Vischio

Be rainy



「あ」

 不意に声を漏らしたこはねが、空を見上げながら手のひらを上向(うわむ)ける。つられて見た空は灰色だ。

「降ってきたか?」
「ぽつって当たったと思うんだけど……」

 引っ込められた手が頬にあてられ、こはねは気のせいかも、と言いながら照れくさそうに笑った。
 まあ、いつ降ってきたっておかしくない天気だし、本当に降ってきた可能性もある。

「一応、急ぐか」
「うん」

 オレが少し足を速めるだけでこはねは小走りになる。こいつは絵名や杏と違って「もっとゆっくり歩きなさいよ」とか「歩くの早すぎ」とか、そういう文句をひとつも言わないから、こっちが注意してやる必要があった。

「だ、大丈夫、追いつけるよ! ありがとう」
「……手、引いてやろうか」

 からかうように聞くと、こはねは丸っこい目をさらに丸くして素早く瞬いたあと、視線をわずかに下げた。そのせいで目は合わなくなったが、じわっと赤く染まる頬とおずおずと差し出された右手を見て、オレまで照れる羽目になった。くそ。見られてなくて良かった。

「ん」

 差し出された手を掴み、自分の方へ引き寄せる。こはねの手は小さくて柔らかいから、力を入れすぎたら潰しそうでいつも加減に気を遣う。

「ふふ」
「なんだよ」
「東雲くん優しいなって」
「はあ?」

 にこにこと嬉しそうに笑うこはねは、答えないままやんわりオレの手を握り返してきた。力が弱すぎてくすぐったいくらいだが、それを指摘できたことはない。
 お互い無言で――こはねはやたらと機嫌がよかったが――数メートル歩いたところで、オレの頬にもぽつりと水滴が当たった。頭でも受け止めたそれは次第に回数を増してきて、本格的に降り始める前兆としか思えなかった。

「こはね、」
「わ!?」

 走りだす気で声をかけた直後、雨粒が大きくなり足元のコンクリートが色濃く染まっていく。
 いきなり大雨になるとか嘘だろ。
 急いでジャケットを脱いでこはねの頭に被せ、オレ自身はパーカーのフードで雨をしのぐことにした。

「走るぞ! それ落とすなよ!」
「うん!」

 こはねの手を掴みなおし(加減は忘れた)、転ばせないようにだけ気を付けて目的地――自宅へと急いだ。
 たいした距離じゃなかったはずだが、雨水がしみ込んで服が重い。フードでは受けきれなかった分が布地を貫通して髪を濡らしているのも不快だった。
 とりあえずフードを降ろしながら隣を見れば、こはねは大切なものを扱うように、オレのジャケットの水気を払っているといころだった。
 オレの視線に気づいたのか「ありがとう」と笑顔でそれをこっちに渡してくる。受け取りながらこはねの状態を確認すれば前髪が額に張り付いていて、いつもはぴょこぴょこ動く房のほうもしんなりしていた。暫定的な雨避けはあまり役に立たなかったようだ。

「っくちゅん」

 聞こえたくしゃみにハッとして家の中に声をかけたものの、反応が返ってこない。

「……絵名くらい居ろよ」
「東雲くん、これ、ハンカチ」
「バカ、こっち優先してどうすんだ。お前が使って待ってろ」

 靴を脱ぎながら言いつけて洗面所へ向かう。重たくなったパーカーを洗濯機に放り込むとだいぶマシになった。必要なのはタオルと……

「こはね、お前シャワー使ってけ」
「えええええ!? い、いいよ! 大丈夫!! 服もそんなに……っくしゅん!」
「それで風邪ひいて練習休んだら許さねえぞ」
「う、うぅ……」

 身体を縮こませるこはねに大きめのタオルをかぶせ、雑に拭く。もごもご何か言っていたが無視した。ぱっと見たところ、上着は確かにあまり濡れてないようだが、スカートと靴は色が変わっている。

「あんまごねると無理やり連れ込むからな」
「……お借りします」

 タオルに顔を埋め、か細い声で答えるこはねはてるてる坊主みたいに見える。もしくはこういう妖怪がいそうだ。
 こはねを風呂場へ誘導してから着替えのことを考える。絵名がいれば着られるもの貸せ、と要求するだけで済んだのに。仕方なくこはねを置いて一度自分の部屋に行き、畳まれたばかりと思われる服の束からシャツとスウェットを引っ張り出して戻った。

「これ着替えな。出たらオレの部屋……場所わかるだろ?」
「わ、わかるけど……」

 おろおろしているこはねが何に困っているのかわからず首をかしげる。続きにあまり時間がかかるようなら浴室へ押し込むつもりでいたら、こはねが困った顔のままこっちを見た。

「東雲くん、そこにいてくれないかな」
「は? 見てろってことか?」
「ちがっ、違うよ! 東雲くんの家をひとりで歩くの、さすがに……」

 ああ、そういうことか。確かに他人の家に放置されたうえ、勝手に出歩くのは気まずいものがある。
 三度目のくしゃみをしたこはねに焦れて、わかった、と端的に答えてから強引にドアを閉めた。
 すぐには出てこないだろうと判断して、自分も部屋へ戻って簡単に着替えを済ませる。髪はタオルでぬぐいながら、風呂場へ続くドアの前に腰を下ろした。

(……イヤホン持ってくりゃよかった)

 どうしたって漏れ聞こえてくる水音に意識を持っていかれる。これは雨音だと思い込もうとはしたものの、うまくいかなかった。
 これでこはねがのんきに鼻歌でも歌おうものなら、出てきたときに文句を言ってやろう。



「東雲くん、いる?」
「おー。ちゃんとあったまったか?」
「うん。ありがとう」

 こはねも緊張していたのか、歌声は聞こえてくることなくドア越しに話しかけられる。開けてもいいかを聞かれたから、立ち上がってわずかに開かれたドアをこっちから開けてやった。

「…………お前、下は?」

 むき出しの素足に目が吸い寄せられて思わず聞けば、こはねがシャツの裾をつまみつつ、スウェットをオレに返してきた。

「履こうとしたんだけど、落ちちゃうから……」

 長さが足りない裾を気にしてか、しきりにシャツをいじるせいで目がいく。ちらちらさせるのをやめろと言いたいのに、言葉が詰まって出てこない。
 なんとか視線を剥がしたものの、脚の方だけじゃなく首元もだいぶアレだった。サイズが合わないせいで襟ぐりが大きくあいて鎖骨が見えてるし、袖はかなりだぶついて指先しか出てない――あからさまに自分との体格差を見せつけられて、何も考えられなかった。

「えっ、し、東雲くん!?」

 衝動のままこはねを抱きしめる。うろたえるこはねを見ることで余裕を取り戻したかったはずなのに、自分の腕でこはねの小柄さを再確認してるんだから、我ながらバカだったと思う。
 オレの背中で戸惑いがちにパタパタ動いていたこはねの手が控え目に添えられて、額が肩のあたりに触れる。ますます詰まった言葉の代わりに抱きしめる力を強めると、こはねが嬉しそうに笑った。

(……無事帰せるかこれ)

 これから自分の部屋に入れて約束していたCDを選ばせて、その間こはねはこの格好のままだ。正直、手を出さずにいられる自信がない。

(……まあ、絵名あたりが帰ってくるだろ)

 家族にストッパー代わりを期待することにして、気分を入れ替えるべく大きく息を吐き出した。

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