Vischio

ある夏の一幕 前日譚②


 シュ、と微かな音を立て、彰人の手の中に収まっている容器から出た霧状の水――香水がこはねの手首へ吹きつけられる。ふわりと漂う香りは思っていたものと少しだけ違う気がして、こはねははてなマークを浮かべながら彰人に支えられたままの手首をじっと見つめた。
 彰人の指が動き、香水を馴染ませるように優しくこはねの手首を押さえるのがドキドキする。

(……東雲くんのほうがあったかい)

 触れる指先の温かさで彼の方が体温は高いようだと意識した途端、こはねの心臓が大きく跳ねた。彰人が触れているのは脈拍を測るときにも押さえるところで、そこから心臓の速さが伝わってしまいそうで恥ずかしい。
 少しでも落ち着かせようと胸元を握りながら身じろいだものの、ふわりと漂う匂いを意識して、またもやドクリと心音が大きくなった。少し違う気がするとはいえ、彰人に抱きしめられたときに感じるそれ。
 顔全体が熱くなり、思わず俯いたこはねを見て彰人が楽しそうに笑う。

「そっちも貸せ」

 差し伸べられる手のひらに、胸元を握っていた手を近づける。こはねはぎこちなく動く自分の腕を見ながら、人形みたい、と他人ごとのように思った。



***



 セカイでの練習は、気温や天気を気にしなくて良いのがありがたい。見える風景と現実の時間が違う点にだけ気をつければ非常に快適と言えた。
 ペットボトルを傾けて、水を飲み込んでから空を見上げる。彰人の目に映る空は真昼間の青に染まっているが、スマホで確認した現実の時間は夕暮れ時だ。
 季節柄まだ明るい時間ではあるものの、こはねと杏はそろそろ帰したほうがいいだろう。冬弥も似たようなことを考えたのか目が合って、自然とチーム練習を終える流れになった。

「東雲くん」
「ん。帰るか」

 杏との挨拶を済ませたらしいこはねが寄ってくるのに合わせ、彰人はペットボトルのキャップを閉めてバッグに放り込んだ。
 くい、と服を引かれたことに気付いて振り返ると、こはねがシャツの裾を掴んでいた。身体をひねるだけですぐ外せるくらいの控えめな掴み方は、彰人を落ち着かない気分にさせる。
 まるで小動物を前にしているような感覚を覚えながら、歌っているときといないときのギャップが一番大きいのはこはねだろうと彼女を見つめた。
 彰人は身体を反転させ、自分の服を掴んでいたこはねの手を取る。逃げられないように、と一瞬浮かんだ考えに従った行動だったけれど、脳裏に浮かんだいつかの彼女を思い出して密かに笑った。

(……こいつは簡単に逃げるようなタマじゃなかったな)

 とはいえ、今のこはねはあのときの――もう逃げない、と真っ正面から宣言してきた彼女とは雰囲気が違う。視線は下がっていて、なにか言いづらそうにしているので彰人のほうから切り出すことにした。

「なんか気になるとこでもあったか?」
「あっ、練習のことじゃないの」

 練習後には割とよくある話題かと先読みしたが、どうやら外れたらしい。こはねは迷うそぶりを見せたものの、意を決したように表情を引き締めて顔を上げ、両手で彰人の手を握り返してきた。

「も……もうちょっとだけ、話したいです!」

 ほんのり赤く染まった頬と柔らかな手、緊張が伝わってくる声に息を呑む。遅れて理解した内容が予想外すぎて、なんで敬語なんだとつっこみたい衝動よりも緩みそうになる口元を隠す方が重要だった。心臓がうるさい。

「……いいけど。お前、時間大丈夫なのかよ」
「うん! 今日は帰るの遅くなるって言ってあるよ」

 了承した途端、ぱっと明るくなる雰囲気に弾む声。
 赤みの増した頬と和らぐ目元がわかりやすく“嬉しい”を表現していて、彰人はたまらずにこはねを腕の中に閉じ込めた。

 入り組んだ路地や点在するグラフィティに感想を言い合いながら、人の気配が全くない道をあてもなく歩く。
 途中でレンに案内してもらった“秘密の練習場”への道を思い出した彰人は、さりげなくそれとは逆の方へ足を向けた。彼の秘密基地を勝手にバラすわけにはいかない。

「そういえば、ミクたちにも持ってったんだよな?」

 片手にさげていた菓子折り――こはねからの土産を軽く持ち上げながら聞いた彰人に、こはねは「喜んでくれたよ」と嬉しそうに笑う。どちらが送り主だと言いたくなる笑顔につられて口元を緩めた彰人は、不意にこはねが不在だった数日間の話が聞きたくなった。
 どうせなら落ち着いて話したい。こはねに意図を伝えてみたら、彼女はぽんと手のひらを合わせ、先ほど通り過ぎたばかりの袋小路はどうかと提案してくれた。

 目的地へ到着したあとになって地面に直接座る羽目になるかと心配したけれど、都合よく座れる場所があったことにほっとした。
 錆びついて見えるベンチを軽くなぞったが、汚れてはないらしい。先に腰掛けた彰人がこはねを見上げる。微笑んでうなずいたこはねが腰掛けた位置は、彰人から拳二つ分ほど離れていた。こはねが無意識にとる彰人との距離。

「……もうちょいか」
「え?」

 不思議そうな顔をするこはねをじっと見つめる。
 これでも、付き合い始めた直後よりはだいぶ縮まったほうだ。ふたりきりになると、チームメイトとして接するときよりも遠くに行くこともあったのを思えば、よほどいい。
 彰人は首を傾げる彼女に「別に」と笑いながら返事をして、空いていた隙間を埋めるように座り直した。

 こはねが体験してきた臨海学校の話は、最初こそ彰人の問いかけに応える形での質疑応答に近かったが、次第に思い出したときの楽しさが大きくなったのか、少しずつこはねの方から話を広げるようになった。
 砂浜でのスイカ割り、新しく増えた友人と泳ぎの練習、それからグループ発表。嬉しそうな笑顔のまま、前のめりにあれこれ伝えてくるのが新鮮で可愛い。
 彰人は極力口を挟まないよう、適度に相槌を打ちながらこはねの話に聞き入っていたが、ふと話し声が止んでしまった。

「こはね?」

 続きは、と聞けば彰人を凝視していたこはねが突然赤くなって俯く。その様子にはドキッとしたものの、こはねが赤面した理由がわからず、呼びかけることしかできなかった。

「だ、だって、東雲くんが……見るから……」
「別のとこ見る方が変だろ」
「目が……」

 しどろもどろに伝えてくる様子をじっと観察してしまう。赤い顔を見られないようになのか、両手で頬を包みながら俯くこはねはずるいと言わざるを得ない。
 彰人の心臓に負担をかけておきながら、追い打ちをかけるように「恥ずかしい」と呟くのだから本当にたちが悪いと思う。

「オレの目がなんだよ」

 こはねは口を開いて閉じるのを数回繰り返していたが、聞き出すまで彰人が引かないことを悟ったらしい。
 とても言いづらそうに、チラと視線だけを上げて彰人を見た。

「……自意識過剰かもしれないんだけど、その……す……すき、って、言われてるみたいだなって……」

 だんだんと小さくなる声に比例するように、こはねが縮こまる。彰人がそんな彼女を見つめたまま無言で固まっていたせいか――好意が駄々洩れていると指摘されたも同然の衝撃で動けなかった――こはねはパッと顔を上げると下手くそな笑顔を見せた。

「ご、ごめんね! やっぱり、違うよね」

 自嘲するように言うこはねを見て、彰人は慌てて彼女の手を掴む。湧き上がってきた羞恥心を抑え込んでの行動だったが、このまま何も言わずにいたらもっと良くないことになると直感で悟っていた。

「――違わねえ」
「え」
「だから、違わねえって! オレはお前が好きなんだから、そういう……ああ、くそ! オレにはどうにもできねえからお前が慣れろ!」

 横暴だと頭の片隅で思いながら、彰人はそれに構う余裕も、体裁を取り繕う余裕も持てなかった。
 勢いに任せた彰人の言葉に、こはねは目を丸くして何度も瞬きを繰り返す。彰人をじっと見返してから手元へ視線を落とし、ふにゃりと表情を緩めて「そっか」と気の抜けた声を出した。

「慣れるのは無理かなあ」

 ドキドキしちゃうから、と付け足された呟きに何かしら言い返したい気持ちが湧いたが、うまく形になってくれなかった。
 こはねの声と表情に安堵が混じっていたことに気づいた彰人は、ガシガシ頭を掻いてから掴んだままだった彼女の手を引いた。ぽす、と肩に軽い衝撃を受けながら頬をこはねの頭に押し付ける。小さく身体を揺らしたこはねには気づかなかった振りをして指を絡めた。

「はぁ……まさか、いつもってわけじゃねえだろ?」
「う、うん……練習のときとか、みんなでいるときは違うよ」
「……ふーん? 結構よく見てんだな」
「だって…………好きだもん」

 恥ずかしそうにしながらも、はっきり聞こえた言葉に息を呑む。それを言うタイミングで、細い指をそろっと動かして繋いだ手を握り返してくるこはねは彰人を試しているのだろうか。

(――んなわけねえのが厄介なんだよな)

 本音を言えば、この場で今すぐ押し倒してしまいたい。彰人はそれを実行に移す代わりにこはねの肩に額を乗せて、今聞いたばかりの“好き”を反芻した。

「オレの理性に感謝しろ……」

 びくりと揺れた身体を直に感じながら長々と息を吐く。最近では割と頻繁にやる機会がある深呼吸だが、そのうちこれでは治まらなくなりそうで不安だ。
 大切にしたい。けれど、不意にめちゃくちゃにしてやりたくなるのも事実だった。
 彰人は胸の奥にある乱暴な衝動に蓋をするように、ゆっくりと目を閉じた。

「――写真」
「写真?」
「杏に送ってたやつ以外にも撮ってるだろ、臨海学校のやつ。見たい」

 話しながら、彰人はこはねの手を解放する。それが引っ込められる前に下から掬いあげるように握りなおしていると、脱線した話を戻したことに気付いたのか、こはねが数秒遅れて頷いた。

「いっぱい撮ったよ」

 こはねは笑顔を見せながら彰人に掴まれたままの手を引く。あ、と漏らしたあとに動いた指先が少しくすぐったい。次は、離せと言われるだろうか。
 焦らすつもりでいた彰人の予想に反して、こはねは何も言わないまま力を抜いた。そればかりか、手を動かさないように身体をひねり、空いた手でスマホが入っているらしいバッグの方を引き寄せる。

(……オレはまた試されてんのか?)

 こはねの動きは、このまま離してほしくないと言っているようなものだとわかっているのだろうか。
 脳裏に浮かぶ理性と本能の天秤がぐらぐらと揺れている。
 彰人は奥歯を噛み締めてから、抱きしめるくらいならいいだろうと結論付けて、こはねが膝にバッグを乗せたのを見計らって腕を引いた。

「わっ!?」
「……お前、あんま可愛いことすんな」

 彰人の言葉にこはねが戸惑っているのは伝わってくるが、彰人も彼女にどう説明したらいいのかわからない。とりあえず自分よりも一回り小さい身体を抱きしめて、流しっぱなしの「Untitled」が切りよく一周するタイミングで放した。



「探すから少し待ってね」
「ん」

 スマホを操作するこはねを眺めながら、こはねが不在の間に送られてきた写真は杏を経由してしか見ていなかったというのを思い出す。
 冬弥と夏祭りのステージに出るための練習をしたあとにWEEKEND GARAGEに寄ると、必ずと言っていいほど杏の第一声は「こはねがね!」だった。
 まず客を出迎えろと文句を言ったのは、多少羨ましかったせいもあるかもしれない。

「なあ」
「?」
「次はオレにも送れよ」
「えっと……写真?」
「そーだよ。杏と同じ量とは言わねえけど」

 杏からの又聞きじゃなく、直接教えて欲しいと思うのは別におかしくないはずだ。自分たちは付き合っているのだから。
 そう考えつつこはねを見ると、彼女はスマホをぎゅっと握り直しながら小さく口を開いた。

「送ろうとは、思ったんだけど……迷って結局やめちゃった」
「……なんでだよ送れよ」
「東雲くんが見ても返信しづらいかなとか……返事、こなかったら嫌だな……とか、色々考えちゃって」
「無視なんかしたことねえだろ」

 う、と言葉を詰まらせつつ、こはねがしっかりと頷く。彰人は密かに安堵しながら息を吐き、わざと彼女に寄りかかった。

「オレに送ろうとしたやつってどれだ? 最初に見たい」

 彰人は気まずそうに身体を縮めるこはねの肩に腕を回して抱き寄せると、スマホを見せるように促した。

「ん……と、これ」

 彰人が覗き込んだ画面いっぱいに、鮮やかな空が映り込んでいた。薄紫色からオレンジ色へ移り変わるグラデーション。空と同じ色に染まった雲も含めて、赤みがかったオレンジ色のほうが多い空の写真だった。

「いいじゃん。綺麗だな」

 率直な感想を述べながら、杏から見せてもらった写真を思い出す。カレーライスやシーグラス、浜辺で見つけた貝殻、小さなカニ……それらとは、なんとなく雰囲気が違う印象を受けた。
 彰人の感想を聞いたこはねが嬉しそうに頷く。密やかにこぼれた笑い声は、秘密でも打ち明けるかのようだった。

「朝早くに目が覚めてね、海の方で撮ったの。東雲くんだなって思って」
「これが?」
「明け方の空って東雲って言うでしょう? あと、色も……」

 こはねは数枚撮ったらしい空の解説に夢中だったが、彰人は今言われた内容に衝撃を受けて、言葉もなくこはねを見つめていた。

(……こいつマジか)

 朝方に散歩して、空を見上げたときに彰人を連想して写真を撮ったと――割と恥ずかしいことを口にしていると思うのだが、こはねがそれに気づいた様子は全くない。
 当たり前のように振る舞われることが、さらに彰人へ衝撃を与えているのに。
 自分ばかり意識しているのが悔しくて、彰人はこはねの肩を抱く手に力を込める。ぴく、と反応したこはねが彰人の方を向く前にこめかみへ唇を押し付けて、唇を触れさせたまま「後で送れ」と吹き込んだ。
 肩を跳ねさせ、真っ赤になったこはねが鳴き声のようなものを発する。後ずさろうとしたのか耳を覆いながら身じろいだが、彰人の腕を外すほどの勢いはない。

 「うー」と微かに漏れ聞こえた不満げな唸り声の可愛らしさに、彰人は思わず声を出して笑った。

 同じことをされないようになのか、いたずらされた直後のこはねは気を張って身体を緊張させていた。
 しかし、彰人が別の写真をあれこれ要求している間に警戒心はどこかへ消えたらしく、再び身を寄せて楽しげに思い出話をしている。
 こんなにちょろくて大丈夫かと心配になる反面、また同じことを仕掛けたくなる気持ちも湧いてくるから厄介だ。
 彰人の心情はさておき、こはねはもっと自撮りすべきだと思う。いくらなんでも少なすぎるだろう。彼女が友人に送ってもらったという写真はどれも良いものだったが、数日の量にしては物足りない。

「……東雲くんは、好きな匂いってある?」
「は? なんて? におい?」

 こはねからの唐突な問いかけは直前の話題――水泳教室が云々と繋がっていなかったうえに、普段の彼女が選ばないような内容だったから混乱した。
 彰人は顔を上げてこはねを見たが、彼女は手元の画面を見続けている。表示されているのは、こはねが友人に抱きつかれている写真だ。相手が杏のパターンなら割とよく目に入る光景。

「なんでいきなりそんなこと聞くんだ?」
「えっとね、杏ちゃんとか咲希ちゃん……この子だよ。司さんの妹なんだって」
「へえ……いや、あいつの妹はいいから続き」
「あ、うん。ぎゅってされたとき、いい匂いがしたなあって思い出したから」

 単なる話題の一つかもしれない。だから期待しすぎるな。そう自分に言い聞かせても、彰人の心臓は勝手に速くなっていく。

「――なあ。その流れでオレの好み聞く意味わかってんのか?」

 思っていたよりも真剣な問いかけになってしまったことを後悔しそうになったけれど、こはねは身体を緊張させて背筋を伸ばしながら彰人を見返してきた。

「わかってるつもりだよ。東雲くんに抱きしめられるの、好き、だから……いっぱい、して」

 ほしい、の部分は耐えきれずにこはねを抱きしめた彰人の胸元に吸い込まれ、ほとんど音にならなかった。
 ドッドッと先ほどからうるさい心臓の音が、触れた部分からこはねに直接伝わっていそうだが、とても解放する気にはなれない。
 こはねの発言は、言い換えれば『いっぱい抱きしめてほしいから東雲くんの好きな匂いが知りたい』だ。こんなの抱きしめるしかないだろう。
 こはねはいつもほんのり甘い匂いがする。なにもしないそのままで、十分彰人好みだった。油断したら喉を鳴らしてしまいそうなほどに。

「東雲くんもいい匂いだよね……好きだなあ」
「お前な……」

 箍でも外れたのか、こはねが彰人に擦り寄ってさらりと好意を口にする。これ以上煽るなと言いたい。
 同時に、彰人の匂いをまとうこはねに興味が湧いた。彰人が愛用しているのは男女兼用のものだし、こはねも好きだと言っているし有りだろう。

「つけてみるか?」
「いいの?」

 彰人を見上げる瞳には好奇心がたっぷり込められていて、無条件に甘やかしたくなる。その目元を撫でたのは無意識だが、反射的に閉じられたそこにキスをしたのは彰人の意思だ。我慢できなかったとも言うかもしれない。
 忍耐力には割と自信があったはずなのに、こはねのことになると驚くほど簡単に揺らぐ気がする。
 彰人は自嘲気味に笑いをこぼしつつ、このまま触れているのは危ないだろうと判断した。
 名残惜しさを感じながら離れれば、ぎこちなく座り直して前髪を整えるこはねが目に入る。その様子がどこか残念そうにも見えて、だいぶ自分の願望が入っているなと頭を降って思考を追い払った。

 手のひらを上向けて声をかけた彰人に、こはねは戸惑いながら自分の手を乗せた。
 ふ、と思わず漏れた笑い声に反応して乗せられた手が震える。そっと彼女の指先を握り、くすぐるようにしてから「逆」と告げて手首を返した。

(ほせ)え……)

 彰人はこはねに吹き付けた香水をやんわりと馴染ませながら、自分の指先が余るこはねの細さに妙な感動を覚えていた。別に初めて見るわけでもないし、今日土産をもらったときにも触れたのに。
 まじまじと見すぎたのか、こはねが気まずそうに身じろぐ。空いていた手が胸元をぎゅっと握り、次第に赤くなっていく顔を俯けながら身体をこわばらせた。
 不意にこはねが息を止める。なにしてんだ、とつっこみそうになった彰人は、ふと周囲に漂う匂いに気づいてやめた。いつもならもっと近づかないとわからないもの。これを意識していると思ったし、たぶん当たっているはずだ。

「そっちも貸せ」

 その調子で、もっと意識すればいい。
 彰人はぎこちなく差し出された手に触れながら、堪えきれなかった笑いを漏らす。傍から見ても浮かれていると判断されそうだが、実際こはねに意識されていることが嬉しいから仕方ない。
 息を止めていたせいで逆に大量に吸い込むことになっているこはねが「うぅ」と小さな声を漏らす。
 息苦しさのせいか、それとも匂いに酔ったのか、ふらりと彰人に寄りかかってくるのを受け止めた。
 ふわりとこはねから立ち上る香り。彰人はそれに満足感を覚えつつこはねを抱きしめる。
 いっそ自分のと混ざりあって同じになればいいのに。
 そんなことを考えながら、彰人は抱きしめる力を強めて笑った。





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