Vischio

睡恋華-1-

どんよりとした曇り空。
灰色にほんの少し黄色を混ぜたような空は、朝からずっと泣いている。
トッ、トッ。
絶え間なく窓を叩く音をぼんやりと聞きながら、紅蓮は何を見るでもなくただ窓の外へ視線をやっていた。
教室から見ることができるグラウンドは、いくつもの水溜りで埋め尽くされていて、明日の体育は憂鬱になりそうだと溜め息が漏れた。。

──あの日もこんな天気だった。

唐突に思い出した昔の出来事に想いを馳せながら、同時に何故今更という気もしている。
それもそうだ。今まで同じような天気になった時には回想なんてしなかった。

(……結局アイツはオレを裏切ったんだよな……)

傷もすっかり癒えた後、紅蓮は幼馴染の家を訪ねていた。
問い詰めて一発殴って、その後はどうとでもなるだろうと考えていたけれど、訪れた先はもぬけの殻だった。
海外に行ったらしいと近所の主婦が教えてくれたが、別れも謝罪も言い訳さえも。何も言わずに消えたことに変わりは無い。

はぁ。
知れず溜息が漏れる。きっと雨だからこんな暗い気分になるんだ。
紅蓮は理不尽に空を睨み付け、ようやく──授業は10分ほど前に終わっている──帰宅の準備を始めた。

「は・や・み・くん!」

バン、と机に両手をつく音と翳る視界に、紅蓮は一瞬だけ不快気に眉を顰め、顔を上げた。
なぜこんなにイライラしているのか、自分にもわかっていなかったがどうしようもない。
そんな紅蓮の心情などお構いなしに、声を掛けてきた少女は満面の笑みを浮かべながら机に背を向けて寄りかかった。顔は変わらず紅蓮のほうを見ていたので、自然と机に軽く腰掛ける形になる。

「…………佐倉、」
「ね、今日暇? たまには息抜きしようってことで皆で遊びに行くことになったんだけど、速水くんも来ない? てか来てくれない? あたし傘持ってきてなくてさぁ、速水くん一緒にいれてよ」

どけ、と言葉を発する前に、捲くし立てるように言葉を挟まれて思わず口を噤む。
先ほどとは違う溜息を漏らし、紅蓮は彼女に傘を押し付けた。

「え? 何これ」
「オレの傘、見りゃわかんだろ。なくすんじゃねーぞ、それ一本しかねーんだから。今日は用事あっから遊びは無理、んじゃな」

言うだけ言うと、呆然としている彼女を置き去りにして立ち上がる。
今日は珍しく父の帰りが早いらしいから、夕飯にはいつもより力を入れようか。
すでに別のことへ思考を飛ばす紅蓮の背に、少女から「待って」と声が掛けられた。
振り向くだけで続きを促すと、彼女は慌てたように手と視線を彷徨わせ、紅蓮が先ほど手渡した傘の柄を握り締める。

「じゃ、じゃぁさ、あたしも一緒に帰る。そのままじゃ速水くん濡れちゃうじゃん?」
「別にいいって。紫苑!」

返事の途中で通りかかった友人に声を掛ける。
声に気づいて立ち止まった彼に向かって軽く右手を上げると、相手は僅かに首を傾げながら同じ動作をした。

「なんだよ紅蓮、俺早く帰りたいんだからさっさとして!」
「オレも入れてってくれよ」
「はぁ!? なにが悲しくて男と相合傘しなきゃなんないの。俺絶賛彼女募集中だし、紅蓮と噂になったら困るし、紅蓮の彼女に嫉妬されるの怖いし、なにより狭くて肩が濡れちゃうよ。俺ってば繊細だから風邪引いて寝込んだらどう責任とってくれる?」
「看病しに行ってやるって」
「入れてやろう」

大きく偉そうに頷いて、友人──紫苑は自分の傘を軽く振った。
それを合図に、紅蓮は先ほどから一言も発していない──発する暇もなかったが──クラスメイトに向かって再度じゃあ、と別れの挨拶をすると教室から出た。
廊下側の扉には紫苑が寄りかかって、チラと視線を投げてくる。

「紅蓮くんってばいいのかなー、彼女放置して。サクラさんは明らかに紅蓮と一緒に帰りたがってた気がするけど」
「そうか? それよりさっさと帰んねーと。今日父さん早いんだ」

夕飯なんにすっかな、と高校受験を控えた男子学生にしては珍しいことを呟く紅蓮を横目に、彼の親友だと自称する少年は気づかれないよう苦笑を漏らした。

「紅蓮は残酷だよねぇ」
「は? いきなり何言ってんだ、早速風邪でもひいたのか?」

雨の帰り道、紫苑がしみじみ零した台詞は突拍子もないもので、思わず呆れた表情を作ってしまう。
学校をでてからずっと持ち続けている傘──紅蓮よりも身長が低い自分が持つと先端が紅蓮に刺さるだろうからという優しい配慮だ、と本人は断言した。なんて優しいんだ俺、と自分を褒め称えることも忘れなかった──を持ち直す。

「だってさぁ、オンナノコの気持ちぜーんぜん考えてないっしょ? 健気アピール完全無視だし、ってか紅蓮って彼女のことちゃんと好きなの? あ、もちろん彼女ってサクラさんね。もしや実は他のオンナノコが好きとか? まさかまさか、大穴でオトコノコが好きだったりするんですか?」
「……お前はほんっとよく口が回るよな」
「ありがとう」
「褒めてねーよ。つーか、なんでオレと佐倉が付き合ってる話になってんだよ、別にそんなんじゃねーし」
「ううっそぉ、紅蓮くんこそ知らないなんて信じらんなぁい。キミら付き合ってるってもっぱらの噂よ、噂」

聞いていると頭痛を感じる口調に、空いているほうの手でこめかみを押さえる。
しかも紫苑は何故か裏声を使っているので余計に不快感を増長させた。やめろ、と一応注意するものの、聞いてくれるかどうかは彼しだいだ。

「ふぅん……紅蓮にその気はなし、か。恋愛よりも勉強派? それとも熱い友情に燃えたい派?」

真剣に細められた眸は、瞬時にいつもどおりのニヤリ笑いに戻る。
それは本当に一瞬のことだったので、紅蓮は友人の珍しい真剣な表情に気づくことができなかった。

「お前……わけわかんねーよ。そもそもなんでオレがお前とこんな話してんだ?」
「いいじゃんたまには。紅蓮がモテる秘訣を探ってんですよ俺は。無愛想で“オンナゴコロ”なんてもの、ちーっとも理解してなくて、“家とスーパーから近い”って理由だけで偏差値の高い進学校を志望する男が。どうして紳士で優しくて且つ一緒にいて楽しい俺よりモテるんだ! 顔か!? それとも頭脳か!!」
「余計なお世話だっつーの」

先日学校に提出した進路志望書にはもう少し真面目な理由をでっち上げたけれど、真実を知る友人にはそれに文句があるらしい。
距離は重要だろう、タイムサービスもあることだし。あぁそうだ、夕飯を考えなくては。

「紫苑、ちょっと寄り道させてくれ」
「はあぁ!? ちょ、俺早く帰りたいってさっき言ったよね? 学校出る前言ったよね?」
「頼むよ、アイス奢ってやっから」
「どこに行きたいんだい?」

常の口調とは明らかに違うもので返してくる彼を見て、思わず噴出してしまう。
扱いやすいにも程が──いや、これは彼のいいところだ。
なんだかんだで付き合いが長い彼とも高校では別になるんだな、と急に思い出した。
自分は霧埜大付属を、紫苑は海南を志望していた気がする。あと2ヶ月もすれば受験当日だ。

「紅蓮?」
「あ、ああ悪い、ボーっとしてた。行くのはスーパーだからそこ右」
「はいはい、やっぱりなぁ。今日のお夕飯はビーフシチューが食べたいわ」
「お前が食うわけじゃねーだろ……」

じゃれ合いながら──主に一方的にだが──店内に入った途端、紅蓮は身体への衝撃に足を止めた。

「わ!?」
「ッ、と! 危ね」

ぶつかった相手は余程気を抜いていたのか、バランスを崩した様子でよろけた。
咄嗟に手を出して腕を掴む。そのまま引くと、勢いに負けたのか紅蓮のほうへ傾いて突っ込んできた。

ごち。

「うわぁ……」

状況の一部始終を見ていた紫苑は思わずと言った様子で声を漏らしたが、それを聞いてくれるはずの友人は額を押さえて蹲っているところだった。
不可抗力とは言え、紅蓮に頭突きをかました本人は蹲る紅蓮の様子をオロオロと見守っている。
声を掛けるタイミングを計っているようにも見えた。

「あ、あの……」

海楠高校の制服を纏う少女はギュッと手のひらを握ると、躊躇いがちに声を発した。

「大丈夫ですか?」

ごめんなさい、と続く謝罪を、紅蓮ははっきり聞いていなかった。
正確には聞くことができなかった。
それは少女の声が小さいせいでもなく、紅蓮の耳が聞こえなくなったのでもなく。ただ記憶に引っかかっている過去が急に近くへ引き上げられたせいだった。

『大丈夫?』

(あんときのハンカチは結局血が落ちなくて駄目にしちまったんだったな……どこに仕舞ったっけか)
「……れ……ん」
(もう5,6年くらい前になんのか? ……にしても、今日はなんか変だ)

どうしてこんなに思い出に浸る機会が多いんだ。
あまり思い出したくない部分が多い記憶だ。好き好んで掘り起こしたりはしないのに、なぜ今日に限って。

場所を忘れて考え込む紅蓮の肩が掴まれる。
同時に耳元で聞きなれた声が鼓膜を揺さぶった。

「紅蓮!!」
「…………るせ」
「おっまえが反応しないからだろ! 見ろ、カノジョすっかり蒼くなっちゃって、紅蓮のせいだからな!」

しっかりフォローしろよな。俺はアイス選んでくるから。
ビシッと指を突きつけて、ついでに間抜けな一言を付け加え、友人はさっさとその場を去ってしまった。
置いていかれた紅蓮は傍らにいる女子高生を視界に入れて──背の高さがほぼ同じくらいだろうか、妙に近い気がする──ふぅ、と息を吐いた。

「あー、悪かったな」
「だ、大丈夫なの? 怪我は?」

紅蓮が制服を着ていたせいなのか、先ほどよりも砕けた口調で詰め寄ってくる彼女は変わらず顔色がよくない。
それに気をとられていたおかげで伸びてくる手に気づくのが遅れた。
自分の前髪を上げて負傷箇所の確認をする相手は驚くほど近い。
忘れていたがここはスーパーの出入り口だ。当然人通りは多いし主婦の方々も遠巻きに──

(遠巻きに!? ってか斜向かいん家のおばさん!)
「ちょ、こっち!」
「え!?」

前髪に触れていた少女の腕を取って、そのまま店を飛び出した。

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