Vischio

ある夏の一幕 前日譚②没ver.


 crase cafeのドアを開け、優しく女店主に出迎えられるとどこかほっとする。
 カウンター席にはすでに冬弥が居て、半分ほど中身の減ったアイスコーヒーが傍らに置いてあった。

「遅かったな彰人」
「オレが最後か?」

 頷く冬弥の視線に誘導されて店の奥へ顔を向ければ、リンとレンの間にちんまりと収まっているこはねの後ろ姿が見える。
 向かいにはミクと杏がいて、中央に並べられた色とりどりの小さな瓶で盛り上がっているようだった。

「なにしてんだあれ」
「小豆沢のプロデュースだそうだ」
「は?」

 要領を得ない冬弥の言葉に反射的に声を漏らすと、メイコのくすくす笑う声とともに目の前にカフェオレが置かれた。
 氷の詰まったグラスからは冷気が感じられて、練習後の熱を冷ますのにもありがたい。
 彰人はメイコに礼を言ってから冬弥の隣に腰を下ろす。ストローを脇に避け、グラスに直接口をつけながら話の続きを待つと、メイコは「こはねちゃんに似合う香水を探すんですって」と言いながら彰人を見て笑った。

「香水? こはねに?」
「ええ」
(いらねえだろ)

 口から出そうになった言葉をカフェオレと一緒に飲み込んでグラスを置く。
 香水探しだなんて唐突にも思えるし、こはね自身が望んだことなのかも怪しい。
 おおかた杏かリンあたりの思いつきだろうと予想するが、こはねの好みを知れるのは悪くない。

「彰人くん!」
「いてえ!!」

 様子でも見に行くかと思った直後、背中に頭突きを食らった。
 なにごとかと首を回せば黒とグレーが配色された大きめのリボンが目に入る。パッと顔を上げたリンは「ミクすごい!」と嬉しそうにはしゃいでいるが、彰人にはわけがわからない。

「なんだよ、どうした?」
「あのね、今日こはねちゃんがお土産持ってきてくれたとき、いつもと違う匂いがしたんだよ」
「……待て」

 なんだか嫌な予感がして話を遮ろうとしたが、彰人の言葉がリンに届いた様子はない。

「こはねちゃんは制汗剤かなって言ってたけど、シュッてしてもらったらちょっと違っててね、」
「リン、ちょっと待て」
「でも知ってる匂いな気がするな〜って思ってたら、ミクが彰人くんじゃないかって。ほんとに彰人くんだった!」

 すっきりした、と笑顔を見せるリンは上機嫌だが、告げられた方はたまったものではない。
 こはねがここに土産を持ってきたのは四人でのチーム練習を始める直前だったはずで、彰人がこはねを連れ出した後。
 直接つけた覚えのない自分の匂いがこはねからするなんて、思い当たるのは彼女を思いきり抱きしめたあれだけだ。

「…………くっそ恥ずい」

 ぼやきながら顔を覆って俯くも、上昇した体温はなかなか下がりそうもない。
 匂いが移るほど抱きしめていたのかと思い返したのも良くなかった。フラッシュバックしたこはねの柔らかさや体温が余計に羞恥心を煽ってきて、喉奥で呻き声を殺した。

「彰人くん大丈夫? と、冬弥くん…」
「うん? ああ、最近よくあることだから気にするな。今は…マーキング行為に思うところでもあるんだろう」
「おい、マーキングとか言うな」
「違うのか?」

 結果的にそうなっただけで、わざとじゃない。それは確かなことなのに、聞き返されて違うと即答できなかった。

「んーと…それって人もやるの?」
「人の場合、対象が自分のものだと周囲に主張するためにする行動──と、本で読んだ」
「こはねちゃんに彰人くんの匂い?」
「そうだな」
「…………そうだな、じゃねーんだわ」

 しれっと肯定する冬弥に思わず口を挟むが、間違っていないだろうと言いたげな表情が返ってくる。
 居た堪れないし、メイコが笑いをこらえているのも見えて、彰人はさっさとこの会話を切り上げたかった。
 なのに、リンがやけに真剣な顔をして質問しているせいでタイミングを見失う。彼女は不安そうに彰人を見ると、少し迷ってから口を開いた。

「こはねちゃんが香水つけたら……彰人くんの匂い消えちゃったら怒る?」
「怒らねえよ。つーか、もうとっくに消えてるだろ」

 くしゃくしゃとリンの頭を撫でながら苦笑すれば、リンはほっと息を吐いて彰人の隣に座る。そのままメイコにレモネードを注文し、床から浮いた足を揺らした。

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