Vischio

【没ver.】睡恋華[estatico]

自分に向かって伸ばされる細い腕。
乞われるままに抱きとめると、柔らかい髪が頬を掠めた。
それがくすぐったくて目を細めれば、くすりと漏れた声が耳に届く。

「ぐっちゃん」

甘く自分を呼ぶ声に顔を上げる。
触れそうな程間近に見えた眸。
見つめ続ければソレに吸い込まれるんじゃないかと、そんな錯覚にさえ陥った。
緩く首に絡まる腕に合わせるように華奢な身体を抱き寄せると、嬉しそうに笑う。

──“とくん”と心臓が音を立てた。

「瞳……」

愛しげに名を呼んで、まるで誘われるように桜色の唇に己のそれを寄せた。



「ッ!!」

バサ、ガチャ、ゴトン、と色々な物が立て続けに大きな音を立てる。
だけどそんなことには構っていられない。オレは自分の寝間着の胸元をきつく握り締めて、急いで部屋を見渡した。
手のひらの下で激しく動く心臓と、整わない呼吸。
部屋の中には自分しかいないとわかっているのに、わざわざその事実を脳に送る。

「なん、だ……今の……」

思わずそう呟いて、ゆっくり息を吸った。
やけにリアルな夢。腕の中に抱き締めていた身体の感覚が残っているようで、空いてるほうの手を何度か開閉させる。

「夢……だよ、な?」

思春期らしいと一蹴されてしまいそうな内容でいて、軽く受け流せない相手。
よりにもよって、何故──瞳──義姉、なのか。



「……はよ」
「あら、おはよう、ぐっちゃん。珍しく遅いのね? 朝ご飯できてるわよ」
「ん、」

着替えてリビングに行くと、朝の香りといつもの風景。
なんてことない日常に少し安心する。
気付かれないように息を吐き出して、新聞を広げている父親の前に座ると、同時に後ろで勢いよくドアが開いた。

「ね、寝坊しちゃった! お母さん、朝ご飯!」

途端、ゴトンと音を立てて手から醤油注しが滑り落ちた。
勢いよく中身をぶちまけるそれは、己を主張するように領域を広げていく。

「うわっ、おい紅蓮!?」
「ッ、悪りぃ、ごめん」

父親の慌てた声に、咄嗟に布巾を放った……が、少し遅かったようだ。
シャツの袖口にべったりついた染みを見て軽く落ち込む。

「どうしたのぐっちゃん」
「ッ、」

そんなのオレの方が聞きたい。
覗きこんでくる瞳に反射的に椅子を引くと、首を傾げて手を伸ばしてきた。

「風邪でもひいた? 熱ある?」

──『ぐっちゃん』──

「な、熱なんかねーよ!」

勝手に再生される朝の夢が、今の瞳に被って──つい、声を荒げてしまった。
案の定、ますます不思議そうにする瞳と……両親。
さすがに居心地が悪くなって、オレは登校を口実にしてそこから逃げ出した。

「あ、待ってよ、私も行く!」

当然、そう言って追ってくる瞳は無視だ。
このままじゃオレの身が持たない。

◆◆◆

教室で突っ伏していると、ポンと頭に手を置かれた。
顔を上げると級友が“おもしろそう”とでも言いたげな視線を寄越す。

「どした紅蓮、今日元気ないんじゃね?」
「紫苑……お前、ねーちゃんいたよな?」
「は? 何いきなり」
「ねーちゃんが夢に出てきた事あるか?」

──この時のオレは、一体どんな答えが欲しかったんだろう。
畳みかけるように友人……紫苑に問うと、何度か目を瞬かせて軽く笑った。

「よくわかんねぇけど、あるっちゃあるぜ。でもなぁ……でてきても碌なことしねぇってか、俺にとって暁ねぇが出てくる夢はよくない夢だ!」

バン、と机を思いきり叩いて訴えてくる様子は真剣で、思い出してでもいるのか、眉間に皺が寄っている。

「家でも幅利かせてるくせして、俺の夢の中でも女王さま気取りだぜ!? 普通立場逆転すると思うだろ?」
「あー……あぁ、まぁ、そうかもな」
「お前が聞いたんだからちゃんと聞けよ!」

──聞く相手を間違えた。
延々夢と家族の愚痴を聞かされて、適当に相槌を打ちながら後悔した。

「ふー……すっきりした!」
「よかったな……」
「おう! あーでもな紅蓮、誤解すんなよ? なんだかんだ言っても俺さ、暁ねぇ……姉貴のこと好きだからさ」
「ッ、」
「やっぱ家族だし? そいや紅蓮は結局何が聞きたかったんだ?」
「いや、いい……なんでもねーから気にすんなよ」
「そっか?」
「ああ……」

……正直、かなり驚いた。
なんの臆面もなく姉を“好きだ”と言った紫苑に……それは“家族”だからなのか?
オレだって瞳のことは嫌いじゃない……好き、だけど……なんか紫苑が言う“好き”とは違うような気がする。

もやもやした気分のまま、学校を後にする。
空は夕暮れの紅に染まって、とても綺麗だ。このまま真っ直ぐ帰る気にはなれなくて──家には瞳がいるし──公園を突っ切ることにした。



ベンチに座ってボーっとしていると、いつの間にか足元に猫がいた。
艶やかな黒を身に纏う猫はオレの足を尻尾で撫でて、小さく声を上げる。
やけに人懐っこい様子を見せるからと手を伸ばしたら、するりと避けて逃げられた。

ちりん、と鳴る首輪。
逃げたと思ったら止まって、オレを見る。

「ついて来いってのか?」

にゃー。
答えるように鳴いたのがなんとなく気になって、後についていくことにした。

──まさか“後悔先に立たず”を一日の内に二回も経験することになるなんて、思わなかった。



「ん……、」

身近に聴こえた声に驚いて、猫から目を離した。
ヒトの気配と、梢の音に混じって聴こえる鼻にかかったような掠れた声。

「ふ、ぁ……ん」

オレは不覚にも硬直して、その場面を思いっきり見てしまった。

──ってか、こんなとこで何やってんだよ!!

怒鳴りたいのを抑えて、現場へ向かおうとする猫を抱き上げる。
抗議するように鳴かれて、オレが──目撃者がいる事は絶対バレたに違いない。

案の定、クス、と笑う低音。
それに続いて甘えるような女の声。

「もう十分じゃないですか?」

笑っているくせに突き放すような声色で、男が女から身体を離す。
オレは咄嗟に近場にしゃがみ、身を隠して──無駄だと解っていたけれど──息を詰めた。

「さようなら。もう二度と会うことはないでしょうけど、お元気で」

男の顔は見えないけれど笑っているんじゃないかと思った。
続いて聴こえるヒールの音は駆け足で、段々遠くなっていく。
それにつられるように、猫も腕の中からするりと抜けて、鈴を鳴らしながらどこかへ行ってしまった。

「──紅蓮君、もう出てきてもいいですよ」

頭上からの声に知れず舌打ちが漏れた。
バレていたのは知っていたけど、向こうから話しかけられるとは。しかも見下ろされてるこの位置が腹立たしい。

オレは無言で立ち上がったけれど、それでもこの男の背には足りない。
結局見下ろされているけれど、さっきよりはマシだと自分に言い聞かせて男を睨んだ。

「……もっと隠れてやれよな」
「まさか覗かれるとは思ってませんでしたから」
「好きで覗いたんじゃねーよ! 大体なぁ、羞恥心とかねーのかよ」
「紅蓮君は難しい言葉を知ってますねぇ」
「てめ……ッ、」
「冗談ですよ」

のらりくらりとかわされて、軽くあしらわれる。
オレは昔から──それこそ瞳と会うずっと前からの知り合いで幼馴染だけど──この男が苦手だ。何年経っても反りが合わない。

「仕方ないじゃないですか。ああしないと諦めないって言うんですから」
「ローゼンライト……お前、彼女と別れたのか?」

オレが言ってる“彼女”はこの男──ローゼンライトと同年の……高校生だ。
偶然居合わせた時に、珍しく堂々と紹介してきたから覚えていたけれど、さっきチラッと見えた大人の女じゃない。

「ふふ……覚えてたんですか? まだ付き合ってますよ。高校生らしく、健全にね」

クスクス楽しそうに言うこの男の考えが理解できない。
付き合ってるヤツがいるのに、他の女にああいうことができるのか? 好きでもないのに?

「理解できない……と、顔にでてますよ、紅蓮君?」
「な……」
「まあ、キスもまだの君には早いかもしれませんね」
「ッのヤロ、オレはお前みたいにはぜってーならねーよ!」

不愉快極まりない。
吐き捨てるように言って、オレはローゼンライトとの会話を打ち切った。

ローゼンライトはそれでいいのかもしんねーけど、“彼女”はどうなんだ。
好きな相手がフラフラしてるのは嫌じゃないのか? バレてないのか、見てみぬ振りなのか。

「……クソッ」

◆◆◆

結局不機嫌状態のまま家に着き、帰宅したことだけを告げて自室へ戻る。
乱暴に放り投げた鞄が壁に当たってやけに大きな音を立てた。

それを放置してベッドに仰向けになっていると、控えめにドアがノックされた。

『……ぐっちゃん?』

次いで心配そうな瞳の声。
ローゼンライトとのやりとりで捻じれた機嫌はまだ直ってない。
ドアを開けたら瞳に酷い事を言いそうで、オレは呼びかけを無視した。
なのに──

『……ぐっちゃん、いるのよね? 入るわよ』

──なんで入ってくるんだよお前は……

「…………あの、」
「なんだよ瞳。悪りぃけど今は──」
「やっぱり具合悪いの?」
「は?」

躊躇いがちに入ってきた瞳は思ってもなかったことを言って、後ろ手にドアを閉めた。
具合って……風邪がどうとか言ってたアレか?

「あのなぁ、朝も言っただろ。熱はねーし、風邪もひいてねーよ」
呆れ混じりに言うと、瞳はぐっと距離を詰めて身を乗り出してきた。

「じゃあ、どうして?」
「なにが」

──こんな態度が取りたいわけじゃないのに、うまくいかない。
どうしても言葉に棘が混じる──

「……不機嫌なのはどうして?」
「────別に瞳に言う必要はねーだろ?」
「そうだけど……」

キュッと唇を引き結んだ瞳はうつ向いて、自分の手を握る。
放っておいてくれりゃいいのに、なんで構うんだ。

「……瞳」
「! なあに?」

話を聞けるのが嬉しいとでも言いたげに、パッと表情を明るくして顔を上げる。

「お前さ、キスしたことあるか?」
「は……? う、え!?」

瞬間湯沸かし器……
思わずそんなのが脳内に浮かんだ。
瞳は一瞬で顔を真っ赤にして、落ち着きなく組んだ手の指を組み替える。おろおろするその様子に、何故かオレは安堵した。

「ないよな、瞳は」

溢した声は笑い混じりで、それが瞳の機嫌を損ねたのか、ムッと唇を尖らせる。

「あ、あるわよ!」

オレから顔を背けながら、瞳は弾くように言った。

──その一言は、後になって考えれば嘘だって丸わかりだったのに。
その時のオレの心情は不安定で、不機嫌を引きずったままで……
ローゼンライトの馬鹿にするような声が──残ったままだった。

「きゃ、」

掴んだ腕は細くて、身体は思っていたよりもずっと軽かった。
ベッドのスプリングが軋む音に続いて、シーツの上に散らばる髪。

「痛ッた……ぐっちゃん?」

驚きで素早く瞬く眸は、僅かな怯えを宿してオレを映す。
なんで──それが嬉しいなんて、思うんだ?

「ホントにあんのかよ」
「ほ、ほんとだもん!」
「……嘘つきだな」
「そ……な、こと、ない」

瞳が泣きそうになってるのはわかっているのに、止まらない。
考えるよりも先に口が動いて──止められない。

「──なら、いいよな」
「え? 何……ぐっちゃ、やだ、ちょ──ん、」

自分で自分が制御できずにイラついて、それを瞳にぶつけて。
挙句の果てに強引にキスするなんて──サイアクじゃねーか……

そう思うのに、離してやれない。
オレを押し返そうと突っぱねる腕は小刻みに震えて気の毒なくらいだ。
少し前までは簡単に、オレの方がやられるくらいだったのに。
いつから瞳はこんなに弱くなったんだろう。



「、は……ッ……」
「……殴ってもいいぜ」

呆然とする瞳にそう告げれば、大きな眸がゆっくりと瞬く。
動く気配がしたから観念して目を閉じると、パンと勢いよく両頬を挟まれた。

「ッ、」
「ばか!」
「……ん、そーだな」

瞳はオレの顔を挟んだまま手を離してくれなくて、オレはその上から自分の頬を押さえた。
──両方ってのは予想外だったけど、それで瞳の気が済むんならいい。

「ばか、ぐっちゃんのばか! こういうのは好きな子とするものでしょ!?」

そんなのわかってる。
オレだってローゼンライトに啖呵切ったばっかりだったんだから。
だけど──

「したくなったんだよ」
「な……したくなったからって──返して!」
「は? イッ、痛てててて、痛ぇって、瞳!」

急に爪を立てられて、慌てて瞳の手を離す。
すると今度は空いた手で近場にあった枕を振り上げて、オレの顔に向かって思いっきり降ろした。

「むぐ、」
「初め……ったの、に……」
「瞳……?」

ようやく開けた視界には、枕の端を握り締めながら俯く瞳が肩を震わせていた。
どうしようか迷ったけれど、そのままにしておくこともできなくて、肩を抱き寄せた。
ビクッと震えた瞳は、身体を硬くしてオレを拒絶する。
それでもそのままでいると、急に頭を押し付けてきた。

「……悪かった。ごめん」

じわりと肩が濡れるのがわかる。
結局泣かせたな、と瞳の頭を撫でながら思った。
どうせなら、夢の中で見たような幸せそうな顔が見たいのに。

「……ちゃ……だ、れ?」
「ん?」

泣くのに飽きたのか、涙と嗚咽混じりの声が瞳から漏れる。
質問されたのはわかったけれど、何を聞かれてるのかがわからない。
そんなオレの表情を読み取ったのか、瞳は目元を擦りながら口を開けた。

「ぐっちゃ、んの……初めて、相手、だれ?」
「……キスの?」

頷く瞳はせめてそれくらい聞かないと割が合わない、とでも言いたげにオレを見上げてくるけれど……
──言わなきゃ駄目か? 本人を前にして……?

言い淀むオレに首を傾げて、小さく「お父さんとか?」と言い出した。
的外れもいいところだ。頼まれてもお断りだっての。

「違う」
「……幼馴染のお兄さん?」
「違うッッ!! それはぜってーねぇ!!」

ゾワッと全身に悪寒が走り、つい声を荒げる。
相手が男だから言いづらいと判断してるのはどうなんだ。

オレは瞳の頭を胸元に押し付けて、背中に腕を回した。

「……お前」
「え!?」
「ついでに言っとくけど、嫌がらせとかじゃねーからな」
「どういう──」

言いかける瞳の唇にもう一度、軽くキスを落とす。
オレだって気付いたのは──自覚したのはついさっきだけど、納得のいく事実。
大きく見開かれた眸と朱が走る頬に満足しながら、好きだと告げた。

「好きな相手になら、してもいいよな」
「なッ、」
「大体お前だって嘘ついたじゃねーか。それはいいのかよ」

反論を封じる意味で言うと、瞳はさっきと同じようにオレから顔をそらして「嘘じゃない」と呟いた。

「したことあるもん」
「それじゃ矛盾するじゃねーか」
「あるの! ……夢の中だけど」

つけたされた言葉は消えそうなくらい小さくて、聞き逃すところだった。

「誰と?」
「ッ、どうしてぐっちゃんに言わなきゃいけないのよ!」

カアっと真っ赤になる瞳は可愛いけど、それの原因はオレじゃなくて夢の相手。
──そんな顔させるのは誰なんだ?

「瞳、」
「絶対言わない!」

頑なに拒絶されればそれだけ気になるのに。
だけどこれ以上問い詰めて嫌われるのも得策でない気がする。

「……いつか聞きだすからな」
「言わないってば」
「ま、それはそれとして」
「?」

「──これから覚悟しろよ」

不思議そうに首を傾げる瞳の耳元へ口を寄せ、囁くようにそう言った。

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