Vischio

しあわせの紅い鳥

この世界には、言葉を運ぶ鳥がいる。

王家にのみ使うことが許されているその鳥は、とても綺麗な紅い羽を持っていた。
瞳は籠の中にいる鳥が身繕いするのを眺めながら、改めてここは本当に不思議な世界だと思う。
ハンスのように魚だって喋るのだから、鳥が喋ってもおかしくはない。
現実世界で言うオウムと似たようなものだろう。
──とは思うものの、小さな嘴から語られる言葉は流暢で、しかも言葉を預けた本人の声なのだから驚かずにはいられない。

この鳥は、明日紅蓮と一緒にこの国を発つ。
徐々に王の仕事を引き継いでいる紅蓮は、特命全権大使としてブラウを訪れることになっていた。
期間は一ヶ月。国交を深めるのはもちろん、街に滞在して勉強する目的もあるらしい。
話は2週間程前、朝議の最中──紅蓮の一言から始まった。

国交状態はどうなっているのか、と。



◇◇◇



「他国を知ることも大事だと思う」

瞳はそう言った紅蓮に少しだけ驚いた。
彼はこちらの世界に留まることを決めてから、国のことを考えるようになった。
他国の良いところを吸収し、より良い国を作る。
紅蓮の治めるロッドに生きる人々は幸せになれるだろうと思った。
しかし、同時に彼を遠く感じて寂しい。

「……ぐっちゃんは偉いわね」
「うん? 別に偉くはねーだろ……お前が居るからだし」
「え?」
「だから、その、お前がずっと居たいって思えるようにできりゃいいと思ってやってることだから、全然偉くねーんだよ」

ふいと逸らされた顔と、耳元に手をやる仕草で照れているのだとわかる。
思わず顔を緩ませて下がっているほうの手を握ると、紅蓮はびくりと震えて固まった。

「……ありがと」
「おぉ……」

「仲がよくて大変よろしいけれど、そろそろ次の話をしてもいいかしら?」

介入した声に反応して咄嗟に手を離し後ろで組むと、そのままでもよいのですよ? と嬉しそうな声が飛んできた。

「すすす、すみません、次、お願いします」
「グリーエン、今のは貴方が言うべきでしたよ。ルイ姫に言わせるなんて男として情けないとは思いませんか? そもそも貴方は」
「ハイ、スミマセンデシタ。オレが悪かったから先進んでくれよ……」
「まあ! ちょっと聞きましたかあなた! グリーエンはルイ姫が隣りに居ると」
「王妃!!」

朝議は一転して親子喧嘩の場となってしまい、間に挟まれた国王がまた倒れてしまうんじゃないかと気が気ではなかった。
周囲は固まって、止めようとする様子を見せているのは瞳だけだ。
結局王妃を国王が、紅蓮を瞳が止めてその場は解散した。

「悪かったな……」
「ほんとよ。でも遠慮が無くなったのはいいことなんじゃない?」
「そうだな。親子、だしな」

相づちを打って笑う瞳の手をとった紅蓮は、そのまま庭にでて目的も無く歩き出した。

「なぁ、瞳」
「なあに?」
「さっきの本気だからな。お前が幸せだと思えるような場所にしてやっからさ……だから、」

珍しく言いよどむ紅蓮の手を握り返しながら、少し距離を詰める。

「……ずっと一緒にいるわ」
「ッ、」
「でもね、ぐっちゃんも幸せじゃないと嫌なの。私だけじゃ意味無いのよ? ……それに、」

言っているうちに照れてきた瞳は顔を赤らめて俯いた。
あと一言を伝えたいのに。
口の中でもごもごしているうちに、紅蓮に抱き締められていた。
耳元で小さく礼を言うのが聞こえ、緊張する。
最近わかったことだけれど、瞳は紅蓮のこういった──囁くような──声に弱い。

「瞳がここに居るってだけで、オレはとっくに幸せだからさ」

わざとやってるんじゃないかと思う程、言葉は甘さを帯びて目眩がしそうだ。
巧い返事が思い付かず、代わりに紅蓮の背中に腕を回した。

「瞳」

嬉しそうに自分の名を呼ぶのを聞くのが好きで。
それだけで自分も嬉しくなるのだと気付いたのはいつからだろう。
瞳は紅蓮のマントを掴みながら、今だって幸せよ、と小さく呟いた。



◇◇◇



もぞりと動いたシーツに反応して振り返る。
起こしてしまっただろうか。
しばらく様子を見るものの、それ以降動く気配がない。
瞳は思わず詰めていた息を緩く吐き出して、蜂蜜色の髪を軽く撫でた。

「ぐっちゃんが一ヶ月もいないなんて変な感じ」

滞在が一ヶ月、移動期間が往復で一週間の計算だから、実際は一ヶ月より少し長い。
ソーマを貸そうかと提案してみたけれど、ついでにリーテも見たいからと断られてしまった。

2人並んでも十分広いサイズのベッドが、明日──否、もう日付が変わっているから今日から、更に広くなる。
瞳はゆっくりベッドの中に戻ると、紅蓮にぴたりとくっついた。

「ちゃんと無事に帰ってきてね……」

事故に合いませんように、病気も怪我もしませんように。
祈りながら、瞳はそのまま目を閉じた。



朝、僅かな息苦しさを感じて目を覚ますと、頭まですっぽり布団を被っていた。
こんなに深く潜るほど自分は寝相が悪かっただろうか。
ぼんやり考えながら身を起こす。
隣りは無人だったけれど、紅蓮が早く起きるのはいつものことなので、特に気にせずそのままシーツに触れた。……5分以上は経っているだろうか。
瞳がベッドを出ようと足を下ろすと、寝室のドアが開いた。

「お、起きたのか」
「おはよ……って、ぐっちゃん、どうしたの!?」

頭から水でも被ったのか、紅蓮は髪から水滴を垂らし、上衣の胸元辺りまで濡らしていた。
慌てて近くにあった布を掴んで近寄ると、それはやめとけ、と止められる。

「なんでよ」
「なんでって……オレはいいけどお前が困るだろ。それいつも使ってるやつじゃねーの? そんな慌てなくてもただの水だって」

瞳の頭を軽く撫で、紅蓮は部屋の中を移動する。
それを視界の端で捉えながら手元を見ると、紅蓮の言ったとおり、瞳が手にしていたのは毎晩愛用しているストールだった。

「……別に濡れても気にしないのに」
「ん? なんか言ったか?」
「なんでもない。それよりどうしたのよ、なんでそんなに濡れてるの?」
「庭に出たらぶっかけられた。ま、水遣りの時間にそんなとこに居たオレが悪いんだけどな」

タオルで適当に髪を拭く紅蓮を見兼ねて手を伸ばすと、彼は驚いたように目を見開いて身体を引いた。
思わずムッとしたけれど、逆に紅蓮のほうが不機嫌そうな溜息をついて瞳の手からストールを取り上げた。
おもむろにそれを広げ、軽く瞳を包む。
動いたときに落ちてきた水滴が少し冷たかった。

「薄着でうろうろすんなよ」
「部屋の中くらい、いいでしょ?」
「駄目だ。つか、お前着替えて来いよ。もうすぐ朝食だし、オレも着替えるし」

なんだか上手いことはぐらかされた気がする。
そうは思うものの、紅蓮の言うことも尤もなので、ちゃんと髪を拭くようにと言い含めてから部屋を出た。



朝食も終わり、いよいよ紅蓮が出発する時間になった。
彼自身は軽装で、数人の随従が荷を引き受けている。
馬が準備される間に、紅蓮は王と王妃に挨拶を済ませていた。

親子が談笑する様子を見守る周囲の空気が穏やかで、温かい。
瞳もその中に紛れ三人の様子を伺っていたが、ふと紅蓮が顔を上げ、何かを探すように視線を彷徨わせた。
どうしたのかと首を傾げていると、瞳の傍にいた数人が動いて目の前に道ができた。

「グリーエン王子、ルイ様でしたらこちらにいらっしゃいます」
「え、」

道は真っ直ぐ紅蓮のところへ続いている。
目が合った途端安心したように微笑まれ、どきりとした。
反射的に顔を伏せる。
変に早い鼓動を落ち着けようと深呼吸する傍で、楽し気な会話が聞こえた。

「本当に王子はルイ様にご執心ですわね」
「……わりぃかよ」
「まさか、私たちは嬉しいんですよ。何にも執着することのなかった王子が恋をするなんて!」
「ちょ、バッ、」
「王子に恋愛相談される日が──」

侍女の言葉は途切れ、代わりに耳を塞ぐ大きな手のひら。

「ッ、お前ら散れ! 仕事しろ!!」

手を振って言う紅蓮を軽くからかいながら離れていく従者たち。
口々に雰囲気が柔らかくなった、優しくなった、ルイ様のおかげです、と声をかけられ、瞳は目を瞬かせた。

「……ったく」
「どうして、」

目の前に居る紅蓮が不思議で──挨拶は終わったのだろうか──疑問を漏らすと、紅蓮は相変わらず顔を顰めたまま、瞳に指をつきつけた。

「なんでこんなとこにいんだよ」
「それは、だって……」
「なんだよ。瞳が居なきゃ意味ねーってのに」
「ご、ごめんね」
「別に謝ってほしいわけじゃ……ほんとにわりぃと思ってるか?」

ずい、と距離を詰めて念を押してくる紅蓮に思わず頷く。
すると、彼は後ろに視線をやって手のひらを上下に動かした──まるで何かを追い払うように。

「ぐっちゃん?」
「目、瞑れ」
「なんで?」
「わりぃと思ってんだろ?」

それを言われると、頷いた手前断れない。
せめて何をするかぐらい教えてくれてもいいのに。

「い、痛いのはやめてね」
「いいからさっさとしろって」

瞳は渋々了承して、目を瞑る。予想できない行動は恐い。
緊張しながら更に目元に力を入れると、クツリと小さく笑われた。
紅蓮の手が頬を伝って耳に触れ、首をなでる。次いで唇に触れた熱。
驚きで反射的に目を開けると金色の睫毛が見えた。

「ぐっちゃ、」
「こういうときはおとなしく瞑っとけよ」

そう言うなり、紅蓮は自分の手で瞳の目を覆ってしまう。
抗議の声を上げようとしたものの、途中で邪魔された。

「なななな、なにするのよ!」
「いいだろ別に。お守りだよ、お守り」
「お守りって……みんな見てるのに!」
「見てねーって、気にしすぎ」

瞳にしてみれば、どうして紅蓮がそんなに落ち着いていられるかのほうが不思議だ。
恥ずかしくて周りを見ることが出来ない。
せめてもの仕返しに、紅蓮の着ている服に皺をつけてやった。

「瞳……なんか言うことねーの?」
「知らない。ぐっちゃんとはしばらく口利かないんだから!」
「おま、違うだろ」

焦った様子を見せる紅蓮に少し気分が良くなる。
だが、それも束の間だった。

「グリーエン王子、そろそろ時間です」
「あ、ああ。今行く」

そうだった。これから一ヶ月、紅蓮は居ない。
遠巻きに見ていたのは実感したくなかったからだと、今になってようやくわかる。

「瞳、」

呼ばれるのと同時に腕を引っ張られ、きつく抱き締められた。
何年も何ヶ月も会えなくなるわけじゃないのに、苦しくて泣きそうだ。

「……いってくる」
「……うん。いってらっしゃい、気をつけてね」

かろうじてそれだけ言うと、紅蓮の首に腕を回した。
──どうか無事で。
夕べと同じように祈りながら、瞳は腕に力を入れた。



紅蓮が国を出発して数日、瞳は紅蓮の代わりに国の仕事を手伝っていた。
今までも補佐として働いていたのが幸いして、そんなに苦労することはない。
いざとなったら王も王妃も居る。
──だというのに、どうしてこんなに気が重いのか。 何度目かの溜息をついたとき、たまたま近くにいた王妃がクスリと笑った。

「ルイ姫、休憩にしましょうか」
「え、あ、ごめんなさい、大丈夫です」
「ふふ、わたくしが休憩したいのです。付き合ってくださいな」

王妃は従者を呼びつけると、お茶の用意を、と言いつけて瞳を別室に移動させた。
仕事をする部屋でのお茶はリラックスできないらしい。

大きな窓がある部屋で、そこから見える庭園を眺めながらの一杯。
ぼんやりと揺れる水面を眺めていると、優しく声をかけられた。

「寂しいですか?」

言われて少し考え込む。
寂しいのだろうか。気が重く感じるのはそのせいなのだろうか。
瞳はカップを揺らしながら、眠れないんです、と呟いた。

予想したとおり、あの部屋のベッドは瞳一人には広すぎる。
いつの間にか隣りで眠ることがあたりまえになっていて、居ないと落ち着かなくて眠れないなんて。
朝には隣りのシーツを触るのが癖になっていることに気付いたのも、紅蓮が居なくなってからだ。

再度溜息をつくと、王妃は心なしか嬉しそうにしながら瞳の手を取った。

「王妃さま……?」
「──少し安心しました。あなたがここに嫁いで来たときは、グリーエンの片思いのように見えて。あの子が強引に押し切ったんじゃないかと心配していたのですが……それは杞憂だったと断言できます」

王妃はにっこりと微笑みながら、きっぱり言い切った。
それはつまり、今では──夫婦に見えるということだろうか。
ほんのり顔を赤らめた瞳に向かって、ルイさんは随分と可愛らしいこと、と言いながら、控えていた従者を呼んだ。
すぐさま寄ってきた従者になにかを持ってくるように指示すると、王妃は安心したように茶を啜った。
その動きはとても優雅で、つい見惚れる。

そうしているうちにノックの音がして、先ほど用事を言いつけられた従者が入ってきた。

「失礼致します。王妃殿下、こちらで間違いありませんか?」
「ええ、これです、ご苦労さま。グリーエンが隣りに居なくて眠れないのでしたね」

瞳に視線を向けながらの後半部分は確かに瞳が言ったことだが、改めて言葉にされると妙に恥ずかしい。
気まずげに目を瞬かせる瞳には構わず、王妃は瞳の目の前に小さな瓶を置いた。

「あの子が好んで使っているものだったはずです」
「……?」

促されるまま瓶を手に取ると、中に入っている液体が揺れた。
蓋を開ける。……どうやら中身は香水らしい。
王妃の言うとおり、紅蓮が持っている物と同じ匂いがした。

「付けて眠れば、案外安眠できるかもしれませんよ」
「……え!?」

コロコロ笑う王妃はわたくしにも経験がありますわ、と零していたが、瞳はそれどころではない。
何をどう言ったら良いのかわからず、赤い顔のまま口をパクパクさせていた。

「あら、」

ふと王妃が何かに気付いて席を立った。
瞳は相変わらず混乱状態で、瓶を握り締めながら王妃の動きを追う。
彼女はおもむろに窓を開け放すと外に向かって腕を伸ばした。
何をしているのか。
瞳が問いかけようとしたとき、バサリと羽音が聞こえた。

王妃の手に留まっているのは紅い鳥。紅蓮と一緒に旅立った──というのは大袈裟だが──言葉を運ぶ鳥だ。

「……あなたに宛てたもののようです」
「え?」

手を出すように言われ、鳥を受け取る。
教えられるまま撫でると、鳥はくすぐったそうに軽く首を竦め、嘴を開いた。

『よ、元気か? つってもまだ3日くらいしか経ってねーけどさ、』

手紙の出だしっていやぁコレだろ?
続く言葉を操る鳥は、確かに紅蓮の声をしていた。それはとても不思議な感覚で、なんだがむず痒い。

『今日ブラウに着いた。ほんとはもっと早くコイツを飛ばそうと思ってたんだけど、いざとなると何言っていいかわかんねーな。
 大体鳥に向かって独り言って、傍から見たらかなり変だしな。まぁ、周りのヤツらは“我々のことは気にせず”なんつってたけど、気になるもんは気になる。
 だから、一人んなったときにでも録音……っていうのか? しようと思う』

紅蓮が鳥に向かって話しかけるのを想像すると微笑ましい。
気になる──つまり恥ずかしいのだろう。苦笑いで“後でな”と従者に返す様子が容易に浮かんで笑った。
それまで隣りにいた王妃は、瞳に笑いかけながら静かに席を立ち、部屋の中に居た従者を引き連れてそっと出ていった。

『昨日まではリーテを移動してたんだけど、やたらキラキラしててビビった。そういやオレ、ロッドの中しかウロウロしたこと無かったんだって実感したよ。
 今度こういう機会があったらさ、瞳も一緒に行こうぜ。お前は結構いろんな国見て回ったんだろ? おすすめの場所とか食いもんとかさ、案内してくれよ』

一緒に──それはとても楽しそうな提案だと思った。
紅蓮と結婚する前までは北から南へ、とにかく色々なところへ行っていた。
各国で見たものや聞いたものは沢山ある。綺麗な景色も、美味しいものも。

「本当に、一緒に行けるといいのに」

いつか時間が出来たら自分から誘ってみようか。

『さっきブラウに着いたとは言ったけど、城に行くのは明日なんだ。コイツがお前のところに着く時間にはブラウの王子と会ってるかもしんねーな。
 それにしても、この国はホントに水が多い。“水の国”ってのは伊達じゃねーってことか。 お前にとってここは結構居心地がいいんじゃねーかと思う……けど、住みたいとか言うなよ?
 瞳はロッドの──オレのなんだからな』

「なッ、」

ガタンと音を立て、思わず腰を浮かす。
瞳の行動に驚いた鳥は喋るのを止め、僅かに飛び上がった。
王妃が居なくてよかった。
一緒に聞いていたら恥ずかしくて逃げ出していたかもしれない。

「何言ってるのよ、もう……」

テーブルに突っ伏して顔に集まった熱を落ち着かせる。
パタパタと上から聞こえる羽音が近くなって、鳥が再び傍に降りてきたのがわかった。
視線だけを向けると、喋ってもいいかと聞くように首を傾げる。
続きを促すよう顔を上げれば、トントンと移動して瞳の前に来た。

『……ま、そんなわけだから。
 顔が見えないってのもたまにはいいな……と思ったけど、やっぱ今のナシ。
 瞳がいないと落ちつかねー。たった3日でとか、自分でも情けねーんだけどさ。前はこんなの当たり前だったのに、変だよな。
 しかも無意識に八つ当たりしてたみたいで、“早くルイさまと連絡とってください”なんて言われちまった。
 周りから見るオレってどうなんだろうな。やっぱお前が傍に居る時って違うもんか? ……んなこと瞳に聞いてもわかんねーか。
 何言ってんだかよくわかんなくなってきた。明日も早いし、そろそろ寝るわ。
 気が向いた時でいいからさ、コイツに──なんでもいいや、近況とか伝えて飛ばしてくれよ。その……声、聞きてーし……って、何言ってんだマジで。
 あー、とにかく、明日っからが本番ってこと。んじゃ、またな。夜更かしすんなよ』

鳥はそれ以降沈黙し、勝手にテーブルの上にあった茶菓子をついばみ始めた。つつきはするものの、口には入れない。勢いで皿の端から零れる屑。
それを追って鳥が移動する。追うことに飽いたのか、今度は瞳を見上げてしきりに首を傾げた。

「失礼致します。ご休憩中に申し訳ございません、今お時間──ルイさま?」

呼ばれてようやく反応した瞳がようやく声の主を見る。
書類を山ほど抱えた男は驚いたように目を瞬かせた。

「どうなさいましたか? お顔が……もしや熱でも?」

ルイさまに何かあったら王子に叱られます、と慌てる男を急いで宥める。
その王子が原因だとはさすがに言わなかったけれど、鳥を示すと納得したようだった。

「やっと王子から届いたんですね。愛でも囁かれましたか?」
「は、え、ちが……」
「あぁ、すみません、つい王子をからかう感覚で聞いてしまいました」

男は笑いながら、お詫びに、と前置いて鳥について教えてくれた。

「その鳥は半日で一国を渡り、餌は銀しか受け付けません。使用できるのは王と、王籍に属している方々のみとされています。一国に一羽、わが国の鳥は紅ですが、隣国……リーテの鳥は白金だと聞いたことがあります」

見たことはありませんので噂ですが。
そこまで話して、ふいに退屈ではありませんか、と聞かれた。

「どうしてですか?」
「いえ、既にご存知のことや興味の無いことでしたら時間の無駄でしょうから」
「そんなことないです。初めて聞くことばかりだし……もしかして、退屈そうに見えました? ごめんなさい、あの、できたら使い方も教えてくれると嬉しいんですけど……」

瞳はこの鳥を使ったことがない──使えるということも、先ほど紅蓮が返事をと言ったことで初めて知ったくらいだ。
男はありがとうございます、と安堵したように言って、丁寧に使い方を教えてくれた。
ついでに新しいメッセージを覚えさせる前までなら何度でも聞けるということも。



その夜、瞳は籠に入れた鳥を伴って寝室に入った。
生乾きの髪を放置したままベッドに上がり、サイドに置いた籠から鳥を出す。
躊躇いがちに首元を撫でると、昼間に聞いた声が小さな嘴から流れでる。
傍らには銀の粒が入った皿と、王妃に貰った香水の瓶。
王妃は安眠できるかもしれないと言ったけれど、いざそれをやろうとすると手が止まる。
たった3日で──

「情けない……か……」

紅蓮の声を聞きながら、自分も同じようなものだと思った。
しかも落ち着かないばかりか眠れないのだから、紅蓮よりも重症だ。
瞳は溜息をついて、鳥に向かって手を差し出した。手のひらに乗せた銀の粒を啄ばむ紅い鳥。
その様子を見ていると、今の状態をそのまま伝えるのはなんだか悔しいと思うようになった。
紅蓮はロッドのために他国へ赴いて勉強しようというのに、眠れない、なんて弱音を吐くのは嫌だ。
一日だけ。今日だけは、紅蓮が自分に送ってくれた声を聞きながら寝よう。

「ごめんね」

すぐに送り返せなくて。
呟きながら、瞳は布団に潜った。香水は耐えられなくなるまで──使わないことにする。

「ぐっちゃん、鳥──メッセージ、受け取ったわよ。その、ありがとう。……ぐっちゃんの言うとおり、鳥に向かって話すのはちょっと恥ずかしいわね」

仕事の合間をぬって言葉を預け、昼の青空に向かって鳥を飛ばした。
届くのはきっと深夜か明日の朝だろう。
昨夜は久しぶりによく眠れたおかげか、弱音を漏らすことなく紅蓮への返事と近況報告を明るく伝えることが出来たと思う。
瞳は満足げに伸びをして、自分を呼ぶ声に応えるべく部屋の中へ戻って行った。



コツコツ、と窓を叩くのは小さな嘴。
それに気付いた侍女は、大急ぎで鳥籠を持って窓辺に寄った。

「お前もごくろうだね、運び屋さん」

笑いながら労わりの言葉をかけてケージを開ける。
大人しく止まり木に足をかけ、運ばれる鳥は受取人──侍女の仕える未来の王妃殿下──の手に渡るまで沈黙を貫く。
本当に頭のよい鳥だ。
侍女は感心しながら目的の部屋のドアをノックした。

落ち着かなげに朝からそわそわしていた主を知っている身としては、鳥の来訪はとても喜ばしいことだった。
鳥は最初に便りが届いた日から、三日と空けずに飛んでくる。
受取人である彼女はいつも嬉しそうに笑い、受け取った籠を大切そうに抱きながら部屋に戻るのだ。
その様子はとても微笑ましく、つられて嬉しくなる。
何故か渡す前から一連のやりとりを思い浮かべ、胸が高鳴った。主にはいつも笑っていてほしい。
件の主が執務室のドアを自ら開けて──人にやってもらうのは落ち着かないらしい──顔をだした。

「どうしたの?」
「ルイ様、王子から──」
「ぐっちゃんから?」

パッと明るくなった表情に、思わず目元が緩む。
彼女特有の王子の呼び方にも慣れ、今ではそれでないと主が王子を呼んでいる気がしない。
侍女を部屋に通し、少し待って欲しいと声をかける主に、周囲が穏やかに退出を促した。

「ルイ様、先ほどの案件は丁度一段落ついたところですし、どうぞ休憩なさってください。我々も遠慮なく休ませて頂きますので」
「ありがとう。でも、これだけは片付けておきたいの」

ぐっちゃんにしっかり報告したいから、と笑う主は花のようだった。
しっかり宣言した分の仕事を終え、いつもと同じように鳥を受け取った彼女は一度部屋へ戻って行った。
再びこの執務室に戻ってくるとき、彼女は王子の様子を伝えてくれる。
昨日はこんなことを学んだらしい、ロッドにはない施設を回っているらしい、等。
今回はどんな内容なのかと、執務室の中で話題になるのもしばしばだった。
今日も同じように話題にだした矢先に、部屋に戻ったはずの主が飛び込んできた。
城の長い廊下を急いだのか、軽く息が切れている。
そんな様子に驚いて、王子になにかあったのかと部屋の空気が緊張した。

「か、かえ……って、くる、って!」
「大丈夫ですか? どうぞ水を、」
「あり、がと……」

コップ一杯の水を一気に飲み干して、ゆっくり深呼吸すると、主は改めて口を開いた。

「帰ってくるんですって! 見るべきものは見たからって……明日ブラウを発つって言ってたわ」
「明日……というと、王子が鳥を放った時間での“明日”ですよね? ということは、今日にはもうブラウを出ているのでは?」
「そう、なる? じゃあ明日か明後日には……わ、私、王様と王妃様に報告してきます!」

パタパタ足音を立てて慌しく出て行った主を見送った後で、飛んできた知らせの内容を理解する。
期間としてはあと一週間ほどあったはずだが──

「脅威の速さで学んできましたな、我らが王子は」
「恐らくルイ様のためだと睨んでいるのだが。貴公はどう思う?」
「私も同意見です。予想ではもう三日ほど早く帰ってくるかと思っていましたが」
「それでも王子のことだ、学ぶべきことは全て吸収してきているのではないかと」
「王子の原動力なんでしょうな」

誰が、とは言わずとも、照らし合わせたように主が出て行ったばかりの扉を見た。



◇◇◇



最後の鳥を受け取ったのが数時間前。
瞳は城の外──城門の辺りまで出てそわそわと出入口をいったりきたりしていた。
何度目かの往復の後、見張り場から声をかけられる。
顔を上げると、双眼鏡を手にした兵が見えました、と言った。
数分後、ようやく瞳にも馬の影が見え始める。
紅蓮はどの辺にいるのかと背伸びをすると、一頭だけ先に走ってくる馬がいた。

「ルイ様、少しお下がりください」

突っ込んでくる勢いの馬を懸念して、兵の一人が声をかける。
瞳もさすがに危険を察知したのか、それに大人しく従った。
馬の嘶きと頬を掠める風。それから。

「瞳!」

本物の、声。
馬から降りてくる人影の身に着けているマントが、バサリと音を立てて大きく広がった。

「なんかすげー久々……うぉ!?」

開いていた距離を一気に詰めて、瞳は勢いのまま抱きついた。
驚きながらも受け止めてくれた腕が、ゆっくり背中に回される。
微かに笑う気配に、ようやく彼がここに居るのだと実感した。

「……おかえり。おかえり、ぐっちゃん」
「おう……ただいま」

出発したときと同じように、強く抱き締められる。
小さく名を呼ばれた気がして顔を上げると、こめかみの辺りに軽く口付けられた。

「ん、お前なんか付けてる?」
「なんで?」
「いつもと違うっつーか……これ、オレのじゃねーかと思ったんだけど」
「ッ、」

カアっと顔を赤くした瞳は、見られないよう急いで俯いて、頭を押し付けた。
どうして匂いなんてわかるのか。大体、付けるのは昨夜でやめたのに。
ぐるぐる考えが渦巻く中で、髪を優しく撫でられる。
ふと止まったその動作に思わず顔を上げると、自分と同じように顔を赤くした紅蓮と目が合った。

「あー……やっぱ無理だ。勝手にニヤける。から、こっち見んな」

上げた顔を強制的に胸元へ押し付けられる。
聞こえてきた心音は速く、つられるように自分の心音も速くなっている気がした。

「なぁ瞳、嬉しいけど……なんでそんな、」

最後のほうは掠れて上手く聞き取れなかった。
けれど、紅蓮の香りを纏っていた理由ならば明確だ。
毎回鳥に託そうかと迷い、その度に思いとどまった理由。
今このタイミングでなら言ってしまっても構わないだろう。


「──だって、傍に居て欲しかったんだもの」


鳥を介しては言えなかった一言を、自らの声で小さく告げた。

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