Vischio

歪んだ顔

いつからか夜中に城を徘徊する見知らぬ女性。
彼女が城に来てから、兄は変わってしまった。

──いや、それは少し違う。

王の業務を手伝う彼をぼんやりと見つめながら、ローザは胸の内で首を振った。

変わったというよりも、昔の兄に戻った──その表現の方が適している気がする。
狩りを好んだ兄。慈悲という言葉から遠い人。

「……お兄様」
「ん?」

普段見せる笑顔はとても優しい。常と変わらないものなのに。

「あの方は……ルイさんはお元気ですの?」

彼女に関するときだけは────別人のよう。



業務を終え、部屋に戻るために足を速める。
あいつは今日も一人で退屈だったろうな。たまには一緒にでかけるのもいいかもしれない。
今の時間ならまだ市場は賑わってるし、夕暮れから夜にかけての方がなにかと都合もいい。

色々と想いを馳せながら長い廊下を突き進んでいると、ふと強い視線を感じた。
そこから濃厚な面倒事の香りがして、あからさまに顔を顰める。
無視をしようにもできないほどの気配を投げてくるソレに大きく溜息をついて、オレは足を止めた。

「──誰だ?」

そう声を掛けると、それを待っていたかのように、柱の影から一人の男が顔を覗かせた。
全身をローブに包んだ姿、僅かに覗く赤い髪──ヒトとは違う形の耳。

「……初めまして紅の王子」

ひっそりと現れた男はシェイドと名乗った。
遠く暗い闇の国から来たと言う彼は「我が主より伝言を言付かって参りました」と仰々しく言って、軽く頭を下げた。

「伝言?」
「ミーアの末姫──ルイ様が行方不明であるという知らせはもうご存知ですか?」
「さあ、たった今聞いたところだ」

事実を告げると、シェイドはクツリと笑いを零し「ヒトにしておくには惜しい」と呟いた。
それがなんとなく不快で眉を寄せ、そのまま早く用件を言えと先を促した。

「我が主はルイ様の所在を突き止めております。紅の王子……貴方ならば意味がわかるでしょう」
「…………で?」

表情は動かさず、むしろ視線は冷めていく。
闇の国──ダンケルは魔族の国。そんなことは遙か昔から伝わっている事実。
目の前にいるのが魔族であろうことも、オレ──いや、ヒトが力では敵わないことも知っている。
それでも回りくどい言い方がじれったくておざなりに返事をした。

オレの態度に満足したのか──魔族の趣向はよくわからない──シェイドがまた小さく笑う。
ようやく『伝言』とやらを伝える気になったのか、「では」と切り出した。

「主はミーアからの遣いがこちらに来る前に、貴方にお会いしたいと仰せです」
「ふーん……いつだよ」
「お会いして頂けるのですか?」
「ハッ、よく言うぜ……“会わない”なんて選択肢なんかねーだろ? そっちの都合に合わせてやっから、さっさと消えろ。オレは急いでんだよ」

苛立たしげに吐き捨てると、シェイドは再度軽く頭を下げて「では、明日陽の沈む時刻に」と呟いて消えた。

「ルイ姫の捜査──か……」

ポツリと呟いて、止めていた足を進める。

「やっと始まったのかよ…………」

小さく漏れた言葉は、暗い闇に吸い込まれて消えた。



常と変わらない自室の扉。
この扉の向こう、寝室を兼用する部屋には一人の美しい女が横たわっている。

「……ッ、ふ、っく、」

ベッドの上にうつ伏せて華奢な身体を震わせながら、嗚咽を漏らす姿は見慣れたもの。
時々それに合わせて鳴る金具の音が耳に心地よいと感じ始めたのはいつからだろう。

「ただいま、瞳」

告げながら細い金糸を掬いとって口付けると、ピクリと身体が震えて僅かに頭が上がる。
それに合わせて乱れる髪の合間から、真っ赤になった目尻が覗いた。

「目、溶けるぞ」

名を呼んで、細い肩を抱く。
そのまま頬に張り付いた髪を優しく避けながら頭を撫でると、弱々しい力で押し返された。

「かえし、て……」
「何を?」

瞳が欲しいのは物じゃない。わかってたけど、わざと聞き返す。

「帰りた……お願、い……」

必死にオレの服を掴む手のひら。見上げてくる泣き濡れた眸。
何度も何度も見たそれはオレの感覚を麻痺させて、狂わせる。

──勝手に零れたのは笑い声。
クツリと漏れたそれを聞いて、瞳が息を呑んだ。

「何言ってんだよ────望んだのはお前だろ?」
「ちが……」

違う、と声にならない声が漏れる。
音にならないそれは無意味同然、瞳はフルリと頭を振って両手で顔を覆った。

──原因なんて、もうどうでもいいんだ。
瞳が今ここにいる、その事実だけあればいい。

「今更帰すかよ」
「ッ、」

瞳に聞こえるギリギリの音量で呟いて、華奢な身体を抱き締めた。

「お前だけでいいんだ……」

他は何もいらない。
瞳だけが──



◇◇◇



昼間は部屋に拘束されている瞳にとって、夜は唯一の自由時間だった。
人気のなくなった城の中をぼんやりと歩く。
中庭と東屋を中心にフラフラ移動する姿は幽霊か人形のようだ。

「瞳」
「……なぁに……?」

返される声には抑揚がない。
そんなに帰りたいのか? なんで帰りたいんだ?

「……心配かけてると思うの……」

オレの問いかけに対しての答えはその程度。
それだけのためにあんなに毎日、目が溶けそうになるくらい泣くのか。

「それに……」
「それに?」
「…………あれは、いや」

ふわふわと目の前を漂う瞳を捕まえる。
抵抗もしなければ受け入れもせず、ただオレの動かすままに腕の中に納まる。

「そんなに嫌なら、さ……オレと約束しろよ」

「……ぐっちゃん……?」
「どこにもいかねーって。ずっとここにいるって言えよ……そしたら付けねーからさ。オレもあれ、あんま好きじゃねーし」

言いながら腕の拘束を狭めて、ゆるりと瞳を引き寄せる。
力なく寄りかかってきた瞳を抱え込んで、耳元に口付けた。

銀の楔。部屋にいる間瞳の足首を彩るそれは、冷たく重く、瞳の足を傷つける。
無駄だとわかっているくせに、瞳も外そうと躍起になるものだから、足にはいつも赤く痕がついていた。
今は長いドレスに隠されているけれど──それを見るのは好きじゃない。

瞳に痕を付けていいのはオレだけだ。

「瞳、」

変わらぬ姿勢のままで呼ぶと、力の入っていなかった身体が小さく跳ねた。

「どうする?」

更に問うと、瞳がオレの腕に手を添える。

「……ここにいるわ……」

どこか遠くを見つめながら、消えそうなほど小さな声で呟いた。



その時のオレは、きっと笑っていたに違いない。

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