Vischio

ほしいのは、あなただけ(前編)


- 1 -

 ――小豆沢こはねは、東雲彰人のことが特別な意味で好きらしい。

 自分のことなのにまるで他人ごとのような感覚でいるのは、こはねにとってこれが初めての気持ちだからだ。
 いつからなのか思い出せないけれど、彰人から名を呼ばれるとドキッと心臓が跳ねて体温が少し上がるようになった。それに気づいた当初は同年代の男の子から名前で呼ばれることに馴れていないからだと思っていた。だけど、それにしてはチームを組んで呼ばれるようになってからの時間が経ちすぎているし、レンから呼ばれたときとは微妙に心臓の動きかたが違う。

 それからチーム練習のない日にばったり遭遇したり、偶然彰人とふたりだけの時間ができたときには、そわそわして落ち着かない気持ちと、足元がふわふわするような気持ちがごちゃまぜになる。
 なんとなく、小説や漫画、テレビドラマで見かける表現に近いなと思ったのが最近のこと。それがきっかけになったような気もするけれど、こはねが彰人に特別な感情を向けていると自覚したのは、ほんの少し前。彰人がメイコのパンケーキを食べているのをたまたま正面の席で見ているときだった。
 美味い、と嬉しそうに笑う彼を見て胸がきゅんとしたのだ。その笑顔はこはねのことまで嬉しくさせたし、できればもっと見ていたいと思ってしまった。

 自覚したのはともかく、こはねはこの感情をどう扱うべきなのか迷った。
 チームメイトとしての関係は絶対に崩したくない。かといって気づかなかったことにするのは難しい。おそらく、気づかなかったふりをすることも厳しいだろう。


『――中途半端な覚悟しか持たないヤツが、オレは一番嫌いなんだ』


 出会ったばかりのころ、彰人から言われた言葉が脳裏をよぎる。ぎゅう、と心臓が押しつぶされるようで、こはねは思わず胸元を握りながら目を閉じた。
 この気持ちが中途半端なものだとは思わない。けれど、彰人には嫌がられてしまうかもしれない。
 今以上の関係を望んでいないとはいえ、態度や表情がわかりやすいと言われることが多いこはねだ。隠しごとに向いていないのは明らかだった。

 帰宅してからベッドに入る前まで悶々と悩んだ結果、こはねは杏に相談することに決めた。
 ベッドに腰掛けながらメッセージアプリを立ち上げて、明日は集合時間よりも少しだけ早く来てほしいとお願いする。理由を書き忘れたと焦るこはねをよそに、杏はすぐさま『OK』の文字が入った可愛いキャラクターのスタンプを返してくれた。
 ほっとしながら改めて文字を打つ。相談があることと、お礼も言わなければ。それから時間だ。10分くらいあれば大丈夫だろうとメッセージを送ると、杏が「それは短すぎ」と30分前を指定しなおしてくれた。



「杏ちゃん!」
「こっはねー! ごめん、遅れた?」
「ううん、まだ時間前だよ。ありがとう来てくれて」

 杏の姿を認識してベンチから立ち上がったこはねに応えるように、杏が大きく手を振りながら笑う。足早に公園の出入り口をくぐった彼女は、手のひらを上下させて座るよう促しながらこはねの隣へ腰掛けた。小さな風がこはねの頬をなでて、後を追うようにふわりと華やかな香りが鼻腔をくすぐった――杏は、いつもいい香りがする。

「お礼なんていいって言ったじゃん。それで、相談したいことって?」

 こはねが話しやすいよう促してくれた杏に頷きを返す。そのまま膝にかかるスカートを握りながら口を開いたけれど、なかなか思うようにいかなかった。

「杏ちゃん、あのね……あの、」

 焦りを感じるこはねの背中を杏が優しく撫でる。

「こはね、ゆっくりでいいよ」
「……あの、ね……私……し、東雲くんのこと、好き……みたい」

 とりあえず相談の取っ掛かりとして報告をしなくては、と思ったはいいけれど、実際に口に出すと実感がこみ上げてきて徐々に体温が上がっていく。顔は熱いし、背中に変な汗をかいているのも恥ずかしかった。本題はここからなのに、こんな調子で大丈夫だろうか。
 10分は短すぎると言った杏の予測は正しかったらしい。
 いつの間にか膝を見つめていたこはねは、ちらりと視線を上げて杏の様子を窺う。杏は両目を丸くして固まっていたらしく、こはねと目が合うと思い出したように瞬きをした。

「――え? え? 彰人? 彰人ってあの彰人?」
「う、うん。たぶん、その東雲くんだと思う」

 何度も瞬きをした杏がこはねの両腕を掴んで詰め寄る。杏の勢いに驚きながらも、こはねはこくんと頷いた。お互い驚いていたせいか、謎のやり取りを経てから「そっかあ……」と脱力した彼女はこはねの肩に顔を伏せた。ふわふわした髪に頬を撫でられるのがくすぐったい。

「……ふたりが付き合い始めても、こはねの相棒は私だからね」
「ひえ!? つ、つきあわないよ!?」

 突拍子もない杏の言葉を聞いて、こはねは思わず肩を跳ねさせた。
 パッと顔を上げた杏は“なんで?”と言いたげな表情で、それにはこはねのほうが混乱してしまう。

「相談って彰人と過ごす時間が増えるから、その分私との時間は減りそうってやつじゃないの?」
「ち、違うよぉ…」

 かっかと火照る頬を杏の肩に押し付けながら、彼女の勘違いを訂正する。彰人と付き合いが始まるどころか、こはねには付き合いを始める気すらない。

「今のまま、チームメイトでいるにはどうしたらいいか、相談したかったの。私……隠しごと、向いてないみたいだから」
「あー……私はこはねのそういうわかりやすいとこ好きだけど、確かに難しいかも」

 小さく唸りながら首を捻った杏は「ちなみにさ」と何故か先ほどよりも声を潜めた。

「こはねは、その気持ちどうしても隠しておきたい? みんなにバレたら練習に影響出そう?」
「え? えっと……」

 練習への影響と言われて、自覚するまでのことを思い出してみた。些細な違和感(今思うと彰人を意識していたのだろう)は練習が始まってしまえばどこかへ消えていて、いつも歌のことしか頭に残っていない。

「うぅん……実はね、東雲くんのこと……その、好きって、気づいたのは昨日だから、私にもわからないの。隠したいなって思ったのは……東雲くんに“嫌い”って言われるのが怖いから、かな」
「は?」
「え?」

 急に雰囲気が変わった杏に驚いて顔を上げたこはねは、ガッと先ほどよりも強い力で肩を掴まれて「ひゃあ!」と声を上げた。

「あああ、杏ちゃん?」
「言われたの? 彰人に? いつ?」

 どうか落ち着いてほしい。今にも文句を言いに飛び出してしまいそうで、こはねはそんな彼女を宥めることに必死になった。
 こはねが思い出していた彰人の言葉もちゃんと伝えた。彰人がそれを言ったのは彼と出会って間もないころだったし、その時のこはねは彰人へ言い返したのだ。
 話しているうちに杏も思い出したらしく、眉根を寄せた難しい顔をしながら大きく息を吐き出した。

「――こはねの気持ち、中途半端じゃないんだよね?」
「うん」
「なら心配する必要なくない? っていうか、彰人ってそういうのはちゃんと受け止めそうだけど……こはねだって知ってると思うけどさ」
「……どうしても……もしかしたら、って……思っちゃうの」
「絶対大丈夫だって! むしろ堂々としてたらいいんじゃないかなって思うんだよね。いつもどおりのこはねでさ」

 力強く断言する杏に背中を押され、こはねも大丈夫かもしれないという気分になっていた。隠しごとをしなくて良いのなら、精神面への負担も減る。

「彰人だってさあ、オレのこと好きなのか? とか自分からこはねに聞かないでしょ」

 彰人の真似なのか、わざわざ声色を変える杏に笑う。
 ――もし聞かれたときに、こはねが頷いたら彰人はどうするのだろう。聞き出してから、進展する可能性はないときっぱり言うのだろうか。

(……そうしたら、好きなままでいてもいいか、聞こうかな)

 ぶっきらぼうな態度と口調が目立つけれど、彰人は優しい。それに、周りへの気配りも上手だ。チームのひとりとしてこはねを認めてくれていることも知っているから、影響を出さないならば、と頷いてくれそうな気がする。駄目なら、そのときにまた考えよう。

「こはね、そろそろ集合時間になっちゃうけど、どうするか決まった?」
「……うん。杏ちゃんが言ってくれたとおり、いつもどおりでいる」
「そっか。私にできそうなことあったら言ってね」

 こはねは杏に礼を告げて、ベンチから立ち上がる。
 ぎゅっと両手を握りしめて気合いを入れると、先に声出しを始めておこうと杏へ提案した。





- 2 -


 ――小豆沢こはねは、どうやら東雲彰人のことが好きらしい。

 “らしい”と曖昧な表現にしたのは、彰人がこはねから直接言われたわけでも、別の誰か――例えば杏やミク――から伝え聞いたわけでもなく、彰人がそう感じているだけだからだ。
 彰人自身、自意識過剰だと言いたい気持ちでいっぱいだし、始めは気のせいだろうと思っていた。けれど、気のせいも積み重なれば確信に変わってしまう。

 決定打になったのは、彰人にとっては本当に些細なことだった。
 こはねが道端の段差に躓いてよろけたところを、たまたま一番近くにいた彰人が支えた。わざわざ助けようとしたとか、手を貸したわけではなく、彼女が咄嗟に掴んだものが彰人の腕だっただけだ。
 不意に腕を掴まれたことに驚きながら「大丈夫か」と声をかければ、彼女は彰人と目を合わせ、不思議そうにゆっくり瞬いたあと勢いよく顔を赤くした。

「ごっ、ごめんね! だいじょうぶ……」
「ちゃんと足元見ろよ」
「うん、ありがとう」

 パッと彰人から離した両手で自身の胸元を掴み、返事をしながら少しずつ俯いていくこはね。耳の先まで赤くしているのが珍しくて、彰人は思わず彼女の様子を観察していた。人間はここまで赤くなれるのかと。

「し、東雲くん……あの……あんまり、見ないで」

 不躾なくらい見ていたせいだろう。こはねは声を震わせて、彰人の目から隠れるようにますます俯いていく。「悪い」と呟いて視線をずらしながら、気まずさを覚えたものだ。


 近ごろ、以前よりもこはねの態度があからさますぎる。
 こはね、と名を呼べばパッと彰人のほうを見て、嬉しそうに表情をほころばせる。返ってくる「なあに、東雲くん」にもたっぷり“嬉しい”が含まれていて、用件を伝えるのに一瞬躊躇うこともあるほどだった。
 逆の場合――こはねが彰人へ声をかけてくるときも似たようなもので、彰人が目にする彼女はいつも機嫌良く笑っている。

 ――なんともやりにくい。

 それが、ここ最近の彰人の悩みだ。
 こはねは彰人への態度こそわかりやすいけれど、それについて口にするつもりはないようで、あくまでもチームメイトとしての立ち位置を守っている。
 積極的に距離を詰めてきたりしないし(むしろ以前よりも遠くなっている気がする)、好意をアピールするような気配は皆無だった。
 これで練習に身が入っていないだとか、こはね自身の質が悪くなったとか、チームへの影響がでているのであれば堂々と口を出せたのに。
 練習となれば、こはねから向けられる好意が鳴りを潜めるのが不思議で仕方なかった。
 ――つまり、彰人が気にしなければ現状なにも問題はないのである。

(…………くそ)

 彰人はくしゃりと前髪を掴み、軽く溜め息を吐き出した。気にしないようにすればするほど、気になってしまうのはなんなのだろう。
 少し前まで、こんなにわかりやすくなかったはずだ。なにがきっかけかは知らないが、せめてもう少し抑えてくれたらいいのに。

 正直に言えば、こはねから向けられる好意に悪い気はしなかった。
 彰人も健全な男子高校生なので、異性から好かれている事実には嬉しさを感じる。特にこはねとの出会いは決して良いとは言えないものだったから、意外性も大きかった。
 こんなに気にしてしまうのなら、いっそのこと直接聞いてはっきりさせてしまえばいいのだろうか。

(…………聞けるかよ)

 彰人は再び溜め息を吐き出すと、手にしたグラスに入れられたアイスコーヒーを啜った。
 中身のなくなったグラスからズッと音が鳴るのを聞きながら、遠目にこはねを観察する。彼女は店のカウンターに近い席で、杏と一緒にスマホを覗いて楽しげにしているところだ。おおかた、練習前に杏が宣言していた“イイモノ”とやらを見せてもらっているのだろう。

「……冬弥、」
「ん? なんだ?」
「いや……やっぱなんでもねえ」

 読書を中断して返事をした冬弥にひらりと手を振る。彰人は背もたれに体重を預け、ずるずると脱力した。

(最近のこはねどう思う、なんて……聞いてどうすんだ)

 椅子に身体を沈めたまま片手で顔を覆った彰人は、自分でもなにがしたいのかわからなくて、三度目の溜め息を吐き出す羽目になった。

「東雲くん、さっき杏ちゃんが……ど、どうしたの? 大丈夫?」
「小豆沢、彰人はさっきからこんな感じだ」

 彰人の悩みのタネが無邪気に寄ってくる。かと思えばオロオロしながら彰人を見下ろして、謎のフォローを入れる冬弥に首を傾げていた。

「…………気にすんな」

 椅子に座り直しながら、杏がどうしたと続きを促せば、こはねはパッと表情を明るくさせてテーブルに手をつく。わずかに身を乗り出す仕草から、彼女のテンションが上がっているのがわかった。

「えっとね、杏ちゃんが写真見せてくれたんだけど、貰ってもいい?」
「それオレに聞く意味……待て、なんの写真だ?」

 ガタンと椅子を鳴らして腰を浮かせた彰人に気圧されたように、こはねが一歩下がって目を丸くする。ぱちぱち瞬いてから表情をほころばせて、神高の体育祭だと教えてくれた。

「体育祭? 変なのじゃねえだろうな……」
「東雲くんかっこよかったよ! 借り物競争と、応援合戦のときのだって」

 彰人が漏らしたぼやきに対して即座に返ってきた言葉で、踏み出そうとした足が止まる。思わずこはねを見下ろせば、彼女は杏の方に顔を向けながらにこにこと満面の笑みを浮かべていた。単に思ったことをそのまま口に出しただけらしく、彰人の反応を窺うような計算じみた様子は欠片もない。
 率直で素直な感想は彰人にむず痒さを与えてくる。いっそ打算を感じられたら、こんなに居心地の悪さを感じずに済んだのに。

「杏ちゃんにお願いしたらね、次は杏ちゃんと青柳くんのも見せてくれるって」

 写真だけではなく映像でも見られるように、杏が放送部に掛け合ってくれるのだと嬉しそうに言いながら、こはねは彰人を見上げた。

「お前……許可取りに来といて、もしオレが渡すなっつったらどうすんだよ」

 我ながら意地の悪い質問だと思いながらこはねを見れば、彼女は数回瞬いてからぎゅっと両手に拳をつくり、キリリと表情を引き締めた。

「そ、そのときは、頑張って目に焼き付けるよ!」

 こはねの返答を聞いた彰人は、そこまでする必要あるのかと喉元まで出かかった言葉を飲み込む。うまく表現できない感情が、胃のあたりでグルグルと渦巻いているような気がした。


 わざわざ確認しにきたのかと呆れを見せる杏に、当然の権利だと返しながらも、結局彰人はこはねの手に渡る写真に許可を出した。いつ撮られたのか全く記憶にないもの(明らかに隠し撮り)だったが、特に文句を言うほどの写りではなかったからだ。
 しかし、目の前で自分の写真がやりとりされている光景はなんとも複雑な気分になる。別に嫌悪感はないけれど嬉しいとも言いがたい――実に複雑としか言いようがなかった。

「ありがとう杏ちゃん!」
「どういたしまして! こはね、なにか飲むでしょ? トッピングマシマシ?」
「あ、えっと……うーん……今日はフルーツジュースにしようかな」
「オッケー。彰人と…冬弥はー? おかわりするー?」

 立ち上がった杏は離れた席にいる冬弥にも声をかけ(横着するな、とカウンターの方からぼやきが飛んだ)、注文を確認してから離れていく。
 とりあえず彰人の用事は済んだので元々座っていた席に戻ろうとしたら、ふんふん、と微かに聞こえてきた鼻歌に意識を持っていかれた。鼻歌の主――こはねは機嫌よくスマホを触り、じっと画面を眺め、嬉しそうに表情をゆるめてからそれをテーブルへ伏せる。彰人と目が合うと「わ!?」と声をあげつつ身体を震わせた。

「し、東雲くん、いまの、見てた……?」

 反射的に頷けば、彼女はじわじわと顔を赤くしていく。

「あの、ちゃんと、あるの確かめたくて……あ、東雲くんもありがとう。大切にするね」
「お前な……」

 ――なぜ言う。
 咄嗟に口を覆って、言葉の代わりにゆっくり息を吐き出しながら目を閉じる。彰人が見ていたせいなのかもしれないが、礼を言われたことでこはねが眺めていたのが自分の写真だと察してしまった。そのせいで、なんとも気まずい。

「東雲くん?」

 呼びかけに目を開ければ、言いかけた言葉の続きを促すように首を傾げたこはねが映った。うっすら赤みがかった頬に居たたまれない気持ちになっているのが彰人だけだなんて、不公平だと思う。
 とはいえ、この不満を相手にぶつけるわけにもいかず、彰人は無言のままこはねを見つめた。
 次第に瞬きが多くなり、視線をうろつかせるこはねが落ち着かなげに身じろぐ。俯くこはねの耳が赤くなっているのを見て、不満はだいぶ紛れた気がした。

 思えば、向けられる好意に対して抵抗感のようなものがあるからここまで気にしてしまうのでは?
 好かれて当然、と思えるくらいになれば、ここまで気にせず済むようになるのだろうか。

(……さすがに無理だわ)

 未来のスターを自称する某先輩がぼんやりと浮かびそうになったのを追い払い、彰人は自分の思考にすぐさまバツをつけた。
 好かれて悪い気はしない。けれど、好かれたから好きになるのかと言われればノーだ。
 ただ、自分の中で明確にさせておくのはありかもしれない。
 こはねがあからさまになってからは極力目を逸らしていたものの、いつかは必ず向き合うときがくるはずだ。

「こはね、おまたせー! あれ、彰人まだいる。席こっちに移るの? 冬弥も呼ぶ?」
「……いま戻るとこなんだよ」
「杏ちゃん、」
「え!? どしたのこはね。あ、待って、これあっちに届けてから聞くから。とりあえずこはねの分」

 こはねの前に紙のコースターを配置するのを横目に席を立つ。
 彰人とほぼ同時に冬弥の座る席へ到着した杏は、言いたいことをいくつか飲み込んだような顔で「おまちどおさま」と低音で告げながらふたり分のアイスコーヒーを置いた。

「ありがとう。白石……眉間に皺が寄っているが大丈夫か?」
「今めちゃくちゃ耐えてるとこだから……はあ……よし! こはねのとこ戻る! もし追加で注文するなら父さんに言ってね」
「ああ、わかった」

 あれこれ口を出されるかと思っていたから、杏がなにも言わなかったのは拍子抜けだった。本人が漏らしたとおり“耐えている”のなら、やはりこはねはあのあからさまな好意を彰人へ伝える気がないのだろう。

「彰人、悩みは解消したのか? さっきより、すっきりしているようだが」
「あー……まあ、まだだけど、これからちゃんと見ようと思ってさ」
「……そうか。もし何かあったら言ってくれ」

 あまり突っ込んで聞いてこない冬弥に内心感謝しながら頷く。
 彰人はこはねの方へ目をやって――杏の身体でほぼ隠れていたが――二杯目になるアイスコーヒーに口をつけた。





- 3 -


(……まだ誰も来てないみたい)

 今日は、放課後に集まってチーム練習をする日だった。公園内にある時計へ目をやると、予定より一時間近く早い。これならこはねが一番乗りになるのも納得である。
 スマホを確認しても遅れる等の連絡は入っていないから、みんな予定通り来てくれるだろう。三人は一緒に来るだろうかと考えながら、こはねは自分だけ違う学校であることに少しだけ寂しさを覚えた。
 もしこはねも神高に通っていたら、こうしてメッセージを確認しなくても休み時間に直接予定を聞いたり、帰り際に声を掛けたりできるのに。

「あれ、お前もう来てたのかよ」

 ぼんやりとスマホの画面を眺めていたこはねは、突然声をかけられたことに驚きながら顔を上げた。こはねの方へ歩いてくる彰人を見つめたまま、東雲くん、と無意識に彼を呼ぶ。

「……どうした?」
「え……?」
「顔暗いぞ。なんかあったのか?」

 ぷるぷる首を振って否定しながら、こはねは胸元を握った。制服のスカーフまで一緒に握りしめた感触があって、皺になるかもしれないと頭の片隅で考える。
 どうやら、到着したのは彰人だけらしい。いつもならこの偶然を喜べるのに、先ほど感じた寂しさを引きずっているのか気分が落ちたまま戻ってきてくれない。

「杏ちゃんと、青柳くんは?」
「杏は見かけなかったから知らねえけど、冬弥は本屋寄ってからくる……こはね」

 名を呼ばれたことで、とくん、と心臓が跳ねた。同時に、こはねの視界に彰人の靴が映り込む。いつの間にか下がっていた視線に気づいて顔を上げれば、彰人が目の前だった。

「え!?」
「おい、危ねえ」
「ひえっ!?」

 勝手に後ずさった足がもたついて身体が傾いたと思ったら、腕を彰人に掴まれる。思っていたより手が大きいとか、力が強いとか、どうしてこんなに近いのかとか――混乱しながら彰人を見返したこはねは、じっと見られていることにますます混乱して固まった。

「し、東雲くん?」
「……戻ったな」

 彰人が満足そうに呟くから、なにがだろうと意味を聞いたら「顔」と端的な返事をされた。そっと離された腕を自分で掴むと、遅れて実感が湧いてきて心音が速くなる。じわじわと上昇していく体温――特に顔が熱い。そのうえ、喉も渇いてしまった。

 このごろ、彰人との距離が近い気がする。

(それに……よく、目が合う、ような……)

 気づくと彰人を目で追っていることが多いのだが、こはねの視線を察知したかのように見返される。大抵の場合、先に目を逸らすのはこはねだ。じっと真っ直ぐ見つめられるとドキドキして落ち着かなくなってしまうから、見続けるのが難しい。
 そのせいかはわからないが、彰人といるときは頻繁に喉が渇いた。
 水は普段からカバンに入れているけれど、こはねが飲みたいと思い浮かべるのは味が濃いめのものだった。それも、いつもは好んで飲むトッピングを盛った甘いコーヒーではなく、果物か野菜のジュース、ミルクやココアあたりが飲みたくなる。
 あいにく今は持ち歩いていないし、練習前に取るには重い気がして、こはねはカバンから取り出した水を何口か飲んだ。

(……なんだか、足りない、みたい)

 持続したままの渇きに空咳をして、再びペットボトルのキャップを開ける。少しのつもりだったのに、中身を空にしてしまった。これでは練習中の水分補給ができなくなってしまう。
 ふいに近寄ってきた彰人へ、公園の自動販売機まで行ってくると伝えようと彼を視界に入れた瞬間、目の前がチカチカと明滅を繰り返した。

「お前、やっぱり体調――こはね!」

 ぐにゃりと景色が歪んで足から力が抜ける。身体が傾くのがわかっても、咄嗟に踏ん張ることも、声を出すこともできなかった。
 直後、身体がなにかにぶつかる。ドサ、と重いものが地面に落ちる音が聞こえたけれど、こはねに痛みはなかった。

「っぶね……おい、こはね」

 ぎゅっと強く閉じたまぶたの奥で、暗闇がぐにゃぐにゃ動いている気がする――喉が、渇いた。

「くそ、こういうときどうすりゃ……あ、救急か。スマホどこだ」
「……しの、のめく……」
「うお!? びびった……意識はあるな? 立てそうか?」

 目は開けたはずなのに、視界が暗いうえに彰人の声が異様に近い。こはねの肩に触れている手が熱くて、勝手に身体が震えた。

「ご…めん、ね……大丈夫」
「バカ、謝んな。つーか、それのどこが大丈夫なんだよ。あー……、勝手に運ぶからな」

 彰人から声をかけられているのはわかるのに、まるで水の中で聞いているような感じがした。音が籠もっていて聞き取りづらい。ぐらぐらしたままの視界が気持ち悪くて目を閉じた瞬間、ぐっと強く肩を掴まれて地面から足が浮いた。

「っ!?」

 突然の浮遊感に心臓が竦む。こはねは咄嗟に掴んだものを思い切り握りしめながら、素早く瞬きを繰り返した。
 目の前に映る紺色のブレザーを認識するより早く、ごくりと喉が鳴る――おいしそうな匂い。

「着いた。降ろすぞ」

 彰人の声にハッとしたこはねは、はく、と空気を食んで唾を飲み込んだ。

(……私……いま……東雲くんのこと、かじろうとした……?)

 自分の行動が信じられなくて、呆然としながら顔を伏せる。額が触れている部分――彰人の肩がびくりと揺れたことを認識して、こはねの思考はすぐに塗り替えられてしまった。これは、距離が近いどころではない。
 ベンチのひんやりした感触、ギッ、と軋む音。こはねは彰人に触れているし、こはねも彰人に触れられている――ここまで運んでもらったのだという事実が少しずつ浸透してきて、なにも考えられなかった。

「……離していいか?」

 耳元から聞こえる彰人の声で、一気に頭に熱が昇る。こはねは焦りながら彼の制服を掴んだままだった手を開いた。

「あっ、あ、あの、ありがとう……ごめんね……」

 身体も声も震わせながら、縮こまるようにして胸元を握る。いくらか視界が明るくなったことで、彰人が離れたことを知った。
 うるさいくらい脈打つ心臓を押さえ、ゆっくり呼吸を繰り返す。ある程度は落ち着いたけれど、忘れかけていた喉の渇きまで一緒に戻ってきてしまった。
 こはねは喉に触れて唾を飲み込む。一度に色々起こりすぎて、また目眩を起こしそうな気がした。

「お前、今日は帰ったほうがいいんじゃねえの」

 みんなと練習はしたいけれど、今のこはねでは迷惑をかけてしまうだろう。
 彰人の言うとおり、帰って休んだほうがよさそうだ。

「……うん。杏ちゃんと青柳くんに言ったら、帰るね」

 残念な気持ちが隠しきれないまま頷くと、ドサッと音を立てて隣に彰人が座った。軋むベンチと彰人の行動に驚いて、びくりと身体が跳ねる。
 思わず彰人を見れば、彼はスマホをいじりながら「明日の夜」と呟くように言った。

「よ、よる……?」
「バイト終わってからならパート練付き合ってやれるけど、どうする」

 こはねは何度も瞬きをして、彰人の言葉を反芻する。
 こっちじゃなくて向こうでやる、と付け足されたことに「いいの?」と返したあとで、ドッと心臓が大きく動いた。嬉しい。

「元々ソロ練するつもりだったからいい。その代わり、お前ちゃんと体調戻しとけよ」
「うん……、うん! ありがとう東雲くん!」

 彰人へ礼を言いながら、嬉しさで胸がいっぱいになる。
 嬉しさに紛れて、不安が湧いた――これ以上、好きになったらどうしよう。
 チームメイトとして、一緒に過ごす時間があるだけで十分幸せだったのに。
 こんなふうに優しくされたら“もっと”と欲が出てしまいそうで怖かった。





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