Vischio

Amour de Chocolat

冷たい風が噴きぬける校舎裏。
今は葉を落として枝を揺らすソメイヨシノの傍らで、少年は億劫そうに黒い髪を掻き上げた。
吐き出す息は白く、僅かに開いた唇から音が漏れる。

「────わりぃけど……」

***

────2/14
この日は周囲が朝から騒がしい。
普段は静かな昇降口で、女生徒特有のキーの高い声がそこかしこから聞こえてくる。
そんな色めき立つ雰囲気の中、紅蓮は一人、場違いなほど大きな溜息をついた。

(……鬱陶しい)

一部の女生徒にとっては不幸な事に、彼は朝から機嫌が悪かった。
理由は他人から見れば“そんなことで”と言いそうな程些細な事。されど彼にとっては非常に大切な事だった。

(なんで今日に限って……)

イライラした気分で下駄箱の蓋を開ければ、バラバラ落ちてくる色とりどりの包装紙──今日という日を考えれば中身は当然チョコレートだろう。
落ちたソレを憮然とした表情で眺めていると、不意に肩を叩かれた。

「拾わないのか?」
「……雪草……」
「お前な、“先輩”付けろっていつも言ってるだろ?」

ブツブツ文句を言ってくる一つ年上の上級生は、紅蓮よりも手際よく落ちたチョコレートを回収して、どこからか出した紙袋に入れた。

「ほら、」
「…………ドウモ」

余計な事を、と言い出しそうな雰囲気を醸し出し、紅蓮は一応受け取るために手を出す。
純は苦笑しながらそれを紅蓮の手にかけると、きょろりと視線を巡らせた。

「速水は一緒じゃないのか?」

ビキ。

珍しいな、と零す純の傍らで、紅蓮は機嫌を一層悪くさせていく。
幸か不幸かそのことに気付かない純は「喧嘩でもしたのか?」と心配そうに眉根を寄せた。

「してねーよ…………なんでなんだ?」
「へ?」
「オレなんかしたか? なんだって今日に限って“先に行った”とか。携帯は通じねーし、メールも反応ねーし……」

ガァン、と拳を下駄箱に叩き付けて憤りをやり過ごす。
どうしてこんなに苛立っているのか──原因なんて簡単すぎて呆れるほどだ。

そう、少なからず期待していた。
家族の時でさえ貰えていたソレを。それとも家族だから、貰えていただけなのだろうか。

「……避けられてンのかな、オレ」

認めたくない事実が口から零れ落ちる。
近くにいた純には聞こえてしまったようで、気の毒そうな目で見られた。

(ムカつくな、おい)

「雪草先輩!」
「ん?」

はしゃいだ声が近くに聞こえて、振り向いた純を女生徒が囲む。
──これ以上ここに居ても不愉快になるだけだ。

「じゃあな、雪草センパイ」
「あ、おい、速水に何か──」
「いいよ。オレが直接会いに行く……サンキューな」

後ろ手に手を振って、紅蓮は苦笑を洩らす純と離れる。
合間に高い音程で声をかけられた気がするけれど、全て無視した。

一難去ってまた一難。
前方に廊下を塞ぐ一団が見えて、紅蓮はまたも溜息をついた。

「こら、さっさと仕舞え。没収するぞ」
「先生がしてくれるならいいです」
「宙先生、これも~」

(……別の道通っかな……)

ふと考えて、彼の教師が瞳の担任である事を思い出した。
紅蓮は群れの一番外側から、かろうじて届く声量で彼を呼んだ。

「せんせー」

「えっ、うそ、紅蓮君!? 超ラッキー」
「あ、アタシも渡す!」

途端、視線が一斉にこちらを向く。
紅蓮は思わず「げ」と洩らし、急いで宙との距離を詰めた。

「せんせ、瞳、ちゃんと登校してっか?」

慌てて聞きだす紅蓮に驚いたように瞬いて、宙は手にしていた出席簿を開いた。

「特に連絡は来てないな。もう教室にいるんじゃないか?」
「そっか、さんきゅ」
「おい、受け取っていかないのか? ……まぁ、その紙袋に勝手に入れられてるみたいだけどな」
「!?」

クツクツおもしろそうに笑う教師の視線に気付いて手元を見ると、中身が増えている。
いつの間に──恐ろしいほどの手際と早業に、かえって感心してしまう。
そんな中予鈴が鳴ったのを機に、群がっていた女生徒は蜘蛛の子を散らすように去っていった。

「宙先生……」
「却下だ」
「まだなんも言ってませんけど」
「聞かなくてもわかる。そう無碍にするものじゃない、年に一度くらい受け取ってやれ」
「せんせーにだけは言われたくねーな……」
「まぁ、それを没収したら俺が怨まれるだろうしな。さ、お前もさっさと自分の教室に行きなさい。さっき担任が職員室を出たぞ」

それを早く言ってくれ。
紅蓮は軽く舌打ちし、自らの担任を追い越すべく廊下を駆けた。

◇◇◇

昼休み。紅蓮は瞳を捕まえようと、チャイムと同時に席を立った。
バタバタ慌しく瞳の教室へ足を運んだものの、瞳の姿はそこになく小さく舌打ちが漏れる。

「あれ? 紅蓮くんじゃない。追われてるの?」
「それもあっけど……瞳は?」
「瞳なら購買行ったわよ」
「わかった、サンキュ!」
「頑張ってね~」

焦っていた紅蓮はよく確かめもせず、告げられた言葉を鵜呑みにして、また慌しく去って行った。

──ヒラヒラ手を振る彼女の足元から覗く、大きなリボンに気付かずに。

「…………瞳、行ったわよ」
「……ありがと」
「アンタ凄い勘してるわね。でも何で逃げてんの? 持ってきてんでしょ?」
「う……ん、まあ、ね……心の準備中なの」
「ふうん?」

「だーーッ、くそ!!」

ガシャン、と音を鳴らして金網が揺れる。
結局瞳は捕まらず、逆に自分が囲まれそうになって校内を走り回っていた。

どうにか振りきってやってきたのは屋上で、軽く乱れた息を整える。
さすがに制服だけだと寒い。
ふわりと漂う白い息を見ながら、ぼんやりと思った。

「逢うのも駄目なのかよ……」

午後が始まる予告の音を聞きながら、金網に背を預けた。

放課後、フラリと戻った教室は既に無人だった。
相変わらず瞳からは音沙汰なしで、自然とため息が漏れる。
ふと、紅蓮は自分の机に乗る紙片を目に留めた。

──校舎裏、桜の樹の側で待ってます──

差出人不明の手紙。
瞳じゃないことはわかった──筆跡が違う──から、無視を決めこんでもよかったけれど……
この寒いのに待ち続けることや放置される気分など、余計な事を考えてしまう。

「ッ、」

グシャリと紙を握り潰して、紅蓮は教室を後にした。

「来て、くれたんだ……?」

待っていた女生徒は寒さで頬を赤くして、真っ白な息を吐き出しながら嬉しそうに微笑んだ。

「付き合って、なんて言わないから。……これ、貰って欲しいの」

それだけでいいから、と差し出されるのは想いのカタチ。
真剣だとわかるから、受け取りたくない──受けとれない。

「────わりぃけど……」

口から出た声は、自分でも驚くほど冷たかった。
教室は相変わらず無人で、置き去りにされた荷物だけがポツンと所在無げに見える。
傍らには中身の詰まった紙袋。目を離している間に更に体積が増えている気がした。

カタン。

何気なく鳴った音に反応してそちらを向くと、今日一日ずっと追っていた姿。
一瞬幻覚かと思うほど、突然現れたような錯覚を覚えた。

「…………瞳?」
「まだ居た」

よかった、と安心したように小さく呟いてゆっくり近付いてくる。

今更。なんで。
聞きたい事も言いたいことも沢山あったはずなのに。

──姿を見ただけで全部吹っ飛んだ。

手が届く距離まで縮まった途端、紅蓮は瞳の腕を掴んで引っ張った。
驚きで零れた悲鳴を無視してきつく抱き締める。

「ちょ、ぐっちゃん! 苦、し」
「わりぃ、もうちょい我慢してくれよ…………お前あったかいな」
「もう! ぐっちゃんが冷たすぎるのよ! ……っていうか、なんでこんなに冷えてるの? 風邪ひくじゃない」

腕の中で怒りだした瞳があまりにもいつも通りで拍子抜けする。

「なぁ、聞いていいか?」
「…………だめ」

断られるとは思ってもいなかった紅蓮は驚いて、咄嗟に身体を離して瞳を見た。
俯いた表情は読み取ることができず、瞳の頭に飾られた色鮮やかなリボンがやけに目につく。

「ちょっとだけ、待って?」
「瞳……?」

瞳は自身の胸元に片手を当ててゆっくり息を吸った。
一瞬息を止めて、顔を上げる。
横に下がったままの手には何かが収まっていることに、ようやく気がついた。

「……受け取ってくれる?」

小首を傾げて躊躇いがちに差し出される小さなプレゼント。
少し前に見たのと同じ動作、同じ台詞──なのに、全然違う。瞳が相手だというだけで。

「──当然、」

そう言って、再度瞳を抱き締めた。

◇◇◇

「お帰り瞳。あら、いらっしゃいぐっちゃん、久しぶりじゃない?」
「……こんばんは」

笑顔で出迎えられて、つい“ただいま”と言いたくなる。
もう半年は経つというのに。

弟という枠から零れ落ちた現実で、紅蓮の立場は“瞳の幼馴染”だった。
しかも幼い頃からの、という認識らしく、対応は家族のころと殆ど何も変わらない。それは嬉しくもあるけれど、はっきりとした境界線がない分距離も測りづらく、心境は複雑だった。

「お母さん、お風呂沸いてる?」
「沸いてるけど……もう入るの? ぐっちゃん来てるのに」
「そのぐっちゃんが入るの!」
「は!? おい、何言ってんだよ瞳!」

紅蓮の腕を引っ張りながら言う瞳に、抗議する意味で足を止める。
もちろん力では敵わない瞳がつられて止まり、咎めるように紅蓮を見た。

「こんなに冷えてるのに放置なんてできるわけないでしょ? どれくらい外にいたの? コートもマフラーも手袋もなしで!」
「ンなこと言ったって」
「言い訳は聞かないんだから!」

ピシャリと紅蓮の言葉を遮って袖を引く。
瞳を止めてくれそうな母親を覗き見れば、彼女は頬に手を当てて「あらあら、仕方ないわねぇ」なんて暢気に笑っていた。

「ぐっちゃん、お夕飯は食べてってくれるの?」
「いや、オレは」
「今夜はシチューにしようと思ってるんだけど、」
「帰──」
「嫌いな物はなかったわよね?」
「…………ハイ」

──どうもこの家にくると自分は弱くなる気がする。
満面の笑顔でさりげなく押し切られ、瞳に引かれるまま、紅蓮は苦笑を零した。

「はい、ぐっちゃん。お父さんのだけど大丈夫よね?」
「ちっと脚が足んねーけどな」
「なあにそれ、お父さんに言いつけちゃうから」
「瞳、」
「うそ。言わないわよ。お父さんショック受けちゃうもの」

クスクス楽しそうに笑って紅蓮にタオルと着替えを手渡すと、瞳は反転して背を向けた。
出て行く途中で振り返り、人差し指を立てる。

「ちゃんとあったまるまで出ちゃ駄目よ?」

パタンと音を立てて閉まった扉を見ながら、紅蓮は自分の髪をくしゃりと混ぜた。

「ったく……オレはガキかっつーの」

「瞳ー、風呂上が」
「ぎゃっ!!」
「あ?」

勝手知ったるなんとやら。
髪を拭きながらリビングに行くと、途端に瞳の悲鳴が上がった。
見れば後ろ手に何かを隠した瞳と、横で楽しそうに覗きこむ母親の姿。

「……何やってんだ?」
「ななな、なんでもないの! ちゃんとあったまった?」
「あぁ……で? 何隠してんだよ」
「ぐっちゃん相変わらずモテてるのねぇ……こんなにたくさん」
「お母さん!」

瞳は「黙ってて」と小さく言って──しっかり聞こえているけれど──口元に指を当てながら、母親をキッチンの方へ追いやる。
そんな瞳の後ろからはみ出ているのは純から貰った紙袋で、それで隠しているつもりなのかと苦笑が漏れた。

「それ欲しいのか?」
「え、」
「丸見えなんだよバカ」
「~~~~ッッ」

紅蓮は言葉もなく見上げてくる瞳の横に座り、件の紙袋を引っ張り出した。
一つだけ取り出して、残りを瞳に押し付ける。

「ほい、やる」
「なッ、駄目! これはぐっちゃんが貰ったものでしょ? 絶対駄目」
「他はいらねーからやるっつってんだよ」

手にしたものを軽く持ち上げると、瞳は大きな眸を見開いた。

「なぁ瞳、コレ手作──むぐ、」

言いかけた言葉を遮って、急に瞳が紅蓮の口を押さえる。
そのまま視線をキッチンの方へ投げた瞳は、安心したように息をついた。

──意味がわからない。
手作りってのがマズイのか、それとも自分に渡したことか。

いつまでも口を塞がれているのが癪で、紅蓮は瞳の腕を掴むと、触れている手のひらに唇を押し付けた。

「ひゃッ!? ちょ、」

びくりと震えて、信じられないものを見るような顔をする。
それに構わずに、瞳に視線を合わせながらわざと音をたてた。

「な、ぐっちゃ──」

「瞳ちゃん? どうかしたの?」

「きゃああああっ!!」

瞬間、渾身の力で紅蓮を突き飛ばして、瞳は急いで自分の手を取り返した。

「痛ってぇ~~……」
「ななななんでもない!」
「……本当に?」
「当たり前じゃない! ご飯出来たら呼んで? ほら、ぐっちゃん、行こ!」
「ッ、おい、痛ぇって、引っ張るなよ」

明らかに怪しいと思われそうな動きで、リビングを後にする。
紅蓮の手には髪を拭くのに使っていたタオルと、瞳からのチョコレート。

「ったく何なんだよ急に」
「だって……ぐっちゃんにあげたって聞かれたら、お母さんに取り上げられちゃう」

──なんでそうなるんだ?

理由がわからずに眉を寄せる。
そんな紅蓮に気付いたのか、瞳は指先を無意味に絡ませながら口を開いた。

「毒だって……」
「は!?」
「だから、そんなの毒にしかならないって言われたの! 食べられないって……」
「……マジで?」

頷く瞳はしょんぼりしていて、それが事実だと態度で語る。
身内なだけに容赦のない評価を貰ったのだろう。
紅蓮はそんな瞳を見ながらラッピングに手をかけた。
細く赤いリボンは先がカールされ、中心が花のようで──形を崩すのが少し勿体無い気がした。

「……別に大丈夫じゃねーの?」

開くまで緊張していたことはおくびにも出さず、箱に収まるチョコレートを確認する。

──まぁ、見た目は石みてーだけどな。

ゴロゴロしている黒い塊は、お世辞にも“美味しそう”とは言えないけれど、毒という程でもないと思う。
食べれなくはないだろうと言葉を返すと、瞳は顔を明るくさせて覗きこんできた。

「ほんと?」
「……ああ、(たぶん)」

あまりにも期待に満ちた目をするものだから、紅蓮は意を決してそれを口に放り込んだ。
見た目と味はまったく違うんじゃないか、そう期待を込めて。

「………………」

噛めないわけでも、溶けないわけでもない。
そう、食べられないわけじゃないけれど。

────苦い。

甘さ控えめ? ビター? ブラック?
そんなことを言ったら鼻で笑われるくらい、ソレは苦かった。

(最近こういうのあるよな……)

“カカオ○%”と銘打った商品を思い出し、トリップしそうになった思考を瞳に呼び止められた。

「ぐっちゃん?」
「なぁ……念のため聞くけど、」
「うん」
「お前これ味見したか?」

聞けば瞳はきょとんと目を瞬かせ、どうしてそんな事を聞くのかとでも言いたげに首を傾げた。

「してないわよ?」
「……だよな」

紅蓮はにこりと笑みを浮かべ、再度炭のような味がする問題の品を口に入れる。
それを見て興味ありげに寄ってくる瞳の腕を掴むと、ぐい、と引き寄せて口付けた。

「んッ……!?」

角度を変え、するりと舌を割り込ませると口に含んだ物をそのまま強引に押し込む。
口内を撫でる舌に身を震わせた瞳が、次の瞬間ギュッと眉を寄せるのが見えた。

「う゛、」
「……ん、美味い?」
「~~~~ッッ、にぎゃ、い……」

よっぽど不味かったのか口が回っていない。
紅蓮は涙目で睨み上げてくる瞳の頭を撫で、クツリと笑みを溢した。
次いで腕の檻を縮めると眦へ唇をよせる。浮いた涙を舐め取ると瞳が小さく悲鳴を上げた。

「瞳……口直し」

唇を頬へ滑らせながら言うと、カアっと顔を赤くした瞳が身じろぐ。
戸惑いがちに眸が揺れて、服の裾をきつく握られた。

「……来年は期待してっからさ」
「ッ、もう! ぐっちゃん!」
「オレ以外には食わせんなよ?」

そう小さく呟いて、そっと触れるだけのキスをした。

◇◇◇

「返してよぐっちゃん!」
「バーカ、貰ったモンをそう簡単に返すかよ。これはオレの」
「だって食べれない、でしょ! くっ、」
「食えなくてもいいんだよ。もう諦めろって、届くわけねーだろ?」
「やって、みなきゃ、わかん、ない!」
「ッ、あぶ……!」
「ぎゃッ!」

ドタッ

「ってて……セーフ……」
「……ありがと。ついでに隙あり! ほっ」
「ぐぇっ、重──痛ッ!」
「~~~~ッ、」
「……ウソ、嘘だって。むしろ役得っつーか」
「え?」
「理性がヤバいっつーか」
「!! や、離して!」
「どーすっかなぁ……」
「ちょっ、手、手!! どこ触っ……ッ、」

『瞳ちゃーん、ぐっちゃーん、ご飯よ~』

「は、はあい!! ほら、ぐっちゃん!」
「チッ、しゃーねぇなぁ……瞳、」
「ん、ぅ!?」
「っし、母さんのシチューは久しぶりだな」
「ッ、ぐっちゃんのバカーーーー!!」

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