秘密のトンネルを抜けて
「こはねちゃん!」
「わ!?」
こはねの机に指を引っ掛け、下からぴょこっと顔を覗かせたえむがにっこり笑う。
びっくり大成功、と嬉しそうにしているえむを見て、こはねは驚きでドキドキしている心臓を押さえながらつられて笑顔になった。
「下駄箱のところで待ってて、って言うの忘れてたから言いにきたの」
「え、校門じゃなくて?」
「中庭のほうから出られるところがあるんだよ!」
えむは色々な抜け穴を知ってそうだと思いながら了承を返す。あたしもすぐ行くね、と手を振って教室から出ていく彼女は手ぶらで、本当に待ち合わせ場所を伝えに来ただけらしい。
「フェニランでも寄ってくの?」
「ううん。今日はね、神高だよ」
えむちゃんはそのあと行くかもしれないけど、と付け足しながら、こはねは寄ってきた志歩に返事をした。すっかり帰り支度を終えている彼女の背にはギターケースがあるから、このあとバンドの練習に向かうのだろう。
「神高?」
「これからチームのみんなと練習するんだけど、えむちゃんもフェニランキャストさんと会う予定があるから一緒に迎えに行こうって」
「……なるほど。あっちは別に早く終わるわけじゃないだろうしね」
宮女では職員会議があるらしく、いつもより少しだけ終わるのが早かった。
先に練習場所(シブヤの公園)へ行ってもいいけれど、どうせならみんなを迎えに行ってみたい――昼食を取りながら思いついた考えに、えむは身を乗り出して一緒に行こうと提案してくれた。
「えむちゃんが“とっておき”教えてくれるんだって」
「……それって近道?」
どうしてわかったのだろう。
目を丸くしながらうなずくこはねに、志歩は「咲希が似たようなこと言うからね」と言いながら微かに笑った。
「こはねちゃん、こっちこっち!」
「ま、待って、えむちゃん」
「ここを真っ直ぐビューン! って行ってぴょんだよ!」
えむが指差す先には神高の校舎が見える。彼女がとっておきだと言う秘密のトンネル――近道は伊達ではなかったようだ。
もっとも、こはねはえむについていくだけで精一杯だったので、ここまでの道のりに関しては全くと言っていいほど覚えていない。
にこにこと楽しそうに笑い、弾むように移動するえむは身軽さも相まって悪戯好きの妖精を思わせる。彼女の誘う先がファンタジーな世界だったとしても、向こう――ミクたちの居るセカイを知っているこはねはあっさり受け入れられそうな気がした。
えむはひょいひょいと軽い足取りで道なき道を進んでいく。
こはねは彼女の後ろ姿を懸命に追っていたが、くん、と茂みにスカートを引っ張られて足を止めざるを得なかった。
幸い、軽く引っかかっただけのようでスカートを傷つけることなく外せたことにホッとする。
しかし、移動を再開させようと視線を戻したときには、前を進んでいたはずのえむの姿が無くなっていた。
ドッ、と心臓が大きく動き、血の気が引くような感覚と心細さで息がうまくできなくなる。
(…落ち着かなきゃ)
浅い呼吸をなんとか宥めるべく、こはねは胸元に手をやった。周囲を見れば、先程見えた校舎がだいぶ近くなっている。もしや、既に神高の敷地内に入っているのではないだろうか。
(……とりあえず、えむちゃんに、電話)
宮女のセーラー服を身にまとうこはねは明らかに他校生だ。
不法侵入でしかない今、見つかったらどうなるのだろう。以前こっそり入ったときは杏が一緒だったけれど、ひとりのときは?
見える範囲に神高の生徒は居ないようだが、それがいいことなのか悪いことなのか、こはねにはその判断すらできなかった。
ドクン、ドクン、と荒ぶる心音を上から押さえつけるように制服を握る。肩にかけていたバッグから取り出したスマホが滑り落ち、震える指先が視界に入った。
震えを誤魔化したくて、指を強く握りこんでからスマホを拾う。茂みに隠れるように座り込み、吸って、吐いてと意識して呼吸を繰り返した。
少しは落ち着けた気がする。
そのままえむに電話をかけたが、彼女が電話に出る気配も、留守番電話サービスへとつながる様子もない。延々と続くコール音を聞いていると、せっかく気持ちを落ち着けたのに揺らいでしまいそうだった。
こはねはため息混じりに赤い受話器のボタンをタップして、スマホに額をつける。
一度メイコの喫茶店へ――セカイへ避難しようかとも考えた。しかし、もしこはねがいないことに気づいて、えむが戻ってきた場合を思うと踏み切れなかった。
(みんなに連絡しておけばよかった)
驚かせようとなにも言わずにいたことを後悔しながら、“Vivid BAD SQUAD”で作られたトーク画面を開く。
もしかしたら全員手が離せない用事があるかもしれない。でも頼れる人が他に思いつかない。
こはねは文面を何度も打ち直し、結局シンプルに「迷子になりました」と送信した。深刻になりすぎないように「HELP!」の看板を持ったハムスターのスタンプもつけてみる――気づかれず、誰も見てくれなかったらどうしようか。
ふと湧き上がってきた不安を押しのけるように、ブブ、とスマホが震える。無意識のうちに目を閉じていたこはねは反射的に身体を跳ねさせながら、縋るような気持ちで画面を見た。
――迷子ってなんだよ。
――誤送信じゃねえよな?
「っ、しののめくん…」
小さめの吹き出しが二つ。それを見た途端、安心感がこみ上げて身体から力が抜けた。
(返事、しなきゃ)
こはねが文字を打つ前に、ブブ、と再度スマホが震える。止まらない振動は電話であることを伝えてきていて、わたわたと慌てながら応答した。
『おう。オレ』
「東雲くん」
『お前な、あれだけ送られても動きようがねえだろ』
「ん、うん。そうだよね」
『…………近くに、目印になるもんねえの? つーか、どこで迷子になったんだよ』
久しぶりにきちんと声を出したような感覚と、柔らかくなった彰人の声を聞いて、なぜか涙が出そうだった。
こはねは彰人に気づかれないように、ゆっくり呼吸を繰り返しながら胸元を握る。スマホを持ち直し、震えませんようにと願いながら息を吸った。
「か、かみこう…」
『は?』
願いむなしく震えた声に、彰人が反射で応えたのがわかる。「神高?」とオウム返しされ、相手に見えないにも関わらず必死に頷いていた。
「えむちゃんと一緒に来たんだけど、はぐれちゃったの。えむちゃんとは連絡取れないし、でももう敷地内に入っちゃってるみたいだし、わ、私、いま制服だから、見つかったら……」
『待て落ち着け。とりあえずそっち行く……にしても、もう放課後だぞ。周りに誰もいないのか?』
「う、うん。声は聞こえるけど遠いよ。上の方から楽器の音がする」
聞こえる音、見えるもの。
絶えず投げられる彰人の問いに答えていくうちに、こはねは周囲の景色と音が戻ってくるような感覚を覚えた。さっきよりも息がしやすい。
彰人は会話をしながら移動しているのか、スピーカーから聞こえる音は雑多で時おり声が遠くなることがあった。彼自身が言っていたとおり、こはねのところまで来てくれようとしているのだろう。
なんのためらいもなく行動にでてくれた優しさや、こはねを気にかけているのがわかる声音が嬉しい。
「……ありがとう」
『――なんだよいきなり』
「ふふ。実はね、さっきまでちょっと泣きそうだったの。東雲くんが反応してくれてよかった」
『……そーかよ。あ、ちょっと待ってろ』
「うん」
彰人の声が聞こえなくなった代わりにガタガタごそごそ音がする。
こはねはそっと目を閉じて、聞こえてくる物音に耳を傾けた。彰人はなにをしていて、どんなところを歩いているのだろう。
不安に押しつぶされそうで指先が震えるくらいだったのに、そんなことができるくらいには落ち着いていることに気づく。
こはねは胸元に手をやって、もう一度彰人にありがとうを告げた。おそらく彰人には聞こえていない――でも、それでよかった。
「…この辺じゃねえのか?」
少し離れたところと、スマホから届いた彰人の声が二重になった。驚きながら顔を上げれば、茂みの向こうに彰人がいる。
彰人がきょろきょろしながらこはねを呼んだところで、こはねは立ち上がり茂みを掻き分けて走り寄った。
「うお!? おま、なんつーとこから出てくんだ」
「……え、と…秘密のトンネル?」
なんだそれ、と渋面をつくった彰人がこはねに持っていたものを押し付けてくる。咄嗟に受け取ったそれは神高のブレザーだった。
「着とけよ。少しは誤魔化し効くだろ」
「わ、ありがとう…!」
制服の上にカーディガンもパーカーも着ないこはねはどこからどうみても宮女生でしかなかったが、神高のブレザーにセーラー服の襟を納めてしまえば――少なくとも後ろ姿は――神高生に近づける。
ほっとしながら受け取ったブレザーを広げようとして、肩に掛けたままのバッグの存在に固まった。とりあえずスマホをしまって、ブレザーを着る間は地面に置いておけば――
「――あっ」
「お前、荷物こんだけか?」
ひょいと持っていかれたこはねのバッグが彰人の肩に掛けられる。
あまりにスムーズな動きに呆然としていたこはねに、なんだと言いたげな表情を返されて咄嗟に首を振った。
「あの、ありがとう」
「あ? なにが……」
こはねがバッグを見たことに気づいた彰人が言葉途中で顔をしかめる。
「絵名……姉貴のせいでついたクセみたいなもんだから気にすんな」
彰人はそう言いながら不本意な様子でため息をついて、振り払うようにひらひらと手を動かした。
クセだと言われても、こはねが彰人の優しさを感じたことは事実だ。こはねはにこにこしながら頷いて、改めて借りたブレザーを広げる。
服の向こうにいる彰人ごと視界に入れて、こはねはようやく彼がブレザーを脱いでいることに――いま借りたこれが、彼のものであることに気づいた。
戸惑いつつ、役得かもしれないと喜ぶこはねが顔を出す。けれど、この状況で喜ぶべきではないと浮かれそうになる気持ちを強引に押し戻した。
とはいえ落ち着かないことに変わりはなく、そわそわしながら袖を通す。案の定というべきか、こはねにはだいぶ大きかった。スカートまですっぽり覆う丈に、指先まで隠れる袖。ふわりといい匂いまでする。
照れを誤魔化すように、こはねは両腕を広げて彰人に見せた。
「大きいね」
「…………ま、お前チビだしな」
じっとこはねを見守っていた彰人はフイと視線を反らし、首元をさすりながらスマホに目を落とした。
「あ、東雲くん、私のバッグ――」
「げ」
「? どうしたの?」
「杏がうるせえ」
言いながら彰人がスマホの位置を下げてこはねの方へ傾ける。見てもいいのだろうか。
ためらいがちに近寄って覗き込めば、グループで作ったトーク画面に杏のアイコンと吹き出しがずらりと並んでいた。
ぽつぽつ挟まっている冬弥の吹き出しは、連投している杏をなだめているように見える。
「……お前、迷子だって言ったきりだろ」
「あ!」
「オレも状況投げてねえしな」
彰人は一つ息を吐き出してカメラアプリを立ち上げると、自撮りモードにしたそれにこはねを収めてシャッターを切った。
――カシャ。
間近なところから聞こえたシャッター音にハッとしたときには既に写真が投稿されており、“別棟の裏でこはね確保”と彰人の吹き出しが続いた。
「し、東雲くん!」
「……既読つかねえわ。まだ委員会か?」
「うー…」
トーク画面に残されたこはねは何が起こっているのかわからないといった表情で(実際そのとおりだが)、いささか間抜けだ。事前に言ってくれればもう少しマシな顔ができたのに。
消してもらおうか逡巡するこはねに気づいたのか、消さねえぞ、と彰人の声が降ってくる。顔を上げれば楽しげに笑う彰人と目があった。
「報告は大事だろ」
「それは、わかるけど……せ、せめて撮り直し、とか…だめ?」
「…………しょうがねえな」
こはねは心底ほっとしながらスマホをいじる彰人に身を寄せる。
びくっと身体を震わせた彰人に驚いて瞬きをしながら見上げると「なんで」と呟かれた。
「東雲くん?」
「いや、なんでこっち来た?」
「え? だってもう一回…、あ」
さっき彰人は自撮りモードを使っていたが、報告に必要なのはこはねの写真だ。
先ほどの写真も彰人はほとんど見切れていたとはいえ、撮り直しでも同じようにする必要はない。
彰人もそのつもりでいたのだろう。距離を詰めたこはねに戸惑うのも納得だった。
「――まあいいけど。撮るぞ」
「う、うん!」
――いいんだ。
しかも、今度はちゃんと彰人も写ってくれるようだ。スマホを横向きに構え直す彰人が近い。
四角く切り取られた画面の中を見ていると実感が湧いてきて、こはねの心拍数と体温を上昇させた。
見慣れたセーラー服に馴染みのない紺色のブレザーが重なっていることや、いつもより一枚薄い――パーカー姿の彰人が珍しい。
そわそわする気持ちを落ち着けたくて、だぶつくブレザーの袖口ごと胸元のスカーフを握った。
「ん。これでいいだろ」
彰人の合図にあわせ、かろうじて笑顔で写れたものの(彰人は猫かぶりをするときに見せる完璧な笑顔だった)精神的には疲弊してしまった。
なんとか礼を伝えることに成功したこはねは、彰人からバッグを引き取り自分のスマホを取り出した。
トークアプリの未読メッセージ数が見たことのない数字になっていて、思わず息を呑む。グループの方(さっき彰人に見せてもらった杏の連投)も気になるが、倍くらい溜まっているえむの方も気になる。
少しだけ迷ったものの、こはねはえむとのトーク画面を先に開いた。たくさんの吹き出しとスタンプが入り乱れて並んでいる。
――はぐれちゃってごめんね!
――こはねちゃんいまどこ?
――まだお話し中だけど、大丈夫?
目についたフェニーくんのスタンプが全力でこはねを心配している。
他のメッセージから察するに、えむはこはねを探そうとしてくれていたようだ。もどかしげな様子も伝わってくるから、飛び出す前に彼女の仲間に止められたのだと思う。
定期的に挟まっている「不在着信」の吹き出しも相まって、はやく大丈夫だと伝えなければと焦りを感じながら彰人を見る。問うような視線に“電話してくる”と口にする直前、頭上から声がした。
「おーい、東雲ー」
こはねがびくっと身体を震わせたのと、彰人の手で引き寄せられたのはほとんど同時だった。
腕を引かれ、彰人の胸に額をぶつけたこはねは状況がさっぱりわからず混乱し、ぐっと肩を抱く力の強さに戸惑って一瞬息を止める。
ブレザーからしたのと同じ匂いがすぐ近くからするばかりか、頬に触れる布地とそこから伝わってくる温かさが彰人との近さを教えてくる。
「じっとしてろ」
ぼそりと呟かれた言葉に頷いたのは反射的なもので、声を漏らさなかったのが不思議なくらいだった。こはねの頭の中では“どうしよう”だけがひたすらぐるぐる回っている。
「さっき変人ワンツーがお前のこと探してたぞ~。場所教えていい?」
「よくねえわ。やめろ」
ドクドクと脈打つ心臓の音が近い。耳鳴りのように響く心音と鼓動の激しさが彰人に伝わってしまいそうで身じろぐと、咎めるようにこはねを抱きしめる力が増した。
こはねは口から飛び出そうになった声を唇を噛むことで堪えたが、代わりに息がうまくできなくて苦しくなってしまった。
彰人の声を遠くに感じつつ、ゆっくり息を整える。耳の先がどんどん熱くなっていくのがわかるのに、今のこはねにそこを隠すすべはない。
浮いたままだった両手で彰人のパーカーを掴みながら、気づかれませんようにと祈ることしかできなかった。
◆◆◆
「てか東雲はそんなとこでなにしてんの」
窓枠に腕を引っ掛け、彰人(とこはね)を見下ろしているのは彰人の級友だ。
パッと見ただけならこはねが宮女生だとは気づかれないだろうが、明らかにサイズの合わないブレザーを着ているし、あまり長時間見られるのはまずい。
彰人はできるだけこはねを隠しながら顔をあげ、不敵に見えるようにと念じながら笑みを浮かべた。
「――見りゃわかんだろ。野暮なこと聞くんじゃねえよ」
「は…? あ!? やだお前ひとりじゃないなら早く言えよ! 俺完全にお邪魔虫ってやつじゃんごめんね!!」
慌てて頭を引っ込める級友を見送って、彰人は大きく息を吐き出しながら身体の力を抜いた。
「……はあ。焦った」
とにかくこはねを隠さなければと思ったはいいが、彼女を抱きしめたことで彰人自身の緊張感が無駄に高まったのは確かだ。
腕を引いたときの軽さ、抱き寄せた華奢な肩。鼻先を掠める甘い香り。
やたらと大きく跳ねた心臓を意識しないために視線を上げたのに、こはねがもぞもぞ動くから意識せざるを得なくて押さえつけてしまった。
会話で誤魔化そうとした結果、暗にいちゃついている最中だと宣言したようなものだが――ふたりはチームメイトだ。
彰人のほうにはいずれ現実にしたい気持ちがあるけれど、それをこはねに伝えたことはない。
こはねにとって、今の彰人の行動はどう映ったのだろう。
誤魔化すためだったと言えば、彼女はあっさり信じるに違いない。しかし、それを機転が利いたからだとか、誰が相手でも同じことをすると受け取られるのは気に入らない。
彰人があれこれ考えている間も、こはねがおとなしいことに気づいて視線を下げる。
視界に入ったのは彼女の肩を抱いたままの自分の腕だ。
無意識に離すまいとしていたようで、なんとも言えない気持ちになりながら彰人はぎこちなく腕を外してこはねを解放した。
「悪い、苦しかったろ」
「ぜんっ、全然、あの、いい匂いが、」
「は!?」
「ひゃああ! ちがう、ちがうの、ごめんね!」
ぶんぶん勢いよく首と手を振ったこはねが顔を覆って俯く。うう、と呻いている彼女の耳は可哀想なくらい真っ赤だった。俯いたことでちらりと見えたうなじの辺りまでもが薄っすらと色づいている。
それを認識した瞬間どくりと心臓が跳ね、声を出しそうになった彰人は反射的に口を押さえながら視線をずらした。
こはねは杏とくっついているときも頻繁に照れているが、ここまでじゃない。ちゃんと意識されているということだけれど――彰人以外が抱きしめても、こはねはこうなるのだろうか。
モヤモヤしたものを胃のあたりに感じながら、彰人はぴくりと動いた指先を握り込む。そうすることで、こはねをもう一度抱き寄せたくなる衝動を逃した。
「わた、私、えむちゃんに電話するね」
「…ん。わかっ――まて、ちょっと待て、こはね」
彰人が止めたときには既に遅く、こはねはスマホを耳に当てて、どうしたのと言いたげな眼差しを彰人に返したところだった。
いまだに頬が染まったままなことに気を取られそうになったが、こはねが電話を掛けると言った相手は、先ほど彰人を探していたらしい“変人ワンツー”の仲間じゃなかったか。
居場所を誤魔化した意味がなくなるのでは、と脳裏をよぎったが、同時にあの先輩ふたりがこのタイミングで彰人を探していた理由にも思い当たってしまった。
おそらく、彰人にも協力させてこはねを探そうとしていたのではないだろうか。
「あ。もしもし、えむちゃん――」
『こはねちゃん!! よかった~! ごめんね、あたしこはねちゃんとはぐれちゃったの気づかなくて……一回戻ってみたんだけど、見つけられなかったの。それでね、みんなにお願いして』
『こらえむ! 一方的に話してないで相手の話を聞け!』
繋がったと同時に飛び出てきた大音量に驚いたらしく、こはねがスマホを浮かせる。
彰人のところまで届いた音声には確実に司のものが混じっていて、彰人の想定――変人ワンツーの仲間では?――を確信に変えた。
「ありがとう、えむちゃん。大丈夫、東雲くんが助けてくれたんだよ。……うん、そうなの」
ふにゃりと表情をゆるめ、通話を続けるこはねが胸元のスカーフをいじるのが目に入る。
たっぷり余っている袖から少しだけ覗く指先。彰人の制服を着ているこはね。
ブレザーを貸した理由が宮女のセーラー服を隠すためなのは嘘じゃないし、実際に役立った。けれど、こうして目の当たりにすると体格差が際立ってなかなか心臓に悪いものがある。
(……まあ、撮ったけど)
あれは運が良かったと思う。こはねから寄ってきたことに動揺したうえ、そのまま撮影してしまったのだけはいただけないが。
トークアプリへ写真を投稿したあとの反応はまだ見ていないけれど、またもや杏が荒ぶって連投していそうな予感がする。
「東雲くんに? うん、わかった」
「……なんだ?」
「えむちゃんが代わってほしいって」
彰人とは大して交流がない相手のはずだが、なぜ。
疑問符をたっぷり浮かべつつこはねからスマホを受けとって応答すれば、向こうからは「やあ」と男の声がした。
「……なんすか」
『フフ。予想と違ってびっくりしたかい?』
「そういうのいいんで」
『つれないなあ』
自然と低くなった彰人の声に反応して、こはねが不安そうな顔をする。「えむちゃんなんて?」と小声で聞いてくるので、スマホを耳から離して通話をスピーカーに切り替えた。
『――あれ、聞こえてないのかな? 東雲くーん』
「聞こえてます」
『よかった。君たちの現在地を知りたくてね。東雲くんに聞いたほうが早そうだったから代わってもらったんだ』
「別棟の裏ですけど……こんな情報、何に使うんすか」
『試作したドローンのテスト運転をさせてもらいたかったんだよ――うーん……ああ、なるほど……こっち側にいたのか。確かに穴場だねえ。あっ、ちょっとえむくん!?』
『ええい、他校生が堂々とうろつくなとあれほど――』
『司、早く! わたしじゃえむに追いつけない!』
急に声が遠ざかり、向こうがバタつく気配が伝わってくる。
直後、類は彰人たちの都合も聞かず「今から行くよ」の一言を残して通話を切った。
彰人が思わずこはねを見ると、彼女は通話を通した空気にあてられたのか口元を押さえて不安げにしていた。
「……こっち向かってそうだったし、待ってたらいいんじゃねえの」
「うん。あの…できれば、東雲くんも一緒に」
「こんなとこに放置するわけねえだろ」
なにを当たり前のことをと態度で示せば、あからさまにホッとしたこはねが表情を和らげて胸を撫で下ろす。
今日だけで何度聞いたかわからない彼女からの「ありがとう」に対し、彰人は吐息混じりの苦笑とともに相槌を返した。
待っている間、冬弥と杏に続報を投げておいたほうがいいかと思い立ち、こはねにも伝える。頷いたこはねがスマホの画面に触れたのを横目に彰人も自分のスマホを取り出そうとしたが、直前に聞き覚えのある声を拾った。
まだ距離はありそうなのに「止まれ!」やら「こら、待てえむ!」やら叫んでいるのがわかる。あの先輩は普段からうるさいが、肺活量に関しては素直にすごいと感心する。
「……こはね、来たぞ」
「え?」
彰人よりも先に気づいているかと思ったが、こはねはスマホのほうに集中していたようできょとんとした顔をしていた。
視界の端――別棟の角からぴょこっと人影が覗く。建物の影で見づらいが、小柄でスカートだから確実に司ではない。
彰人は警戒しながらこはねとの距離を詰めたが、「こはねちゃん!」と司に負けないくらいの大きな声が響いたことで警戒を解いた。
そちらに背を向けていたこはねは驚いたらしく、小さく肩を跳ねさせる――だから来たと言ったのに。
彰人はその様子に笑ったものの、こはねが振り返る前にダッシュで近づいてくる声の主の勢いを見て、笑っている場合ではなくなった。
「やっと会えた~!」
「ひゃあ!?」
「ぐっ、」
突然飛びつかれ、対応しきれなかったこはねが足をもつれさせて彰人の方へ倒れ込んでくる。
実質女子ふたり+こはねの荷物を支えることになった彰人は、衝撃に息を詰めた。
間に潰されたこはねがむぐ、と苦しそうな声をあげ、飛びついてきた宮女生――えむは「わっ! ごめんね!!」と慌てた様子で謝りながら飛び退いた。
「……まったく。だから止まれと言ったろうに」
「ごめんなさい……こはねちゃん、大丈夫?」
彰人を支えにしてぶつけた鼻をおさえていたこはねは、しょんぼりと肩を落としている彼女に微笑むと「だいじょうぶ」とくぐもった声で返事をした。それを待っていたかのように、司の説教めいた小言が続く。
彼らの様子を横目に、こはねは彰人を見上げて礼を言った。
礼はわかったから、こはねは早いところ現状を把握すべきではないだろうか。
ぴったり密着したまま、のんきに「びっくりした」などど呟かれては彰人が大丈夫じゃない。
(……抱きしめてやろうかこいつ)
今なら冗談だとか、えむにつられての行動だとか、言い訳が通じるかもしれない。
――そんなわけがないのに、彰人は自分からこはねを引き剥がすこともできずに葛藤する。そうしているうちにばっちりと目が合って、こはねはようやく彰人に抱きついていることを認識したらしかった。
びくっと身体を跳ねさせて、彰人を見つめたままじわじわと頬を赤く染めていく。
間近でその変化を目の当たりにした彰人は、ぷつん、とどこかでなにかが切れた音を聞いたような気がした。
こはねの腰に腕を回し、赤い顔を覗き込む。
彰人の影がこはねに落ちたことで、頬の赤みがわかりづらくなったのを少しだけ残念に感じた。
親指でそっと頬に触れれば肌の柔らかさとともに熱が伝わってくる。この柔らかさに噛みつきたくなる衝動はなんなのか……かじったら甘いかもしれないと、思ったからだろうか。
「え、え……? 東雲くん…?」
「……嫌か?」
「っ、あ、の……待って、」
「オレに、こういうことされんの嫌?」
驚きで見開かれた瞳が水気を多く含んで揺れている。
内緒話でもするように声を潜め、嫌かと尋ねておきながらそれを肯定させる気などなかった。現にこはねは赤くなるばかりで彰人を拒絶する気配がない。
わずかに開いたままの唇を震わせて、浅い呼吸を繰り返している彼女が目を逸らさないのをいいことに、頬から滑らせた手で耳に触れる。
びっくん、と大きく跳ねたこはねが口と両目を閉じたけれど、彰人はこはねから言葉を引き出したくて、吐息に乗せて彼女を呼んだ。
赤い顔はそのままに、睫毛が震えてゆっくりとまぶたが上がるのをじっと見つめ――
「たっ、たたた、たのもーーーう!!」
「道場やぶりかな?」
突然の大声に驚いた彰人は、こはねを抱えるようにして勢いよく声の発生源を見た。
両手で口を押さえている宮女生と、彼女の横でロボットに寄りかかってぐったりしている冬弥のクラスメイト、類に抗議している司――いつのまにか人数が増えているのも含め、完全に頭から抜け落ちていた。
「なにか声をかけろと言ったのはお前だろうが!」
「司くんもえむくんも硬直していたから、僕なりの助言だったんだよ」
「ええい、もういい! あー…、その、彰人。そういったことはもっとこう、秘密裏にだな」
「…………そうっすね」
遠回しに、気遣うように言ってくる司に居たたまれなさが増す。
平常時ならばもう少し口が回ったのだろうが、今の彰人は片手で顔を覆ったまま、かろうじて返事をすることしかできなかった。
こはねを解放してその場にしゃがみ、長々と息を吐き出す。熱に浮かされていたとしか言いようがない。
「あの、東雲くん」
「……あとで仕切り直しさせろ。悪かったな」
「で、でも、一つだけ、言わせて」
少しひとりにしてほしいのだが、彰人の心情を知ってか知らずかこはねが彰人に合わせてしゃがむ。
ブレザーの裾を引きずらないようにするためか、やたらと丁寧に足に巻き込む動きが印象的だった。
「……あのね、いやじゃ、ないよ」
「っ、」
「東雲くん、だから」
ただでさえ呟きに近かった声量がさらに小さくなる。反射的に顔を見ようとしたが、彼女は完全にうつむいてしまっていて表情はわからなかった。
代わりにさらされたままの耳が真っ赤で、先ほど触れて確かめた温かさを思い出す。じわじわと彰人自身の耳まで熱くなる感覚に声が出せないまま、こはねは「それだけ」と言いおいて逃げ出すように友人を呼びながら立ち去った。
「ではえむ、ここからは手筈どおりに頼むぞ」
はい! と元気よく返事をしたえむが司に向かって敬礼ポーズを取る。
訝しげにしていた彰人に近寄ってきた類が言うには、神高に侵入したときに使った経路から一度敷地外へ出て、改めて正門まで回り込んでくるらしい。
最初からそうしろ、と喉元まで出かかった言葉を飲み込んだのは、今日のこはねとのあれこれが脳裏を過ぎったからだ。意図せず他校の敷地内に迷い込んだこはねは不安が大きかっただろうが、彰人にとっては諸々役得だった。
「え、えむちゃん……ここ?」
「うん! ほら、隙間の形がトンネルみたいでしょ?」
「えむ……あんたこんなとこ通ってきたの? 小豆沢さんも?」
「ううん。私はえむちゃんとはぐれたあと道間違えちゃったみたいで……あっちの方から出たよ」
「いや…道とかないでしょこれ」
女子三人が屈んで確認している先はどう見ても低木の茂みでしかない。
あれだけ低い位置だとしゃがまないと通れないし、小柄でないと引っかかるだろう。
「うーん。さすがに僕は無理そうだ」
「通ろうとするな」
「それじゃあ、こはねちゃんいこ!」
言うなり、えむがこはねの手を握る。慌てたこはねが一度えむを止めて、彰人の方へ寄ってきた。
「制服返さなきゃ」
「あとでいいって」
「……ううん。汚しちゃいそうだもん」
こはねはわずかに迷う素振りを見せたものの、肩にかけていたバッグに手を掛ける。腕に移ってきたそれを彰人が引き取ると、嬉しげに笑いながら礼を言われた。
「なんだよ。さっきもやっただろ」
「うん」
彰人にとっては礼を言われるようなことじゃないと思っているから、なんとなく落ち着かない。
しかし、喜ばれて悪い気はしないので、姉の買い物につきあわされ荷物持ちをさせられた経験も無駄ではなかったようだ。
「どうもありがとう」
「……おう。どういたしまして」
何度も聞いた礼の言葉と返ってきたブレザーと引き換えに、こはねのバッグを渡す。
また後で、と手を振って背を向けるこはねを見送りながら戻ってきたばかりのブレザーを羽織ると、ふわりと甘い匂いがした。
ぎくりと身体が強張ったのは、それがこはねを抱き寄せたときのことを思い出させたからだ。
(……匂い移ってんじゃねえか)
芋づる式に色々と浮かんでしまい、荒ぶる心音は落ち着きそうもない。
とりあえず“仕切り直し”をするなら早いほうがいいだろうと思いながら、彰人は茂みに潜っていく宮女生ふたりを送り出す光景を遠巻きに眺めていた。
ALL 短編
13124文字 / 2022.03.13up
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