Vischio

風邪の時には。

≫本編中、紅蓮自覚直前?
≫オリキャラ注意。

あ、まずい。
そう思ったときには既に遅く、瞳はリビングの床に両手をついていた。
家に帰ってきた直後はまだ頭がぐらつく程度だったのに、無事に辿り付けたことで気が抜けたのかもしれない。
身体はゾクゾクと震えるほど寒いのに、漏れてくる息は熱くて苦しくて──思考が働かない。
母は、と視線を巡らせようとして思い出したのは、今朝の話。
両親は連れ立って、今日は遅くまで帰らないと聞いた。

『瞳ちゃん、顔赤いけど大丈夫なの?』

そのときは大丈夫だったのに。
部活も途中で抜けるはめになるし、これくらいの体調管理もできないなんて。
少しずつ悪いほうへ考えが傾くのがわかるけれど、思考は止まることなく渦を巻く。

(もう寝た方がいいみたい……)

はぁ……、と熱の篭った息を漏らし、立とうとしたまではよかった。
しかし足に力が入らない。
立とうとする意思に反して体が言うことを聞いてくれない。

「うそ、でしょ……」

このままリビングに転がってたら症状が悪化するだけなのに。
瞳はキュッとくちびるを噛むと、近くにあったカバンを引き寄せた。

(誰か……)

ふ、と思い浮かんだ姿と共にカバンから携帯電話を探り当てる。
短縮の1番に──勝手に登録された──繋げながら、祈るように携帯を握り締める。

(お願い、出て)

こんなふうに不安になるなんて変だと思うのに、何かに縋っていたかった。
呼び出しのコールを聞く間に床を這って、ソファの傍まで移動する。
瞳がソファに寄りかかると同時に、耳元でブツ、と回線の繋がった音がした。

『はい』
「ぐっちゃん……」
『瞳?どーしたんだよ、部活は?』

スピーカーから流れてくる声は慣れ親しんだもので安心する。
ホッと息を吐き出しながらぐっちゃんは声の通りもいいんだ、とどうでもいいことを考えた。

『瞳?』

このままずっと聞いていたい。
ぼんやりしかけたところで“瞳”とまた名前を呼ばれた。
後ろから聞こえる賑やかな音から、紅蓮が街中に居るのがわかる。
今日は休日だし、買い物にでも出掛けているのだろう。
それとも大事な大事なバイクの様子でも見に行くところだろうか。

『……なぁ、』

何かを言いかけた紅蓮の声に混じって微かに別の声を拾った。
電話の相手を訪ねる音は女性の声だ。

『ん?あぁ、……──姉貴』

ぐらりと。
急に眩暈が強くなった。ガンガンと頭を叩く音がするような気さえする。
どうして急に?何故か心臓までドクドクと脈を打ちだしている──苦しい。

「……ちゃ、ん」

苦しい。いやだ。
何が嫌なのかよくわからないまま、首を振る。
当然眩暈は更に強くなり、ソファに寄りかかっているにも関わらず、身体が傾いだ。
瞳は短く呼吸を繰り返しながら、携帯電話を握り締めた。

「ぐっちゃ……帰…きて……」

瞳は自分の言葉にハッとして口を塞いだ。

──今、私はなんて言った?

いつもはこんなこと言わない。紅蓮が誰かと一緒に居るとわかっているときには絶対だ。
きっと紅蓮は彼女と──あぁ頭が痛い。
まるでこれ以上考えたくないというように、頭痛が酷くなる。

『わりぃ、よく聞こえなかった──瞳、大丈夫か? お前今朝具合悪そうにしてたろ?』

唐突に柔らかくなった声音に、身体がびくりと震えた。
これ以上はダメだ。気付かれる。
幸いにも咄嗟に口をついて出た言葉は届いていなかったのだから、このまま乗り切りたい。

「ん……へ…き」

本当は帰ってきて欲しい。
でも弟のデートの邪魔をするなんて冗談じゃない。
瞳が搾り出した言葉を、電話口の相手は盛大な溜息と共にあっさり切り捨てた。

『全然平気じゃねーだろ。んな苦しそうな声出しといて平気とかバカじゃねーの?』
「バ!?」
『聞こえなかったのか? バーカ。バカ瞳』
「~~~~ッ!!」

あまりの内容に声がでない。
仮にも病気の姉に向かっていくらなんでもそこまで言うことはないと思う。
──紅蓮にはハッキリと伝えてないけれど、気付いてしまっているのだろう。

『待ってろ、すぐ帰る』

いいから、と言おうとした途端、ブツリと音を立てて通信が切れた。

「…………ばか」

もう通じていない携帯をソファの方に放り投げて、憤りを発散させる。
彼女を放り出して姉を心配するなんて、紅蓮はバカだ。そう思うのに。
なのに──嬉しいと思っている自分も居るなんて。

「……私、そんなに……ブラコンだった、かな……」

せめて部屋まで行かないと、帰ってきた紅蓮が驚く。
頭ではわかっていても、行動に移せない。
瞳はズルズルと床に倒れこみながら、重くなってきた瞼をそのまま閉じた。

◆◆◆

休日の昼下がり、商店街を歩きながら今朝のやり取りを思い出す。
部活があるという瞳は、珍しく予定時間よりも早くリビングに居てオレンジジュースを飲んでいた。
ぼーっとした表情と減っていないコップの中身。自分よりも早く察知した母が声をかけたものの、瞳は「大丈夫」と笑ってそのまま出かけた。

熱があるに違いないのに、この炎天下に部活だなんて大丈夫だろうか。そもそも運動ができるのか。
倒れるようなことになっていないだろうか。

──こんなに気になるくらいなら、あのとき強引に止めておけばよかった。

こっそり様子を見に行ってみようか、終了時間に迎えに行くくらいなら許してくれるだろうか。

「…速…く…待…」

家に風邪薬はあったと思うから、それを用意して。
夕飯は消化のいいものを食べさせよう。果物もあったほうがいいかもしれない。

「速水くんてば!」
「うぉ!?」

黙々と考え毎をしながら歩いていた紅蓮は、自分の肩をポンと叩かれて思わず声を上げるほど驚いた。
その様子に目を丸くした相手は直後に笑いだし、小さく「ごめん」と謝る。

「そんなに驚くと思ってなくて。買い物?」
「あ、ああ……まあ、そんなとこ」
「私もー。偶然見かけたから声かけちゃった。ね、この後暇?」

にこにこしながら話しかけてくる少女は紅蓮のクラスメイトで、普段から気さくに話しかけてくる人物だった。
誘われて特に断る理由もないが、今の自分は瞳のことで頭がいっぱいで十分な話相手には向かないだろう。
それに、お茶にも買い物にもでかける気分ではない。

「用事あるなら断ってくれて全然いいよー?」
「いや、あー……わりぃ」

微妙に申し訳ない気分になりながら謝ると、タイミングを見計らったように携帯電話が鳴った。
流れるメロディから相手が瞳だと気づいて受信ボタンを押した紅蓮は、聞こえてきた弱々しい声に目を見開いた。
呼びかけてくる調子と時折掠れる声。隠しきれていない呼吸が朝よりも浅くなっているようで不安を煽る。

「なぁ、」

やっぱり具合悪いんだろう、と問い詰めようとしたところで横に居た友人がからかう様にニヤリと笑った。

「速水くんてばそんな顔しちゃって~、やっぱいるんだね、カ・ノ・ジョ♪」

からかうのはどうでもいいが、肘で付いてくるのは痛いのでやめてほしい。
「皆に言わないと」とか「これでいくつかの恋は散っちゃったねぇ」などと言い出すものだから、呆れながら電話口の相手は姉だと説明した。

──瞳を“姉”だと告げたそのときに、不思議と胸が痛くなった。
自分にとって瞳は、続柄に当てはめたくない相手なのかもしれない。

電話越しにもバレバレの態度を見せるくせに強がる瞳の声を聞くのは正直辛い。
普段はもっとわがままじゃなかったか?
わざと悪態をついて、それ以上無駄な言い訳を聞かなくて済むように自分から先に通話を切った。

海楠高校へ向かっていた足を自宅に変更する。
途中から静かになっていた友人は眉根を寄せて、不思議そうに首を傾げた。

「カノジョかと思ったのになー」
「…違うって」
「私の勘、結構当たるのに」

そんなの知るか。
恋愛経験豊富だと自称しながら横を歩く友人は、紅蓮の表情や口調が恋人に対するそれだとブツブツ言っている。
そういわれても、どんな反応をしたらいいのかわからない。
どう思われようと彼女が自分の姉であるという事実は変わらないし、恋人なんてどう考えてもありえない。

(……絶対、ねーんだよな……)

関係性は覆らない。確かに瞳のことは放っておけなくて目が離せなくてずっと傍に居たい存在で。
誰よりも、何よりも大切だけれど。
どう転んでも絶対に“恋人”という関係にだけはなれない。

そう考えること自体が不自然だ。
わかっているのに、先ほど痛んだ胸の辺りがまた疼いた気がした。

傍らの友人に適当な理由をつけて別れの挨拶を済ませると、近所のスーパーに寄って夕飯の材料を買った。
瞳はちゃんと休んでいるだろうか。
考えながら歩いていると、思いのほか早く自宅に着いた。

「ただい、ま」

自分の声が軽く息切れを起こしていて驚く。
そんなに焦って歩いてきた覚えはないのに、身体は正直で苦笑する。

瞳からの返答がないのはわかっているが、肌に感じる雰囲気が妙で胸騒ぎを覚えた。
玄関からすぐに瞳の部屋へ様子を見に行こうとして踏みとどまる。
僅かに開いているリビングのドアが異様に気になった。頭の中では早く瞳の部屋へ行こうと思っているのに、どうしてもそちらを選べない。
考えるより動いたほうが早い。そう判断したオレは、そのままリビングのドアを開けた。
──ドク、と心臓が大きく鳴る。
暗い部屋。ソファの傍で横たわる、影。

「ッ、瞳!!」

呼びかけても微動だにしない瞳を見て、一瞬最悪な考えが脳内を掠めた。
否定と同時に舌打ちを漏らし、大股で近寄る。
焦りながらも瞳の体調を優先させて、できるだけそっと抱き起こす。

触れた身体が熱くて、手が震える。泣きそうだ。

(落ち着け……)

自分が取り乱していたら、それだけ処置が遅れる。
紅蓮は硬く目を閉じて、深呼吸を数度繰り返した。

腕にかかる重さと熱を確かめる。ぐったりした瞳は苦しそうに呼吸をし、小さく震えていた。

「瞳……瞳っ」
「…………。…ぐ…っちゃ…?」

声と気配に反応してくれたのか、瞳はうっすら目を開けて紅蓮を映した。
反応があったことに安堵して、知らないうちに止めていた息を吐き出した。

「おかえり」

こちらの気持ちなどお構い無しに笑みを浮かべて言う瞳に、思わず文句が出そうになる。
そんな挨拶をしている場合じゃないくせに。

「……、ただいま」

苦笑して答えながら、軽く汗をかいているために額に張り付いている瞳の前髪をかきあげる。
目を閉じた瞳は紅蓮に寄りかかり、ゆっくり息を吐き出した。

「歩けるか?」
「ん。だいじょうぶ、ありがとう」
「………………」

紅蓮を支えにして立とうとする瞳は、危なっかしくて全然大丈夫そうに見えない。
これで階段を上がるのは不安すぎる。

「瞳、腕貸せ。もっとこっち、そうそう。ちゃんと捕まってろよ?」
「きゃ!?」

言いながら瞳の腕を首に回させて身体を寄せた紅蓮は、そのまま瞳を抱き上げた。

「ぐ、ぐっちゃ…」
「部屋行くまでだから我慢しろって」
「だだだだって」

すっかり意識が覚醒したのか、先ほどよりも気力を感じられる様子に安心する。
未だに自分の心臓は余韻を引きずって早く動いているけれど、そのうち落ち着くだろう。

慎重に時間をかけて階段を上がる紅蓮の行動は瞳を気遣ってのことだったが、彼女は体制そのものに文句があるようだった。
しきりに「降ろして」と訴え続け──当然紅蓮が聞く事はなかったが──不満そうに唇をとがらせた。
その反動か部屋に到着すると瞳は自分でベッドまでの距離を歩いた。
制服姿のまま布団に潜りこもうとするのを止めて、着替えるように指示する。
瞳がこくりと頷いたのを確認したものの、すぐに制服に手をかけたのには驚いた。
普段は瞳のほうがそういうことにはうるさいので、それだけ思考力が低下しているのだろう。

「……ぐっちゃんわがまま」

誰のせいだ、と怒鳴りたいのを懸命に堪え、しっかりといい含めた後部屋を出た。

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