Vischio

　こはねがcrase cafeに顔をだすと、メイコはカウンター席に座って本を読んでいた。
　いつもどおり微笑んで「いらっしゃい」と出迎えてくれた彼女の珍しい姿に驚いていると、メイコは本を閉じながら今は暇をしていたのだと教えてくれた。
　ミクを始めとした他のバーチャルシンガーは不在らしい。
　喫茶店内はいつもよりBGMが小さく、ゆったりとした穏やかな曲が流れている。新しく訪れた客――こはねのために席を立ったメイコは、こはねの注文を聞いてから「彰人くんなら奥の席よ」と優しく教えてくれた。
　
　店内には彰人しかいなかったから、特に姿を探す必要はなかった。
　練習前に宿題を済ませるとメッセージが入っていたけれど、どうやら睡魔に負けたらしい。遠目からも寝ているのがわかった。
　起こしたほうがいいんだろうなと思いながらも、気持ちよさそうに眠っている姿を眺めていたい。
　こはねはもう少しだけ、と自分に言い訳して、彰人の隣の椅子を静かに引いた。

　彰人が枕にしている両腕の下には広げられたノート。参考のためか、少し離れた位置にも別のノートが広げられている。
　勝手に触ってしまうことに迷いはあったけれど、テーブルから落ちるよりは、と手を伸ばした。
　ノートを閉じて、安全な位置に置き直したときに見えた名前に目が留まる。
　てっきり冬弥のノートだと思ったのに、表紙に書かれていたのはこはねが全く知らない人の名前だった。彰人と同じクラスで、名前の雰囲気からして女の子だろう。
　こはねは先日神高の前まで行ったときのことを思い出しながら、名前の持ち主のことを想像した。
　校門をくぐった直後の――こはねの隣に並んだ彰人を校内側から呼び止めて、親しげに話しかけながらこはねの方を見てきたあの子かもしれない。
　こはねを観察するような視線は居心地が悪くて、でも逃げ出すのも嫌で、なんでもない振りをして彰人の側にいた。

（……そういえば、途中から東雲くんの背中しか見えなかったけど、あれは偶然だったのかな）
「こはねちゃん、こっちのテーブルに置いておくわね」
「あ。ありがとうございます、メイコさん」

　小声でのやり取りにメイコが微笑む。こはねもつられるように笑って、ごゆっくり、と言いながら戻っていくメイコに頷いた。

　淹れてもらったカフェラテを飲んでいる途中で、視界の端に映るノートが気になった。顔も知らない誰かの持ち物。
　全然知らない人なのに、その人の持ち物だとわかるのは名前が書かれているからだ。

（……名前）

　もう一度、こはねは彰人を見る。
　音を立てないように、手を伸ばせば触れられる距離まで近寄った。

　無防備にさらされている背中にしようか迷って、触れやすい位置――腰に近いほうに人差し指を置いた。背骨と脇腹の中間あたり。
　こはねの場合、この辺に触れられるとくすぐったくて耐えられない。不意打ちされると変な声がでてしまうからやめてほしいのに、彰人はそれが面白いのかたまに触れてくるのが困る。
　急に触(さわ)られるたびに訴えているものの、今のところこの訴えが聞き入れられる様子は皆無だ。
　同じことをしても彰人は全然気にならないらしいのが少し悔しいけれど、今だけは感謝したかった。

　つつ、とゆっくり指を滑らせる。書いたのは、平行に並ぶ二本線。

「っ、ぅ……」
「！」

　こはねはぱっと両手をあげて（使っていたのは右手だけだが）息を止める。ドキドキしながら彰人の様子を伺っていると、顔を隠すように頭の位置を変えたところでまた動かなくなった。
　そのまま彰人の呼吸に合わせて、ゆっくりと背中が上下する。
　ほっと息を吐き出し、こはねは続きを書くために手を伸ばした。



「…………」

　――“こはね”

　目的だった三文字を書き終えたものの、こはねは急に恥ずかしくなってしまった。
　ただの悪戯のようなものとはいえ、本人が知らないところで自分の名前を書くのはいかがなものか。
　目に見えない文字を消すように、こはねはそっと手のひらを置いた。

「――なあ」
「っ！？」

　急に身体を起こした彰人に驚いて、びくんと身体が跳ねる。
　驚きすぎだろ、と笑い混じりに言う彼に手首を掴まれながら、こはねは言葉もなく相手を見つめることしかできなかった。じわじわと顔に熱が集まるのがわかる。

「おき、おきて……」
「さすがにくすぐってえわ」
「ご、ごめんね」

　いつから起きていたのだろう。
　せめて、途中からだったのなら誤魔化せるかもしれない。けれど、起きたタイミングを聞くのが怖い。

「んなことより、なんで名前？」
「…………」

　はっきりと断言してくる彰人に誤魔化しは効かないようだ。
　思わず俯くこはねの手を優しく握り、こはねを呼ぶ彰人はとても楽しそうだった。
　この接し方一つだけでも、こはねは彰人に好かれていると実感できる。それなのに、知らない女の子と親しげに話している彰人の後ろ姿がチラついて、胸が苦しくなるのはどうにもできなかった。

「っ、わ……私の、だもん……」
「は」
「東雲くんは、私のだもん」

　こはねは絞り出すように言い放ったが、彰人の顔は見ることが出来なかった。あまりにも自分勝手な言い分だ。
　恥ずかしくて泣きそうな気持ちで彰人の手を外そうとしたけれど、彼がこはねを引き寄せるほうが早かった。

　ガタンと大きな音を立てて椅子が揺れる。
　引かれる力に負けて腰を浮かせたこはねは、そのまま彰人の方へつっこんでしまった。
　彰人がこはねの肩に顔を伏せ、そのまま強く抱きしめる。がっちりと腰に回された腕のせいで身動きが取れず、こはねは戸惑いながら彰人を呼んだ。

「……今こっち見んな」

　加減を忘れたように抱きしめられるのは少し苦しいけれど、絶対に離さないと言われているようで嫌いじゃない。
　いつも緩めなシャツの襟元から覗く彰人の肌は赤く、抱き返すように触れた背中が普段よりも温かく感じた。
　どうやら、彰人を嫌な気持ちにさせたわけではないらしい。こはねはほっとしながら力を抜いて、彰人に身を委ねた。


「お前……ほんと、あとで覚えとけよ……」


　ぽつりと聞こえた彰人の呟きは照れ隠しの意味合いが強そうだ。
　こはねはそれを可愛いと思いながら笑い混じりの返事をしてしまったけれど、直後に首を甘噛みされたことには跳び上がるほど驚いて、このときの反応を後悔した。





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