Vischio

prier l'ange


──ここは、どこだ?
気づくと俺は、あたり一面真っ暗闇の中に立っていた。
ソフィと山小屋に入って火をくべて…それからどうしたっけ。
何も見えない……いや、自分の手は見える。服も。足元も。
ああ、そういえばさっき目を閉じた気がする。

ということはこれは夢なんだな。
漠然とそう思う。

何を見るでもなく(見るものもないが)視線を彷徨わせていると、ぼんやりとした光が目の前に浮かんできた。
それはゆっくりと人の形になり、俺を見上げる。
はしばみ色の双眸と、一つに編みこまれた長めの赤い髪。俺の胸よりも少し低い位置に頭がある女の子──7年前のシェリアがそこに居た。

「……アスベルは、どこにも行かない?」

その問いかけを聞いてつい懐かしいと思ってしまう。
7年前のあの日、ヒューバートとはもう会えない、ソフィは死んだと親父から聞かされた日に言われた言葉。

目の前のシェリアは俺が持つ記憶のまま、大きな瞳に涙をいっぱいに溜めて、心臓辺りの服をきつく握る。
震える声とその姿があまりにも必死で、思わず八つ当たりしたことも申し訳なくて。
その時の俺は、突然突きつけられた現実を受け入れる余裕もなく安易に返事をしたんだ────もう家を出ることは決めていたくせに。

『…うそつき』

俯いたシェリアが小さく言う。
もやがかかったような声に目を見張ると彼女の輪郭がぼやけて揺らぎ始めた。

シェリア?
呼びかけて手を伸ばすと少女は女性へと成長し、俺の手から逃れるように距離を置いた。
俯いたままのシェリアがもう一度「うそつき」と呟く。
ラントを出たのは強くなりたかったからだ──本音であるはずなのに、どこか言い訳じみている気がして結局何も言わずに口を閉じる。
シェリアならきっとわかってくれる。
なんの根拠もなくそう思っていた。そんなことに今更気づくなんて……

「…ス……ベル、」

ふいに暗闇の奥から声が聞こえた。
ソフィ?お前どこにいるんだ?

「アス…ル」

今度は少し近くから。
肩を揺すられる振動と、額にひやりとしたものがあてられたことで視界が一気に明るくなった。

「アスベル、だいじょうぶ?」
「ソ、フィ…」
「お水、持ってきた。飲める?」

差し出される器を受け取りながら空いている手で額に手をやった。
やっぱり夢だった。わかっているのにすっきりしない。

「アスベル?」
「あ、ああ。ありがとうソフィ。助かるよ」

冷たい水を喉に通す。
おいしい、そう伝えると心配そうに様子を伺っていたソフィがホッとしたように頬を緩ませた。

「他に欲しいものある?向こうにね、リンゴ生ってた。食べる?」

あっち、と方角を指差して教えてくれるソフィの頭を撫でる。
不思議そうに首を傾げるソフィに礼を言って、せっかくだから頼むことにした。
すぐにここを動けそうもなかったし、なによりやたらと眠い。熱があるんだったな、そういえば。

「行ってくるね。待ってて」

飛び出していくソフィの背中を見送って支えきれなくなった身体を倒し、自然と落ちてくる瞼に抗うことなく目を閉じた。
少しすると、今度は暗闇ではなくどこか見慣れた室内の風景が広がった。

──ごめんね、アスベル。ごめんなさい。

か細い声で俺に繰り返し謝るのはシェリアだ。
ベッドに横になった状態はよく見ていた気がする。身体が弱いくせにいつも無茶をして、結局ベッドに戻る羽目になるんだ。



***



「兄さん、本当にそれだけなの?」
「なんだよヒューバート、これじゃ駄目だってのか?」
「…だってお見舞いなのにアップルグミ一個って」

呆れ混じりに言うヒューバートは家の花壇で採れた花を束にして持っていた。
荷物になるのはやだし、俺は花ってガラじゃない。

「いいじゃん、シェリアこれ好きだろ?」
「…………兄さんてほんと鈍いよね」
「……どーいう意味だ」

ぎゅう、と柔らかいほっぺたをつねると「いひゃい、いひゃいよ兄さん!」と涙声が返ってくる。
それが面白くて満足したから、笑いながら指を離した。

「も~!なんで兄さんはそう暴力的なのさ」
「お前がわけわかんないこと言うからだ」
「シェリアは別に……」
「なんだって?」
「言わない。ぼくがシェリアに怒られるもん」
「なんだとー!?」

ヒューバートとじゃれあいながら、シェリアの家の前に着く。
フレデリックから預かってきた家の鍵でドアを開けると、篭ったような声が聞こえた。
「シェリア!?」

慌てて中に入ってシェリアのベッドを目指す。
こんもりと盛り上がった物体が、咳き込む声と同じリズムで小刻みに揺れた。

「おい、シェリア」

物体…じゃなくて頭まで布団に潜り込んでいるらしいシェリアを揺する。
もぞもぞ動いた布団からひょこっと赤い頭が出てきた。

「アスベル…?ヒューバートも…どうしたの?」
「いいから顔だせって。ちゃんと横になったほうがいいんじゃないか?」

振り返る体勢でこちらを向くシェリアから伸びている一本に編まれた髪。
それを衝動に駆られるまま掴む。と、横から伸びてきた手が俺の腕をつかんだ。

「兄さん…それはシェリアが元気になってからにしたほうがいいよ」
「…元気になってもして欲しくないんだけど」

恨みがましく言って自分の髪をかばうシェリアに合わせて手を離す。
別につい掴んじゃっただけで…いや、ヒューバートが止めなかったら引っ張ってたな、絶対。言わないけど。

空いた手でなんとなくシェリアの頭に手を置く。
潜ってたからか、少しぼさぼさだな。

「なっ、」
「具合どうだ?なんか顔赤いし、熱下がらないのか?」
「これ、は…な、撫でるのやめてよ!子どもじゃないんだから!」
「何言ってんだよ、子どもだろ?ほら横になったほうがいいって」

無理やりシェリアを横たえさせると、タイミングよくヒューバートが布団を整えた。お前はほんとよく出来た弟だな。
ヒューバートを視界の隅に入れたまま、シェリアの額に手をやる。

「……うーん、よくわかんねーな。おいヒューバート、体温計あるか?」
「はい。これじゃないかな」
「お、やるじゃん!ほらシェリア……大丈夫か?しんどいのか?」

ぼーっとしたまま反応しなくなったのが気になって声をかけたら、半身を起こしたシェリアが勢いよく首を振った。
そんなふうに動いたらよけい具合悪くなると思うんだけど。
案の定悪くなったのか、シェリアは壁の方を向いて何度も咳き込んだ。

「兄さん、ちょっとどいてて」
「なんで」
「いいから」

いつになく強引なヒューバートが俺を押しのけてシェリアと話す。
声が小さくて内容が聞こえない。
俺だけ仲間はずれってことかよ。おもしろくない。

目的はシェリアのお見舞いだったはずなのに、もう帰ろうかという気分になってきた。
腕を組んで足を鳴らすと、気づいたヒューバートが苦笑しながらこっちを向いた。

「ほら兄さん拗ねてないで。お見舞い渡さなくていいの?」
「べっ、別に拗ねてない!勝手なこと言うなよな!」
「わかったわかった。はいシェリア。これぼくからお見舞い。はやく元気になってまた一緒に遊ぼうね」

ずっと手に持っていた花の束──摘んだままの状態で握っていたせいか、少しくったりしているように見える──をシェリアに手渡すヒューバート。
シェリアは嬉しそうに笑って礼を言った。

「…いいにおい。ヒューバート、これそこの花びんにいれてもらってもいい?」
「もちろん。ついでに水替えてくるよ」

シェリアに言われた花びんを手にして、ヒューバートがベッドから離れる。
すれ違いざま、ちゃんと渡したほうがいいよ、と小さく言われた。そんなこと言われなくてもわかってる。

「……もしかして、アスベルも…くれたり、する?」
「…いらないなら、いいけど」
「い、いる!ちょうだい!」

手を伸ばして俺の服を掴むシェリアに思わず笑いが漏れた。
なんとなく、いい気分だ。なんて言うんだっけこういうの…ゆーえつかん?
って言ってもグミだし、見たらシェリアは文句言いそうだ。

……そうだ、いいこと思いついた。

「じゃ、あーん」
「な、なんでよ!」
「別に変なもんじゃないから安心しろって」
「…恥ずかしいからイヤ」
「いらないんなら俺が食べる」
「ちょ…なんでそうなるのよ、手渡しでちょうだいって言ってるの!」
「やだ」

言葉もなく口をぱくぱくさせるシェリアは水路にいる魚を思い出す。
笑いながら教えると、「ばか!」とおなじみの台詞が飛んできた。

「不味かったらしょうちしないからね!」
「美味いって、絶対。ほら、あーん」

ぎゅっと目をつぶって控えめに開いた口にアップルグミを入れる。
驚いたらしいシェリアが急に口を閉じたから、俺の指が少し巻き込まれて挟まった。

「ったく、俺まで食うなよな」
「~~~~っ!!」

無言で口を覆うシェリアが俺の腕を叩く。
臥せっているせいなのかいつもより力がなくて全然痛くなかった。

「し、しんっじられない!!アスベルのばか!!」
「なんでだよ!」

なんで怒られてるんだか全然わからない。
グミが不味いってことはないだろうし、やっぱ気に入らなかったってことか?
しつこく叩き続ける手を掴んで押さえながら考えてみるものの、やっぱりわからない。

「…もうそっち行ってもいい?」

ばか、を繰り返すシェリアに混じってヒューバートの声が挟まった。

「遅かったじゃんヒューバート」
「ぼくなりに気を利かせたんだよ」
「何言ってんだ?」

俺の問いにヒューバートは「あはは」と笑うだけで答えない。
抱えていた花びんを近くの棚に置いて、俺たちの傍へ戻ってきたヒューバートは水の入ったコップを持っていた。

「シェリア、あんまり興奮するとよくないよ」
「だって、」
「はい、これ飲んで落ち着いて」
「…うん、ありがとう」

シェリアってヒューバートには結構素直だよな。
水の入ったコップを傾けるのを見ていると、シェリアはふう、と息をついてこっちを向いた。
なんだ?

「あ、ありがと」
「は?」
「だ、だから、アップルグミ!」
「嬉しくないんじゃなかったのか?」
「そんなこと言ってないでしょ!」

それなら言ってくれればよかったのよ、普通にくれたら素直に喜べたのに。
ぶつぶつ言うシェリアに俺は首を傾げるしかない。
嬉しかったんならなんで「ばか」って言われながら叩かれたんだ?

「…兄さん、変な渡し方したんでしょ」
「…………ああ、それでか?」
「なにが?」
「いーや、こっちの話」

その後少しの間話をして、そろそろ帰るかとヒューバートに声をかける。

「シェリア、ちゃんと寝て治せよ」
「うん」
「明日までに治したら冒険に誘いに来てやる」
「え~……兄さん、今度はどこ行くのさ?」

へっぴり腰になるヒューバートの背中をバシッと叩いて(「痛いよ兄さん」の文句は無視した)目的地を告げる。
街の中って言ってもいいくらいすぐそばだし、そこならシェリアもヒューバートもへばることはないだろ。

「ぜったい誘いに来てよね、アスベルが言ったんだから。ヒューバートも聞いたでしょ?」
「う、うん。でもシェリアが元気になってたら、だよ?そこも忘れないでね」
「わかってるわよ。今だってだいぶよくなったし、明日なら確実よ。いい、二人だけで行ったら許さないから!」
「はいはい、わかったわかった」



***



──ゆびきりして、アスベル。

面倒くさいからイヤだと断った記憶がある。
約束守る気ないの?そうシェリアに追い討ちをかけられ、兄さんそれくらいしてあげなよとヒューバートはシェリアの味方をしたんだった。

ゆびきりをした直後、咳き込んだシェリアに驚いたからやけにしっかり覚えている。
苦しそうにしているくせに、約束したからね、と念を押すシェリア。
どう返したらいいか困っておさげ髪を軽く引いたんだ。案の定怒られたけど。

「…そういえば髪、切ったんだな」

自分の呟きに自分で驚いて目を開ける。
長い夢を見ていた気がするけれど、いつ夢から覚めたのかわからない…ただ思い出に浸っていただけなんだろうか。

…あれから7年経っているんだから、外見なんていくらでも変わる。現にシェリアもヒューバートも見違えてしまったくらいだ。
わかっている、わかっているつもりなのに…

「アスベル、起きた?」
「……ソフィ」

7年前と変わらない姿でそこにいる女の子を見ていると、あの頃のままだと錯覚してしまう。
外見こそ違えど中身は同じだと、そう思っていたのは俺だけなんだろうか。

「水、ないね。もってくる」
「あ、」

止める間もなく飛び出してしまったソフィを半端に浮いた手とともに見送る。
自分の近くには丸々一つリンゴが置いてあって、ソフィがいつのまにか往復してくれていたことが伺えた。

──アスベルだけ時間が止まっているみたい。

「……そうなのかも、な」

シェリアに言われた言葉を思い出して ため息交じりにひとりごちる。
あの頃と同じように接するのはもう無理なんだろうか。

(…いや、無理なはずない)

もう少し情勢が落ち着いて、長く話せる時間ができればきっと。

── ふと、笑顔が見たいと思った。
緊迫した状況のせいもあるけれど、再会してからずっと見ていない。

『アスベル!』

よく笑ってすぐ怒って、少し我がままでお転婆。でも…すごく優しい。

あの頃とは違う、そうシェリアは言ったけれど、変わっていない部分が確かにあるじゃないか。

治療してもらった手の甲に触れて目を閉じる。
大丈夫だ。まだ、これから。
──今は自分に出来ることを探すことから。

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