Vischio

後日、ビビッドストリートで猫に礼を言う男が目撃された


「……彰人くん」

 こはねがその名前を口にするとき、どうしても一呼吸分の間が空いて、声が小さくしぼんでしまう。
 呼ぼうとしただけで少し鼓動が速くなり、呼んだ直後は口の端がムズムズするのが落ち着かない。
 なかなか慣れないなぁ、と苦笑を漏らしながら、こはねは隣で丸くなっているオレンジがかった毛並みから目を反らした。視界の端でぴくりと耳が動き、微かに喉の鳴る音が聞こえる。こはねの呼びかけに返事をしてくれたような気がして、こはねは再度毛並みへ向かって“彰人くん”と声をかけた。
 ――今度の呼びかけも、一呼吸分の間が空いたし、声は小さくなってしまった。
 代理の猫を相手にするだけでこんな調子では、彰人本人のことを自然に呼べるのはいつになるのだろう。
 こはねが小さな溜め息を落とすと、猫はもう飽きたとばかりに立ち上がり、ぷるぷる全身を震わせた。そのまま簡単に身繕いを済ませ、颯爽とどこかへ行ってしまう。去っていく後ろ姿をぼうっと見送りながら、こはねは彰人ならどうするかを考えていた。

(東雲くんなら、立ち止まって振り向いて……)

 こはね、と自分を呼ぶところまでを想像して、あまりにも鮮明な彰人の姿が浮かんだことに恥ずかしくなる。こはねは思わず膝を抱え、うぅ、と小さく唸り声を上げた。

(……会いたいな)

 今は昼休みとはいえ、約束もしていない状態で会うのは難しいだろう。わかっていても、あの猫を見かけると毎回のように彰人に会いたくなってしまう。
 こはねはスマホを取り出すと、メッセージアプリを立ち上げた。彰人のアイコンに触れ、“あいたい”と文字を入れ――送信ボタンを押すことなく、メッセージを削除した。



 こはねが“彰人くん”と呼んでいた猫について、本当の名前はわからない。ときおり宮女の敷地内で見かけるけれど、野良なのか、誰かの飼い猫なのかすら不明だった。
 こはねが初めてあの猫を見かけたのも昼休みの中庭だ。堂々と目の前を通り過ぎ、こはねのことなど気にする素振りもなくどこかへ向かう後ろ姿を見送りながら、彰人を連想した。
 光の加減でオレンジ色に見えた毛並みから彰人を思い浮かべたのは間違いないけれど、今思えば迷いのない足取りで目的地へ進む姿も理由のひとつだったかもしれない。

 オレンジ色を持つ彼と二度目に遭遇したのは美術の授業中。
 スケッチ対象に花壇の花を選び、近くにある芝生に腰を下ろした直後。急に背後の茂みから現れたものだから、こはねは驚いて声を上げてしまった。
 幸い近くにクラスメイトはおらず、しれっとこはねの視界に入ってきた猫も場所を花壇の縁に移動しただけで、遠くへ逃げ出す様子はない。
 まるで観察するようにこはねをじっと見てくる彼を見返して、その瞳がオリーブ色だったことに気付いた。

(……やっぱり、東雲くんみたい)

 不意に脳裏をよぎったのは、こはねを優しく見つめる瞳と、甘く自分を呼ぶ声。
 フラッシュバックした音声付きの光景が衝撃的で、こはねは思わず画板に額をぶつけた。
 優しさの中に熱がちらつくオリーブ色の瞳も、「こはね」と耳をくすぐる声も、こはねのことを嬉しくさせるけれど今は授業中である。思い出すのは非常によろしくない。
 ドクドク激しく脈打つ心臓を落ち着けようと深呼吸を繰り返すうち、近くにいたはずの猫の姿が消えていることに気づいた。挙動不審なこはねの様子に驚いて逃げたのだろうか。

「……会いたいなぁ」

 ぽつりと落ちた呟きにハッとして、こはねは反射的に口を押さえた。完全に無意識だったうえに、姿を消した猫ではなく明らかに彰人のことを思い浮かべながらの呟きだった。
 わざわざ願わずとも、今日はふたりで練習をすると決めた日だから数時間後には会えるのに。

 頭ではわかっていても、こはねは“今”彰人に会いたい気分だった。
 彼の近くで、こはねを呼ぶ声を聞きながら、彰人の手の温かさを確かめたい。
 落ち着きかけていた鼓動は再び早鐘を打ち、少しずつ耳が熱くなっていく。ぎゅっと両目を閉じたこはねは熱を追い出すように首を振ると、改めて花壇の花を見据えて気合いを入れた。
 ――しかし、こはねの気合いはほとんど空回りしてしまい、スケッチはあまり進まなかったし、友人たちからは顔が赤いと体調を心配されてしまった。

(……電話、してみようかな)

 次の授業が始まるまでに、とスマホをじっと見つめながら迷う。こはねは画面上で指先をうろうろさせ、連絡先の一覧や通話履歴を表示させては消すのを繰り返した。
 そうして散々迷い、迷った末に“しない”と決めてスマホをしまう。
 声を聞いたら会いたい気持ちが強くなると思ったのもあるが、迷っていた時間が長すぎて時間切れである。

 そわそわと逸る気持ちを抑えて練習場所へ到着したこはねは、彰人を見つけた途端大きく跳ねた心臓につられて「あ」と声をあげた。
 ベンチに座っている彰人は手元のスマホに集中しているようで、その真剣な表情に見入って声をかけるのをためらってしまった。
 よく見れば彼の耳にはワイヤレスのイヤホンが嵌まっているから、歌う曲の確認をしているのかもしれない。
 ゆっくり瞬いた彰人がふと顔を上げる。こはねと目が合うと小さく肩を跳ねさせ、目を眇めながらイヤホンを外した。

「お前な……声かけろよ」
「うん」

 返事をしながら彰人へ近づいたこはねは、肩に掛けたカバンのベルトをぎゅっと握り、一度息を止めてから顔を上げた。

「――東雲くん。練習の前に……お願いがあるの」

 こはねを見上げた彰人がわずかに目を見開く。ぱちりと瞬いたあと和らぐ表情、小さな笑い声。「なんだよ」とぶっきらぼうなようで優しい声音に先を促され、こはねの肩からは力が抜けた。
 自分を真っ直ぐ見つめてくる瞳に嬉しさとときめきを感じながら、こはねは腕を伸ばしてそっと彰人の頭を抱きしめる。びくりと跳ねた彰人の反応で自分の行動を自覚したこはねは、慌てて彼を解放した。

「ご、ごめんね! 間違えちゃった」
「は?」

 抱きしめるつもりではなかったのだと、浮かせた両手が彰人に捕まる。
 がっちり手首を掴まれ、ならばどういうつもりだったのかと問うように見上げられては逃げ場がない。
 こはねは無意識に取った行動の恥ずかしさに小さく唸りながら、しどろもどろに彰人への“お願い”を話すことになってしまった。

「あの、ね……て、手を、つなぎたかったの」
「わざわざ頼むようなことじゃねえだろ」

 微かに笑いをにじませて、こはねの手首を掴んでいた指が緩んで手のひらの方へ移動する。
 あ。と思ったときには、こはねの手はひと回り大きな手で柔らかく包みこまれていた。彰人の手からじんわりと温かさが伝わってくることや、軽く絡んだ指先のくすぐったさも嬉しくて――きゅう、と胸の奥が甘く締め付けられるような感覚を覚えた。

「……しののめくん……なまえ、呼んでほしい」

 ふわふわと浮かれた気分でいるせいか、舌がうまく回らない。こはねが追加した願いを聞いた彰人は、ふっと吐息を漏らしてから繋いだ手を引いた。

「こはね」

 近づいた距離で、囁くように呼ばれた響き。こはねの耳をくすぐるそれが甘いと思ったのは、きっと気のせいじゃない。
 こはねは勝手に緩んでしまう唇をそのままに、大きく跳ねて速度を上げた鼓動を感じながら彰人の指先を握りしめた。

「ありがとう東雲くん」

 数時間前に思い浮かべた望み――彰人の近くで、こはねを呼ぶ声を聞きながら、手の温かさを確かめたい――がすべて叶い、満足感でいっぱいになったこはねは上機嫌で繋いだ手を緩めた。けれど、こはねの指先は彰人のそれでしっかり絡め取られていて外れそうもない。
 不思議に思いながら動かせば、すり、と指の間をくすぐられる。びくんと勝手に身体が震え、こはねは咄嗟に息を止めた。
 戸惑いながら彰人を見れば、こはねの反応を楽しんでいるかのように目が細まる。

「……こはね」

 こはねを呼ぶ声の甘さにきゅんとうずいた胸の奥や、こはねをじっと見つめてくる瞳を意識すると心臓の音がますます大きくなった。
 息がうまくできなくて、声もなく唇を開閉させるだけのこはねの手を引いて彰人が笑う。嬉しそうな彰人を見ると“好き”の気持ちが強くなるけれど、同時にほんのりと“悔しい”が顔を出した。
 ――自分ばかり彰人に翻弄されるのが悔しい。
 しかし、それがはっきり形になる寸前で耳の端を彰人の唇が掠め、こはねは言葉になり損ねた音を漏らしながら彰人の肩へ顔を伏せた。楽しそうな笑い声を聞いて、“悔しい”という気持ちが強くなった気がした。



 練習を終えた帰り道、こはねは彰人の手を握り返しながら“彰人と同じことをしてみたらどうだろう”と考えた。
 手を繋いで、名前を呼んで、じっと目を見つめる。こはねほどとはいかなくても、少しくらいは照れて言葉に詰まる彰人が見られるかもしれない。
 手はもう繋いでいるから、名前を――

「東雲くん」
「ん? 考えごとは終わったのか?」

 笑い混じりにこはねを見下ろす彰人は表情も声も優しい。見守るような雰囲気にまたしても心臓を掴まれた気がして、こはねは思わず彰人と繋いだ手に力を入れた。

「し、しののめくん…」
「なんだよ」

 こはねは彰人が照れて動揺する姿が見たいのに、今のままでは普段と同じだ。
 それならば、普段はしない呼び方をしてみたら驚いてくれるだろうか。

(……名前)
「こはね?」
「あ、」
「あ?」
「……ぃ、」
「は?」
「…………うぅ」

 ――どうして。
 どうして、うまく呼べないのだろう。
 ふらりとよろめいて、思わず彰人の腕に掴まる。うめくこはねを支えるためか、掴んでいない方の腕がそっと背に回された。
 身近に感じるぬくもりや彰人の香りには反射的に嬉しくなってしまうけれど、寄りかかったままでは彰人に負担をかけてしまう。
 こはねは支えてくれた礼を告げながら足に力を入れて離れようとしたものの、それを止めるかのように彰人の力が増す。どうしたのかと身じろいで顔を上げれば、こはね、と小さく自分を呼ぶ声が聞こえた。

「……オレにも」
「う、うん。なにをすればいいの?」

 要求されていることがわからずに聞き返すと、彰人はたっぷり間を開けて「これ」と呟くように言いながらこはねを抱きしめた。
 そんなふうに小さな声で、言いづらそうに頼んでくる彰人は普段と雰囲気が違っていて、またこはねの心臓に負担をかける。

(かわいいって言ったら、拗ねちゃうかな)

 こはねは本日何度目かわからないときめきを覚えながら、彰人の背中に腕を回す。自分とは違う身体の大きさや硬さ、温かさを改めて意識してしまったせいか、ドキドキと脈打つ心臓の音が大きくなって少し苦しかった。



 あれから、こはねは彰人の照れる姿を見るための一歩として彰人の名前を呼ぶ練習をしている。
 本人が目の前にいてもいなくても、なぜか舌が回らなくなるので、まずは彼を連想させる猫を相手に慣らしていく計画である。最終的には手を繋いで、名前を呼んで、目を見つめる――これをセットで行うのが目標だ。

 今日のこはねは、宮女ではなくビビッドストリートの一角で丸くなっていたオレンジの毛並みを相手に声をかけていた。
 練習場所へ向かう途中でくだんの猫を見かけて近寄ったのだが――宮女の敷地内を闊歩しているあの子がここまで足を伸ばしているのだと思った――よく見れば目の色が違う。それに、愛想もかなり良いようだ。
 そばにしゃがんだこはねに自ら寄ってきて、撫でろと言いたげに頭を擦りつけてきたのには驚くのと同時に可愛くて笑ってしまった。
 ぐるぐるゴロゴロ、喉を鳴らす音を聞きながら温かい毛並みを撫でていたこはねは、本来の目的を思い出してハッとした。撫でるのをやめて両膝に手を置くと、軽く咳払いをしてから猫を見つめる。

「…………彰人くん」

 こはねの呼びかけに対し、ぴくりと耳が動いた。この仕草は宮女にいるあの猫と似ている。

「ふふ……彰人くん?」
「――なんだよ」
「ひゃあぁああ!?」

 ビクッと身体全体を跳ねさせ、大きな声を上げたこはねに驚いたのだろう。そばでくつろいでいた猫は全身の毛を逆立てて、威嚇してから走り去っていった。
 こはねはそれを見送る余裕もなく、ドッドッ、と激しく脈打つ心臓の動きを感じながら服を握りしめる。勝手に浅くなってしまう呼吸のせいで息が苦しい――振り返るのが怖かった。

「しの、しののめくん……」
「……呼ばねえのかよ」
「あの……い、いつから、みてたの」
「お前が嬉しそうに猫撫でてるとこ」

 ――それは、ほとんど最初からと言ってもいいのでは?
 こはねは隣にしゃがんだ彰人へとぎこちなく視線を移し、じっと見つめられていることに気づいて喉を詰まらせた。
 頭の中が真っ白で、なにを言ったらいいかわからない。
 固まったまま動けないこはねを見て、ふっと楽しげに笑った彰人がしゃがんだまま頬杖を付いた。

「で? オレのこと呼ばねえの?」
「うっ…、その……ま、まだ、練習中、だから」

 しっかり本人に聞かれていた恥ずかしさもあって顔が熱い。必死で紡いだ言葉は小さく掠れ、ほとんど音にならなかった。
 なにも言ってくれない彰人を盗み見ると、彼は俯いた状態で突然ぐしゃぐしゃと髪をかき混ぜ始めた。それから勢いよく立ち上がり、憮然とした表情でこはねに手を差し出してくる。
 “掴まれ”という無言の圧力に戸惑いながら差し出された手を軽く握れば、強く握り返されて引き上げられた。

「わっ、ぷ!?」

 ふらついた足で傾いた身体が彰人にぶつかる。こはねは抱え込むように回された腕に拘束されて、身動きが取れなくなっていた。

「し、東雲くん」
「…………こはね。オレに理性があって良かったな」

 ぴったりと密着するように抱きしめられているせいで、呻くように呟いた彰人の顔は見えない。
 なんだか詳しく聞いたらダメな気がする。こはねは言われた言葉を反芻しながら、彰人の胸元から聞こえてくる心音に集中したくて目を閉じた。
 服の上からでも振動が伝わってくる鼓動は、こはねと似たようなリズムを刻んでいる。意識すると、ますます自分のそれが激しくなっていくのがわかって、気づけば彰人の服を思いきり握りしめていた。

 ぎゅうぎゅうと次第に強くなっていく締め付けで物理的に苦しくなったこはねは、焦りながら彰人の服を引く。ぴくりと跳ねた彰人が力を弱めてくれたことに安心したものの、解放される気配はない。それどころか頭になにかこすりつけられる感覚が加わり、見えないなりに彰人の仕草を想像して体温が上がった。

「――練習なら、オレでしろよ」
「しっ、東雲くんは、難しいから、だめです」
「は?」

 意味がわからないと説明を迫られ、こはねは彰人の胸に顔を埋めたまま猫を相手にしていた理由を口にすることになった。
 彰人本人を呼ぼうとすると声がうまく出せなくなること。だからまずは猫を彰人に見立てて名前自体を馴染ませようとしていたこと(彰人に似ている猫を選んでいたことは伏せた)。それすらまだうまくいっていないこと。
 話をしている合間に、彰人がいたずらするように髪やこめかみ、腰へと触れてくるから、話を終えるのにかなり時間がかかってしまった。

「こはね、猫じゃなくていいだろ」
「ぅ、」
「……呼んでくれ」

 言うのをためらったような、小さな声。それは、以前こはねに抱きしめてほしいと頼んできたときと同じ――心臓をぎゅっと掴まれるような感覚をこはねに与えてくる。

(呼ぶの、難しいって言ったのに)

 今のような彰人を見ると、断るよりも頼まれたことを叶えてあげたい気持ちのほうが大きくなってしまうのだから困る。
 こはねは彰人の服を握りしめ、両目をきつく閉じるとぐりぐりと頭を彼の胸にこすりつけた。本当はもっと練習してから披露したかった、という抗議の代わりだ。
 伝わったのかは謎だが、彰人はこはねをなだめるように抱きしめて、背中と肩の間のあたりをトントンと軽く叩いた。

「……ぁ、きと、くん」

 こはねの声は掠れて途切れ、口に出したのが名前だと認識できるのかすら怪しい――だから言ったのに。
 顔は当然のことながら耳も熱いし、口から心臓が飛び出しそうなくらいドキドキしていて、もう一度と言われてもすぐには無理そうだった。
 こはねの耳元で彰人が吐息を漏らす。思わずと言った雰囲気のそれと、こはねを抱きしめる腕から嬉しさが伝わってきて、こはねはドキドキしたまま彰人を抱きしめ返した。


「――やっぱ練習は数だよな」
「……そう、だね」
「ってことで、やるぞこはね」
「えっ」

 彰人を呼ぶ練習をしているのが本人にバレたその日、歌の練習が一段落したところでそんな提案をされた。
 こはねの目標である“彰人が照れて動揺する姿を見る”実現のためにも、自然に呼べるようにはなりたい。けれど、練習相手として彰人本人を呼ぶのは難しいと伝えて、実際にダメなところまで見せたはずなのに。

「オレじゃねえヤツがお前に呼ばれてんのおかしいだろ」
「……ネコちゃんだよ?」
「十分妬ける」

 話をしながら想像したのか、彰人は不機嫌そうに顔を歪め、声を低くした。
 普段なら心配するところなのに、内容のせいでじわじわと嬉しさが湧いてきてそわそわしてしまう。こはねが思うよりもずっと、彰人の独占欲は強いらしい。

「あきと、くん」
「…………おう」
「ふふ」

 目標が達成できる日は案外遠くないかもしれない。落ち着かなげに首に触れる彰人を見つめ、こはねはくすぐったい気持ちのままムズムズする口元を隠した。

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