Vischio

わたしだけの、

「瞳、さっさと奥行けよ」

おれの前にいた男は、そう言いながら急かすように速水の足を膝で突いた。
少し前のめりにぐらついた速水が男を睨み上げて怒る。
それを見ながら、珍しいなと思った。あれだけ感情を露にする速水を見るのは友永が一緒にいる時くらいだ。
喧嘩腰だけど、その分気を許しているように見える──家族であれば当然なのかもしれないが。

「純く~ん、こっち空いてるわよぉ」

呼ばれた声にハッとすると、二人が座った席の通路を挟んだ逆側から、透也が大きく手を振るのが見えた。
なんとなくそれを断って、速水たちの前の席へ移動する。

「あら、フられちゃったわ。じゃあ悠斗、」
「断る」
「まだ全部言ってないじゃない」
「私には貴様と同席する意思はない」
「どうせ二人掛けなんだから、アンタたち三人じゃあぶれるでしょ! ほら座んなさいよ」
「引っ張るな! ッ、シドウ!」
「ボス、諦めなって。俺は姐さんと座るから」
「く、この……裏切り者めが! リュウカ! リュウカはどうした!?」

斜め後ろの騒ぎに混じって、速水の楽しそうにはしゃぐ声が聞こえた。──ほとんど掻き消されていたけれど。

「純、ここ……いい?」

傍に立った気配にそちらを向くと、僅かに首を傾げてシートを指差すシャルと目が合った。
頷くと安心したように笑って隣に座る。

「これ速いって。たのしみ」
「席変わるか?」

ソワソワしながらしきりに窓の外を──間にはおれを挟んで──覗くもんだから、つい笑った。

「純は?」
「おれはいいよ」

空の景色の方が好きだから。
付け足して言うと、シャルは嬉しそうに「おれも空好き。きれい」と笑って、窓際に移動するべく立ちあがった。

「あ……瞳、だ」
「ん? なあにシャル」
「瞳はぐっちゃんのとなり?」

ゲホン、と一度大きく咳き込む音がして、それに被さるように速水の騒ぐ声。

「ぐっちゃん、汚い!」
「る、せ……」

止まない咳があまりにも苦しそうで、思わずシャルと同じようにして覗く。
速水の弟は手に水のペットボトルを持っていて、かろうじてといった様子でそれの蓋を閉めたところだった。

「……速水、背中叩いてやったほうがよくないか?」
「あ、そうね。大丈夫?」
「……ん、へーき……つか、お前!」

ようやく復活を遂げた速水弟は、いきなりシャルに指を突きつけた。
シャルは不思議そうに首を傾げて「おれ?」と聞き返している。
それに大きく頷くと、一瞬速水へ鋭く視線を投げてから自身を指した。

「オレの名前間違ってねー?」
「ぐっちゃん。……違う?」
「ちげーよ!!」
「でも、瞳がそう呼んでた」

はあ、とやけに大きな溜息。
余程そのあだ名が嫌なのか、顔を顰めながら「紅蓮」と短く名乗った。

「ぐれん?」
「そ。次からちゃんと呼べよな」
「わかった」
「大体瞳が……瞳?」

気付くと速水は口をへの字に曲げて、速水弟の服を掴んでいた。
まるで縋るように、きつく。

「おい、皺になるって……どーした?」

皺を気にした素振りは嘘なのか、続く声音はとても柔らかくて──少し驚いた。
掴んだままの手を剥がそうとしているのか、それとも落ち着かせようとしているのか、速水の手を自分のソレで包むように触れる。

「……ぐっちゃん」
「なんだよ」
「…………ぐっちゃん」
「ん?」

速水はそのまま速水弟の腕にくっついて顔を伏せた。
何か呟いたのだろう。速水弟が驚いたような表情を浮かべて、それからとても嬉しそうに笑った。

「バーカ」

顔を上げた速水と速水弟の距離が一気に縮まって、ゴツンと鈍い音を立てた。

「痛ッ、た……ッ! ぐっちゃん!!」
「こっち見んな」
「なによもう!」

「……純、あれたのしい?」
「うーん、どうだろうな……」

速水は若干涙目になってるし、楽しいとは言えないと思う。
羨ましそうに二人を見るシャルに曖昧に返すと、丁度発車の合図があった。
突っ立ったままのシャルを促して、シートに腰を降ろす。
視線を前に戻す途中で、弟の服を掴んだままの速水の手が目に入った。

姉弟ってこういうものなんだろうか。
ひそりと首を傾げると、突進して来たシャルの頭が直撃した。

目の前を星が飛ぶ。
チカチカする視界の片隅で、自分の頭を押さえるシャルが見える。

「……いたい……たのしくない……」


──そりゃ、そうだろう、な……


あぁ目が回る。


「? 純、寝たの? おやす──……」


就寝の挨拶は、最後まで聞きとることができなかった。

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