Vischio

名前の代わりだと“わんちゃん”は証言した


 ――この可愛い生き物をどうしてくれようか。

 彰人に噛まれた首を押さえ、真っ赤な顔でぷるぷるしているこはねを見上げたまま唾を飲み込む。
 衝動的な行動だったとはいえ、首に痕を付けるのはマズいと思いとどまったから軽く歯を立てた程度だが、彼女にとってはかなり衝撃的だったらしい。
 彰人は自分が捕食者になったみたいだと考えて、別に間違っちゃいないなと笑った。
 それをどう取ったのか、こはねがびくんと身体を震わせる。
 自分以上に動揺する彼女を見て多少は気分が落ち着いたから、このまま解放するつもりだったのに。そんな反応をされたら離すのが惜しくなってしまう。
 湧いた感情に従って、こはねの腰に回した腕に力を込める。ちょうど彰人から離れようと動き出していた身体がよろめいて、ガタンと椅子が大きく揺れた。

「わ!?」

 慌てて彰人の肩を掴み、赤みの残る困り顔で見おろしてくるこはねに笑う。こはねは視線をうろつかせ、彰人の目から逃げるようにぎこちなく顔を反らし――彰人が見上げている形なので丸見えだが――おとなしくなった。

「きゅ、急に、動いたら危ないよ」
「……離せ、じゃねえの?」
「…………いじわる」

 ぽつりと落とされた声に、少しの躊躇いを見せたあと彰人の首に回される腕、近づく体温と柔らかさ。
 鼻孔をくすぐるこはねの匂いに心臓を強く掴まれたようで、彰人は咄嗟に奥歯を噛み締めた。


 ――ああ、もう、なんなんだくそ!


 こぼれる寸前だった悪態を飲み込んで、こはねを抱きしめ返す。彼女の肩に顔を埋めながら、ぐぅっと唸りをあげる喉の音を聞いた。
 さっきからグッサグッサと心臓を突き刺されているような感覚がつらい。本当に、全くもってガラではないが“キュン”というやつである。
 こはねがおとなしくしているのをいいことに、長々と息を吐いてから顔を上げれば、彼女の肩越しに無人のカウンターが目に入った。それに違和感を覚えたのと同時に、彰人の脳内では店主の笑顔が浮かんで消える――メイコがいない。

『頑張ってね、彰人くん』

 ふと脳裏をよぎったメイコの声。それを言われたのはもちろん今じゃない。
 宿題に取り組み始めた彰人に、サービスだと飲み物を持ってきてくれたときなのに。なぜ今それを再生してしまったのか。
 明らかにこちらを気遣って姿を消したであろうメイコのことや、いつ誰が入ってきてもおかしくない(入ってくるのはバーチャル・シンガーか冬弥か杏だろうが)この場所で、人目も気にせずいちゃついていたという事実が彰人の羞恥心を煽る。

「ん、ぐ……」

 怒涛のごとく迫ってきた現状を実感し、不明瞭なうめき声が漏れた。顔が熱い。
 様子のおかしい彰人に気づいたのか、もぞもぞと身じろいだこはねが不思議そうに彰人を呼ぶ。
 けれど、呼ばれたところで意味のある言葉は思い浮かばなかったし、こはねを解放する気にもなれず、ただ彼女を抱きしめる腕に力を入れて無言を貫いた。
 彰人はこはねの肩に顔を伏せたまま、現実から逃避するように目を閉じる。主に頭部へ集中する熱がおさまるまで、誰も来ないよう願うことしかできなかった。



 願いが通じたことで、ある程度落ち着きを取り戻した彰人は力を緩めながらこはねの様子を窺う。戸惑いを含んだ数回の「東雲くん」にもだんまりを貫き続けたのだから、文句の一つでも飛んできそうなものだが――こはねはどことなく機嫌が良さそうだ。
 ぱちりと目が合うと「あ」と小さく声を漏らし、なぜか気まずそうに狼狽える。疑問混じりに理由を問えば、彼女はじわじわと顔を赤くしていった。

「えっと……その……、東雲くんが、か……かわいい、なあって……」

 こはねの声はだんだんと萎んで、視線は彰人から逸れていく。
 自分のどこをどう見たらそんな感想が出てくるのか、彰人にはさっぱりわからない。とりあえず、こはねからの“可愛い”が彰人を複雑な気持ちにさせたのは確かだった。中には喜ぶやつもいるだろうが、好きな女から言われるなら“かわいい”よりも“かっこいい”のほうが嬉しい。
 可愛いと思われたままなのが癪で、彰人は自分の肩に置かれたままのこはねの手――手首をやんわりと掴む。びくりと跳ねる彼女をよそに、親指の腹で手のひらと手首の境をなぞった。
 見上げた視界に映るこはねは逸らしていた視線を彰人へ戻し、わかりやすく頬を染める。ぱくぱく開閉を繰り返す唇や驚きで丸くなった瞳に満足感を覚え、彰人は微かに息をもらして笑いながらこはねの手首に口づけた。

「ひゃ!?」

 音もなく触れた唇を押し付ける。そのまま視線を上げてこはねを見れば、彼女は赤い顔で彰人を凝視した状態で固まっていた。
 柔く食み、ちゅ、と小さな音を鳴らす。
 こはねが自分の手を取り戻そうと身じろぐのを邪魔しながら、舌で湿らせたそこへ強く吸い付いた。

「ひ、え!? しっ、しの、東雲く……、東雲くん!」
「呼びすぎだろ」

 笑い混じりに唇を離してこはねを見返すと、彼女は恥ずかしさが限界を超えたのか涙目で唇をわななかせていた。

「こはね、これでも“可愛い”か?」
「ううぅぅ……いまは、かわいくない……」

 “今は”な辺りに若干の引っかかりを覚えたものの、よろめくこはねを抱きとめた彰人は「獰猛」と独り言のように呟く声を聞いてつい声を上げて笑ってしまった。可愛いと言われるよりはそっちのほうがいい。
 痕の残る手首へもう一度口づけて、彰人はようやくこはねを解放した。


***


「――東雲、お前今日めっちゃ機嫌いいな」
「あ?」

 借りていたノートを返すべく持ち主の席へと足を運んだ彰人は、唐突にそんなことを言われて訝しげに目を眇めた。

「まあ悪くはねえけど……そんな言うほどか?」

 礼を伝えながらノートを手渡せば、彼は受け取ったばかりのそれを丸めて彰人に突き出してくる。勢いの良さに仰け反れば、彼はそのまま「東雲さん、なにかいいことでもあったんですか?」と妙に演技がかった聞き方をした。ノートはマイクのつもりらしい。
 彰人は突き出されたノートを片手で押しのけながら、自身の頬を親指で押す。
 そんなにわかりやすく緩んでいたのかと、ほぐすように何度か押してから口元を覆った。
 昨日から、ことあるごとに思い出してしまうこはねの言葉が強すぎる。


『――東雲くんは、私のだもん』


 真っ赤に染まった顔。やや俯きがちに彰人から逸らされた目。
 微かに声を震わせながらも、はっきりと彰人を“自分のものだ”と主張したのだ。あのこはねが。

「はーん……?」
「顔がうぜえ」
「そっちこそ思い出し笑いやーらしー。彼女か!? そうなんだろくそ!!」
「お前勝手に決めつけてキレんのやめろよ」
「じゃあ違うのかよ」

 昨日の余韻のせいなのか咄嗟に違うと誤魔化すこともできず(否定したくなかったのもある)、かといって違わないと素直に認めることもせずに黙り込んだ彰人を見て、友人はスッと目を細めた。

「当たってんじゃねえか!!」

 ダン、と力強く机を叩いて「羨ましい恨めしい」と呟く彼には何を言っても怒りが返ってきそうだ。彰人はこれ以上話題を続けられる前に退散すべきと判断し、丸めたそれを握りしめたまま突っ伏す彼を横目に踵を返した。


***


「こはねちゃん、手首どうしたの?」
「え!?」

 びくんと大袈裟なくらい跳ねたこはねを見て、リンが不思議そうに首を傾げる。正面に座るミクと、斜め前にいたルカまでがこはねの手首へと視線を移すのがわかって、こはねはますます狼狽えた。

「ときどき触ってるから……怪我? 痛い?」
「だ、大丈夫、痛くないよ」

 ぎゅっと袖を握りながら首を振るこはねに、リンはよかったと安心したように笑う。けれど、指摘されたことで袖の下に存在する赤いしるしのことを意識したこはねは、勝手に上昇していく体温を誤魔化すために顔を伏せながら縮こまった。

「あ、あれ? こはねちゃん?」
「ちょっとお手を拝借~」
「ル、ルカさん!」

 すっと伸びてきた白い手が、こはねの手を優しく握って軽く引く。動かしたことでずれた袖から覗いた赤に、「あ」とミクとルカの声が重なった。

「わっ、こはねちゃん痣あるよ! どこかにぶつけちゃったんじゃ……」
「えっと、えっと……これは、ちがうの。あの……わ、わんちゃんに」
「わんちゃん!?」
「ふ……ふふっ、わんちゃん……」
「こはね、ちゃんと躾したほうがいいんじゃない?」

 肩を震わせつつ丁寧にこはねの袖を戻したルカの隣で、ミクが楽しげにそんなことを言う。こはねは思わず顔を伏せ、じわじわと熱くなっていく頬を押さえながら目を閉じた。
 まぶたの裏には昨日の――キスマークをつけた直後にこはねを見上げた彰人の姿が浮かんでくる。

「う、うぅ~……」

 わんちゃん、なんて可愛らしい表現は合ってなかったと思いながら、こはねはますます俯いていく。
 ミクたちが何かを話し合っている声はするけれど、そちらに加わる余裕はない。上昇したまま全然落ち着いてくれない熱をどうにか冷まそうと立ち上がった直後、カフェのドアが開いた。

「こんちはー」
「あはは。噂をすればってやつかな?」
「は?」

 ――どうやら、もうしばらく熱を下げることは諦めたほうがいいかもしれない。
 こはねは袖をぎゅっと握りしめながら、彰人に声をかけるためにゆっくり息を吸った。

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