Vischio

おまじない≠incantation

ずっとずっと想っていたひと。大好きなひと。
再会して、仲直りして、手を伸ばせばまた触れられる距離に居る。幸せだと実感する傍らで…もう一度アスベルが居なくなったらを考える。
また置いていかれたら──私はどうなるかしら。

机にぽつんと残された一通の手紙を読んだとき、私はすぐに信じなかった。…信じたくなかった。いつも以上にたちの悪い──それもタイミング最悪の冗談だって、思いたかった。

アスベルがラントから居なくなって数日の間、私は毎日のようにお屋敷へ通っていた。
不思議と涙は出なかった。

朝起きてラントのお屋敷まで足を運び、アスベルの部屋に行く。当然景色は変わらない。誰もいない部屋、ヒューバートのそれとは違って汚いアスベルの机、その上にある手紙。封筒には『シェリアへ』と見慣れた字で書いてある。椅子に座って封筒を開いて中身を読む──もちろん、一字一句変わらない内容の手紙。読み終わったあとはまた封筒に入れて、机の上に戻す。
その変わらない動作を何日も繰り返していた。

いつかアスベルが出てきて「どうだシェリア、びっくりしたか?」って言ってくれる。
私はいつもみたいに怒って、珍しく盛大に泣いて困らせてやろうと思ってた。

「…すまない、シェリア」

──見かねたアストン様にそう言われるまで。
そっと頭を撫でてくれる大きな手と、気遣う言葉。傍らにいたケリー様は優しく私を抱き締めてくれた。
震える声で私を呼ぶケリー様。

「あなたはここにいてちょうだい…」

懇願するような響きを聞いて、アスベルはもう戻ってこないんだと、実感せざるを得なかった。

──私はアスベルに置いていかれた。
──私のお願いはきいてもらえなかった。

その事実に打ちのめされて、ケリー様に抱き締められたまま一緒に泣いた。
大泣きに泣いた私を見ておじいちゃんは安心したんだとあとから聞いて色々心配かけていたことを知った。

現実を受け止めて立ち直るにはかなりの時間がかかった。
何をするにしても居ない幼馴染を思い出す。ありえない“もしも”を考えてしまう。

あの日、泣いてすがって約束したあと、アスベルから離れなければよかった。
怒られても八つ当たりされてもずっと傍にいればよかった。
アスベルが家を抜け出す手段を封じてしまえば、そうすれば──



◆◆◆



「シェリア」

静かに呼べば、ぴくりと反応したシェリアがこちらを向いた。同時に色褪せた封筒が彼女の手から滑り落ちる。パサリと音を立てたそれを屈んで拾う動作を見ながら「それ何だ?」と聞いてみた。
少し困ったような、眉尻を下げた笑顔。口元に手をやるのはシェリアのクセだ。

「…私の宝物よ」

言いながら拾い上げた封筒を愛しげにみつめて表面を撫で、なにかを呟いた。声が小さすぎて聞こえなかった分近づくと僅かに首をかしげたシェリアと目が合った。

「…気になる?」

封筒を俺に見せながら、どことなく嬉しそうに聞いてくる。
正直に頷けば今度はにっこり笑って俺の方へ寄ってきた。近くにあったベッドに勧められるまま座るとシェリアも隣に座る……妙に緊張するのは場所のせいか。触れそうで触れない、けれどかすかに熱が伝わってくるような微妙な距離。
アスベル、と名を呼ばれてようやく目的を思い出した。

「どうしたのよ、ボーっとして。具合でも悪いの?」
「いや、そんなことは」

ない、と最後まで言わせてもらえなかった。
手を伸ばしてきたシェリアが俺の額に触れて目を閉じる。「うーん」と呟く様子は治療師のそれだ。

「熱はないみたいね」
「だから平気だって、シェリアは大袈裟だな」

ちゃかして言う俺にシェリアは微笑んだだけだった。いつもなら突っ掛ってくるのに妙におとなしいシェリアは調子が狂う。

「あー…えーと、それ、誰からの手紙なんだ?」

誤魔化すように色あせた封筒へ話題を移すとシェリアはクスクス笑って俺にそれを差し出してきた。

「見ていいのか?」
「ええ。でも絶対破ったり捨てようとしたりしたら駄目よ?さっきも言ったけど、私の宝物なんだから」
「そんなことするわけないだろ」

何度も開かれた跡のある封筒、この色あせ具合からして数年は経っているんだろう。
モヤモヤしたものが胸中に渦巻くのを無視して宛名を見ると綺麗とは言いがたい文字で『シェリアへ』と書かれていた。差出人の名はない。
…なんか楽しそうだなシェリア。

「……『どこにも行かないで』」

慎重に手紙を取り出したところでシェリアが呟いた。
そのまま俺に寄りかかってきたから思わず動きを止める。腕にかかる僅かな重みに、一瞬呼吸も止めていた。

「シェリア?」
「…これ、あなたが私にくれた答えよアスベル」
「シェリ、」
「……行かないで、傍にいて。私はアスベルの傍にずっと居るから…………ふふ、覚えてる?」

懐かしいわね。
俺の腕に寄りそうシェリアが言う。
表情を伺うことはできないけれど、声音は嬉しそうだった。

「読まないの?」

その問いに頷いて手紙を仕舞う。
読まなくても内容は覚えている。謝罪と別れ、そして決意が込められているはずだ。
これを読んだシェリアがどう思い、過ごしていたか俺は知らない。想像することしかできない。

「ねえアスベル…」
「ん?」

再会したばかりの頃を思い出していると、シェリアが俺の前に移動した。重さがなくなった片腕を一瞬だけ見てシェリアへ戻すと、彼女は俯いて祈るように両手を組んでいた。

「……アスベルは…もう、どこにも、いかない?」

震える声で俺に問いかけてくるシェリア。まるで昔の再現だ。
シェリアもそれを意図しているんだと思う。だから、俺も──

「ああ」

同じ答えを返した。

「本当?今度こそラントに…ううん、傍に居てくれる?いなくなったりしない?」

念を押すシェリアにあわせて立ち上がり、抱き寄せる。小刻みに震えているのに気づいてぎゅっと強く抱き締めた。

「…傍にいる。もし今度行くときは──シェリアも一緒に連れて行くよ」
「私も?」
「ああ、だからずっと一緒だ」

言ってるうちに恥ずかしくなってきた。
俺はシェリアに顔を見られないように、心臓の音を聞かれないようにと肩口に顔を埋めてやり過ごした。

「やくそくよ、アスベル──」



◆◆◆



「シェリア、ごきげんだね」
「ふふ、わかる?」

夕飯の準備をしていると匂いにつられたのかソフィが顔を出した。
あとは仕上げるだけの段階で寄ってきた彼女に小皿を渡す。

「ソフィ、味見してくれる?」
「うん!今日はカレーだね。……ん、おいしい」

小皿を両手で持ってにこにこ笑うソフィにつられて顔が緩む。
ありがとう、とお礼を言うとソフィは目聡くもうひとつの鍋を発見した。

「そっちのお鍋はアスベル用?」
「ええ、甘口なの。ソフィもそっちにする?」

甘口分を軽く掬い、はい、と味見用の小皿を渡す。ソフィも甘口を食べるなら、もうひとつ鍋を用意しなければ。
やっぱり両手で小皿を持ったソフィは、それを傾けたあとしばらく考えるように口元へ手をやった。

「どっちも美味しいけど、わたしは辛いほうがいい」
「じゃあ私と一緒ね」
「うん」

こくん、と頷いて私に小皿を返しながら、ソフィは手伝うと申し出てくれた。
ソフィにはサラダ作りを任せることにして、私は最後の仕上げをしよう。

「シェリア、それなあに?」
「これはね、隠し味」
「アスベルのだけ?」
「ええ、特別にね。ずっと一緒にいてくれますようにって…おまじないしておくのよ」
「アスベルはシェリアの傍にいるよ?」
「そうね…さっきも約束してくれたわ。でも、だから…不安なの」

わからない、と首を傾げるソフィに微笑む。
今が幸せだから、これが壊れたときが怖いのだとソフィに説明を試みたけれど、やっぱり難しいと言われてしまった。

「わたしにもわかるときが来るかな…」
「絶対来ると思うわ」

私にとってのアスベルのような人がソフィにもできたとき、もう一度今の話をしてみよう。
そう思いながらソフィの頭を撫でた。

またアスベルに置いていかれたら──私はどうなるかしら。

──きっと私は壊れてしまう。

連れて行ってくれる。その言葉はとても嬉しかった。でも、もしもアスベルの気が変わったら?──気が変わらなければいい。

そうよね、気が変わらなければいいのよ。ここから出ようなんて考えないようにすればいいの。
今度こそずっと一緒に居てくれる。そう約束してくれた。

──もちろん信じてるわ。

だから、それを確実にしてもいいわよね?
だって私はアスベルが好きで、大好きで、いつまでも一緒にいたいんだもの。

くるりと鍋をかき混ぜる。
隠し味はあっというまに溶けて消えた。

だいじょうぶ、全然苦しくないわ。
ただ私のつくる料理じゃないと食べられなくなるだけ。
すぐに変わるのも変だし……そうね、一年くらいかければいいかしら。

──アスベル、約束よ。ずっと一緒に……

「シェリア、今日はカレーか?」
「そうよ。ちゃーんと甘くしたんだから、たくさん食べてね」

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