Vischio

睡恋華-Plorogue-

この日は天気が悪かった。
幼馴染と約束した時間はとっくの昔に過ぎていて、それでもアイツが来るのを待っていた。

『すみません、紅蓮くん』

遅れてしまいましたね、と言いながら必死に走ってくるのを──ずっと待っていた。

しかし代わりに姿を見せたのは知らない上級生で、それはきっとアイツの知り合いなんだと言葉の端々から理解した。
だがそれを理解しても、己に降りかかる暴力には疑問符しか浮かばない。
なぜこんなことをされるのかわからない。
自身を打つ音を聞きながら、少しでも衝撃を和らげようと身体を丸めた。

複数の相手から一方的に与えられる痛み。それに対抗するには知恵も力も足りなくて、耐えるしかない自分が悔しくて堪らない。
ボロ雑巾のようにその場に倒れ付した紅蓮は、それでも幼馴染を待っていた。
立ち上がれずに空から降ってきた滴が頬を濡らすのも放置して、短く息を吐きながら公園の入り口をずっと見つめていた。
身体が冷え切って、口元から白く息が立ち上るのを見てようやく。

彼は来ないのだと実感した。

信じていたのに。そりゃアイツは姿も言動もちょっと変わってて、雰囲気が周囲から浮いていたけれど、そんなの自分には関係なかったのに。
口には出さなかったし出す気もなかったけれど、昔からずっと兄のように思っていたのに──

「……っ、く、そ……!」

痛む腕を無理やり動かして地面を叩く。グチャと音を立て、柔らかくなった土が紅蓮の手を受け止めた。
降り注ぐ雨は止まない。止まなくていい。
しばらくは、目から勝手に零れてくる涙が止まるまでは。ずっと降っていればいい。
よろけながら身体を起こし、汚れた袖でグイと目元をぬぐう。それでも涙が止まることはなかったが、代わりとでも言うように雨が止んだ。
いや、雨は降っている。実際紅蓮の目の前にある水溜りには滴による波紋が絶えることなく描かれていたし、耳にもザァザァと独特の音が届いている。

「大丈夫?」

頭上から響いた声に、紅蓮は反射的に振り向いた。泣いている現状だとか表情だとか、身体が軋みをあげたのも構わず──その瞬間は全て忘れて──声の元へ視線を投げた。
じっとこちらを見つめる灰茶の双眸。ゆるく波うつ色素の薄い髪、ふんわりと柔らかな素材でできた白い服。

(…………天使?)

まさかお迎えが来たのか?
紅蓮は一瞬だけよぎった考えに急いで首を振った。冗談じゃない。高々小学4年であの世逝きだなんてお断りだ。
警戒心も顕に見返すと、天使は驚いたように目を見開いて紅蓮の手に金属の棒──よく見たら傘の柄だ。雨が止んだのはこれのおかげだったようだ──を押し付けて、公園の水道へ走っていった。



雨避けのためにと移動した公園の遊具の中で、少年と少女は傷の手当をしていた。
とは言っても当然本格的な救急箱など持ち合わせていなかったので応急処置だし、子供ができることは限られている。
少女が濡らしてきたハンカチで少年の血を拭うぐらいだ。

「イッ、て!!」
「我慢して、男の子でしょう?」

こういうとき男は損だと思う。痛みに男女なんて関係ないはずなのに、性別で我慢強さに差が出るものなんだろうか。
天使と見間違えた少女は自身が濡れるのも構わず、紅蓮のために傘とハンカチを差し出した。
傘を手放したわずかな時間で、少女の髪も服も雨の跡がついている。

「……ねぇ、なんで倒れてたの?」

少女から零れる声は、ともすれば聞き逃してしまいそうに小さい。
聞こえなかった振りをしてもよかったのに、紅蓮は少女から視線を逸らし「喧嘩」と短く告げた。
ぶっきら棒に言い捨てたものの、彼女の反応が気になってチラリと視線だけを向ける。
少女はくしゃりと痛そうに顔を歪め、紅蓮の傷から血を拭っていた動きをピタリと止めた。

「べ、別にお前が怪我したわけじゃねーだろ!? んな顔すんなよ」

今にも泣き出しそうに見えて、紅蓮は慌てて腕を振って見せた。
そこまで心配するほどじゃないんだということをアピールしたかっただけなのだが、急に動かしたことによって忘れていた痛みがビリビリと伝わってきて言葉を無くす。

「~~~~ッッ、」
「何やってるのよもう。無理しちゃだめよ? 家に帰ったらちゃんとお母さんに手当てしてもらってね?」
「……ん」

まるで言い聞かせるように人差し指を立てながら告げる少女に、ぎこちなく笑みを返す。
家にはまだ誰もいない。父は22時を過ぎないと帰ってこないと予定を聞かされていたし、自分には母親がいないのだ。それを彼女に告げる気はなく感づかれていない自信もあるが、胸中に渦巻く気持ちはすっきりしないものだった。
物心ついたころから“母”というものには無縁で、羨むことがなかったといえば嘘になるけれど、その分父親が心を砕いてくれていたし、そのことに不満を持ったことはない。
言葉の少ない自分の反応が気になるのか、少女は首を傾げてこちらを伺っている。
少女を見返すと、紅蓮は誤魔化すように口元に笑みを浮かべた。
僅かに失敗して泣き笑いのようになってしまったのが悔やまれる……これは痛みのせいだ。そうに違いない。

「……もう遅いし、帰ろーぜ。オレも帰るしさ、ハンカチありがとな。すっかり汚しちまって悪い。洗って返したほうがいいんだろーけど、血は落ちるかわかんねーな。新しいやつでも買っ」
「ねえ」

捲くし立てるようにしゃべりだした紅蓮を遮って、少女が紅蓮の腕に手を添える。
まっすぐ見つめてくる眸に、思わず息を呑んだ。

「目、痛い?」
「は? あ、あぁ……そりゃ、痛ぇけど」

指摘された場所は時間が経つにつれて熱を持ち、視界をわずかに遮っている。
患部が腫れてきているのだろう。血が溜まっているのか重くなってきたようにも感じた。
ジッとこちらを見たまま目を逸らさない彼女は、突如腰を浮かせて身体を伸ばすと小さな唇をゆっくり紅蓮の瞼に近づけた。
触れるか触れないかのギリギリの距離で、ふぅと軽い吐息が過ぎていく。
紅蓮はというと、これ以上ないくらい目を見開いて身動きもできずに固まっていた。
 

「おまじない。早く良くなるといいわね」

にっこりと満面の笑みを浮かべた少女は、次の瞬間には弾かれたように遊具の外へ目をやっていた。
唇が音を出さないまま、よんでる、と形を作る。

「じゃあね。もう喧嘩なんてしちゃ駄目よ?」
「おい!」

呼び止める紅蓮に構うことなく、彼女は変わらない笑顔のままヒラヒラ手を振って出て行ってしまった。
視線の先で、傘に描かれたピンクの水玉模様が楽しげに揺れている。それがクルリと回転したかと思うと、遠ざかる速度が増した。
動きを止めた傘の隣に大人の姿を確認して、ようやく少女の呟いた──声は出ていなかったのだから若干違う気がするが──“呼んでる”という言葉を理解した。

「…………変なヤツ」

少女の姿が完全に見えなくなってから、紅蓮は無意識のうちに呟く。
知れず腫れた瞼に手をやっていることに気づいて──誰も見ていないのに──周囲を見渡しながら、慌てて自分の手を降ろした。
降ろした先で洋服とは違う布の感覚にまたもやビクリと反応してしまい、小さく舌打つ。
残されていたのは自分の血が付いた少女のハンカチで、それを認めた途端「あ」と間抜けな声を上げた。
返せない。洗って返すにしても新しいものを用意するにしても、自分は彼女のことを何も知らないのだから。
名前も年齢も住んでいる地区も。ただ無条件に優しさだけを貰ってしまった。

(ま、しょーがねーか……)

紅蓮は大きなため息をついてハンカチをポケットにねじ込む。
動くと痛みで存在を訴えてくる傷は、幼馴染とその知人との出来事を思い出させて紅蓮の気分を暗い方へと誘《いざな》う。
けれど、小さな布切れに触れるとそれがほんの少しだけ軽くなる気がした。
ぐるぐると頭を過ぎる“なぜ”という疑問、裏切られたという絶望感を無理やり押し込めるように、ハンカチを入れたポケットを数回軽く叩いた。

「っし、帰るか!!」

無理やり自信を奮い立たせ、紅蓮は遊具の外に出る。
傷が治ったら問い詰めてやろう。こんなふうにグズグズ悩むのは好きじゃないし、きっと何か理由があったに違いない。
──信じていたかった。僅かに覗くこの絶望感を払い飛ばしてほしい。

雨は勢いを弱め、いつの間にか小雨に変わっていた。

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