Vischio

　プシュ、と音を立てて、小さな容器から手首へ、霧状の水──香水が吹きつけられる。
　私の手を支えていた東雲くんの指が動いて、馴染ませるようにそっと手首を押さえた。
　自分の体温とは違う。東雲くんのほうが少し高いみたい、と意識した途端に心音が速くなる。
　東雲くんの指が私の脈を計っているような気がして、そこから心臓の速さが伝わってしまいそうで恥ずかしい。
　思わず身じろぐと、ふわっといい匂いがした。東雲くんが愛用しているらしい──抱きしめられたときに意識する匂い。
　どっくん、と心臓が大きく動いたのがわかって、胸元を握りながら咄嗟に息を止めた。

「…ほら、そっちの手も貸せ」

　小さく笑った東雲くんが、楽しそうに香水の入った容器を揺らす。
　胸元から東雲くんの方へ動かした腕のぎこちなさに、自分のことなのに人形みたいな動きだと思った。



　＊＊＊



　セカイでの練習は、気温や天気を気にしなくて良いのがありがたい。見える風景と現実の時間が違う点だけ気をつければ非常に快適と言えた。
　見上げた空は真昼間の青空だが、スマホで確認した現実の時間は夕暮れ時だ。
　季節柄まだ明るい時間ではあるものの、こはねと杏はそろそろ帰したほうがいいだろう。
　冬弥も似たようなことを考えたのか目が合って、自然とチーム練習を終える流れになった。

「東雲くん」
「ん。帰るか」

　杏との挨拶を済ませたらしいこはねが寄ってくるのに合わせて、ボトルのキャップを締めてバッグに放り込む。
　くい、と服を引かれたことに気付いて振り返れば、こはねがシャツの裾を掴んでいた。身体をひねるだけですぐ外せるくらいの控えめな掴み方。
　こういうところを見ると、小動物を前にしているような感覚が湧いてきてムズムズする。
　歌っているときとの差が一番でかいのは、きっとこはねだ。
　向き合いながらこはねの手を取る。逃げられないように、と一瞬浮かんだ考えに従ったが、こいつは逃げるようなタマじゃなかったと思い直した。

「なんか気になるとこでもあったか？」
「あっ、練習のことじゃないの」

　割とよくある話題かと先読みしたが外れたらしい。こはねは迷うそぶりを見せたものの、キリリと表情を引き締めてオレの手を握り返してきた。

「も…もうちょっとだけ、話したいです！」
「……いいけど。お前、時間大丈夫なのかよ」
「うん！　今日は帰るの遅くなるって言ってあるよ」

　内容が予想外すぎて反応が遅れた。
　なんで敬語なんだとつっこみたい衝動もあったが、了承した途端わかりやすく“嬉しい”をぶつけられて、緩みそうになる口元を隠す方が重要だった。


　入り組んだ路地や点在するグラフィティに感想を言い合いながら、人の気配が全くない道をあてもなく歩く。
　なんとなく、以前レンが案内してくれた“秘密の練習場”への道を思い出し、それとは逆の方へ足を向けた。

「そういえば、ミクたちにも持ってったんだよな？」

　片手に下げていた菓子折り──こはねからの土産だ──を軽く持ち上げながら聞けば、こはねはにこにこしながら「喜んでくれたよ」と、どっちが送り主だと言いたくなるくらい嬉しそうに言ってくる。
　それを見たらこはねが不在だった数日間の話が聞きたくなって、さっき通り過ぎたばかりの袋小路まで引き返すことにした。



　到着したあとになって地面に直接座る羽目になるかと心配したが、都合よく座る場所があった。
　話始めこそオレの反応を見ながらの拙い感じだったけど、思い出したときの楽しさが大きくなったのか、こはねは次第に自分から話を広げるようになった。
　スイカ割りに、泳ぎの練習、それからグループ発表。前のめりにあれこれ伝えてくるのが新鮮で、ずっと笑顔なのも可愛いと思う。
　不意に途切れた話が気になって「続きは？」と聞けば、こはねは何故か赤くなって俯いた。照れる要素どこだよ。

「だ、だって、東雲くんが……見るから……」
「別のとこ見る方が変だろ」
「目が……」
「目？」

　見られたくないってことなのかもしれないが、こはねが頬に手を当てて俯くのずるくないか？
　それで恥ずかしいだの言い出すからタチが悪い。

「で、オレの目がなんだよ」

　こはねは口を開いて閉じるのを数回繰り返していたが、聞き出すまでオレが引かないことを悟ったらしい。ものすごく言いにくそうにしながらこっちを見た。

「…自意識過剰かもしれないんだけど、その……す…すき、って、言われてるみたいだなって……」
「…………」
「ご、ごめんね！　やっぱり、違うよね」

　視線を下げて逃げ腰になるこはねの手を掴む。くっそ恥ずい。が、このまま何も言わないのはもっと良くないと直感が訴えてきていた。

「違わねえ」
「え」
「だから違わねえって！　オレはお前が好きなんだから、そういう……ああ、くそ！　オレにはどうにもできねえからお前が慣れろ！」

　横暴だ、と頭の片隅で思うが、それに構う余裕はない。
　こはねは目を丸くして何度も瞬きをすると、ふにゃっと表情を緩めて「そっか」と気が抜けた声をだした。

「慣れるのは無理かなあ」
「はあ……まさかいつもってわけじゃねえだろ？」
「う、うん……練習のときとか、みんなでいるときは違うよ」
「……ふーん？　結構よく見てんだな」
「だって…………好きだもん」

　ここでこいつを押し倒さなかったオレはかなり偉いと思う。
　代わりにこはねの肩に額を乗せて、今聞いたばかりの“好き”を反芻した。

「オレの理性に感謝しろ……」

　びくっと揺れた身体を直に感じながら長々と息を吐く。最近では割と頻繁にやる機会がある深呼吸。
　掴んだままだったこはねの手を一度解放して、下から掬いあげるように握りなおした。

「──写真」
「写真？」
「杏に送ってたやつ以外にも撮ってるだろ、臨海学校のやつ。見たい」

　脱線した話を戻したことに気付いたのか、数秒遅れてから頷く。
　いっぱい撮ったよ、と笑顔で言うこはねに、繋いだ方の手を引っ張られた。
　あ、と漏らしたあと指先が動いたから離せと言われるかと思ったが、こはねは何も言わないまま力を抜いた。
　身体をひねり、空いた手でスマホが入っているらしいバッグの方を引き寄せる。
　──オレはまた試されてんのか？
　この動き、離したくないと言っているようなものだとわかってるんだろうか。
　抱きしめるくらいならいいだろうと判断して、こはねがバッグを膝に乗せたのを見計らってから腕を引いた。

「わっ！？」
「…お前、あんま可愛いことすんな」

　オレの言葉にこはねがめちゃくちゃ戸惑っているのはわかるが、どう説明したらいいのかもわからない。
　とりあえず、自分よりも一回り小さい身体を抱きしめて、フルの曲が一周するくらいのタイミングで解放した。


「探すから少し待ってね」
「ん」

　スマホを操作するこはねを眺めながら、期間中の写真は杏を経由してしか見てなかったというのを思い出す。
　夏祭りのステージに出るための練習をしたあとWEEKEND GARAGEに寄ると、必ずと言っていいほど杏の第一声は「こはねがね！」だった。
　まず客を出迎えろと文句を言ったのは、多少羨ましかったせいもあるかもしれない。

「なあ」
「？」
「次はオレにも送れよ」
「えっと……写真？」
「そーだよ。杏と同じ量とは言わねえけど」

　杏からの又聞きじゃなくて、直接教えて欲しいと思うのは別におかしいことじゃないはずだ。付き合ってるわけだし。
　こはねを見ると、スマホをぎゅっと握り直しながら小さく口を開けた。

「送ろうとは、思ったんだけど…迷って結局やめちゃった」
「……なんでだよ送れよ」
「東雲くんが見ても返信しづらいかなとか……返事、こなかったら嫌だな…とか、色々考えちゃって」
「無視なんかしたことねえだろ」

　う、と言葉を詰まらせつつ、しっかり頷いたことに安堵しながら息を吐く。

「オレに送ろうとしたやつってどれだよ。最初に見る」

　気まずそうに身体を縮めるこはねの肩を抱き寄せて、スマホを見せるように促した。

「ん…と、これ」

　覗き込んだ画面いっぱいに、空が写り込んでいた。薄紫からオレンジに変わるグラデーション。雲の色も含めて、赤みがかったオレンジのほうが多い空の写真。

「いいじゃん。綺麗だな」

　杏から見せられたやつ（カレーライスとかカラフルなガラス石とか）とはジャンルというか……なんとなく、雰囲気が違う印象だった。
　率直な感想を漏らすと、こはねは嬉しそうに頷く。

「朝早くに目が覚めてね、海の方で撮ったの。東雲くんだなって思って」
「これが？　なんでだよ」
「明け方の空って東雲って言うでしょう？　あと、色も…」

　……こいつマジか。朝方に散歩して、空見てオレを連想して写真撮るとか。
　割とこっ恥ずかしいことを言われている気がするが、こはねは数枚撮ったらしい空の解説に夢中だった。
　それが妙に悔しくて、肩を抱く手に力を込める。こはねがこっちを向く前にこめかみに唇を押し付けて、そのまま後で送れと吹き込んだ。
　後ずさろうとしたのか、真っ赤になったこはねが耳を覆いながら身じろぐ。微かに漏れ聞こえた「うー」って唸り声がやたらと可愛くて、思わず声を出して笑ってしまった。


　同じことをされないようにか、直後は気を張っていたらしいこはねだが、オレが別の写真をあれこれ要求してる間に警戒心はどこかへ消えていた。
　こんなにちょろくて大丈夫かと心配になる反面、また同じことを仕掛けたくなる気持ちも湧いてくるから厄介だ。
　それはそれとして、こはねはもっと自撮りしろ。なんだこの少なさ。
　友人に送ってもらったという写真はどれも良いものだったけど、数日の量にしては物足りない。

「……東雲くんは、好きな匂いってある？」
「は？　なんて？　におい？」

　スマホ画面から顔を上げて聞き返すが、こはねは画面を見たままだった。表示されているのはこはねが友人に抱きつかれている写真だ。相手が杏のパターンならよく見るやつ。

「なんでいきなりそんなこと聞くんだ？」
「えっとね、杏ちゃんとか咲希ちゃん…あ、この子だよ。司さんの妹なんだって」
「へえ……いや、あいつの妹はいいから続き」
「あ、うん。ぎゅってされたとき、いい匂いがしたなあって思い出したから」
「……なあ、こはね。そこでオレの好み聞く意味わかってんのか？」

　単なる話題かもしれない。だから期待しすぎるな。
　そう自分に言い聞かせても、心臓は勝手に速くなっていく。
　こはねは身体を緊張させて、背筋を伸ばすようにしてこっちを見た。

「わかってるつもりだよ。東雲くんに抱きしめられるの、好き、だから……いっぱい」

　してほしい、の部分はオレの胸元に吸い込まれてほとんど聞こえなかった。
　ドッドッとさっきからうるさい心臓の音がこはねに直で伝わってそうだが、すぐに放す気にはなれない。
　こはねはいつもほんのり甘い匂いがする。なにもしないそのままで、十分好みだ。油断したら喉を鳴らしてしまいそうなくらいに。

「東雲くんもいい匂いだよね……好きだなあ」
「お前な…」

　これ以上煽るなと言いたい。だが同時に、自分の匂いをまとうこはねに興味が湧いた。
　男女兼用のやつだし、こはねも好きだって言ってるし、有りだろう。

「つけてみるか？」
「いいの？」

　見上げてくる瞳には好奇心たっぷりって感じで、無条件に甘やかしたくなる。目元を撫でたのは無意識だけど、反射的に閉じられたそこにキスをしたのは自分の意思だ。我慢できなかったともいうかもしれない。
　忍耐力には割と自信があったのに、どうもこいつのことになると簡単に揺らぐ気がする。
　このまま触れているのは危ないだろう。名残惜しさを感じながら離れると、こはねはぎこちなく座り直しつつ前髪を整えていた。
　その様子がどこか残念そうにも見えて、だいぶ自分の願望が入ってるなと頭を降って思考を追い払った。


　こはねの手を取り、香水を吹き付ける。
　それを指で馴染ませながら、自分の手で掴むと指先が余る細さに妙な感動を覚えていた。別に初めて見るわけでもないし、今日土産をもらったときにも触れたのに。
　まじまじと見すぎたのか、こはねが気まずそうに身じろぐ。
　空いていた手が胸元をぎゅっと握り、顔を赤くしながら身体をこわばらせた。
　不意にこはねが息を止めたのがわかって、なにしてんだとつっこみそうになったが、ふと周囲に漂う匂いに気づいてやめた。
　いつもならもっと近づかないとわからないもの。これを意識してると思ったし、たぶん当たってるはずだ。

「ほら、そっちの手も貸せ」

　その調子でもっと意識すればいい。ぎこちなく差し出された手に触れながら、堪えきれなかった笑いが漏れる。
　我ながらだいぶ浮かれてるとは思うが、嬉しいんだから仕方ない。
　息を止めてたせいで、逆に大量に吸い込むことになっているこはねが「うぅ」と小さな声を漏らす。キャパオーバーしたのか、ふらりと寄りかかってくるのを受け止めて、こはねから立ち上る香りに満足感を得た。