吐き出していた。

「だ、大丈夫?」
「あー…今たぶん無理。こはね……わりいけど、もうちょい待ってくれ」

 待つとは。疑問符混じりに彰人を見返すと、彼はこはねの手を握っている方の腕を指した。昨日、こはねが噛みついたところ。

「あっ、あのね、今日じゃなくても大丈夫」
「喉は?」
「平気だよ。その…私、おいしそうって思うのは東雲くんだけみたいだから、もう一回、確かめてみたかったの」

 相性があるのか、彰人がこはねの好きな相手だからなのか、他の要因があるのかはわからない。けれど、誰彼構わず噛みつきたいとはならなそうで安心した。
 しかし、彰人に毎度痛い思いをさせるのは心苦しい。我慢するならばあの加工品の出番になるが、あれは可能な限り飲みたくないのだ。
 痛くしないコツなどはあるのだろうか。そもそも、貰うばかりなのは気が引ける――など、考えに耽っていたこはねは、不意に彰人に引っ張られ、懐へ抱き込まれたことに驚いた。

「東雲くん…?」
「こはねの言い方直すのが先な気がしてきたわ」
「ん?」
「あと、お前から特別扱いされんの、やっぱいいな」

 嬉しそうな彰人の言葉にそわそわする。照れくさいけれど、こはねまで嬉しくなる空気。
 恥ずかしさで逃げ出したくなる気持ちを抑え、そろっと持ち上げた手を彰人の背に回す。恐る恐る制服の生地を握ると、彰人の背が震えた。
 ぎゅっと強まる腕の力が早く慣れろと言っているようで、こはねはつい笑ってしまう。彰人とこうして触れ合えるようになれるなんて、昨日までのこはねに言ってもきっと信じないだろう。
 今でさえ、夢のようだと不思議な気持ちになる。けれど触れている温かさも、少しの息苦しさも本物だ。
 じわじわと湧いてくる実感に胸がいっぱいになったこはねは、もぞりと身じろいで腕を伸ばすと、改めて彰人を抱きしめ返した。

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