Vischio

バックアップはパソコンに


 こはねがその猫を見かけたのは全くの偶然だった。
 中庭でみのりと昼食を終えた後、彼女が先生に呼ばれてひとりになったときに、スッと目の前を通過していったのだ。
 あまりにも堂々と闊歩していくものだから、一瞬ここが学校ではなく公園なのではないかと錯覚しそうになったくらいだ。生徒の誰かが連れてきてしまったのか、それとも野良か。そんなことをぼんやり考えながら、なんとなくスマートフォンを取り出して遠ざかっていく後ろ姿をカメラに収めた。

(…………オレンジ色)

 光の加減で明るい茶色がそう見えて、パッと脳裏に彰人の顔が浮かぶ。
 今の時間は神高も昼休みのはずだ。少しだけ話をしたくなって、今撮ったばかりの写真を彰人宛てに送った。
 猫がいたよ、と言葉を添えたあとで、やめておけばよかったと思う。これでは返事に困りそうだ。
 吹き出しの横に付いた既読マークを見て「うぅ」と小さく声が漏れてしまう。相手には届かないのに「ごめんなさい」と呟いた直後にポンと吹き出しが現れた。

 ――なんで後ろ姿?

 すぐに返ってきたメッセージは会話を続けてくれることを示していて、後悔よりも嬉しさが勝った。
 校内で見かけたことに驚いて、気づいたら見送っていたのだとやりとりの最中に伝えたら「にぶい」「そんなんで午後大丈夫かよ」と無愛想にも見える返事が来る。声は聞こえないけれど、きっとこはねをからかうときの笑い方をしている。そう思ったら、文字のそっけなさも気にならなかった。
 そんなメッセージのやりとりに自然と笑顔になってしまうこはねの元へ、冬弥から画像が送られてきた。
 珍しいと思いながら開けば、彰人が頬杖をついてスマートフォンを見ている写真だった。微かに笑っている表情がすごく優しくて、見ているとドキドキしてしまう。

(……ありがとう、青柳くん)

 メッセージにもそう書いて送ろうとしたら、冬弥から「あずさわ」の四文字が来て、文字を読み終わると同時に着信があった。展開の速さに驚き、相手を確かめる間もなく通話状態にしてしまう。

『こはね、今すぐそれ消せ!』
「え!?」
『――おい、外野うるせえぞ! 冬弥、お前、ほんと余計なこと――』

 スピーカーからは、遠ざかる彰人の声の代わりに椅子や机が床を擦るときに出る音が聞こえる。
 ――どうしよう、もうすぐ予鈴が鳴りそうなのに。
 スピーカーの向こうは静かになっているが勝手に切るのは気が引けて、残りの時間と教室までの距離を考えながら耳を澄ませる。未来のこはねからアドバイスが聞けるなら、それはやめておいたほうがいいと言われたに違いない。


『こはね』


 耳に届いた低音にぞわりと肌が粟立つ。ほぼ吐息のような小声は、ふたりきりの……それも至近距離にいるときにしか聞かないものだ。
 どうして今そんな風に呼ぶのか。目の前に彰人はいないのに、無性に会いたい気持ちになってしまった。

「……ひどい」
『いきなりなんだ?』
「東雲くんが、さっきみたいに呼ぶからだよ」
『話が見えねえ……とりあえず冬弥には消させたから、あとはお前だけなんだよ。保存してねえだろうな』

 彰人が言っているのは写真のことだと思うが、どうしてそんなに消したがるのだろう。とっても良い写真なのに。
 疑問に思いながらも、正直に保存したと話したところで予鈴が鳴った。もう行かないと本当に遅刻してしまう。

「ごめんね、東雲くん。話はまたあとで聞くね」
『……わかった。あとで、じっくりな』

 妙に“あとで”を強調されたことが気になったものの、本鈴が鳴るまでの猶予もなく、こはねは慌てて教室へと戻った。


 授業の合間の休み時間にスマートフォンを見ると、冬弥からのメッセージを受信していた。
 トーク画面を開いて、メッセージよりも先に写真が消えていることに驚いてしまう。彰人が電話で言っていたとおり、本当に消させたらしい。

(……消される前に保存できてよかった)

 彰人のあの様子だと、こはねの携帯から削除されるまで見守ると言い出しかねない。バックアップも取っておかなくては。
 どこに保存しようか考えながら冬弥からのメッセージを読んだこはねは、その内容でまた彰人に会いたくなってしまったし、ますます写真を消すわけにはいかなくなった。

 ――さっきは書いている途中で送ってしまったが、小豆沢からの連絡があると、彰人はよくああいう顔をしている。小豆沢はあまり見たことがないかもしれないと思って撮ってみたんだが、彰人は小豆沢に見られたくないんだそうだ。この画面に残っているのも嫌だと言うから消しておく。すまない。

 何度か読み返し、それはこはねに教えてもよかったのかという戸惑いもあるが――彰人本人は話してくれそうもないから、よかったと思うことにした。
 改めて冬弥へお礼のメッセージを送る。ちゃんと見られたよ、と添えてからスマートフォンをしまった。



 今日はチームでの練習はない日だけれど、彰人と会う予定はあった。こはねが待ち合わせ場所に到着したときには、すでに彰人が手持ち無沙汰な様子で待っていた。時間を間違えたかと謝りながら小走りに近寄ったら、神高の方が早く終わったのだと笑われた。

「まだ余裕あんだから走る必要ねえだろ」

 笑い混じりに言いながらこはねを見る表情は優しい。
 唐突に、それが写真と同じ顔だと気づいてしまった。

(私、見たことあったよ青柳くん)

 むしろこはねが一番見ているはずだ。
 今日一日で蓄積された“会いたい”と、自分に向けられる彰人の表情にたまらなくなって、こはねは更に距離を詰めて彰人に抱きついた。

「な、なんだよ、どうした?」
「…………好き」

 あふれる気持ちを言葉にすれば、彰人が息をのむ音がした。こはねの行動に驚いて浮いていた手がこはねを抱き返し、少しずつ力を増していく。

「――お前がそれ言ってくれんのめちゃくちゃ嬉しいけどさ。なんかあったのか?」

 彰人からしてみたら、こはねの行動は唐突すぎたようだ。心配されているようだけど、今日は嬉しかったことしかない。でも、それを一から全部教えてしまうのはなんとなくもったいない気がする。

「……秘密」
「……すっげえ気になるから意地でも聞くわ」
「な、内緒だよ」
「お前の顔からして嫌なことってわけじゃなさそうだし、いいだろ――なあ、こはね?」

 急に声のトーンを落とすのはずるいと思う。
 時間はある、と続ける彰人は楽しそうだが、こはねにとっては嫌な予感しかしない。
 消すように言われたあの写真について、本人の許可を得てから手元に残すつもりだったのに。取り引きができる機会はくるのか、彰人を説得できるのか。
 とりあえず彰人からの追求をうやむやにしたくて、こはねは彰人に抱きついて顔を隠した。





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