メルティ・スイート・ハニー 前日譚
「今日も気持ちよく歌えたねー!」
「うん! 杏ちゃんかっこよかった!」
「こはねのほうこそ!」
彰人は冬弥と軽くこぶしを合わせ、互いを褒め合うふたりの声を背にステージを降りる。
少し休憩してから今回の振り返りをしようと解散した矢先、こはねが見知らぬ男に呼び止められているのが視界に入った。
背丈や年齢は自分とそう変わらないように見えるが、落ち着かない様子で周囲を見回すそぶりからしてライブハウスは不慣れなのかもしれない。
「知り合い?」
「えっと……ひとりで歌ってたときによく聞きに来てくれた人、ですよね?」
杏へ返事をする途中から男を見上げて首を傾げるこはねに、覚えててくれたんですか、と興奮で上擦る声が聞こえた。
男はズボンで手を拭い、ファンだと告げながらこはねに握手を求めている。
ビビッドストリートで歌うこはねの歌声に聞き惚れて追いかけていた、先日のオープニングアクトもすごかったと捲し立てる男の声が、妙に彰人の胸をざわつかせた。
仲間が褒められることは嬉しいはずなのに、素直に喜べないばかりか自分のほうがこはねのことを知っていると対抗心を抱いてしまうのは、彼からあふれ出ている好意のせいだろう。見ているだけで、こはねと話せることが嬉しいのだとわかるその表情が彰人に焦りを抱かせる。
「こはね、握手だって!」
杏が戸惑うこはねの背に触れ、まるで自分のことのように嬉しそうに笑う。
こはねは照れを滲ませてはにかむと、おずおずと両手を持ち上げて礼を言いながら男の手を握り返した。
「――こはね」
「ふあっ!?」
呼ぶのと同時に肩に触れたせいか、こはねが大袈裟なくらいビクついて振り向く。
彰人を認識して緩む表情と男から外れた両手にほっとした直後、ザッと血の気が引く感覚に襲われた。
こはねが見知らぬ男に笑いかけるのも触れるのも、嫌だと思ったのは確かだ。しかし、単なるチームメイトである彰人にそれを邪魔する権利はない。
いったいなにをしているのかと自己嫌悪したが、無意識にこんな行動を取るくらいならいっそのこと権利を得てしまえばいいのだ。
夢を追っている途中である今、こはねへの好意を告げる気はなかったけれど、今日のようなことは今後増えていくに違いない。彰人がなにもしないうちに、こはねがファンの枠を超えた誰かと付き合うことになっていたら後悔するどころではない。
彰人はひそかに唾を飲み込み、傍らで所在なさげに立ち尽くしていた男に向き直った。
「……遮って悪い。ちょっと、こいつ連れてっていいか」
「あれ? もう時間?」
「さっき解散したばっかだし、まだでしょ?」
首をかしげるこはねと杏を視界の端に捉えつつ、壊れたおもちゃのように何度も頷く男に礼をしてこはねの肩を抱く。
びくりと跳ねた肩はもちろん、意識外でこぼれたらしい声や雰囲気からも戸惑っているのが伝わってくるが、外で話すと伝えればぎこちなく頷いてくれた。
「ちょっと彰人!」
「お前らにはあとで話す」
杏に向かって告げながら冬弥のほうへ視線を動かせば、目が合った途端“しかたない”と言いたげな苦笑を返された。
ライブハウスから外へ出たものの、屋内の音が漏れ聞こえてくることや、いつ誰が通りかかるかわからない建物の近くは落ち着かない。
誰にも邪魔されないよう、彰人はこはねを伴ってセカイへと場所を移した。こんなことに使っていいのかと自問する声が脳裏をよぎったけれど、彰人にとってはここ一番の大勝負である。優しい彼女たちならきっと笑って許可してくれるだろう。
ひとつ息を吐き出して、戸惑いながらも黙ってついてきてくれたこはねと向き合う。内心緊張している彰人の空気が伝わったのか、彼女も緊張した面持ちで胸元を握り背筋を伸ばした。
口の中がカラカラで、ドクドクうるさい心臓の音が耳の傍から聞こえてくるような錯覚を起こす。息のしづらさを意識して、ステージに立つときよりもよほど緊張していることに笑いそうになりながら目を閉じた。ゆっくりと目を開き、こはねを見つめて息を吸う。
「こはね」
「は、はい!」
彰人につられているこはねを見てわずかに緊張が緩む。ふっと漏れた吐息とともに、「好きだ」と一番重要な告白の言葉もこぼれ落ちていた。
ぱち、ぱち。わずかに見開かれた瞳の瞬きを数えつつ、肝心な部分をポロリした口にこぶしを当てる。恥ずかしさでじわじわと耳が熱くなっていくが、ここで誤魔化すわけにはいかなかった。
「――こはね、手貸せ」
「えっ、て……手?」
手のひらを上向けて要求すると、勢いに飲まれたかのようにこはねが指先を乗せてくる。
彰人はその細い指先を捕まえながらも、彼女の流されやすさが心配になった。自分だからまだいいが、他のヤツに流されては困る。
その辺はあとで言い含めることに決め、彰人はこはねの手を持ち上げると自分の心臓のあたりに触れさせた。ドッドッと勢いが増した鼓動を直に伝えれば、こはねが微かに息を呑む。吐息混じりに彰人を呼び、答えを求めるように瞳を揺らした。
「……こはねが好きだ」
びく、と跳ねた細い肩。それを抱き寄せる権利が欲しい。
願いを胸に、固まってしまったこはねをじっと見守っていると、彼女はようやく瞬きをした。かと思えばぶわりと一気に頬が色づいて「あ、う」と意味のない音をこぼし、彰人の目から逃げるように俯いていく。
許されるなら、握ったままの手を引いて思い切り抱きしめていたところだ。
彰人は湧き上がる衝動をこらえながら息を止める。ぐっと詰まった喉に軽く咳き込んでいると、こはねが彰人の手を握り返してきた。
驚きで肩を跳ねさせつつこはねを見下ろせば、彼女は俯いていて彰人から表情を確認することはできない。隠せていない耳の赤さに気を取られていると、あのね、と微かに震える声がした。
「び、びっくりしたけど……今もしてるけど、嬉しいよ。杏ちゃんから言われるときも、同じくらいドキドキして」
「ちょっと待て。こはね、お前さっきの仲間としてだと思ってんのか?」
予想外の流れが見えて思わず遮ってしまったが、そろっと頭を上げ、彰人を見返してきたこはねの顔を見て口をつぐんだ。目尻まで赤く染まった頬に、今にも泣きだしそうに潤んだ瞳――これは、きちんと別のものだと伝わっている。
「……違うんだよね?」
「――ああ。仲間として、って意味もあるけど……オレのはそれだけじゃねえ」
「私も、みんなのこと好きで、特別で……でも、今までそんな風に考えたことなかったから、全然想像できなくて」
仲間としての好意だと決めつけられなかったことに安堵したはずが、この言い方には嫌な予感しかしない。泣きそうなまま、彰人から顔をそらすこはねの口から出てくるとしたら、ごめんなさい一択だろう。
「こはね、返事は今すぐじゃなくていいっつーか……今はするな」
「…………え?」
「お前オレのこと振る気しかねえだろ。なら聞きたくねえ」
「うっ、で、でも」
「考えたことなかったってことは、これから考える可能性あるよな」
驚きで丸くなった瞳が素早く瞬いて、目尻に溜まっていた涙が転がり落ちる。泣きだしそうだった気配が薄れたことに安堵しつつ、「時間をくれ」と祈るように告げた。
彰人がそうであるように、今後こはねにも“仲間としての好き”に恋愛感情が追加されるかもしれない。絶対にないと断言されるまでは、諦めたくなかった。
「……私、どうしたらいいのかわからないよ?」
「こはねは別になにも――いや、あー……オレから逃げないでほしいってのと、」
付き合っていないのに、嫉妬して妨害行為を働くのは許される範囲に入るのだろうか。
言い淀んでいると、彰人を見上げたこはねが「逃げないよ!」と力強く宣言してくる。どことなく懐かしさを感じるそれに笑って、言うだけ言ってみるかと嫉妬の許可を求めてみた。
「ん、と……? 例えば?」
「さっきみたいな。ファンだって言ってたヤツとの話に割り込んだろ」
「えっ、あ……あれ、そう、だったんだ……」
じわっと頬を赤くしながらも、わざと邪魔するのはだめ、と忠告してくる。嫉妬自体に関しては触れられなかったのをいいことに(そこまで考えていない可能性が高いが)、邪魔しなければいい、と都合よく解釈することにした。
「わかった、我慢する」
わざと不満を滲ませて、子供っぽい言い方を選び、触れたままの指先を軽く絡ませる。
小さく跳ねたこはねは落ち着かなげに目を泳がせ、指先をもぞもぞさせながらも宣言どおり逃げずに頷いた。
こはねとふたりでライブハウスへ戻ると、冬弥と杏は先に今日のイベントの振り返りを始めているようだった。隅のほうにある小さな丸テーブルを陣取って、セットリストとスマホを手に額を突き合わせている。脇へ追いやられている飲み物の入れ物には水滴が浮いて、テーブルに小さな水たまりを作っていた。中身はほとんど減っていないようだ。
「――あ! やっと戻ってきた!」
「おかえり、ふたりとも」
「おう、遅くなって悪い」
「杏ちゃん……あとで、話聞いてほしい」
「もちろんいいよ!」
おぼつかない足取りで杏のほうへ寄っていったこはねが、縋るように杏の腕にくっつく。
こはねのその仕草が珍しいのか、杏は僅かに目を丸くしたあと嬉しそうに笑って「こはねはなに飲む?」と優しく問いかけていた。
「彰人、さっきの話というのは?」
「……まあ、いつ言っても同じか。こはねに好きだっつった。付き合うのはまだだけど、これから口説き落とす」
「は?」
「え?」
「し、東雲くん!」
「なんだよ、ふたりには言うって言っといただろ」
どう伝えるかまでは言っていなかったかもしれないが、内容が変わるわけでもない。
うぅ、と小さく唸ったこはねはますます杏の腕に縋りつき、彼女の肩に顔を伏せてしまった。
「あとは……気をつけるけど、練習とか影響でてたら言ってくれ。こはね、飲むもん決めたか?」
こはねの分も一緒に取ってくるつもりで問えば、いやいや、と杏が割って入ってきた。
「いきなりすぎるでしょ……え、ほんとに?」
「こんなことで嘘ついてどうすんだよ。協力でもしてくれんのか?」
「私はこはねの味方だから!」
杏はこはねを抱き込んで、予想どおりの答えを返してくる。見慣れた光景なのに、無条件にこはねを抱きしめられる杏が羨ましい。そう思ってしまったことに思わず溜め息が漏れた。
こはねを口説き落とすと宣言してはみたものの、彰人のすることは普段とほとんど変わらなかった。日課のトレーニング、チームでの練習、バイト、イベントの準備、部活の助っ人。以前と変えたのは、こはねと連絡を取り合う頻度と物理的な距離感だ。
用事がなくてもメッセージを送ることには躊躇いがあったものの、なにを送ってもこはねは楽しげな反応をしてくれるし、こはねのほうからも送られてくるようになったのが嬉しい。
突然送られてきたヘビ(パール伯爵)の抜け殻の写真にはさすがにぎょっとしたが、すごく綺麗に脱皮したから誰かに話したかったのだと電話がかかってきたうえ、その“誰か”に彰人を選んでくれたことは、こはねとの関係が多少なりとも進展していると感じてもいいだろう。
直接会える日はチームの練習日であることが多いので、練習が始まる前や合間の休憩時間を利用して距離を詰めていた。座る位置、練習以外の話、軽度の触れ合い。
先日、こはねの小指の爪がオレンジ色だったのが気になって、声をかける前に触れたことがあった。彼女の指先をすくい、エナメルっぽくつやつやしている爪を親指で撫でたところで「しののめくん」と震える声で呼ばれ、無意識の行動に自分で驚きながら謝った。
爪に触れたままの彰人の手の上で、おとなしくしている指先。思わず期待したくなったが、すぐにこはねの逃げない宣言を思い出して自制した。
「こはね、嫌ならちゃんと言っていいんだからな」
「……うん。嫌だったら、言うね」
彰人の言葉を繰り返しながらも、こはねの指先はおとなしいままだった。手に触れられるのは嫌じゃないらしい。それを知って以降は機会があれば触れ、まれに握り返されると期待値が上がる。不意に引き寄せて抱きしめてしまいたい衝動に駆られる頻度も上がってしまい、それをこはねに告げようか迷っているところだ。
また無意識にしでかす前に言っておこうと決めた矢先、彰人はこはねに呼び出されセカイの路地裏に立っていた。
ひと気のない路地裏にふたりきりのシチュエーション、漂う緊張感は彰人がこはねへ好きだと告げたあの日を思い起こさせる。呼び出された理由は明言されていなかったけれど、あの日保留にさせた返事だという確信があった。
「――東雲くん、」
「断り文句なら聞かねえからな」
「……ふふ、じゃあ聞いてもらえるね」
強張っていた身体が僅かに緩み、安心したように微笑んだこはねが口を開く。
――東雲くんが、好きです。
真っすぐ彰人を見つめる瞳も、ほんのり染まった頬も、緊張で震える声も全部覚えておこうと思いながら、彰人はこはねを抱きしめるために手を伸ばした。
ALL 短編
5545文字 / 2024.08.24up
edit_square