Vischio

あるはれたひに

暖かい気候、天気は上々、今日は絶好のお昼寝日和。



散歩がてらに隣国へ足を踏み入れて数刻。
リーテの王子は小高い丘の上で休息をとっていた。
ロッドの街並みも賑やかで好きではあるけれど、やはりどこか自分とは相容れない雰囲気がある。
国境まで足を伸ばせば静かな場所があると知っていた王子は、躊躇いなくそちらを取った。

目の前に広がる湖、周りにはいつ来ても人がおらず、実はあまり知られていない場所なのだろうかと首をひねる。
王子はゆるりと息を吐き出して、大きな樹に背を預けて座り込んだ。
緩やかに吹く風が気持ちいい。

(眠くなってきますね……)

今寝たら夜の謁見時間までに帰れないかもしれない。
けれど、耳朶をくすぐる小さな水の音と、僅かに咲いている花の香はあらがいがたい誘惑を孕んでいた。

「あー! そこ、オレの席!」
(ん?)

ぼんやり花を眺めていたら、横合いから小さな少年が駆けてくる。
少年は王子のすぐ近くまで来ると、そのままペタリと腰を降ろした。

「……ここは君の場所なんですか?」
「まあな。でもひとりじめはよくねーって言われたから、にーちゃんも使っていいぜ」
「ありがとうございます」

足をばたばたさせながらの発言内容に、思わず笑いが漏れる。
一見して随分と身なりのよい子供は、どこかで見たような顔をしていた。
王子が考えていると、ふいに横の子供が立ち上がる。
何をするのか興味があって見守っていると、広々とした芝生の上にころんと横になった。

「あの、汚れてしまいますよ」
「ん? なーに言ってんだよ。服なんて洗えばいいんだから気にしたらもったいないんだぞ!」
「……怒られても知りませんよ?」

苦笑交じりに言うと、少年は腕をつきながら身体を起こし、どこか自慢気にフフンと笑った。

「もったいないって言ったのはオレじゃねーからへいき! それより昼寝だ。そっちの樹の根元もいいけど、ここも気持ちいいんだぜ。やわらかいし、いいにおいするし。にーちゃんも寝るか?」

少年の言葉に答えるのを躊躇う。地面に直に寝転がるなんて経験はない。シートでも用意されていれば別だけれど。

「あーあ……ここに瞳がいればカンペキなんだけどなー……こんなにいい天気なのに」
「瞳?」
「うん。今アイツがひとりじめしてんだ。オレにはだめって言うくせに、おーぼーだよな!」

子供だから仕方ないとは思うものの、要領を得ない会話に苦笑を返すしかない。
少年は「いつかたおしてやるんだ」と息まいて、腕を空に向かって振り上げた。
ゆらゆら動いていた腕がゆっくり降りる。
急に静かになったのと無言が続くのが気になって近寄ると、急に起き上がって体当たりをする勢いで飛び付かれた。

「わ!?」
「やっべ……」
「な、なんですか?」
「シー! くそ……アイツ、もう来たのか」

王子は少年の行動に戸惑うしかない。
しかしそんな王子の様子に構うことなく、少年は真剣な表情で森の方を見つめていた。
彼が目をやる方向から「チビー」と呼びかける声が聞こえる。
声に反応して少年の眉がピクリと動き、王子の服を掴む手には力が入った。

「にーちゃんわりぃ、かくまって!」
「は? え、ちょっと」

了承する前に、彼は王子の後ろに回り込んで身を屈めた。
呼びかける声は段々近づいて、声の主の姿もはっきりしてきた。
鮮やかな金色、国色の紅を纏うその姿には確かに見覚えがあった。

「グリーエン王子……?」

ポツリとひとりごちて自分の後ろ、斜め下を見る。
ここでようやく合点がいった。この子供は彼の──グリーエン王子のミニチュア版だ。

「君は、」
「シッ! 話しかけんなって、ばれるだろ」
(……そうは言いますけど──)

横から見られたら完璧にばれる隠れ方だ。
それを教えようと口を開くものの、再度視線と人差し指を立てる動作に止められる。
眉尻を下げて肩を竦めて見せたところで、少年を捜しに来たであろう彼──グリーエン王子に話しかけられた。

「あれ。お前……えーと、リーテの王子?」

いつまで経っても慣れねぇな、と苦い顔でよくわからないことを呟く彼に曖昧な笑みを返す。
なんとなく、そのことについては問わないほうが良い気がした。
代わりに「メグルでいいですよ」と表情を改めてから告げる。

「随分とお久しぶりですね、今日はお忍びで訪問させてもらってます」
「……そっか」

明るく言うと、グリーエンはメグルの意図に気付いた様子で苦笑しながら自分の後ろを振り返った。

「に、しても……いいところに目つけたな。ここは結構穴場なんだ。もっと向こうに行けば古い城があるから気が向いたら行ってみるといいんじゃねーか? 中に入りたきゃ許可証出してやるし」
「それは嬉しいですね。時間の関係上今日は無理ですが、近いうちにお願いしてもいいですか?」

雑談にも似た会話の最中、メグルの後ろに居る小さな影がみじろぐ。
慎重に移動しようとする気配に、メグルもつられて身を固くした。

「ああ、城まで来てくれりゃいつでも──」

メグルの方を向きながら、彼はにこりと笑った。
雰囲気が変わった気がして僅かに緊張する。

「……で、チビ。それは隠れてるつもりなのか?」

不自然な笑顔を崩さず、呟くように言うグリーエンに、少年が開き直ったようにメグルの後ろから飛び出した。
──手はメグルの服を掴んだままだったが。

「な、なんでここがわかったんだよ! オレ、だれにも内緒で出てきたんだぞ!?」
「内緒、ね……」
「なんだよ、その笑いやめろよ」

大小二人のグリーエンに挟まれているメグルは、口論──と言えるのだろうか──を聞きながらただ黙っているしかなかった。
事情がわからないのだから、口を挟んでも状況を悪化させるだけだ。

「誰にもって言うけどな、お前の短い足でここまで来れるわけねーだろ。馬も使ってない、外に出たのを見たヤツはいない。代わりにお前の部屋に居たのは魔術師だ。……お前いつの間にあの魔術師と仲良くなったんだ?」
「つーか短いって言うな! やくそくしたのに……シドウのやつ!!」

小さな王子は地団太を踏みながら中空を睨む。
それを呆れた様子で見ながら、グリーエンはメグルに視線を合わせた。

「悪いな、巻き込んじまって」

そう彼が言った時、少年は弾かれたようにその場から駆け出した。
予想済みだったのか、あっさりそれを捕獲するグリーエン。
片手で少年の頭を押さえ、そのまま服を掴んで持ち上げてしまった。

「はなせ!」
「お前なぁ、なんで一人で城から出んだよ。百歩譲ってオレはともかく、瞳に心配かけんな」

ジタバタ暴れていた少年は“瞳”に反応してピタリと動きを止めた。

「瞳、心配してたか……?」
「当然だろーが。オレが行くっつっても自分が飛び出そうとするし──っつかお前、瞳って呼ぶなって何回言やわかんだよ」

しまいにゃ殴るぞ、と脅し文句をつけるグリーエンから本気を感じ取ったのか、少年は腕から逃れようと身を捩った。

「だってずるいだろ! おまえが母さんのこと“瞳”って呼ぶとすっげーうれしそうにするの知ってんだぞ!? オレだって呼びたい」
「……ふーん、瞳がね」
「!」

ニヤリと口角を上げたグリーエンを見ると、少年はあからさまに慌てだし、懇願するようにグリーエンの服を掴んだ。
勢いよく頭を左右に振るものだから、金色の髪がパラパラと広がって光を反射する。

「い、いまのはウソだ。うれしそうなんかじゃなかった。なかったからその笑いやめろよ! 母さんに変なことしたらゆるさねーからな!?」
「変なことってなんだよ」
「えっちなこと」

少年から飛び出た言葉にメグルは思い切り噴出し、思わずグリーエンから少年を引ったくった。

「うぉっ!?」
「ッ、グ、グリーエン王子! あなたは子供に何を教えて」
「ちょ、おい落ち着けって! オレじゃねーよ……」

両手を挙げて降参のポーズをとったグリーエンは、大きく息を吐き出した。
そのままメグルに抱き上げられている状態の少年を半眼で見、低い声で言う。

「チビ……魔術師呼べ」
「いやだね」
「呼・べ」
「い・や・だ」

火花を散らしかねない二人を見兼ねてメグルが少年をさらに高く持ち上げる。
成り行きで肩車をしてしまうと、少年から歓声が上がった。

「すげー! 父さんより高いじゃんオレ!」
「チビ!!」
「へっ、今はチビじゃねーぞ、父さんのがチビだ!」

「ぐっちゃん」

「んのやろ……って、え!?」

場違いなくらいの穏やかな声。
柔らかく響いてきたそれに、睨み合いをしていた二人と間にいたメグルは一様に動きを止め、声の主を見た。
 
ふわふわの長い髪をなびかせて軽く息を切らして駆けてくる姿に、慌てたようにグリーエンが動く。

「わっ」

ドレスの裾か樹の幹か。
いずれかに足を取られて前につんのめった途端、タイミングを合わせたとしか思えないほどシンクロして、大小二人のグリーエンは彼女の名を呼んだ。

(……彼女が“瞳”さんでしたか)

思わぬステレオ音声に感心して、メグルはそんなことを思った。

「……あぶねー……」
「あーびっくりした」
「びっくりしたじゃねーだろ? なんでここに居るんだよ、城で待ってろって言ったじゃねーか」
「そんなにガミガミ言わないでよ! 私だって最初はおとなしく待ってたのに、ぐっちゃん全然連絡くれないし……」

転ぶ直前、グリーエンに救出された彼女は小言を口にする彼を止め、逆に謝らせていた。
メグルの頭上で少年が「やっぱ瞳は最強だ」と呟く。

「チビくん……彼女は“ルイ”さんじゃないんですか?」

名前の差異に違和感を覚えて聞くと、押し黙った少年は急にメグルの髪を引っ張った。

「い、痛いですよ、ちょっと!! チビくん!?」
「チビじゃねー!!」
「でもグリーエン王子は君の事“チビ”って……痛たたた、痛いです!」

ひとしきり痛がっているメグルを見て満足したのか──それも迷惑な話ではあるけれど──少年はメグルの頭に腕を置いて、ふう、と一息ついた。
それが大人を真似る所作のように思えて自然に目尻が下がる。

「瞳は……母さんはさ、二つ名前持ってるんだ。オレはよく知んねーけど、あいつはいっつも“瞳”って呼んでる。みんながいるところでは“ルイ”って呼ぶくせに……だから“瞳”はきっとトクベツな名前なんだ」
「そう、ですか……ルイさんだけですか? グリーエン王子は?」
「…………ある」

今、少年の声の調子が格段に落ちた。
それにしても二つ名があるという話は聞いたことがない。ロッド独自の風習だろうか。
それともグリーエンの代になってから始まったことなのか。

(でも、それは変ですね)

ルイはミーアの姫だったはずだから、出身の違う二人が同じように二つ名を持っているというのは不自然だ。

(個人的な理由なのでしょうか……)

あまりつっ込んで聞くのも失礼だろう。
メグルは彼らの事情だからと割り切ることにして、頭上で押し黙ったままの少年に声をかけた。

「どうしたんです?」
「オレ、あいつのもういっこの名前知らない」
「え」

思ってもみない事実にどう反応したらいいか困る。
助けてほしいと思いながら若干離れたところにいる二人へ視線を移すと、ルイに向かって手を合わせているグリーエンが目に入った。
まだやっていたのか、と思うと同時にこれは頼れそうに無いと判断する。

「……聞いてみたらどうですか?」

既に実行していそうなことを提案するしかないなんて。
案の定、聞いて誤魔化されたクチのようだった。

「では、僕が聞いてみましょうか?」
「え、でもにーちゃん、」
「グリーエン王子」

少年が何か言おうとするのを遮って、声をかける。
ようやくこちらを向いた二人が距離を詰めてきた。
ルイのほうは小走りに、グリーエンはゆっくりと。
ルイはよかった、と呟いて両手を少年に向かって伸ばし、腕に抱きとめた。

「もう……心配させないで」
「ん、ごめん」

苦笑を漏らしながら少年の頭を撫でたルイは、メグルと少年を交互に見て嬉しそうに笑った。

「メグルにーちゃんに遊んでもらってたの?」
「え!? ぼ、僕ですか?」

メグルとルイは赤の他人であり、親戚でもなんでもない。
そもそも種族が違う。それとも親しげにしていた時期があったのだろうか。

──“メグルにーちゃん”と呼ばれるほどに?

混乱するメグルを見かねてか、溜息混じりに近づいてきたグリーエンがルイの頭を軽く叩いた。

「瞳……」
「え、あ……うん、じゃあメグル、さん?」
「……なんかそれもムカつく」
「じゃあどうしろっていうのよ!!」

このまま放っておくとまた夫婦喧嘩が始まりそうな気配。
犬も喰わないそれを展開されるのはごめんだし、聞きたいこともある。
メグルは「どうぞお好きに呼んでください」と言い差して話を中断させた。

「で? オレに話か?」
「ええ、あなたのもう一つの名前を教えてくれませんか?」
「……直球だな。チビに聞いたのか?」
「子供にも教えていないのに、他人の僕に教えるのは抵抗がありますか?」

穏やかに事を進めようと、なるべく軽く聞こえるように言う。
すると、グリーエンは驚いたのか目を丸くして少年を見、それから自分の髪をくしゃりと混ぜた。

「あー……知らなかったのか……」

少年はルイの腕の中でジッとしながらこちらの話を聞いている。
不意にグリーエンは少年の頭に手を置いて軽く撫でると、少し困ったような顔で笑った。

「な、なんだよ……」
「お前と一緒」
「は?」
「だから、オレの名前。知りたかったんだろ?」

目を忙しなく瞬かせる少年と同様に、メグルもまた驚いて動きを止めた。
結局少年は最初から、グリーエンのもう一つの名前を知っていたということになるのだろうか。

「ま、文句なら瞳に言えよな。付けたのこいつなんだから」
「ちょっと! どうしてそういうこと言うのよ、いい名前でしょ!?」
「お前まともに呼んだことねーだろ」
「呼んでるわよ」
「チビに対してだけな」
「……あ、もしかしてヤキモチ? ぐっちゃんも呼んで欲しいの?」
「当たり前じゃねーか」
「ッ、」
「なぁ、瞳?」
「な……なに……?」
「オレに呼ばれるの好きか?」

少年を間に挟んだまま、グリーエンがルイの髪を梳く。
ルイの白い肌が次第に赤く染まっていくのがわかり、メグルは思わずあさっての方を向いた。
これ以上あてられては堪らない。
距離を取って小さく息を吐くと、ガスッと何かを殴るような音が聞こえた。

「痛ッて! 邪魔すんじゃねーよチビ」
「しなきゃオレがつぶされるんだよ! 瞳に変なことすんなって言っただろ!!」

「紅蓮!!」

今のは魔法の呪文だろうか。
うっかりそう考えてしまうくらい、ルイの発した一言はよく効いた。
二人のグリーエンはピタリと動きを止めて、いつの間にか横に並んでいる。
端から見ているメグルにはとても面白い光景だった。

「まったく、どうしていつもそうなの? ぐっちゃんも子供相手に大人げない」
「ンなもん関係ねーよ」
「ガキあつかいすんなよな!」

間髪いれずに口を挟む二人を見ながら大きく溜息を吐くルイ。
一連のやり取りを見守っていたメグルは、とうとう堪え切れずに噴きだした。
クスクス零れる笑いに反応して、ルイが振り向く。

「メグルさん?」
「あぁ……すみません、あなた方があまりにも楽しそうなものですから。────幸せですか?」

突然の質問に驚いたのだろう。ルイは目を数回瞬かせ、メグルを凝視する。
忙しなく動いていた眸がチラリと似たもの親子を掠めると、彼女は目元を綻ばせて笑った。

「……とっても」

ルイにつられるようにしてメグルも笑う。
そうですか、と相槌を打つと、彼女の後ろにいたグリーエンが視界に入った。

── 一瞬泣き出しそうに見えたのは気のせいだろうか。

グリーエンはルイを抱き締めると、抗議する小さな影に構うことなく礼を言った。

「どうしたの? 私、なにかお礼言われるようなことした?」
「……言いたくなったんだよ」
「変なぐっちゃん」

(やれやれ、結局すっかりあてられてしまいましたね……)

メグルは肩を竦めると、退出の挨拶をどうするべきか考え始めた。
無言で去るのは失礼だが、かといってこの雰囲気に割り込む気もない。

「なぁ、にーちゃん」
「チビくん……」

いつのまにか死角の位置にいた少年に、内心吃驚しながら視線を下げる。
彼はムッと眉根を寄せて、紅蓮、と呟くように言った。

「紅蓮だよ、オレ」
「そうでしたね……では改めて。どうしたんですか、紅蓮くん?」
「うん。夫婦って、何年くらいいちゃいちゃしてるもんなんだ?」
「…………それは、僕にはなんとも……すみません」

だよなぁ、と溜息を吐く少年──紅蓮に小さく笑って、小さな身体を抱き上げる。

「仲が悪いよりはずっといいんじゃないですか?」
「そりゃそうだけどさ……オレがいても関係ねーんだもん」
(おや)

メグルの肩に手を置いてバランスを取っている紅蓮の漏らした言葉は、不満に満ちた表情とセットだった。
両親に甘えたい盛りの年頃──だったような気がする。正確には覚えていないけれど。
口ぶりは大人ぶっているようだが、やはり寂しいのかもしれない。
一人で城を飛び出すのも、それが突然なのも、もしかしたら──

「やっぱ今の、なし。なんでもねーから忘れて」
「心配しなくても、君は愛されていると思いますよ?」
「なに言ってんだよ。オレはそんなことぜんぜん気にしてねーよ」
「意地っ張りですね」

メグルから逃げるように顔を逸らした紅蓮は、両親を見て小さく呟いた。

「…………ほんとに、そう思うか?」

自信なさげなその様子に思わず笑いそうになってしまう。
紅蓮はそれに気付いたのか、にーちゃん、と恨めし気に言った。

「仕方ないですね……こうなったら最後まで付き合ってあげますよ」
「あ! にーちゃんまた直接聞く気だろ!?」
「大丈夫ですよ。もしものときは僕が君を引き取ります」
「ッ、こわいこと言うな!!」

耳元で大きな声を出す紅蓮に苦笑して頭を撫でる。
軽くくちびるを噛む彼を抱えたまま、グリーエンとルイの方へ足を進めるとグリーエンが気付いて片手を上げた。

「そろそろ帰ろーぜ。チビ、今日という今日はみっちり説教だからな」
「紅蓮くんは僕が預かります」
「は!?」

グリーエンは思い切り顔を顰めてメグルを見上げると、傍らに抱えられている紅蓮を視界に入れて「チビのことか」と呟いた。

「お前のところに行くって? チビがそう言ったのか?」
「いいえ。でも、いいでしょう? たまには夫婦水入らずで過ごすのもいいんじゃないですか? いっそのことずっとリーテで過ごしてもらうというのも考えてるんです。彼は頭がいいですし、このまま」

「だめ!!」

メグルの言葉を黙って聞いていたグリーエンを押しのけて、ルイが飛び出してきた。
「だめだめ、絶対だめ! いくらメグルにーちゃんでも、紅蓮だけはだめ!」

若干驚いた表情の紅蓮を横目で見やり、伸ばされるルイの腕は身体を引くことで避ける。
──まだ肝心の人物から答えを得ていない。
無言で微笑むメグルの様子に気付いたルイは、勢いよく振り返ってグリーエンの服を掴んだ。

「どうしてぐっちゃんは何も言わないの!? 紅蓮が」
「まぁ、ちょっと落ち着けよ」

服を掴む手のひらを包み、ゆっくりとそれを外しながら、グリーエンは紅蓮に視線を合わせた。

「チビ。お前は──紅蓮は、どうしたいんだ?」

いくらか言いづらそうに紅蓮の名を紡ぐグリーエンに、紅蓮の身体がびくりと動いた。
ここでの答えによっては追い払われるのだろうか。
そんな不安が見え隠れしているようで、メグルは彼を抱き上げる腕に力を入れる。

「大丈夫ですよ」

ついでに紅蓮にしか聞こえないくらいの声量で付け足すと、彼は一瞬息を止め、真っ直ぐグリーエンを見た。

「オレが……オレが“行きたい”って言ったら? 父さんは母さんといちゃいちゃしたいだろうから、よろこんで追いだすか!?」
「……いちゃいちゃって……まぁその部分に関して否定はしねーけど」
「ぐっちゃん!!」

息を詰める紅蓮と、ほぼ同時にバシンと鳴る乾いた音──おそらくルイが叩いたのだと思う──に次いで、グリーエンが顔を顰めた。

「痛ぇ……ったく、お前もチビもやたら気が早いっつーか……最後まで待てねーのか?」

呆れ混じりに言うと、彼はおもむろにメグルとの距離を詰め、紅蓮に腕を伸ばした。
意図を悟ったメグルは僅かに紅蓮を降ろし、そのままグリーエンに渡す。
彼は紅蓮を持ち上げた状態で視線を合わせるとようやく口を開いた。

「お前がどーーーーしてもリーテに行きたい、コイツの養子になりたいってんなら止めねーよ。……けどな、それはオレを納得させてからだ。その理由がオレの納得するもんだったらロッドから籍抜いてやるし、瞳もオレが説得してやる」
「な、んだよ……それ……すげー勝手」
「そうだな」
「……結局、父さんはオレのことどう思ってんだよ!」

いるのかいらないのか、聞きたいのはそれだけだ。
途切れがちに紡がれる言葉と細かく震える肩──グリーエンはそれを薙ぎ払うようにフッと軽く笑った。

「バーカ。いるに決まってんだろ。お前は瞳の子供なんだから……オレと、瞳のな」

グリーエンが小さな身体を引き寄せて抱き締める。
ポツリとちっせーな、と漏らす表情は緩んで見えた。

(だから言ったじゃないですか)

ふっと息を吐くと前方にいるルイも同じような動きをしていた。意味合いは大きく違っている気がするが。
彼女は心底安堵したように胸を撫で下ろし、紅蓮の髪を梳いていた。

「……にしても、なんでいきなり追い出すだなんだって話になってんだ? オレがお前を追っ払おうとしたことなんてねーじゃねーか」
「……今日のことわすれてんのかよ! 昼間瞳にちゅーしてるとき」
「きゃああああああ!!」
「「うるせーぞ瞳」」
「何よ二人して! そんなときばっかり息ぴったりにならなくたっていいでしょ?」
「こらチビ、“瞳”って呼ぶなっつってんだろ。それはオレだけの特権なんだよ」
「そんなの誰が決めたんだよ!」
「ちょっと、無視しないでよ!!」
「つーかそういうときはお前が空気を読んで部屋から静かに出てきゃいいんだよ」
「やなこった! いちゃいちゃしたいんだったら夜にやれよ! ふつうそういうもんだってシドウが言ってたぞ!!」
「まぁそれは一理あるな」

子供相手になんて会話をしているのか。
傍観していたメグルはルイの悲鳴に似た叫び声でハッとして、わざと大きく咳払いをした。
これ以上ここにいたら、この家族の波に呑まれて帰れなくなりそうだ。

「えーと、僕はそろそろ失礼しますね。帰らないといけない時間ですし」
「……なあ」
「はい?」

笑顔を貼り付けて踵を返そうとすると、グリーエンに止められる。
ニッと笑った彼は紅蓮を抱えなおしながら、口を開いた。

「ま、そういうわけだから。諦めてくんねー?」
「……仕方ないですね」

リーテには渡す気がないと。そういうことだろう。
チラリと紅蓮に視線を移すとグリーエンの服をぎゅうと握り締めるのが見え、その様子が微笑ましい。

「どーせ最初っからこうなるってわかってたんじゃねーの?」
「さあ、それはどうでしょうね。少しは期待していたかもしれませんよ? 僕は伴侶もいませんし、かといって国に後継者は必要ですし」

王子である貴方ならわかるでしょう?
笑いながら告げると、彼は僅かに目を見開いて若干焦ったように「やらねーからな」と言った。

「ええ。養子に頂く件は諦めざるを得ませんね……ですが」
「な、なんだよ……」
「紅蓮くんが“ロッドを出たい”と言ったときには叶えてあげてくださいね。そのときには是非僕の国へ。歓迎しますよ」
「だからやらねーっつーの」

紅蓮が不安がる要素などどこにもないかのように断言するグリーエンは、ただ単に不器用なのかもしれない。
いつもそんな風に素直に伝えてやればいいのに。
そう思いながら、メグルは笑って彼らに別れの挨拶を済ませた。
──そろそろ帰らないと大臣辺りに長いお小言を貰いそうだ。
今度こそと踵を返すと、その足に軽い衝撃。驚いて止まると、低い位置に金髪が見えた。
駆け寄ってきたらしい紅蓮は顔を上げ、右手を目一杯伸ばしてにっこり笑った。

「今度は一緒にあそぼーぜ、メグルにーちゃん!」
「……ええ、是非」

メグルはしゃがみ込み、微笑みながら伸ばされた小さな手を握り返した。

「またロッドに来るか?」
「ええ、来ますよ。グリーエン王子に紹介された古城も見に行きたいですしね。紅蓮くんも、是非リーテに遊びに来てください」

気候も街の作りも違いますから、きっと吃驚しますよ。
そう言うと期待に目を輝かせる紅蓮が大きく頷く。

「メグルにーちゃんはいつもどこにいるんだ? ……場所がわかればシドウに連れてってもらえるからさ、教えてくれよ」

後半はなぜか声を潜めて内緒話をするように言われる。
きっと今回のように、心配を掛けたくなったときの避難場所に追加されるんだろうとは思いながら、同じように声を潜めて返した。

「リーテの中央、大きな建物です。色は……そうですね、白と金……でしょうか。見ればすぐにわかると思いますよ」
「にーちゃん……それって城じゃねーの? 父さんとも瞳……母さんとも知りあいっぽかったのって」
「ふふ、いつでもお待ちしてますよ」

否定はせずに、笑う。
目を瞬かせていた紅蓮は、悪戯を思いついたような顔で口端を上げると小指を出した。

「やくそく! いつでも遊びにいっていいんだよな? いきなりいっても追い出さないってやくそくしてくれよ」
「そんな酷いことはしませんよ」
「いいから! これやっとくと安心するんだ。オレよく母さんとやるんだけど、やくそくやぶったらハリセンボン飲まなきゃなんないんだってさ」
「……魚のですか?」
「ん? そうなのかな……今度母さんに聞いてみる」

約束事に使われているものなのに、よく知らないらしい。
苦笑すると言い訳のように「痛そうだろ?」と言われたから、とりあえず頷いた。
紅蓮の指示するとおりに小指を絡めて、そのまま上下に振られる。あわせて歌われている曲はどこかの童謡だろうか。

「ゆーびきった!」
「追い出したりはしませんが、直前でもいいので連絡をもらえると助かりますね」
「そーだよなー……今度会うときまでになんか考えとく。暗号とか、合図とか!」
「ええ、よろしくお願いします」

紅蓮の背後からは彼を呼ぶ声がする。
帰ろうと告げるそれに、紅蓮は跳ねるようにしてメグルから離れた。

「そんじゃ、またな!」

紅蓮は満面の笑みで大きく腕を振ると、小走りに両親の元へ戻って行く。
グリーエンの足にしがみつく直前で、彼に持ち上げられるのが見えた。

メグルは一連の遣り取りを見届けて笑みを溢すと、ようやく自国へ足を向けた。
新しくできた小さな友人と、以前よりも親しくなった気がするロッドの夫婦に再会できるのが楽しみだと思いながら──

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