Vischio

現実世界ED後

長い夏休みの終わりと同時にやってくる新学期。
適温には程遠い気温と、人が集まることで湿度が増した空間は地獄と言っていい。

“式典には指定の制服を着てくること”

そんなことを決めたのは一体誰なのか。暦の上では秋なのかもしれないが、始業式の9/1はまだまだ残暑も厳しい夏だなんてわかりきっていることだ。そんな時期に冬服着用というのが間違っている。

春に支給された深緑色のブレザーの下でYシャツが限界を訴えている気がする。
周囲は水を打ったように静かだけれど、これが式典のためなのか、それとも暑さゆえにしゃべる気力もないのかわからない。

思考が鈍くなってきた己の脳を自覚して、紅蓮はゆっくりと息を吐き出した。
とにかく暑い。
この空間に閉じ込められて30分ほど経つが、これでは倒れる生徒がでてきそうだ。
息苦しさに我慢できず、注意されない程度にネクタイをゆるめる。
その動作をみられたのか、隣の女子が声を潜めて具合が悪いのかと聞いてきた。
まさか自分が体調不良者と勘違いされると思って紅蓮は苦笑して返す。

「サンキュ」

小声で礼を言うと、彼女は安心したような様子を見せてから前に向き直った。
淡々と進む式典が流す音を右から左へ流しながら、先ほど緩めたタイを見下ろす。
前に通っていた霧埜付属では夏は夏服だったはずだ。
さほど遠いことでもない終業式の様子を思い出しながら、同時に海楠の終業式にも出たっけ、と矛盾した記憶が引っ張り出された。

(やべ……)

夏休みの不思議な体験から還ってきた日から、紅蓮の思考は時折こうして混濁する。
現在の海楠高校に通っている自分と、“彼女”の弟として過ごしてきた自分の思い出。
過ごしてきた過去の時間、どちらの思い出も事実として認識され、そこに矛盾が生じると新しく記憶が塗りかえられていく。
自分自身でさえよく飲み込めないまま、強引な処理作業が脳内で行われるのは苦痛でしかたない。
“彼女”との関係性、その一つが違うだけなのに──

◆--◆--◆--◆--◆

紅蓮は額にひんやりとしたものを感じて目を開けた。
見慣れない天井と独特の空気と匂い。どうやらここは保健室のようだ。
ボンヤリとした頭で身体を起こすと、窓が開けられているのか、日光で温められた生暖かい空気が頬を撫でた。

「おや。おはようございます、紅蓮くん」
「げ」

起きて始めに見るのならやはり女性がいい。
いや、そんな贅沢は言わない。

(こいつじゃなきゃ誰でもいい)

心の中で悪態をつきながら、水の張ってある洗面器を手に入ってきた青年を見上げる。
紅蓮が起き上がったことで額からずり落ちたタオルを拾い上げた青年は、苦笑を浮かべ肩を竦めて見せた。

「ご挨拶ですね。迎えに来た保護者に対してその態度はあんまりじゃないですか?」
「頼んでねーし。っつーかなんで迎…………あ」

なぜ自分がここに居るのかを思い出した紅蓮は口を閉じ、思わず溜息をついた。
──式典の最中に倒れたらしい。

「悪いな、わざわざ」
「大丈夫ですか? 少しですが熱があるそうですから、このまま帰れるように手配してもらいました。今日は始業式で授業もないそうですし、問題ないでしょう。君にとっては不本意だと思いますが、僕の家に連れて行きますよ」
「…………は?」

口を挟む間もなく、テキパキと帰宅の準備をする青年はサラリと理解できない内容を吐いて携帯を取り出した。
なぜ彼の家にいかなければいけないのか、疑問に思う反面仕方ないと思っている自分もいる。

(こいつは、オレの、保護者代わり…)

比較的軽度で処理された情報から得たものは、彼が幼馴染で成人している友人で、海外に赴任している両親の代わりに自分の保護者役をしているということだった。
だから彼が迎えに来るのも、発熱してる自分を一人暮らしの家に帰さずに彼自身の家に連れ帰るのも当然だ。

(……ってそんな簡単に納得できるかよ)

少なくとも“彼女”の弟として過ごしていた記憶の部分がどうしても反発心を産む。
こいつは敵でライバルで──そもそも他人なのに。

「なぁ、ローゼンライト、」

問いかけようとしたものの、彼が自身の口元へ人差し指を立てる動作に止められた。

「睦子? 僕です、今時間ありますか?」
(トキコ、は…ローゼンライトの彼女、だな)
「ええ、車を回してほしくて……いえ、すみません今日は無理なんです」

夏休み中に訪れた不思議な世界に関する記憶は、運の中ではなかったことになっているようだった。
彼の中では最初から自分は今の自分で、“彼女”の弟としての速水紅蓮は消えている。

こちらに還ってきたときから繰り返されている情報処理の内容から推測するに、自分と“彼女”に関わる部分のみ記憶の差異がでているようだ。
現にこうして運の彼女、トキコについての自分の認識に変化はない。

変わった部分、変わらない部分、弟としての記憶。こうして存在している自分が今まで過ごしてきた記憶。
弟として体験してきた事実がいつの間にか今の自分のことにされるのはどういう力が働いているんだろう。
異世界に渡った身としては、今更なにが起ころうとも受け止めて流せる気がする。
この不快感だけは慣れないが。

(気持ちわり……)

一人でぐるぐる考えていると、決まって“彼女”に会いたくなる。
自分と同じ思い出を持っているのは、もう“彼女”しかいなくなってしまった。
会って、触れて、真実を確かめたい。異世界での出来事は夢物語で、弟として過ごした日々も一緒に消えてしまいそうで恐い。

(…………瞳)

チャイムが響いてくるのを遠くに聞きながら、紅蓮はベッドに横になった。
身を起こしているよりは気持ち的に楽になれる気がする。

ところで、この男は自分を連れて帰宅してくれるはずじゃなかったか。
未だに通話を続ける男を呆れ混じりに眺め、息を吐く。
先ほどのチャイムは休憩を知らせるものだったのか、にわかに廊下が騒がしい。

暑いと騒ぐ声がチラホラ聞こえて、やはり皆気持ちは同じなんだと可笑しくなった。

(あれ、そういやブレザー)

ベッドに寝かされていた自分はブレザーを着ていなかった。
おそらく養護教諭が脱がせてくれたんだろう。視線をめぐらせると近くの椅子にかけてあるのが見えたので、取りにいこうとベッドを抜け出した。
途端にぐらりと揺れる視界に辟易してつい舌打ちが漏れる。新学期が始まったばかりだというのに、こんなことでちゃんと生活できるだろうかと心配になる。

ブレザーを手に取ると同時に、保健室のドアが勢いよく開いた。
音に驚いて顔を向けると、ひざに手をついて呼吸を整えている女生徒の姿。

「…………るい?」

高く結われた髪に飾られている薄紅色のリボンと、そこから伸びる緩やかにウェーブがかった色素の薄い髪。
短めのスカートから伸びる形の良い脚とそれに添えられている手…どこをどう見ても“彼女”でしかない。
大体、自分が“彼女”を見間違えるわけがない。

「ぐっちゃ、ん……」

未だに息を切らせて、室内に一歩足を踏み入れた彼女は若干動きを強張らせて紅蓮を見た。

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