Vischio

ろじうらおうせ 後日談



 ――ああ、イライラする。
 基本的にバイトは楽しいし、やりがいも感じられるのに、極々稀に遭遇する厄介な客――クレーマーだったり、やたらと絡んで来て長時間拘束したあげく結局なにも買わない客だったり――とのやりとりにはストレスが溜まる。
 今回は、長時間拘束タイプの冷やかし客だった。
 ようやく対応を終えて店長やバイト仲間からの労いに苦笑を返しながら、こはねの姿を思い出して苛立ちを和らげる。どうせなら直接癒やしてほしい。
 バイトのあとセカイに呼び出したら、来てくれるだろうか。
 
 路地裏に来られるか、こはねに問うメッセージを送ったら、即座に既読がついて少し驚いた。数分も経たないうちに「大丈夫! 少し待ってて」と返事が来たことにほっとして、直後にそんな自分に舌打ちをしたくなった。
 とりあえず、呼び出しておいて待たせるわけにはいかない。ビビッドストリートのひと気のない場所からセカイへと移動して、例の路地裏へ向かった。



「――東雲くん!」

 パタパタと聞こえてきた足音の軽さを不思議に思ったけれど、姿を見せたこはねの格好を見て納得した。
 結ばれず降ろしっぱなしの髪に加えて、足元はスリッパだ。コンタクトはしているようだし、服は普段着だが、逆にそれ以外が寝る直前にも見えて内心焦る。
 走ってきたせいなのか、軽く息切れしていたこはねはオレと目が合うと照れたように笑った。

「今日はバイトだったよね? お疲れさま」
「……こはね」

 柔らかな声で労われるのも嬉しいが、それだけじゃ足りなくて寄ってきたこはねの手を取る。ぴくりと反応を示したあと、オレに委ねるように力が抜けたことに安心感を覚えた。
 顔を上げれば、こはねが了承を示すように微笑みながら頷く。言葉を詰まらせるオレに笑って、空いた手を重ねてきた。

「東雲くんが離してくれないとできないよ」

 優しく言われるまま、そっとこはねを解放すれば、屈んだこはねの腕がやんわりと首に回された。
 目を閉じて、ゆっくり息をしながらこはねを抱きしめ返すと、胸の中が満たされていくような感覚が湧いてくる。ふわふわ柔らかくて、温かいのが心地良い。
 こはねからハグには癒やし効果があると教えてもらったのは、まだ付き合ってすらいないころだった。
 初めてこはねがハグはどうかと言い出したとき、本気か?と返す言葉を必死に飲み込んだ覚えがある。
 正直、その時点でストレスとか吹っ飛んでたし、羞恥心を抑えこんでこはねにして欲しいと頼んだときには役得だとしか思っていなかった。

「ふふ、くすぐったい」

 あのときのこはねは、今みたいに笑う余裕はなかったはずだ。緊張してて、力いっぱいオレの頭を抱き込んで――そう、胸に押し付けられたときはこっちが混乱した。あの後しばらく夢に見たのも、今となっては懐かしいかもしれない。
 耳のそばから聞こえてくる小さな笑い声は、なにかの歌詞にあった“鈴を転がすような”って表現を思い出す。
 ぎゅっと心臓が掴まれたような感覚につられてこはねを抱きしめると、再び笑う声がした。

「……なあ、もっと」
「も、もっと……?」

 ぎこちなく動いた腕の力が少し強まる。ふわりと鼻先を掠めるシャンプーの匂い。ゆるく息を吐き出して目を閉じれば、細い指がオレの髪を撫で付けるように動いたことに驚いた。

「あ。ご、ごめんね」
「……そのままでいい」
「いいの? 東雲くん、いつも髪の毛」
「もう帰って寝るだけだぞ」

 こはねの肩に顔を埋めて腕の力を強めると、返事の代わりに指の動きが再開した。
 どこか楽しそうなこはねの雰囲気は、自分勝手な都合で呼び出したオレの罪悪感を軽くしてくれる。
 改めて時間をかけて息を吐き出しながら、遠慮なくこはねからの癒やし効果を実感できる立場になれたことを喜んだ。
 
 なにも言わないこはねの優しさに甘えて無言で抱きしめていたけれど、ある程度満足したところで腕を緩める。

「……こはね。お前、もう寝る準備終わってるよな」
「えっ、どうしてわかったの?」
「シャンプーの匂いする」
「ひゃあ!?」

 すん、と鼻を鳴らしたオレを咎めるように、強めで照れの混じった「東雲くん!」が飛んでくる。笑いながら背中をポンポン叩いていると、こはねは抗議するように腕の力を強くして、おそらくこはねにとっての全力でオレにしがみついてきた。こんなの可愛いだけだろ。

「急に呼び出してごめんな」
「……さすがにまだ寝ないし、東雲くんが呼んでくれたの嬉しかったよ。少しは力になれた?」
「十分だわ」

 よかった、と笑いながら離れたこはねがオレの隣に腰掛ける。甘やかされているような感覚は落ち着かないが嬉しさもあって、聞こえるかどうかの礼を口にしながらこはねに寄りかかった。

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