オオカミの巣穴へようこそ
鼻先をふわりと掠めた甘い香りに誘われてまぶたが震える。
昨日は相棒――冬弥とともに夕方まで狩りをして、その後は休憩を挟みながら明け方近くまで鍛錬に費やし、帰ってきたのが数時間前。諸々を済ませてベッドに入ったばかりだというのに。眠気よりも玄関先から香ってくる好物への関心が強いせいで目が冴えてしまった。
扉の前まで来ておいて、ぴたりと止まったまま微動だにしない客人はノックをするかどうかで迷っているらしい。
(……こはねのやつ、なにしてんだ)
上体を起こしつつ頭を掻き、扉を眺めたところでようやく動きがあった。
――コン、コン、コン。
ノックの間隔と響く音の小ささに、思わず笑い混じりの吐息がこぼれる。
[[rb:開 > あ]]いてる、とノックの主へ声をかけながら脳裏をよぎったのは、彰人の手ですっぽりと覆える大きさの拳、白くて柔らかな手のひら。最近の彼女は薬草採りに精をだしているせいか、[[rb:細々 > こまごま]]とした怪我をしていることもある手だ。かすり傷や切り傷を見るたびに、舐めて口に含みたくてたまらなくなる細い指。
「東雲くん、おはよう」
キィ、と遠慮がちに開かれたドアからひょこっと顔をのぞかせた幼馴染は「入ってもいい?」と小さな声で訪ねてきた。
おう、と相槌を返したあと、あくびをしながら立ち上がる。こはねが半端に押し開いたままのドアを引いて、彼女を迎え入れた。
「――うまそうなにおい」
「ふふ、東雲くんのお母さんからだよ。私のお母さんからも」
両手で籠を掲げ、彰人を見上げてくるこはねは「私も手伝ったの」と付け加えながらにこにこ機嫌よく笑っている。
彰人は屈んで彼女の首元へ顔を寄せ、すん、と鼻を鳴らした。彰人の“好物”は、今日もおいしそうな匂いがする。
「東雲くん?」
「……んー、いつ食えるかなって」
「お母さんたちは早めに食べてって言ってたよ」
こんな行動を起こしても、こはねは彰人が食べたいと思っているものに気づかない。それをいいことに、彰人は会話が成り立つように調子を合わせて笑う。こはねから籠を引き取りつつ彼女を室内へ誘導すると、扉を閉めて鍵を掛けた。
「あれ……東雲くん、もしかして起きたばっかり?」
「つーか、少し前に帰ってきたからあんま寝てねえ」
普段よりも動きの鈍い彰人の様子で察したのか、こはねが首を傾げて聞いてくる。籠の中身――朝食になりそうなもの詰め合わせ――を確認し、キッチンのほうへ運びながら返事をすれば「えっ!?」とこはねが焦りを滲ませて寄ってきた。
「ご、ごめんね。荷物置いたらすぐ帰るね」
「ちょっと待て、お前これから草採りに行く気だろ。オレもついてくからな」
彰人の母(とこはねの母)から彰人への差し入れ品を運んでいた籠は、こはねが薬草採りをする際にも使っているものだ。彰人の横から身を乗り出し、籠を空けようとするこはねを邪魔しながら言うと、彼女はぱちぱち瞬いて悩ましげに口元へ手をやった。
「うーん……嬉しいけど……」
「けど?」
「今日は森の奥まで行かないから、ひとりでも大丈夫だよ」
「駄目だ」
「……じゃあ、絵名さんに一緒に行ってほしいってお願いしてみる」
「あいつが動くわけねーだろ」
――と、断言したものの、こはねに対しては甘い絵名のことだ。
仮に彰人が頼んだとしたら(そんな機会があるのかすら不明だが)ほぼ確実に「は?」「めんどくさい」「嫌」で終わることでも、こはねのために重い腰を上げるかもしれない。
しかし、そんなことをわざわざ伝える必要はないだろう。こはねの護衛としてついていくのは自分だけでいい。
彰人の返しを聞いてもこはねは曖昧に言葉を濁し、考え込む様子を見せる。いつもなら笑顔で「ありがとう」と言って素直に受け入れるくせに。
どうにかして彰人を置いていく理由を絞り出そうとしているように見えて、胸の奥にモヤモヤと不快な感情が湧いた。
「……オレがついてったらまずいのかよ」
「だって、東雲くん帰ってきたばっかりって言ってたでしょう?」
こはねはへにょりと眉を下げ、心配だと言いたげな顔で見上げてくる。それを裏付けるように「ちゃんと寝てほしい」と弱々しく付け足され、ぐっと喉が詰まった。こはねが自分の都合よりも彰人を優先して気遣っていることが嬉しくて、胸の奥にあった不快感はあっさりと多幸感へ上書きされた。
不意に伸びてきた指先が彰人の頬に触れる。顔色でも確かめようとしたのだろうが、彰人は自分の手を重ねながら彼女の手のひらへ頬をこすりつけた。これまで何度も繰り返してきたせいで、条件反射になっている動き。
普段なら、こはねがくすぐったいと笑うところを見て、満足感を味わってから解放するのが常だ。
以前は大型犬にじゃれつかれた程度の反応しか見せないこはねに対して、自分はオオカミだという主張や不満をぶつけていた時期もあったが――それを利用する強かさを身につけた彰人は、文句を言うよりもこはねに触れる頻度を上げることにした。
身体を寄せ、手を繋ぎ、抱きしめる。次第に縮まっていく距離や触れる場所が増えることに、こはねが違和感を覚えないよう時間をかけて、少しずつ。
――今日も、こはねが可愛らしく笑うのを見たら手を離す気だった。それなのに、こはねの手に微かに残る生クリームとフルーツの甘い香りに惹かれ、気づけば手のひらの柔らかな部分に唇を寄せていた。
(……やべ)
ちゅ、と吸い付いてしまったあとで、やらかしたことを自覚する。
今までは口づけたいと思っても、そこから先の行動は自制できていたのに。もしや寝不足なのが地味に響いているのだろうか。
急にこんなことをして、引かれたかもしれないと不安がよぎる。こはねがどう反応するのかわからず、ちらりと視線だけを向けた。
瞬きもせず固まっていたこはねは、彰人と目が合った途端身体を小さく震わせる。ひゅっと息を呑む音がして、ぶわりと顔を真っ赤に染めた。
「……こはね」
ドッ、と一度大きく跳ね、速度を上げた心臓の音がうるさい。それを無理やり意識の外へ追いやりながら呼びかけると、彼女は赤い顔のまま形のない音をこぼした。
こはねはただでさえおいしそうな香りをまとっているのに、ますますおいしそうになっている。
赤く色づく頬や潤んで揺れる瞳、母音しか出てこない口が小さく動くことさえも可愛くてたまらない。
彰人はごくりとつばを飲み込んで、彼女の反応を確かめるために再度こはねの手のひらへキスをした。
「ひゃっ!?」
びくっと跳ねたこはねが羞恥と戸惑いに満ちた目を丸くして、彰人を凝視している。そこに嫌悪感は感じられず、彰人を振り払うような素振りもない。
「し、しののめくん……?」
彰人を呼ぶ声が震えているのを聞きながら、今度はしっかり唇を押し付けて舌先を触れさせた。
「んっ」
小さく跳ね、ぎゅっと両目を閉じたこはねが縮こまる。彼女が空いた手で胸元を握るのを見つめていた彰人は、自分の限界を悟った。
「……我慢とか、もう無理だわ」
「え――」
喉を鳴らし、握りっぱなしだった手を引く。よろめく身体を支え、華奢な腰を抱き寄せて、彰人はこはねの唇にかぶりついた。
「ん、ぅ……!?」
ふにゃりと触れ合った柔らかさと、こはねから漏れ出た音に背筋が粟立つ。ぞわ、と毛が逆立ち、体内の血液が熱くなった気がした。
「ふ……、んん」
柔らかい唇を食むたび、こはねが震えて声を漏らす。かたく引き結ばれた唇をべろりと舐めれば、びくっと大きく跳ねた。
「……かわい」
「っ、はぁ……、ど、して……」
戸惑いから抜け出せていないらしいこはねから出た問いかけに、なぜそんなことを聞くのかと返しそうになった彰人は、再びこはねに触れる直前で固まった。
こはねへの態度や周りへの牽制がわかりやすいと周囲から言われることは多々あれど、こはね本人に対してはっきり言葉にしたことはなかったと気づいたからだ。
こはねから彰人への好意が存在することは知っている。しかしそれは身内に対するものに似て、自分と同じではない。その事実を突きつけられるのが嫌で、避けていた部分もあった。
「――こはねが好きだから」
間近にある丸っこい瞳を見つめ、彼女の疑問へ答えを返す。
息を呑み、じわりと頬の赤みを濃くさせるこはねは、きちんと彰人の“好き”を理解してくれたらしい。
(……まあ、キスまでしたもんな)
それも誤魔化しの効かない唇へと噛みついたのだから、伝わらないほうがおかしい。
もぞりと身じろいだこはねは目を泳がせてオロオロしている。
なにか言いたいけれどどう言えばいいのかわからない、彼女のまとう雰囲気や表情でそれを読み取った彰人は、こはねのわかりやすさに思わず笑ってしまった。
とりあえず落ち着けとこはねを抱き寄せ、ぽんと軽く背を叩く。彼女の頭に頬を寄せると、髪を覆っている布につけられた花の飾りが首を掠めて、少しくすぐったかった。
「なんでもいいから、思ってること言ってみろよ」
わずかな沈黙を経てこくりと頷いたこはねは、それじゃあ、と前置きして彰人の肩へ額を押し付けた。
「……あの、さっきの、すごくびっくりした」
「キス?」
「う、ん……わ、私、初めて、だったのに」
ぼそぼそと消え入りそうな声で訴えてくるこはねに、悪いことをしたと感じたのはほんの一瞬で、彰人の脳内ではぐっと拳を握って喜んでいる自分が大半を占めている。返せるものでもないし、お互いさまということで許してくれないだろうか。
「――た、食べられるかと、思った」
「……いや、まだ味見ですらねえだろ」
「えっ」
うっかり割り込んでしまったせいで、こはねがどういう意味かと見上げてくる。
彰人は衝動のまま彼女の目元へ口づけて、目を丸くしたこはねが瞬きのあと瞬時に赤くなる様を見た。
「こはね……お前、嫌ならはっきり言わねえとオレ調子に乗るからな」
「え、と…?」
「キスしたい。さっきのじゃ足らねえ」
手のひらでこはねの頬を包み、上向かせながら告げる。
こはねは自分の身に起こっていることの整理が追いついていないのか、たらない、とたどたどしく彰人の言葉を繰り返していた。
「――好きだ」
「っ、」
「ずっと好きだった。お前が、オレのこと犬だと思ってたころから、ずっとだ」
わんちゃん、と嬉しそうに彰人を呼んで、耳や尻尾に[[rb:触 > さわ]]りたがっていた幼いこはねの姿を思い出す。同時に、苦手にしている犬と混同されたことへの憤りが先行して、彼女を泣かせた自分のことも掘り起こしてしまった。黒歴史として封印してしまいたいのに、あれがこはねを意識するきっかけになっているせいで忘れられない。
自嘲混じりの苦笑を漏らしながらこはねの頬を撫で、細い首へと滑らせる。小刻みに震えたこはねから「ん」と艶めいた声がしたことで思い出は霧散し、目の前のこはねしか目に入らなくなった。
「わた、し……私も、東雲くんのこと、好きだよ。でも、東雲くんと同じかは、まだ……わからなくて……」
言葉の先を言い淀む様子に、彰人にとっては都合の悪いことかと身構える。
結論が出るまで距離を置きたいとか、触れないでほしいとか、予想できるのはその辺だ。
ぎゅう、と彰人の服を握りしめ、俯いてしまった彼女にふっと息を吐き出す。なにを言われても諦める気はまったくないのだから、考えても無駄だ。今までこはねを囲い込むためにしてきた行動が、ほんの少し変わるだけ。
「こはね。オレのことは気にしなくていいから言えよ」
「……改めて言うの、恥ずかしいんだよ」
「は? 恥ずかしい?」
「その……東雲くんと、キスは……嫌じゃなかったから……だから、また……うぅ~~~」
限界だと言いたげに彰人のほうへもたれ掛かってくるこはねを支え、反射で腰に手を回す。なだめるように、ぽんぽんとそこを叩いていた彰人は、こはねの言葉を反芻し、意味を理解したと同時に固まった。
彰人の予想と真逆どころか、数段上でも飛びこえていそうなことを言われた。
(……キスしていいとか、オレとすんの嫌じゃねえとか、もうわかってるようなもんじゃねえの?)
高まる期待感にドクドクと鼓動が激しくなり、尻尾が揺れる。
何度考えてみても自分と同じ恋愛感情としての“好き”だと思うが、彰人だってこはねからは身内的な好意しか向けられていないと思っていたのだ。こはねが自分自身と向き合って、確認する時間も必要なのだろう。
気持ちを伝えたうえで、こはねは彰人が触れることを嫌がらない――今は、それで十分だ。
こはねを抱きしめて、頭に顔をこすりつける。その拍子にこはねが頭につけていた布がずり落ちたから、彰人はそれを回収しながら彼女の髪へ口づけを落とした。
「こはね」
呼んでもびくりと跳ねるだけで、俯いたままのこはねに笑いが漏れる。恥ずかしくて顔を合わせづらいのはわかるが、彰人は自分のことを意識しているその顔が見たかった。
「ひゃっ!?」
腰を掴んで持ち上げたこはねを覗き見れば、赤い顔でうろたえつつも彰人を真っ直ぐ見返してくる瞳にぶつかる。微かに震える「東雲くん」からも羞恥が感じられたことがたまらなくて、彰人はこはねを降ろすと同時に唇を塞いだ。
軽く触れるだけにして離れると、目を見開いたこはねが音もなく口をぱくぱくさせている。
「していいんだろ」
「さ、先に、言って――んむ、っ!?」
ぱくりと小さな口に噛みついて、わずかな隙間から舌をねじ込む。
びくついた身体を押さえ込むように抱きしめた彰人は、こはねの後頭部へ手を添えて固定しながらより深く唇を合わせた。
甘い、柔らかい、気持ちいい。息が苦しくなって離れるたび、こはねがこぼす声にゾクゾクする。もっと聞かせてほしいと思うのに、キスが気持ちよくてやめられない。
「――ぷはっ、はぁ、は、ぁ……ふぁっ!?」
がくりと膝を折るこはねに驚きながらも、咄嗟に彼女を腕に抱えて一緒にしゃがむ。
膝に乗せたこはねは両手で口を覆い、浅い呼吸を繰り返しつつ彰人に寄りかかった。
彰人はそんな彼女を両腕で囲い込み、余韻の残る唇を舐める。
(すげえ……)
それしか言葉が浮かんでこない。ドクドクとうるさい心臓の音がやけに響くし、頭がくらくらしていた。
こはねが腰を抜かさなければ、まだ、もっと、と際限なく求めていたに違いない。
今だって離れたばかりなのに、また触れたくなっている。
「……さっきと、」
「こはね?」
「ぜ、ぜんぜん、ちがう」
頬を染め、困惑に揺れる瞳が彰人を映す。ただでさえ触れたくてたまらないのに、そんな顔で試すようなことを言わないでほしい。
迷ったのはほんの数秒で、彰人はこはねの口元に添えられた手を握りしめると唇を触れ合わせ、小さくリップ音を鳴らした。
「……こっちのが好きってことか?」
「す!? すき、とかじゃ、なくて、」
「オレはどっちもしたい」
「う、うぅう……」
こはねは顔を覆って俯いてしまったけれど、隠せていない耳は真っ赤になっている。
うまそう、と喉を鳴らした彰人は、身体のほうからも空腹を感じて笑いそうになった。すっかり忘れていたけれど、今日はまだ朝食すら摂っていない。
「こはね、飯食うから付き合ってくれ」
「……うん。東雲くん、寝なくていいの?」
「眠気飛んだ。立てるか?」
「う、うん。だいじょうぶ」
よろよろしながら立ち上がったこはねが、今度は彰人に手を差し出してくる。
彼女の力で彰人を引っ張り上げるのはとっくに難しくなっているのに、幼いころから変わらない行動が嬉しい。
彰人はこはねの手を掴んで立ち上がると、力負けしてふらつくこはねを支え、笑いながら礼を言った。
「……こはね。このサンドイッチなんか入ってんのか?」
「え?」
「お前さっきから見すぎ」
こはねが持ち込んだ籠の中身を朝食用に盛り付けている最中、視線が突き刺さってきて気になる。
ポテトサラダににんじんが混入されているのは見つけたが(こはねと一緒なら必ず食べるだろうという母の意図を感じる)、サンドイッチにも仕込まれているのだろうか。
それとも、こはねが用意したであろうフルーツサンドが崩れていないか気になるとかか。
「あの、ね……東雲くんの、お母さんに言われたこと、思い出して」
「あ? 母さん?」
ぽっと頬を赤らめるこはねは可愛いが、母からこはねへとは、なにか嫌な予感がする。
「東雲くんが、私のこと自分のだって思ってるって」
「……どういう流れでそんな話になったんだよ」
詳しく覚えていそうなのに、こはねは曖昧に笑って誤魔化す。彰人には話しづらいやりとりでもしたのだろうか。
ともかく、こはねにはいつも彰人の匂いがべったりついているが、それは同意のうえなのかを確認されたらしい。
「知らなかったって言ったら、びっくりされて……今日、東雲くんに聞こうと思ってたの」
彰人は寝不足によるやらかしから告白やらキスへと突き進んでしまったけれど、こはねのほうにも彰人を意識するきっかけがあったようだ。
答えが気になるのか、ちらちらと彰人を見てくるこはねに笑う。
「母さんも、なんで今さらそんなこと確認したんだろうな」
「?」
「言っただろ、ずっと好きだったって。こうやって――オレの匂いつけて、こはねが他のヤツに取られねえようにしてた」
こはねの腰を抱いて密着し、頭に頬をこすりつける。
彰人の“好き”に反応してじわりと赤くなるこはねを見ると嬉しくて、尻尾がうずいた。
顔を赤くしながらも、自分の匂いを確かめているこはねが不思議そうに瞬く。わからない、と残念そうに眉尻を下げるのが可愛くて、彰人は思わずこはねを抱きしめていた。
「こはね、キスしていいか?」
「え!? い、いま?」
「今。したい」
「……え、えっちなほう?」
――聞くな。
寸前で言葉を飲み込んだせいで、変にむせてしまう。上目遣いなうえ、真っ赤でぷるぷるしているこはねを見続けていると暴走しそうで、彰人は一度目を閉じた。
「エロくねえやつ」
「う、うん……」
なんだこの会話、とつっこみたくなるが、ぎゅっと胸元を握って彰人を見上げ、目を閉じる――キス待ち状態のこはねはきわめて可愛いし、興奮する。
“えっちなほう?”の問いに頷いていたら、おあずけでも食らったのだろうか。
舌を入れたくなる衝動を追いやりながらこはねの頬を包んだ彰人は、代わりに時間をかけて唇を食み、ちぅ、と音を鳴らした。
ふ、と吐息を漏らし、まつげを震わせるこはねを見おろしながら手を外す。
ゆっくりと持ち上がっていくまぶたと、彰人が映り込んでいる瞳を見つめて目元へ軽く口づけた。
こうして触れ合うことを許されているけれど、やはり彰人がこはねへ好きだと告げたのと同じように、こはねからも返されたい。
あと一歩のところまで来ているのはほぼ確実だ。今後はキスが許されていることも最大限利用して、こはねに自覚させる。
彰人はこれからのことを考えながら、とりあえず食事にしようとこはねの手を引いた。
まえの日のはなし+α
狩りに向かうという彰人を見送ってから帰宅したこはねは、籠に薬草をはじめとした傷薬の素材を詰めると隣家のドアを叩いた。
驚かせたくて彰人には伝えていないけれど、こはねは少し前から彰人の母に傷薬の作り方を教わっている。今日はいよいよ素材の準備から完成までをひとりで実践する日だった。
無事に合格がもらえたら、こはねの手作り第一号は彰人が出かけるとき一緒に持ち歩いてほしいと思っている。
狩りだ鍛練だと出かけて帰ってきたときの彰人は傷を作ってくることも多い。怪我をした彼を見ると慌ててしまうこはねのせいなのか、彰人はそれを隠しがちだ。
真新しい傷を見つけたときに手当てをしようとしても「舐めときゃ治る」と雑に扱うのを見ると悲しくなる。
せめてと自宅から持ってきた傷薬を塗ろうとしたら、思いっきり顔をしかめられ、ショックでなにも言えずに固まってしまったのは今思い出しても恥ずかしい。
『バカ、お前じゃなくてこっち』
固まるこはねにそう言って、彰人はこはねから取り上げた傷薬の蓋を閉めた。ぎち、と微かに音が聞こえるほど念入りに閉められた容器は遠くへ置かれ、代わりのように腕を引かれた。
リセット、とよくわからないことを言いながら肩に顔を押し付けてくる彰人はいつもどおりで、ほっと息を吐きながら力を抜いた。
ぱた、ぱた、とゆっくり揺れる尻尾が視界に映る。なんとなくそれを目で追っていたこはねは、ぐりぐりと頭をこすりつけてくる彰人がこぼした理由――においがキツいから使いたくない――を聞いて、納得しつつ記憶を探った。
彰人は身体を動かすのが好きだから、幼いころだってよく傷をつくっていたし、彼の母に治療されているところも見てきた。軟膏のような、クリーム状のものを使っていたはず。
家から持ってきていないのか尋ねると、彼はこはねの肩に顔を伏せたまま「使い切った」と返してきた。補充するのは面倒らしい。
それ以降、こはねのおつかいには彰人に渡す傷薬(彰人の母が調合したもの)が加わった。
『私にも、作れますか?』
彰人の母が小さな容器に薬を詰める様子を見ながら思わず聞いてしまったのは、こはねも作れるようになりたかったからだ。
もし作れたら、いつでも彰人の家にある救急箱に予備を入れておける。
こはねの言葉で手を止めてしまった彰人の母に、しどろもどろになりながら理由を話すと、彼女は優しく笑って肯定してくれた。
東雲家の調合レシピで作られる傷薬は、こはねでもわかるくらい香りが控えめだった。無臭と言っていいくらいかもしれない。
こはねの家にあるものはほんのりハーブの香りがするけれど、鼻の利く彰人はこはねよりももっと強くそれを感じてしまうのだろう。
(――うん。上手にできた)
こはねは完成したばかりの傷薬を自分の指先に塗ってみる。伸びは良いし、薬草を採取したときについた小さな切り傷はうっすら赤みが残る程度まで回復してくれた。一番の懸念点である匂いもない。
彰人の母が完成品を確認してくれるのを待つ間、ドキドキしながら手を組み合わせると、向かいで画材の調合――植物や鉱石から作れるらしい――をしていた絵名が楽しげに笑った。
「そんなに緊張しなくても、上手にできてるじゃん」
褒められたことで少し緊張が緩んだけれど、直後に「ね、お母さん」と彰人と絵名の母――こはねの先生へ答えを促すものだから、組み合わせた手に力がこもる。
そうね、と頷いた彼女は指で丸を作ると、こはねに向かってにっこりと笑顔になった。
「よくできました」
「わ……あ、ありがとうございます」
ほっと胸をなでおろし、ゆっくり息を吐き出す。合格がもらえた傷薬を見つめているうちに、少しずつ実感が湧いてきた。嬉しい。
彰人が携帯しやすいようにと用意しておいた容器を取り出して、薬を詰めていく。
気分が高揚して気づけば鼻歌交じりになっていたけれど、こはねにつられたのか絵名の鼻歌が重なったことで、ますます嬉しくなった。
「こはねちゃん、明日も彰人のとこ行くの?」
「はい。絵名さんも一緒に――」
「いや無理」
食い気味かつ簡潔な答えにスパッと一刀両断されるイメージが浮かぶ。
つい笑ってしまったこはねをよそに、絵名はすり鉢のような道具を使いながら、朝早いし、わざわざ会いに行く用事なんかないし、と少しずつ語気を強めていた。
「彰人のやつ、私にもマウント取ろうとするのがムカつく! あ、こはねちゃんそれ入れてくれる?」
「は、はい!」
「今は私のほうが一緒にいる時間長いからって~~!!」
勢いに押されるまま指示された素材を投入し、ガタガタ揺れる鉢がひっくり返らないように支える。
ふー、とため息に近いひと息と汗を拭う仕草、笑顔になった絵名の「手伝いありがと」から完成を察して鉢の中を見てみると、キラキラ光る粉末が積もっていた。これが絵の具になるというのだから不思議だ。
「喧嘩するならこはねちゃんのこと巻き込まないようにしなさいね」
「私じゃなくて彰人に言ってよ!」
「そうだ、彰人で思い出した。これこはねちゃんに渡そうと思ってたの」
そう言って、こはねの先生は手のひらに収まる程度の小瓶ふたつと調合レシピを持ってきた。
小瓶に入っているのは鮮やかなオレンジ色の液体だが、調合レシピがあるということはジュースではなくなにかの薬なのだろう。
素材はかろうじて読めるけれど、知らないものが多い。調合方法に至ってはこはねの技術ではまだ無理だということくらいしかわからなかった。
「お母さん、これなに?」
「避妊薬よ。ふたりで飲んでもいいけど、ひとりでも効果あるから――」
「ちょっ、ちょっとお母さん!!」
「びっくりした、どうしたの絵名」
「身内のそういうの知りたくない……っていうか! 彰人とこはねちゃんはまだそういうんじゃないから!」
ヒニンヤク。馴染みのない単語が咄嗟に変換できず、こはねの頭の中にはクエスチョンマークばかりが浮かぶ。
変換できたあとには戸惑いが大きくて、こはねは小瓶とレシピを手に固まってしまった。東雲親子がやり取りを続けている声は聞こえるけれど、それも上滑りして内容は理解できていなかった。
「絵名、認めたくないからって駄目。こういうのは大切でしょう?」
「認めないどころか私むしろ応援してるし」
「……でもあの子昔から……本当に? まだ?」
絵名が無言で頷くと、ふたりの視線がこはねのほうへ向けられる。
じっと見られるのが落ち着かず、目を泳がせていたら優しく手を握られた。
「こはねちゃんにね、“オレの”って主張してる彰人の匂いがべったりついてるの。それで……なんて言ったらいいのかしら。こはねちゃんも知ってるならいいんだけど」
唐突に思ってもみないことを言われ、何度も瞬きを繰り返す。
かろうじて「知りませんでした」と返しながらも、彰人の匂いがついているというところだけが妙に記憶に残った。
こはねはマントの合わせ目の辺りを持ち上げて鼻先に当ててみる。彰人と過ごすときはすぐ近くにいることが多いので、匂いが移っていてもおかしくないと思ったからだ。けれど、服からはなんの匂いもしない。こはねの嗅覚ではわからない類のものらしい。
「……無理矢理つけられてるわけじゃないのよね?」
いつもはピンと立っている耳がわずかに下がり、心配と言いたげな瞳で覗き込まれる。こはねは慌てて頷きながら、思わず両手をぐっと握りしめていた。
「東雲くんは、いつも優しいです」
稀にこはねをからかうときの彰人は意地悪なところがあるけれど、普段の彰人はこはねを甘やかしていると言えるほどで、無理強いされたことは一度もない。
薬草を採りに行くと話したときは「オレも連れてけ」とついてきてくれるし(むしろ絶対ひとりで行くなと釘を刺される)、頼めば耳や尻尾に触らせてくれる。
ふと毎日の行動を振り返ったこはねは、匂いがつくタイミングに思い当たる節があった。
こはねが帰宅するとき、彰人は必ずこはねを抱きしめる。もしかしたら、そのときにつけられているのかもしれない。
ふたりにそれを報告すると、複雑そうな顔をされた。
「えっと、ぎゅってするのは、私がいいよって言いました」
彰人がひとり暮らしを始めたばかりのころだったと思うが、ぺたりと伏せられた耳と尻尾がかわいくて、こはねのほうから腕を広げた覚えがある。
「こはねちゃん彰人に甘すぎない?」
「東雲くん、くっつくと安心するからって」
「は?」
「ひえ……」
きもちわる、と腕をさすっていた絵名はこはねの肩を掴むと、なにか言いたげだった口を閉じ、俯きつつ大きなため息を吐き出した。
「……こはねちゃん、嫌だったらちゃんと言わないと駄目だからね」
こういうとき、姉がいたらこんな感じなのかなと思う。
ひとりっ子のこはねは、親身になって心配してくれる絵名にくすぐったい気持ちを覚えながら、笑顔で頷きを返した。
***
「――あ!」
朝食を終え、薬草を採りに行く前にと荷物を整理している最中、こはねが唐突に声を上げた。
スカートをぱたぱた叩いて籠をひっくり返し、転がり出てきた小さな容器を慌てて捕まえてとせわしない。
驚きでぼわっと毛が逆立っていた彰人は、尾を振ってそれを誤魔化しながらこはねに声をかけた。
彼女は胸に抱え込んでいた容器を彰人に見せ、嬉しそうに「私が作ったの」と報告してくる。
「東雲くん、薬使い切っちゃったって言ってたから……持っていってほしい」
「……こはね、オレお前んちのは」
厚意はとても嬉しいのに、香りのせいで生理的に拒絶反応が出てしまうのがわかっているから、断るしかない。
使えるものなら使うのに、と手渡された容器を握りしめた彰人は言葉を詰まらせた。
「あ、ご、ごめんね、言い忘れてた。東雲くんのおうちで使ってるのと一緒だから大丈夫だよ。東雲くんのお母さんに教わったの」
褒めてもらったのだと笑うこはねはどこか得意げだ。
東雲家で場所を借りて云々、彰人の母からどんな感じで教わってきたのかなど機嫌よく報告が続いているけれど、今はそれを聞いてやる余裕がない。
こみ上げる感情に突き動かされるまま、彰人はこはねを抱きしめてドクドクと荒れる自分の鼓動を聞いていた。
「……ありがとな」
もらったのは彰人のほうなのに、こはねも嬉しそうに笑う。ほんのり頬を染め、照れをにじませて「よかった」と安心したように呟くこはねがかわいい。
衝動を抑えきれず、彰人は触れるだけの口づけを何度も繰り返した。
「っ、も……、おしま……ん、む……ん~~!」
「ふ……、かわい」
ペシペシと肩を叩かれ、解放したこはねは顔を赤くして息切れを起こし、「しののめくん!」と舌っ足らずに彰人を呼んだ。
「こはね、もういっかい」
「だ、め。おわり」
こはねは覚悟を決めたことに対しては強く、梃子でも動かないくらいの意思を見せるけれど、今の“だめ”は違う。
声は弱く、微かに震えていて、彰人を視界に入れないように目をそらすのは、揺れているからだ。
こはね、と耳元で囁くように呼べば小さく身体が跳ねる。だめ、とより弱まった声で首を振るこはねに頭をこすりつけ、身動きできないほど強く抱きしめた。
「今日はこれで最後にするから」
こはねは彰人からの頼み込むような言い方に弱い。案の定、こはねの“だめ”からは言葉が消え、小さく首を振るだけになった。
こはねも大概彰人に甘いと思いながらも、それが嬉しい。
彰人は最後のひと押しをするために、再度口を開いた。
ALL 短編
12920文字 / 2023.12.10up
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