Vischio

夢のしじまに見たものは、


 ふと気づくと、こはねはひとり真っ白な空間にいた。見渡す限りなにもなく、誰も居ない。
 これは夢だろうな。そう漠然と考えながら、視線を下げて自分の状態を確認する。髪は降ろしっぱなしで、着ている服がパジャマだからベッドへ入ったときの格好だ。眼鏡はかけていないけれど、視界ははっきりしている……気がする。
 自分の手のひらでぼやけ具合を確かめようとしたところ、鮮やかな赤が目に飛び込んできてぎょっとした。
 右手の小指。その根元が帯状に赤くなっている。けれど、なにかがくっついている感覚はない。夢だから感覚も鈍っているのだろうか。

(…………毛糸、かな? リボン?)

 指にぐるりと巻き付いているそれに触れても凹凸は感じられず、そこにあるのがわかるのに[[rb:触 > さわ]]れないのが不思議だった。
 よく見れば、赤い帯からはひょろりと糸状のものが伸びている。こはねの手首には届かないくらいの長さ。短いとも言えるそれを見ながら、“運命の赤い糸”の話を思い出した。
 こはねが最初にその話を知ったのはいつだっただろう。テレビドラマか、小説か、漫画か……友人たちとの会話かもしれない。特定の時間に鏡を覗くと運命の相手が見えるとか、そういう類の噂の一つ。
 運命の相手に繋がっていると言われる赤い糸――こはねの糸は短くて、どこにも繋がっていないから相手はいないのかもしれない。

 翌朝は夢の内容を引きずったまま目が覚めた。寝た気がしないせいか、少し頭が重い。
 ぼんやりしたまま手を確認してみたけれど、当然赤い糸は見えなかった。



 それから数年あまりの時間が経ち、そんな夢を見たことすら忘れていたある日、こはねは再び真っ白い空間に放り込まれていた。既視感を覚えたことで、いつか見た夢の続きかと自身を見下ろす。
 着ているのがオーバーサイズのラグランシャツ――こはねのものではない――だったことに加え、下着をつけていないことに気づいて勢いよくその場にしゃがんだ。
 かっかと火照る頬を自覚しながら太ももの辺りまである裾をぎゅうっと握りしめ、言葉もなく呻いてしまう。なにも着ていないよりマシだと思わなくては。

「落ちる前に着とけ」

 寝入る直前、半分以上は夢の中だったこはねにそう言いながら、持ち主――彰人がシャツを被せてくれたところまではなんとなく覚えている。

(起きても覚えてたら東雲くんにお礼言おう……)

 彰人はこはねがこの格好である一因でもあるが、そこはお互い合意の上だと考えないことにした。
 しゃがんだ状態のまま、だぶついて指先まで隠す袖を引き上げる。前に赤を見たのは右手だったはずだと左手を使ったけれど、その左手側から赤い糸が垂れてきたことに驚いて動きを止めた。
 改めて右手の小指を見てもなにもない。どうやら移動しているようだ。
 もしかしたら左右に意味はないのかも。絡まないように相手に近い方になるとか――そんないい加減なことを考える。

(…………でも)

 こはねの糸の先は、相変わらずどこにも繋がっていなかった。以前は手首に届かないくらいだったのが、しゃがんだ状態の足元でたわむくらいには長くなっているけれど、それだけだ。
 ここにあるのに触れない糸はホログラムのようにも見える。夢ではなく、あの不思議なセカイでなら触れたのだろうか。もし触れたら――
 自分の思考にはっとして顔を上げる。きょろりと改めて周囲を見渡してみても、真っ白な空間にはこはねしか居ない。それなのに、なんだか呼ばれたような気がした。



 まばたきをした。した、はずだ。あやふやなのは、つい先ほどまで白だった視界が急に暗くなったから。いま何時だろう。
 夢との境目が曖昧で落ち着かないこはねに、すぐそばから聞こえる寝息と心地よい温かさは安らぎをくれた。
 ほっとしたのも束の間、上半身には圧迫感がある。逃れようと身じろぐと、間近にある彰人の顔に一瞬だけ不満が浮かんだ。あれ、と思いながらよく見れば、こはねを抱えるようにして彼の腕が乗っている。圧迫感の原因はこれだったらしい。
 彰人が目を覚ましてしまわないように、ゆっくり時間をかけて身体を起こす。それから左の袖をまくってみたけれど、案の定指にはなにもついていなかった。
 ――存在しない赤い糸。もし触れたなら。
 夢の中と同じことを考えながら、こはねは無防備に投げ出されている彰人の手――その小指に自分の左手の小指を絡めた。

(ここに、結んじゃうのに……)

「……なにかわいいことしてんだ」
「!? お、起きてたの? 起こしちゃった?」
「りょうほう? いや、ちがう……起きた」

 寝ぼけているのか、いつもよりのんびりした言葉づかいの彰人は少し可愛いと思う。それを口にすると不満げにするから気をつけているけれど、考えることは許してほしい。

「寝てるオレとしかしねえの?」

 先ほどよりもはっきりとした口調で言いながら、彰人の腕がこはねの腰をとらえる。
 なんの話かと彰人を振り返れば、ゆびきり、と囁くように言いながらこはねの小指の先から根元を焦れったい程の速度で撫でてきた。
 ぞわぞわして、油断すると変な声が出そうになる。この触り方は絶対、わざとだ。
 こはねに合わせて身体を起こした彰人に抱え込まれ、左手を取られたと思ったら小指の根元を甘噛みされて、結局恥ずかしい声は出た。

「もう、東雲くん!」
「じゃあ、なに約束してたんだよ」
「してたのは指切りじゃなくて」
「なくて?」

 聞き返され、こはねは口を滑らせたことを後悔した。
 夢の延長であなたと赤い糸を結ぼうとしていました、と報告するのは、どう取り繕って説明したとしても恥ずかしい。かといって彰人相手に誤魔化しきるのも相当難しいように思う。



 ――結局、こはねは夢の話から洗いざらい話すことになり、羞恥で今すぐ夢の中に戻りたい気分だった。彰人は話している途中から無言になってしまうし、笑わないでねと言っておいたけれど、いっそのこと笑い飛ばしてもらったほうが楽だったかもしれない。

「――こはね」

 熱の籠もった呼びかけと共に、力強く抱きしめられたことに戸惑う。
 ちゅ、ちゅ、とこはねの首元でリップ音を鳴らしたと思ったら、べろりと肌を舐められて痛いくらいに吸われ、一気に夜の雰囲気へと引きずり込まれた。

「なっ、ぁ……な、んで……んっ、東雲く……まっ、て、まって!」
「お前がかわいいから無理」
「か……、」

 こはねの反論は彰人に飲み込まれて消えたあげく、懇願じみた彰人の一回で終わらない“もう一回”を受け入れた結果、翌日のこはねはベッドの住人だった。
 甲斐甲斐しくこはねの世話を焼く彰人はとても楽しそうだったけれど、もっとこはねの体にも優しくしてほしい。



***



「こはね、指貸せ」
「なあに?」

 こはねの後ろに座ったかと思えば、彰人が急にそんなことを言い出す。雑な言い方に笑いながら手を持ち上げると、左手を取られて小指の先から根元をなぞられた。いつかと違うのは、小指の根元に輪っかがおさまっていることだ。銀色で、細身の指輪。

「……え!? ど、どうして!?」
「これ見たときにお前のこと思い出したから。緩くないか?」
「ぴったりだよ……あの、ありがとう、嬉しい」

 彰人が銀色の指輪とこはねをどう結びつけたのかは謎だが、じわじわ広がっていく嬉しさを閉じこめるように右手で左手を覆う。そこに確かにあることを実感して、ますます嬉しくなってしまった。
 何度も目の前にかざして眺め、指で触れてを繰り返しているこはねを見ていたのか、彰人が吐息混じりに笑う。楽しげな雰囲気が気になって振り返ろうとしたものの、背中にぴたりと密着されているうえ、いつの間にかこはねの腰には彰人の両腕がベルトのように巻きついていて身動きが取れなかった。
 振り返るのを諦めたこはねは、力を抜いて彰人に寄りかかる。お腹の辺りで組まれている彰人の手に自分の手を重ねて彰人を呼ぶと、頭に口づけが落ちてきた。笑いながら身をすくめるこはねに、彰人はますます腕の囲いを狭め、今度はこめかみへ柔らかくキスをした。





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