Vischio

他国訪問記

ある日の夕暮れ、自国から持ち込んだ数々のビンをテーブルに並べ、中身をジッと見ていた瞳はよし、と独り言を呟いて部屋を後にした。



「ソーマ?」
「うん。もうなくなりそうだから作ってこないと」

愛用のビンを紅蓮に見せ、少しの間留守にすると告げる。
紅蓮は興味なさげに相槌を打つと、手にしていたビンを手元でひと振りしてから握り締めた。
瞳から聞いた、人魚だけが作る事ができるという妙薬。
本来人魚である彼女が陸で生きるのに、それは必要不可欠だという。そうと聞いてしまえばその妙薬は自分にとっても大事な物だと思うのは当然で、手に入れるのを協力しないわけにはいかない。
だが──

「ひとりで行くのか?」
「? うん。だっていつもそうだったもの。海の中では私も一応“お姫さま”だし、大丈夫よ。それに今回は…材料も、ちょっと足りないから……」
「どれくらいかかるんだ?」

すぐにでも出立しそうな勢いで立ち上がった瞳の手をとって聞くと、彼女は目を数回瞬かせて首を傾げた。
軽く考える仕草をした瞳は、一ヶ月くらいじゃないかしら、と言った。

「……長くねぇ?」
「そんなこと言われても…いろんな国行かないといけないし」

至極あっさりと告げられたが、それは軽く世界旅行じゃないのか。
以前の瞳は当たり前のように様々な国を行き来していたから、そういった観念がないのだろうか。
いや、それよりも。
他国。人魚の国と対立しているという魔族の国も含まれているに違いない。
瞳のことだから人間になるためのソーマが切れる前に、人間の姿で入国して用事を済ませようと考えているだろうけれど、万が一ばれたら?
魔族のルールは知らないが、自分と瞳が居た向こうの世界では人魚の肉は不老長寿の薬だという伝説があったはずだ。もしこちらでも同じ話があったら?

世界中の書物が保管されているというロッド国自慢の書庫の本を読み漁っておけばよかったと思ったのは初めてだ。せめてダンケルとシュワルツェの内容だけでも確認できていれば。
それに魔族だけじゃない。瞳がロッドに嫁いできてから幾分軟化したものの、未だにこの近辺での人魚差別がなくなったわけじゃない。水を愛し尊重しているブラウ以外は、人魚…瞳にとって安全だとは言い切れないのだ。

瞳の手を掴んだまま考えに耽ってしまった紅蓮を困ったように見下ろして彼の愛称を呼んだ。
紅蓮は瞳の手を握りなおすと、オレも行く、と呟くように告げた。



紅蓮には王子としての仕事が沢山あるだろうし、王子がひと月も城を空けるなんてよくない。
瞳はそう抗議したし、城の政務を司る役人も一緒になって引きとめた。
それでも譲らない紅蓮を助けたのは、この国を統べる王だった。

「行ってくるといい」

一時期伏せっていたとは思えないほどあっさりと、王は跡継ぎが城を空ける許可をだした。
口元に緩く弧を描き、隣に座す王妃へ視線を移すと片手を上げた。
王妃はそれを受けると傍にいた従者に何かを言付けて──扇に隠れて見えなかった──元の姿勢に戻った。

「ただし条件がある。グリーエンはロッドの使者として、他国を訪問してもらおう。なに、一つ二つ王子としての仕事をしてきてくれればいい」
「っ、それじゃルイは」
「もちろん、ルイ姫は自由に行動してくれて構わない。使者はグリーエン、お前だけだからな。聞けば他国でも跡継ぎである王子は皆お前と変わらぬ年代だそうじゃないか」

こんな偶然は滅多にないことだぞ。
どこか楽しそうに言う王は、いつのまにか王妃が手にしていた書状を開いてサインをすると、紅蓮を呼び寄せ、それを手渡した。

「国を巡る順はこちらで指定させて貰うことになるが」
「は、はい、構いません」

紅蓮の横で成り行きを傍観していた瞳は、弾かれたように顔をあげ、頷いた。
尋ねるような口調でいて、有無を言わせない押しの強さを感じる。おそらく、王はこちらからの反論があったとしても聞く気はなかったのだろう。

前触れをだし、正式な手続きを踏んで訪問する。なかなか面倒なやり取りだと思ってしまうのは、向こうの世界で経験したことがないからだろうか。
それよりも今日希望を伝えたのに既にこうして正式な書状が揃っているのはどういうわけだ。

「それはもちろん、前々からお前に任せようと思っていたからですよ」

時期がほんの少し早まっただけです、とにこやかに言う王妃に紅蓮の顔が引きつる。
今までにそんな話は聞いていない。

「……それで、最初はどこへ?」
「隣国──リーテへ行って欲しい」

「──その命、承りました」

こちらの世界に来てから丸暗記した返答と礼をして、紅蓮は瞳を連れて退出した。

(ローザに聞いておいて正解だったな)

自分がこんな風に王子として過ごすことになるとは思わなかった。
映画や物語でしか見たことのない世界は新鮮で物珍しい反面、わからないことも多い。
復習と称して教養を学んだりもしているが、まだまだ追いついていない自覚はあった。
付け焼刃と軽い誤魔化しで今まできているけれど、他国でも通用するだろうか。

「ねぇ、ぐっちゃん」
「ん?」
「さっきのぐっちゃん、騎士みたいだったわ。昔絵本で見た騎士さま」

無邪気に笑う瞳を見るとホッとする。自分は考えすぎなのかもしれない。

「かっこよかったろ」
「うん」
「…………」

無邪気すぎるのも考え物だ。
素直に返されて思わず言葉に詰まった紅蓮は、それを瞳に悟られないように彼女の髪をくしゃりと撫でた。


「お兄様!」


和んだ空気を裂くように、高い声が廊下に響く。
二人してビクリとふるえ、声のしたほうを向いた。
紅蓮──グリーエンと同じ金の髪を揺らし、ヒールの高い靴を鳴らして足早に近寄ってくる少女は何故か怒っているようだった。

「ローザ…びっくりさせんなよ」
「お兄様が勝手に驚いただけでしょう。それより世界旅行に行かれるとか」
「あぁ、耳が早いな。なんか仕事重視っぽいけどな、一応旅行になるのか」
「ルイさんもご一緒ですの?」

ローザは瞳を見て、彼女が頷くのを確認すると両手を腰に当て、僅かに身を反らせた。

「今になって新婚旅行だなんて、遅すぎますわ!」
「新…!?」

そんなつもりはまったくなかった紅蓮は思わずローザを凝視した。
瞳も驚いているのか、目を丸く見開いて口をパクパクさせている。

「お兄様……紅蓮は、こちらのことを全くご存じなかったせいで時間が空くとお勉強されてましたけど、婚姻後にもその姿勢を貫くとは思ってませんでしたわ! ルイさんもルイさんです、女性は時々わがままな態度をとっても許されるものなのに一緒になってお勉強だなんて」
「いやでも、知らないままってのも困るだろ? それにオレは結構楽し」
「惚気は結構です! 今はそんな話がしたいんじゃありませんわ」

文句を捲くし立てるローザに割り込んで相槌を打てば、それさえもピシャリと打ち落とされる。
何が言いたいのかよくわからないが、とりあえずローザが夫婦間のことに口をだしてくるのは珍しい。彼女は瞳を避けている様子だったので余計だ。

お父様とお母様も云々、新婚というのは云々。
スラスラ止まることなくローザの口から流れ出る言葉は理解する前に右から左へつき抜ける。
瞳も聞いているのかどうかよくわからないが、どことなく嬉しそうに相槌を打っていた。

「ですから……」
「なんか……ローザって教育係のお局っぽいよな」

ローザの方を向いたまま、隣にいる瞳にそっと囁く。
声に反応して視線を寄越した瞳は一瞬固まって、パッと口元を隠した。

「お・に・い・さ・ま!!」
「うわ、聞こえてたのかよ」
「この距離で聞こえないはずがありませんでしょう!」

きつく巻かれた金の髪が、僅かに持ち上がったような気がした。



***



「あー…なんかキンキンしてる気がすんだけど……」

片方の耳をトントンと叩きながら、部屋へと続く廊下を歩く。
ローザの怒りを買った紅蓮はたっぷりと文句を言われ、最後にはローザのために他国の土産を持ち帰ることになっていた。
実際、土産をねだるつもりだったんじゃないかとも思う。
瞳も助け舟をだしてくれればいいのに終始クスクス笑いを零しながら見ているだけだった。

「で、結局ローザは何が言いたかったんだ? 土産か?」
「違うわよ。いろんなものを見て楽しんできてって、それで話を聞かせて欲しいって」
「そんなこと言ってたか?」
「ぐっちゃんは聞き流してたからでしょう?…………それと、ね」

急に言いづらそうに俯いた瞳は、そっと距離を詰めると紅蓮の腕に自分の手を添えた。

「たまには、わがまま言ってみたら?って言われちゃった。私、ぐっちゃんには結構言ってるわよね?」
「あぁ、まあ……そうなのか?」
「うん、」
「……?」

まだ言われたことがあるんじゃないかと思ったけれど、瞳はそれ以上話すことなく口を噤んでしまった。
瞳の様子から察するに、以前のように辛辣な言葉を投げられたようではないのだろうと推察して追及を控える。きっと、言いたくなったときに聞かせてくれるだろう。



予想以上に大ごとになってしまった旅行内容から、これからの準備を思って溜息をつく。
瞳はその身ひとつで大丈夫だろうからと彼女自身の準備をするように告げて、紅蓮は自分に必要なもの──手続き内容だとか他国との交流についてだとかとにかく色々──を用意すべく一旦戻った部屋からすぐに出て行った。

部屋に一人残された瞳は、出かける準備をしながら先ほどのローザの言葉を思い出していた。

『今なら、認めてさしあげますわ』

変わらず腰に手を当てた姿勢のままだったけれど、照れていたのか、頬がほんのり赤く染まっていた。
彷徨っていた視線がピタリと瞳に当てられて、“逸らすな”と言われているように感じた。

『その代わり、紅蓮を──お兄様を、不幸にしたら絶対に許しませんから』

紅蓮がローザの言葉を聞いていなかったのを察していた瞳は、それに応えるように微笑んで頷いた。
ローザは少し驚いたようだったけれど、満足したようだ。

「……私って、わかりやすいのかしら」

ローザが認めてくれたということは、瞳自身の態度が以前と違うと言われたようで嬉しい反面戸惑う。

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