Vischio

ずるいのはどっちだ


 ピンポーン、とチャイムの音が聞こえた。遠くのほうで鳴ったような気がするし、この部屋のものだったような気もする。
 夢なのか現実なのかすらよくわからないままぼんやりと目を開けて、視界に入った丸っこい頭に思考が引っ張られた。
 色素の薄い髪色をした頭に頬を擦りつけ、ふっと軽く息を漏らしたあとで自分の口が緩んだのを自覚する。いつもよりベッドは狭いし下敷きにされてた腕には痺れが残っているのに、なんなんだろうな、この感じ。幸福感てやつだろうか。
 オレの懐深くまで潜り込んでるこはねを起こさないように、気をつけながら肘をつく。顔のほうに垂れてきている髪をそっと避け、飽きねえな、と感想が浮かんだ。あらわになった顔を見つめながら、また吐息が漏れる。こはねは寝てても可愛い。
 完全に寝入ってる姿は無防備の一言で、見つめたところで表情はほとんど変わらない。それなのに何度も見たくなるし、見るたびに胸のあたりがうずくような感覚があるのが不思議だ。

「……こはね」

 髪を梳いて呼びかけながら、起こさないようにしてたんじゃねえのかと脳内で自問する。それに対して出した答えは“仕方ない”だった。
 寝顔を見ていたい気持ちはある。でもオレを見てふにゃっと顔を緩めたこはねの「おはよう」が欲しくなったんだから、仕方ない。

 ――ピンポーン。ピン、ポーン。

 身じろいだこはねが微かに漏らした声を打ち消すように、チャイムの音が聞こえた。そういやさっきも鳴ってた気がする――が、同時になんだか嫌な予感がした。
 宅配物なら受け取りに出る必要があるだろう。だけど配送予定の連絡は来てなかったし、それらしいものを頼んだ覚えもない。
 訪問者には悪いが居留守を決め込むことにして、スマホで時間を確認しようとしたら着信音が鳴った。驚きながら反射的に電源ボタンを押して音を消す。流れで枕の下に突っ込んだのはほとんど無意識だった。名前を確認する余裕もなかったけど、まあ後で掛け直せば大丈夫だろう。
 少し速くなった心音から意識をそらしてこはねを見れば、ん、と小さな声を漏らしつつ身体を丸めてシーツの中に潜っていった。巣穴に潜り込むハムスターか?

 ――ピポピポーン。ドンドン、ピンポーン。

 こはねにちょっかいを出そうとした途端、嫌な予感を裏付けるようにチャイムが鳴らされる。それから、直接ドアを叩く音。取り立て屋かと言いたくなる所業のせいで眉根が寄った。
 こんな行動をとる相手として思い当たるのはひとりくらいしかいない。
 ため息とともに枕の下からスマホを取り出せば、着信中の画面(ずっと鳴らされていたらしい)には予想どおり“絵名”と表示されていた。

 ベッドから抜け出して、嫌々ながら応答ボタンをタップする。こっちが声をかけるより早く、「やっと出た!」と不満げな声が届いたものだから勝手にため息が漏れた。

「……なにしに来た。つーか、うるせえからチャイム鳴らすのやめろ」
『やっぱり部屋に居るじゃん。さっさと出てよね』
「寝てたんだよ」
『は? あんたが? 珍しい。もうお昼近いのに』

 スマホ片手にドアを開けてやれば、やけにでかい袋を肩に担いだ絵名が立っていた。
 よろしく、と言いながらその袋を部屋の中へ通してくるが、なに当たり前みたいな顔で押し付けようとしてんだ。

「夕方取りに来るからさ、それまで預かってよ」
「は? なんでわざわざオレんちに置くんだよ。そのまま持って帰ればいいだろ」
「これは衝動買いしちゃっただけで、これから別の用事あるから持ち歩きたくないの」

 あまりに勝手な言い分になにも言葉が出てこない。たぶん寝起きで頭が回ってないせいもある。
 反論がないのをいいように取ったのか、絵名は笑って袋の紐をオレに向けてきた。長年染み付いたクセのようなもので、無意識に受け取ってしまったことに舌打ちが漏れる。
 ずしりと腕にかかった重さに思わず中身を確認すれば、絵を描くときの――キャンバスが少なくとも二枚は見えた。

「おい絵名」
「いいじゃん、お土産買ってくるからさ。ついでに一つくらいならあんたのお使い頼まれてあげても――え!?」

 目を丸くして部屋の中へ視線を移す絵名に気を取られた瞬間、ぽす、と背中に軽い衝撃があって腰に細い腕が巻き付いた。反射で跳ねながら首を回せば、まだ覚醒しきってない様子のこはねが背中にくっついている。

「しののめくん、ここにいた」

 ぽやぽやした寝ぼけ声でオレを呼ぶこはねは、腕の力を強めながら甘えるように額を擦りつけてきた。なんだこのかわいい生き物。
 喉まで出かかった感想を飲み込んで荷物をその場に降ろす。壁に立てかけられたのを確認してからこはねの手を取って自分から外した。
 そのまま振り返ると、嬉しそうに笑ったこはねが今度は正面から抱きついてくるもんだから思わず抱きしめ返してしまった。絵名から変に突っ込まれる前に、目が届かない部屋の奥まで連れて行くつもりだったのに。

「ちょっ、ちょっと彰人! こはねちゃんいるなら言っておいてよね!?」
「言うタイミングなかっただろ」

 絵名と言い合う途中で、抱きしめていた身体がびくりと跳ねる。あ、起きたな、と思いながら視線を下げると、髪の隙間から覗くうなじがじわじわと赤くなるのが見えた。
 オレの服を掴み、胸に頭を押し付けて固まっているこはねに笑いが漏れる。動けないなら仕方ないだろうと自分に都合よく解釈して、こはねの脇に手を差し込んで抱き上げた。

「ひゃあ!? し、東雲くん」
「絵名、取りに来るときは早めに連絡入れろよな」
「はいはい、お邪魔しました」

 こはねを肩に担ぎ上げながら背後に向かって言えば、絵名はオレを追い払うようにシッシ、と手を動かしてからドアを閉めた。絵名の仕草にはイラッとしたが、思いのほかあっさり引き下がったことと、さっきからオレにしがみついて「うぅ」と唸っているこはねを見て苛立ちはすぐに消えた。
 起き抜けにそのまま来たのか、こはねはオレのシャツを一枚着てるだけだし、髪は乱れ気味で眼鏡をかけていなかった。ぼやけた視界と寝ぼけ(まなこ)が合わさって絵名に気づかなかったんだろうか。

「恥ずかしいところ見られちゃった……」
「あー……まあ、間にオレ居たし、お前はあんま見えてなかったと思うけど」
「そ、そうかな。そうだといいな」

 あとで絵名に連絡を入れるとブツブツこぼしているこはねの格好を改めて眺めれば、そわりと悪戯心が刺激された。片方の肩が出るくらいだぶついてるシャツは、こはねの太ももの半分辺りまであったはずだ。けど今は担いでるせいか、裾を少し持ち上げるだけで際どいところが見えそうだった。
 好奇心に負けてするりと手を差し入れれば、ツルツルした生地の感触がある。履いてた。

「ッ!? しっ、しの、東雲くんえっち!」

 びくりと跳ねて、動揺して震える声で文句(?)を言ってくるこはねは、オレの行動に抗議するようにしがみつく力を強める。
 オレが担ぎ上げているせいで身動きがとれないから取った行動だろうけど、密着する柔らかさと普段あまり聞くことのない単語にムラッとしてしまった。
 昼だぞ、と脳内から自分を止める声が聞こえる。それを無視してこはねをベッドに降ろし、そのまま覆い被されば、目を丸くしたこはねが素早く瞬きをした。

「えっ、あの、東雲くん……お、起きる、よね?」
「……駄目か?」

 オレの肩にかけられたままだった手を取って、手のひらに口づけてから返す。じわじわ頬を染めていくこはねを見つめていると、唇が小さく開いた。

「ごはん……たべて、から」
「食う前に一回」
「だめ」

 お腹空いてるから、と付け足すこはねは、顔をすっかり赤くさせながらも真っ直ぐこっちを見返してくる。こうなったこいつは頑固だ。
 目元や耳まで色づいて、水気が増した瞳でオレを見るこはねはいかにも“食べごろ”ってやつなのに。お預けを食らった抗議代わりに、あぐ、とこはねの手を甘噛みして、動揺と照れが混じった「東雲くん!」を聞くことで一旦引いた。



 ***



 昼はとうに過ぎ、空がオレンジ色になっても絵名からの連絡は来ていなかった。
 待つのに焦れて、具体的に何時に来るんだと絵名宛てに送ったメッセージには「まだしばらく無理」とテキトーな返事が来た。具体的にって聞いてんだからちゃんと返せよ。
 こはねは今日も泊まっていく予定だから、送り届ける時間の心配はしなくていいけど――絵名からの連絡待ち状態がずっと続いていることや、またいいところで邪魔されそうなのが単純に気に入らない。

「……東雲くん」
「ん? どうした?」

 隣に座っていたこはねがすっと立ち上がり、オレの前に移動してくる。
 見上げると、キリリと表情を引き締めたこはねに両肩を押された。
 力の弱さに思わず笑いが漏れて、口からも同じく「(よわ)」と言葉が飛び出たところで小さな唸り声が降ってくる。

「し、東雲くん、倒れてよぉ…」
「はいはい」

 腰掛けていたのはベッドだから、持っていたスマホをその辺に放りだし、こはねの腰を掴んで道連れにしながら後ろに倒れ込んだ。ひゃあ、と間の抜けた悲鳴とともに上に乗っかるこはねを抱きしめると、腕の中からまた小さな唸り声がした。

「もう、東雲くんはじっとしてて」
「誘ってくれたんじゃねえの?」
「違っ……わ、ない……けど、ちがうの」
「どっちだよ」

 すぐに勢いがなくなった声に笑いながら、じっとしてろと言われたことも忘れて腕に力を入れる。もぞもぞ動いて胸元からオレを見上げてくるこはねは、恥ずかしそうに頬を染めていた。
 どく、と一際大きく動いた心臓に思わず息を止める。ぐっと喉が詰まり、近づいてくるこはねを瞬きもせず見つめたまま、軽く唇を触れ合わせて離れるまで身動き一つできなかった。

「ただの、やきもちだよ」
「――……お前、このタイミングで煽ってくんのずるいだろ」

 オレを見て表情を緩めるこはねは、無意識に“可愛い”とこぼすときの顔をしている。これ、音にしてないだけで絶対同じこと考えてるよな。
 こはねの頬を撫でてから頭を引き寄せて、言葉として出てくる前に口を塞いだ。このまま位置を入れ替えて続行したいが、時間が微妙すぎる。
 絵名のせいでこはねに手を出しづらいのに、絵名のおかげでこはねの可愛いやきもちを見られたのだと思うと複雑な気分だった。

「ん、ぅ……東雲くん、電話、鳴ってる」
「…………後で掛け直す」
「で、でも」

 ――ほら見ろ、やっぱりこうなるじゃねーか!!
 鳴り止まない着信音にこはねを取られ、悪態をつきそうになった口はこはねに噛みつくことで塞いだ。んぐ、と耳に入ってきた声と柔らかな舌に少し気分が上向いたのに、でかくなった着信音(こはねがオレのスマホを掴んで引き寄せたらしい)と、息切れかつ涙目による「絵名さん、から」の言葉に結局中断させられた。くそ。
 こはねごと身体を起こして鳴りっぱなしのスマホをこはねに託す。手に乗せられたスマホとオレを交互に見て、素早く瞬いた後おろおろし始めた。

「オレが出たら絶対長引くから、代わりに頼む」
「えぇ…」

 今の状態でオレが絵名に接したら絶対に文句をぶつけるし、応戦してくる相手とは険悪になるのが確実だ。
 相手(絵名だけど)を待たせているせいなのか、こはねは躊躇いながらもスマホを持ち直した。

「――はい、東雲です」

 こはねを抱えこむように緩く回していた腕が勝手に震える。
 こはねが電話に出たときに名乗るのは別に珍しくないのに、それが東雲姓ってだけでこんなに衝撃受けるもんなのか。
 ドッドッ、と慌ただしく鳴りだした心音を聞きながらこはねを見下ろせば、遅い、とスマホから漏れ出た音声に対して「ご、ごめんなさい」と頭を下げていた。あいつは開口一番に文句言うのどうにかしたほうがいいと思う。
 無言で手を伸ばし、通話をスピーカーに切り替える。ぱっとこっちを振り返り、代わるのかと言いたげなこはねには笑顔を返した。絵名と会話する気になれないのは変わらない。

『……え? は!? え!? なに? なんで!? こ、こはねちゃん……だよね?』
「はい、絵名さん」
『あれ? これ彰人のスマホじゃなかった?』
「あっ、大丈夫です。彰人くんのスマホですよ」

 ――おい。ちょっと待て。お前、滅多に“彰人”って呼ばねえくせに(それこそ、こっちから頼んだときくらいしか呼んでくれない)、なんでそれあっさり聞けるのがオレじゃなくて絵名なんだよ。おかしくないか?

「えっと、東雲くんは今……その、出られなくて。私が代わりに」
『こはねちゃん、あんまり彰人のこと甘やかさなくていいんだからね』

 はい、と返事をしながら、こはねは表情を和らげてオレを見る。妙に嬉しそうな雰囲気が照れくさくてこはねを抱き寄せると、こはねはますます嬉しそうに笑いながらオレに寄りかかってきた。

「……なあ、まだ話終わんねえの?」

 さっさと切り上げて、思い切り抱きしめさせてほしい。
 こはねの頭に顎を乗せて衝動をこらえていると「うわ……」と絵名のドン引きした声がした――すっかり頭から抜けてたけどスピーカーにしてたんだったな。くっそ最悪だわ。

『はあ……彰人、とりあえずあと五分くらいで着くから。今度は居留守やめてよね。あ、お土産はこはねちゃんの好きなものにしたの! 楽しみにしててね!』
「は、はい! ありがとうございます、待ってます!」

 オレとこはねに向ける声の変わりように引く。なのに、こはねは通話を終えたスマホの画面を見ながらくすくす笑って「似てるね」と楽しげに言ってきた。どこがだよ。



 一応宣言通り、だいたい五分後にチャイムを鳴らした絵名を出迎える。
 手土産だという渋めなデザインの紙袋(中身はごま団子らしい)と引き換えに、絵名が置いていった荷物を返した。言いそこねてたけど、五分前連絡はギリギリすぎるだろ。

「あんた、お茶の一杯くらい出す気ないわけ?」
「ない。つーか、うちは荷物置き場じゃねえんだよ。そもそも来るなら前もって連絡しろって言ってんだろ」
「う……ご、ごめんってば」
「……は? 熱でもあんのか?」
「はあ!? なんでそうなんのよ! さすがに、今日のは反省したっていうか……こはねちゃんから、謝られちゃってさ」

 絵名が言ってるのは昼に遭遇したときのやつだろう。もごもご言いづらそうに「私も謝り返したけど、こはねちゃん全然悪くないし」と続ける絵名は、言葉どおり反省中に見えた。
 いつだったか、“ギュッてしたくなっちゃうくらいかわいくて、照れ屋な妹”とやらを欲しがっていた絵名(当てつけるように、弟は生意気だの可愛くないだの言われた覚えがある)はこはねのことも気に入っているらしく、嫌われてないか心配してるみたいだ。もしかして土産がごま団子なのもワイロ的なやつか?
 こはね相手にはまるっきり無駄な心配でしかないと思うけど、これを機にアポ無し突撃が減りそうだったから教えるのはやめておいた。

「――あれ? 東雲くん、絵名さんは?」
「帰った。なんか用事あったのか? これお前にって。ごま団子だとさ」
「ご飯一緒に食べられると思ってたの……あ、ここ気になってたお店だ」

 残念、としょんぼりしたかと思えば、紙袋にプリントされた店名を見てにこにこしている。くるくる変わる表情が可愛くて、後で一緒に食べようね、と笑うこはねを腕の中に閉じ込めた。

「東雲くん?」
「……こはね」

 なあに、と返ってくる声は柔らかい。くすぐったそうに笑うこはねはわかりやすく“嬉しい”を振りまいていて、胸のあたりがむずむずした。

「ふふ、苦しいよ」

 無意識に抱きしめる力を強めてしまったようで内心焦る。だけどそれを緩める前に、こはねのほうから寄りかかってきた。甘えるように、色素の薄い頭が擦りつけられる。
 こはねのせいで、むず痒さのあった胸のあたりが今は引き絞られてるみたいだ。

「こはね」
「なあに」
「……こはね」
「うん、どうしたの?」
「…………すげえ好き」
「ッ!?」

 びくんと大袈裟なくらい跳ねたこはねは、吐息のような音を漏らしながらぷるぷると微振動し続けている。これ大丈夫なのかと顔を覗き込めば、首の方まで赤くして涙目になったこはねから「ずるい」と消えそうな声をぶつけられた。

「お前……ふ、くっ……ははっ、かわい……」
「きゅうに、ずるいよ」
「悪い、なんか言いたくなった」

 力いっぱいオレの服を握りしめて顔を隠すこはねの後頭部にぽんと手を置く。ぐす、と鼻を鳴らす音にはビビったものの、なにも言わないほうがよさそうだったから……ただ抱きしめるだけにした。

 落ち着いたらしいこはねは照れているのか、ぐりぐりと頭を押し付けてくる。加減を忘れたのかわざとなのか、地味に痛い攻撃を甘んじて受けて止めていると、ぴたりと止まって緩く息を吐いた。

「東雲くん」
「ん?」

 こはねは内緒話をするように口元に手を立てて、オレの耳のそばまで伸び上がる。あのね、と吹き込まれる音と吐息で耳がくすぐったかった。

「私も、東雲くんのこと――」

 甘さのにじむ響きは何度聞いても嬉しい。「知ってる」と勝手に緩んだ顔で返すと、こはねが幸せそうに笑う。これはこの先も独占しておくべきだと思いながら、自分からも隠すようにこはねを強く抱きしめた。

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