Vischio

メルティ・スイート・ハニー


 チーム練習が終わったあと、彰人とこはねは練習場所に残り、ふたりで過ごす時間を作る。この頃ようやく習慣づいてきたのか、声をかけなくてもこはねは自然と彰人の方へ寄ってくるようになった。にこにこしながら自分を呼ぶ声に緩んでしまう口元を手のひらで覆い隠して、彰人は公園のベンチへこはねを誘導した。

 ふたりで過ごす時間を作るきっかけになったのは、こはねと付き合い始めてから彰人に芽生えた飢餓感のようなものだ。
 こはねに好きだと告げ、振られかけた――そんな風に考えたことがないから、と戸惑いながら断られそうになった――ところを食い下がり、意識させることから始めてようやく“お付き合い”にこぎつけたのが少し前の話。そこで一度は喜んだものの、今度はこはねと面と向かって話す機会の少なさが物足りなくなった。メッセージアプリの文字だけでは味気なく、電話で声を聞けば直接会いたくなる。けれど、学校の休み時間や夜中にセカイへ呼び出すなんて頻繁に出来ることではない。
 悶々と悩んだ結果、彰人は確実に会えるチーム練習の日に「あとで、少し時間くれ」とこはねに告げた。
 やけに深刻なトーンになってしまったせいか、こはねはおろおろしながら下がり眉になり「どうしたの?」と不安げに声を震わせるし、その場には冬弥も杏もいたせいで、なにごとかと緊迫した空気が広がってしまった。完全に話すタイミングを間違えたと思ってももう遅い。
 こはねにだけ告げるつもりだった“こはね不足”を大っぴらにさらけ出すことになった彰人は、冬弥と杏から生温い視線を送られ精神的に軽いダメージを負った。けれど、こはねが真っ赤な顔でぷるぷるしつつも一緒に過ごすことを了承してくれたので、くすぶっていた不満は無事に解消された。
 それからは意識してこはねとの時間を作るようになったし、次第にこはねの方から寄ってくることも増え、なにも言わなくてもふたりで過ごす空気ができていくのは嬉しかった。

 ベンチに並んで腰掛けたこはねが、今日は練習前に宮女の友達と買い物をしてきたのだと楽しそうに話し始める様子を見つめながら、彰人はふっと息を吐いた。
 ――付き合い始めのころと比べれば、かなり距離が縮まった気がする。

「みのりちゃんが教えてくれたやつでね、杏ちゃんにも試してもらったんだよ」
「さっき向こうでゴチャゴチャ話してたのそれか」
「うん。杏ちゃんもいいねって言ってくれて――」

 先ほどからこはねが熱心に話しているのは、新しく購入したリップクリームについてだ。元々は遥ちゃんのおすすめで保湿力が云々、宮女の指定カバンをごそごそ探り、手のひらにのせた実物を彰人に見せてきた。丸く平べったい小さめのケースに入ったそれは、指で塗るタイプのようだ。
 最近は乾燥しがちだからと話すこはねの指が、確かめるように自身の唇に触れる。いつの間にかこはねの指先を追って彼女の口元を凝視していた彰人は、気まずさを覚えながら瞬きをして焦点をずらした。
 ――触れてみたい。
 不意に脳裏をよぎった考えに思わず息を止める。
 ゆっくり呼吸を再開させたあと、こくりと唾を飲み込む喉の動きをやけに意識してしまった。

(……いや、でも、そろそろよくないか?)

 始まりこそ彰人がきっかけで彼女を口説き落とした形だけれど、今ではこはねも同じ気持ちを返してくれているのを知っている。
 彰人は身体を傾けて、とん、と軽くこはねに寄りかかった。ぴくりと反応した彼女は唇から指を離し、彰人を見返すと柔らかく目を細めながら小さな笑い声をこぼす。嬉しそうなそれに心臓が跳ね、控えめに彰人の方へ身体を寄せてくるこはねに喉が鳴った――やはり、いける気がする。

「それでね、東雲くんもどうかなって」
「…………は?」
「この前、乾燥するって言ってたでしょう?」
「言ったけど……いや、待て。使わねえからな」

 彰人の方へ丸いケースを差し出してくるこはねに言えば、彼女は「え」と声を漏らし、どうしてと言いたげな顔をした。その顔をしたいのはこっちである。
 彰人は念を押すように「使わねえ」と言葉を重ねた。薬用のスティックタイプですら微妙に抵抗感があるのに、指で塗るというそれを使う自分を想像しかけてなんとも言えない気分になった。仮に、万が一借りるとしても、こはねの目の前で使うのは嫌だった。

「ハチミツの匂いなの」

 謎の食い下がりを見せるこはねがケースのキャップを緩める。周囲にふわりと漂う甘い香り。
 彰人の視線は再びこはねの口元へ引き寄せられ、無意識のうちに呼吸を抑えていた。
 薄紅色をした彼女の唇はふっくらと柔らかそうで――

「――うまそう」
「えっ、た、食べちゃだめだよ?」

 彰人の呟きに目を丸くしたこはねの頬を手のひらで包む。びくりと肩を揺らし、素早く瞬きながら彰人を見返してくる彼女になにも言わないまま、ゆっくりと頬を撫でおろした。親指で唇の端に触れてから、彼女の瞳を覗き込む。
 微かに唇を震わせて、か細く吐息を漏らしていたこはねは、彰人と目が合うとかあっと頬を染めた。
 どうやら彰人が呟いた言葉の意味を察したらしい。

「……いいか?」

 囁くように問えば、こはねは瞬きの回数を増やし、視線をあちこちウロウロさせたあと彰人の制服――腰の辺りを軽く掴んだ。彰人の心臓がどくりと大きく跳ね、鼓動が速くなる。少しずつ上がっていく体温を意識する間もなく、真っ直ぐ彰人を見返してくる瞳に捕まって呼吸が浅くなった。

「ちょっと、だけ、なら」

 彼女の熱も上がっているのか、触れているこはねの頬が温かい。彰人はこはねの返事にふっと笑い混じりの息を吐くと、額を触れ合わせた。

「ちょっと、な」

 こはねに真似た言葉を返し、彰人はドクドクうるさい心音を聞きながら距離を詰める。触れる直前に目を閉じて、そっと唇を重ねた。

「ん」

 耳に入ってきた声と、ぴくんと跳ねたこはねにどきっとしてしまう。反射的に離れてしまったけれど、一瞬の触れ合いだけでは満足できなかった。
 彰人は両手でこはねの頬を包むと、今度は返答を待たずに口づけを再開させた。距離感を見誤って押し付けるようにしてしまったせいか、こはねの柔らかさを感じるのと同時に「ん、ぅ」と苦しげな声が漏れ聞こえてくる。もっと聞きたいと思いながらも、彰人は頭の中が茹だるような感覚に息苦しさを覚えて唇を離した。

「ふ、ぁ……しののめ、くん……」

 潤んで揺れる瞳、舌っ足らずに呼ばれた自分の名前にごくりと唾を飲み込む。もう一回、と彰人はほとんど吐息に乗せた呟きをこぼし、こはねに触れた。
 こはねの唇は予想どおり柔らかく、リップクリームのせいなのかしっとりしている。鼻先を掠めた甘い香りにつられて舌を這わせると、こはねがくぐもった声を漏らしながら大きく震えた。

「……ハチミツの味、しねえな」

 衝動的な行動の言い訳に返ってきたのは、真っ赤な顔でぷるぷる震えながら彰人の袖を握りしめるという可愛い仕草だった。
 浅い呼吸を繰り返し、なにか言いたげなこはねを見守っていると小さく唇が開く。

「な、なめたら、とれ、ちゃう」

 たどたどしく、恥ずかしそうに紡がれた言葉に、彰人はなにかを考える余裕もなくこはねに口づけていた。彼女の唇を食んで柔らかさを確かめ、合間に漏れるリップ音に煽られて、再び舌先で触れるのを繰り返す。こはねが不意にこぼす声も聞きたくて、やめどきがわからなくなっていた。

「ん……、う……!」

 苦しそうに肩をぺしぺしと叩かれて、彰人はハッとしながらこはねを解放した。
 はあはあと呼吸を乱し、懸命に空気を取り込んでいるこはねの唇が濡れている。彰人も息を整えながら、親指でそっと彼女の唇を拭った。驚いたのか、こはねは微かに肩を揺らしたけれど、視線を下げて照れくさそうにしているだけで嫌がっている様子はない。たまらない気持ちになった彰人はこはねの背に腕を回し、ぎゅうと強く抱きしめながら「好きだ」と囁いた。



「こはね、さっきの……リップクリーム貸してくれ」
「東雲くん使うの?」

 不思議そうに首を傾げながらも、あっさりと丸いケースを彰人に手渡すこはねは妙に嬉しそうだが、使うのは彰人ではない。苦笑を返しつつケースのキャップを開け、指で掬ったそれをこはねの唇へ乗せた。

「ん!?」
「……これ量の調整難しいな」

 つ、と彼女の唇に滑らせた指は既に目的を達していたけれど、ふにふにとした感触が心地よく、なかなか離せなかった。

「東雲くん、」
「あ。悪い、やっぱつけすぎたか?」

 ティッシュは持っていなかったかもしれない。バッグの中身を思い返していた彰人は、こはねにぐっと距離を詰められて思わず息を止めた。
 自分から近づいて来たくせに、こはねは彰人の肩に手を置いたところで固まっている。次第に赤みを増していく彼女の頬や目元の様子に喉が鳴った。

「こはね……この距離でそういう顔されると、またしたくなんだけど」

 いいのか。問うように見つめれば、こはねはますます赤くなる。きゅっと唇を引き結んだあと小さく頷いて、じわじわと焦れったい速度で寄ってきた。緊張も露わに息を止めているこはねは可愛いし、待ちたい気持ちもあったけれど――結局、彰人は待ちきれずに自分から唇を寄せた。
 ちゅ、と聞こえた微かな音。それにどきりとした瞬間、ふに、と柔らかな感触を押し付けられたうえ、唇をすり合わせるような動きに思考が飛んだ。
 自分からするのも、こはねからされるのも同じくらい気持ちいい。けれど、こはねから、の衝撃が予想以上に大きくて理性が切れそうだ。
 こはねは察したかのようなタイミングで顔を離し、照れながらも満足そうに微笑む。その表情を目の当たりにした彰人は喉を詰まらせ、こはねを呼ぶ前に唇を湿らせた。直後、こはねが「あ」と声をあげ、舌先にはついさっき無味だと確かめたもの――リップクリームの食感が残っていた。

「東雲くん、舐めちゃだめだよ」
「…………なら、もういっかい」

 彰人の返事に目を丸くして瞬く彼女が返事をする前に唇で触れる。最初からこはねの目的が“おすそわけ”だったとしても、こはねから彰人ヘキスをしようと考えた事実は変わらない。
 じわりと湧き上がってくる高揚感に息苦しさを覚えつつ、彰人は意図的にリップ音を鳴らした。近いうちにもう少し深く、舌を使うようなキスもしてみたい。そんなことを考えながら、やんわりとこはねの唇を食んだ。



***



「――こはね、これ。お前が使ってるやつ」

 彰人は薬局の店名が入ったテープが貼られただけの商品――こはねが使っていたリップクリームを彼女の手に乗せる。不思議そうにしていた表情が戸惑いに変わり、こはねはおろおろしながら「どうして」と彰人を見返した。

「これなら、まだいっぱい残ってるよ?」
「知ってるけど、どうせ早く減るだろ」

 ぱちぱちと瞬く様子に笑いつつ、こはねに向かって手を伸ばす。指の背を使い、彼女の唇に触れないぎりぎりの位置を掠めるように撫でた。

「し、東雲くん……?」

 戸惑いの混じった声が彰人を呼ぶ。瞬きを増やし、じわじわと頬を染めていくこはねに目を細めながら距離を詰めた彰人は「半分はオレのぶん」と彼女の耳元で囁いてから手を離した。
 耳まで赤くしたこはねが彰人の制服を掴み、肩に額を押し付けるようにして俯く。衝動に突き動かされるまま、彼女を抱きしめようと腕を回したところで、こはねが僅かに身じろいだ。

「……もう、ひとりで使えなくなっちゃったよ」

 至近距離にいても聞き逃しそうなくらいの声量で、こはねがぽつりとこぼす。使うたびに思い出すのだと途切れがちに訴えられて、彰人はつい声をだして笑ってしまった。そうなった原因は美味そうだと言い出した彰人と、“おすそわけ”をしたこはねで半々だろう。こはねもそれがわかっているのか、悩ましげに唸るだけだ。

「つーか、オレにわけるのはいいのかよ」

 ぱっと顔を上げたこはねが真っ赤になり、目を泳がせながらも小さく頷くから――彰人は途中で止めていた腕を動かして、こはねを思いきり抱きしめた。

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