Vischio

オドロキセラピー


「オドロキ先輩、ハグしてもいいですか」
「…うん?」

本日の業務は終了、さて帰ろうと伸びをしたタイミングでの言葉に、オレは中途半端な姿勢のまま発言者を見た。
横に立ち、両腕を広げて待機する彼女の名は希月心音。
成歩堂なんでも事務所の新人にして、オレこと王泥喜法介に初めてできた後輩である。
彼女の行動には驚かされることが多いが、今日はなんだというのか。

「どうしたの、希月さん疲れてる?」
「はい。なのでこう…ぎゅっとですね」
「それ思いっきり絞める気だろ嫌だよ!」

空気を抱きしめる仕草をする希月さんの目は据わっていて怖い。
それにオレは知っている。細腕にも関わらず、彼女は意外と力強いということを。

「そういうのは他の人に……そうだ、ユガミ検事に頼んだら?」
「絶対断られるうえに長時間説教コースに入りそうなので却下です。だいたい今から検事局まで行きたくありません」
「じゃあ成歩堂さん…」
「ナルホドさんは今日出張じゃないですか!みぬきちゃんだと折っちゃいそうで怖いし」

オレならいいのか、と訴えを視線に乗せて希月さんを見たが効果はないらしい。
彼女は上向けた手のひらを下から上へ動かしながら「Stand up!」と妙に発音よく言った。そういえば帰国子女だったな。
海外にいた希月さんにとって、ハグは挨拶感覚なのかもしれない──挨拶に絞め技まがいのことを仕掛けられるなんて迷惑極まりないが。

彼女を納得させるために根気強く説得する面倒くささと、想定される苦しさ及び一時の恥ずかしさを秤にかけた結果、後者に軍配が上がった。
諦め混じりの溜め息とともに腰を上げると、希月さんが「さすが先輩!」と笑いながら寄ってくる。
体当たりに備えて身構えていたがほとんど衝撃はなく、希月さんの腕が腰に回る。髪か、服か…ほんのり香る柑橘系の匂いに戸惑って思わず息を止めた。
大差ない身長(たいへん不本意だが)のせいで、顔が予想以上に近い。触れたらいけない気がして両腕をあげる──銃を突き付けられたかのように──と、なぜか密着度が増した。
スーツ越しとはいえ、女性特有のやわらかさに喜んでしまうのは男のサガというものだろう、うん。けれど普段はあまり意識していないことだから、戸惑いも大きい。

「き、き、希月さん!」
「…先輩、ボリューム控えめでお願いします。耳痛いです」
「あ、ごめん。じゃなくて、さ…その……っ、ぐ、ぅ…苦しい苦しい…!!」

要望通り、心もち声を潜めたのに。ぎゅう、と胴を締め付ける力が一気に強まり息が詰まった。
ギブアップだと彼女の背中をポンポンたたいて訴えても、力は弱まる気配がない。
もう胸が当たっていると伝える余裕はなく、このまま締め落とされるかもしれない危機感に冷や汗が出た。

──どうしたらいい。オレも希月さんにやり返せば気づくか?

軽く酸欠状態の思考が出した結論をそのまま実行する。直前で理性が働いてくれたおかげで力は抑えたつもりだけど、眼下にある黄色い背中は思っていたよりずっと細くて、どのくらい衝撃が伝わったのか不明だ。
びくっと大きく震えた希月さんは締め付けをやめ、「くぅぅ…」と妙な唸り声とともにオレの肩に顔を押し付けてくる。
希月さんの代わりにモニ太が“ずるい”と連呼しているのを聞きながら、遅れてやってきた羞恥心が彼女に伝わっていないことを祈った。

(……女の子、なんだよなぁ……)

華奢な身体にふわっとした柔らかさ。咄嗟に触れるのを避けたのは、これを自らの手で確かめるのが怖かったのかもしれない。
いささか速い心臓の音と、頭部(特に耳と頬の辺り)に集中している熱を早く治めたいのに、希月さんにくっつかれたままでは難しい。

「希月さん」

大声にならないように、注意して呼びかけたらほとんど音になっていなかったけれど、この距離だし届いただろう。
かすかに揺れる三日月と、うっすら赤みを帯びている耳がやけに目につく。
──触れたら熱いだろうか。
確かめてみたい衝動に駆られた直後、青みがかった瞳に捕まった。
お互いの近さに固まるなか、モニ太だけが元気に“近い!”と叫ぶ。

「ご、ご、ご、ごめん!触りたいって思っただけで、触ってないから!!」
「い、いえ!わたしこそ、色々すみません!!」

パッとオレから距離を取った希月さんは、ふらふらと自席に戻っていく。
両手で顔を覆いながら、もう一度「ホントにすみません」と呟いた。隠せていない耳が赤い。

「えーと…その、疲れてたんだろ?大丈夫、気にしてないから」
「……先輩、感情のノイズすごいですよ」
「そこは気付いてもつっこむなよ!」

一応自分なりに後輩を気遣ったつもりだったのに、台無しだ。

「ふふ…ありがとうございます」

顔をあげた希月さんは笑いながらそう言って、髪に触れる。
せわしなく尻尾のように束ねてあるそれを弄るのは、照れているときのクセだ。

「……どういたしまして。希月さんの疲れが取れたなら付き合った甲斐があるよ」
「いつもは部屋にあるクッション使うんですけど、昨日ついに破けちゃいまして」

破けるなんて大袈裟だろうと思ったが、腕輪はぴくりとも反応しない。
酷使された結果ボロボロになったクッションを想像して、思わず胸の辺りを確かめるように叩いた。大丈夫、どこも痛くない。

「オドロキ先輩、お礼と言ってはなんですが触りますか?」
「は?」
「さっき“触りたい”って言ってたじゃないですか」
「いや、忘れていいよ」
「先輩になら貸してあげるのに」

右耳に下がる三日月を弾きながらのセリフに、認識がずれていることに気づいた。
けれどイヤリングじゃないんだと言ったところで、墓穴にしかならないだろう。

「じゃあヤタブキヤで食べて帰りましょうよ。わたしが奢りますから!」
「後輩に奢らせるのもなぁ…」
「気にしない気にしない!」

さあさあ、と腕を引っ張られつつ急かされて苦笑が漏れる。
随分元気になったものだと感心しながら、事務所の施錠を確認した。

◆◆◆

「そういえば、先輩って別にお日様の匂いしませんね」
「嗅ぐなよ…」
「不可抗力です!しのぶが“おどろきさんは太陽みたいな人だから”って言うから、する気がしてたんだけどなぁ。普通にミントの匂いでした」
「…希月さん、恥ずかしいからやめてくれる?」
「え、恥ずかしいですか?別にくさいって言ってるわけじゃないのに」
「…………。希月さんはグレープフルーツみたいな匂いがしたよ」
「!?」
「ほら!」
「て、照れてません!オドロキ先輩も同じ匂いにしてあげますよ!!」
「ちょっ…いらないって!これから飯なんだから希月さんも駄目!」
「くぅぅ!!」

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