Vischio

沈む太陽

「……人魚姫って可哀想よね」

何を思ったのか、瞳は突然そんな事を言い出した。

「声まで失くして逢いに行ったのに……残酷だわ」

いかにも理不尽だと言いたげに呟くと、手元からパラリと紙の音がする。

……原因はそれか。

どっから引っ張りだしてきたのか、アンデルセンの童話を手にぶつぶつ文句を言っている。
こっちの世界にも同じ童話があるなんて、むしろその事実のほうが気になる。

「ぐっちゃんもそう思わない?」
「ん? ああ、そーだな」

生憎、殆ど聞いてなかったなんて言えるわけない。

「……ちゃんと聞いてた?」
「あー……王子が間抜けだってんだろ?」
「……そんなこと言ってないわよ」

む、と拗ねて身を乗り出してきた瞳は、いきなりオレの本を取り上げて閉じた。

「な、おい」
「………………」
「ぅ、」

無言で「聞け」と訴えてくる瞳の表情は反則だ。そんな顔されたら怒るに怒れない。

「はぁ……ったく、せめて栞くらい挟めよな」

言外に降参を告げると瞳は嬉しそうに笑って、横にぴたりとくっついた。
頭を寄りかからせて、自分の持っていた本を半分オレの方へ乗せてくるのは読めということだろうか。

──それどころじゃねーっつーのに。

触れた箇所を嫌でも意識してしまい、それを悟られないようにゆっくり息を吐きだした。

「ねぇぐっちゃん?」
「……なんだよ」
「ぐっちゃんがこの王子様の立場だったらどうなるかしら」
「は?」

瞳が突拍子もないことを言い出すのは珍しくないが、今度はなんなんだ。
相変わらず瞳は横にくっついてて、柔らかい身体とか、いい匂いのする髪とか、安心しきってる態度とか────考えがまとまらない。

「だから、ぐっちゃんが王子様で私がこの人魚姫だったら、ぐっちゃんはちゃんと私がわかるのかしらってこと」
「……そんなもん聞いてどうすんだよ」
「え? な、なんとなく聞いてみたくなっただけよ。深い意味はないの」

瞳は誤魔化すように、笑いを零しながら手をヒラヒラ振った。

「……あのなぁ、オレをこんな阿呆な王子と一緒にすんじゃねーよ」
「な、」
「喋れるとか喋れないとか関係ねーし、オレは瞳だったらぜってーわかる」
「う……だ、断言するの……?」
「しちゃ悪りぃか?」

視線を下げると、毛先を弄んでいる瞳が目に入った。
顔は俯いてて表情を読むことができないけれど、これは……

「なんだよ、照れてんのか?」
「ッ、違うもん!」

勢い余った瞳は立ち上がってオレを見下ろす。
その顔は真っ赤で、思わず頬が緩んだ。

「そんな顔で言われても説得力ねーな」
「~~~~ッッ、こっち見ないで!」
「へいへい、落ち着いたら戻って来いよ」

オレから距離をとった瞳は背を向けて、肩で大きく息をしている。
そんな瞳を見ていると逆にオレの方が落ち着いてくるというものだ。
離れた瞳をそのままに、自分の読んでいた本に戻ろうとして、ふと瞳の──―人魚姫の本が目についた。

言葉を失くした人魚姫。
傍にいられればいいなんて表面を取り繕った嘘だ。好きな相手の傍にいてそんなに無欲でいられるはずがない。

その在りように自分を重ねて苦笑する。
────くだらない。

「なぁ、瞳……お前だったらどうする?」
「え?」

さっきとは逆。
オレが瞳に質問する番だ。
色々すっ飛ばした質問に面食らったのか、興奮していた瞳はことりと首を傾げてオレを見た。

『なかなかおもしろい話をしてるじゃないか』

瞳が口を開こうとすると、それを図っていたかのように女の声がして空間が歪んだ。

「瞳!」

得体の知れない影を警戒して咄嗟に瞳を引き寄せる。
瞳の目は歪みに釘付けで、瞬きすらしていなかった。

「そんなに警戒するんじゃないよ。あたしとは初対面だったかい? 紅の王子」
「なッ、誰だ!?」

歪みからゆらりと現れたのは赤いローブを纏った女。
──見るからに怪しい。
女はクツクツと笑いを零すと、口元に手をやりながら瞳に視線を投げた。

「お嬢ちゃんとは夢の中でくらいは会ったかもしれないねぇ。ま、もっともアンタは覚えてないかもしれないけどさ」

瞳は視線を逸らすことなく、女を凝視する。口には出さないものの「誰?」と言いたげにゆっくり瞬くのが見えた。
怪しげな女もそれを受け入れたのか、目元を細めて頭の布を取った。
衣擦れの音に続いて覗く艶を佩びた深緑。

「初めまして、と言っておこうかね。あたしはしがないただの魔女。名はリュウカだ。好きに呼ぶがいいさ」
「……あの、リュウカさん、は……何しに来たんですか?」

依然として動かず、瞳が口を開く。
それは予測していた問いだったのか──まぁ当然の質問でもあるし──魔女とやらはニヤリと唇で弧を描いた。

「いやさ、とあるお方のお遣いでねぇ。アンタ等にちょっかい出しに来ただけさね」
「何?」
「刺激のない生活ってのはマンネリ化するもんだろう? ちょっとした余興が欲しい頃だと仰せなんだよ」

……それはつまりアレか?
あたふたするオレ達を見るのがおもしろいってことか?
──つーか……覗きかよ。呆れた趣味だな。

「帰れ」
「おや、つれないねぇ。だがそうもいかない、試練だと思って諦めな」

聞く耳を持たない魔女は、ゆっくりと手のひらを瞳に向けた。
事態についていけないのか──オレだってついていけてない──瞳は目を瞬かせて向けられた手のひらを見ている。

「チッ、」

知れず舌打ちを漏らし、固まったままの瞳の腕を引いて咄嗟に後ろに押し遣った。
赤とも黒ともつかない光と耳障りな音が部屋に満ちる。

「ぐっちゃん!?」
「じっとしてろ!」
「やだ、どいて! ぐっちゃん!!」

泣きそうに騒ぎ立てるのを無視して、胸に強く抱きこんだ。

◇◇◇

「ちょいと予定が狂ったねぇ。……まぁそれもいいだろうさ」

ぼんやりと遠くに魔女の声が聞こえる。
耳元では繰り返し繰り返しオレを呼ぶ声────

「ねぇ、何したの? ぐっちゃんは……」
「死にゃしないから安心しな。そら、起きてんだろ?」
「やめて!」

ふわりと柔らかい髪が頬を撫でたのに気付いて目を開けた。
くそ、背中が痛ぇ。

「! ぐっちゃん、大丈夫? 怪我してるの?」

背中を押さえるオレに気付いたのか、矢継ぎ早に問いかけてくる瞳は今にも泣き出しそうだ。

心配ねーよ。

そう声にだしたつもりだったのに。
……耳がイカレてるんだろうか、音がよく聞こえない。

「……ぐっちゃん?」
──あ? あー、
「声、でないの?」
──でてねーな。

オレが声に出しているつもりでも音として伝えることはできないようだ。

「お嬢ちゃん、王子の首元を見てみな。痣がないかい?」
「え?」

クツリと意地の悪い笑みを浮かべて、魔女が言う。
瞳は不安気に首を傾げながら、オレの服に手をかけた。

──待て! 自分でやる!
「見せて」
──だから待てっての!

詰め寄ってくる瞳をどうにか抑えて、襟元をくつろげる。
自分じゃ見えないけれど、瞳の表情を見れば一目瞭然だ。
驚きで見開かれる双眸…………間違いなく首に何かある。

──瞳、鏡。
「なあに?」
──かーがーみ。
「?」

もどかしい。
近くにあった紙を──王政用だったのは気にしない方向で──失敬して“かがみもってるか?”と乱雑に書いた。

「あ、うん、ちょっとまって」

慌ててポケットを探る瞳は手のひらに収まるほどのコンパクトを出した。
鏡の部分をオレの方に向けてそれを開く。

見れば、確かに首をぐるりと一周──タトゥーのような蔦模様の黒い痣があった。

「確認は終わったかい?」
「これなんなの? あなたの術?」
「まあそんなとこさね。それが消えりゃ元通りさ……せっかく同じにしてやろうと思ったのにねぇ」

全く残念だ、と肩を竦めて、魔女は近くにあった童話を持ち上げた。
──人魚姫──っとに、おもしろさの欠片もねーな……

「くっくっく、まあそう悲観しなさんな。ほんとは視覚か聴覚かで迷ったんだから加減してやったほうさ」

待て。そんなもんを瞳にかけようとしてたってのか?

「おぉ恐、そんなに睨むんじゃないよ。ま、精々一ヶ月程度だ、ニンギョヒメの気分でも味わって楽しみな」

笑いながらそう言い捨てると、魔女は来た時と同じように空間に歪みを作って消えた。

「一ヶ月って……どうしよう、ぐっちゃん……全然だめ? しゃべれない?」

涙目で服を掴む瞳。これ以上悲しませるってのもどうかと思うけど──頷くしかなかった。

──……聞こえてっか?

納得できないと無言で訴える瞳に確認させるために口を動かす。もちろん、声にだしているつもりだ。
しかし瞳はくしゃりと顔を歪めて俯いた。続けて漏れる嗚咽にどうしたらいいかわからなくなる。

「…………ッ、ぅ……」
──おい、泣くなよ……瞳……

俯いた瞳には声の出ないオレの言ってることなんて絶対伝わってない。

ったく、しょーがねーなぁ……
小さく息を吐き出して、緩く抱き締める。
落ち着かせるようにポンポンと頭を軽く叩いていると、瞳が腕を回してきた。

「私……居るから……」

ポツリと零れた音に視線を下げる。
と、眸を潤ませたまま、真っ直ぐオレを見上げる瞳と目が会った。

「わたし、ずっと傍に居るから。だから……」

……そりゃ願ってもない申し出だ。

──さんきゅ。

ゆっくり口を動かすと、伝わったのだろう。
瞳が涙目のまま嬉しそうに笑う。
それに引き寄せられるように、そっと頬に口付けた。

「~~~~ッ、ぐっちゃん!」

カアッと顔を赤くしてオレを押しのけようとする瞳は、もうすっかりいつもの瞳だ。
哀しむよりはそうやって居てくれたほうがいい。
だってオレはお前がそう言ってくれるだけで、全然辛くも哀しくもねーんだから。

◇◇◇

──あれから二日。オレは相変わらず声が出ないまま、“王様の仕事”とやらに専念していた。

「ぐっちゃん、これはこっちでいいの?」

傍では瞳がオレ以上にくるくると忙しそうに動き回っている。
それに頷いて返すと「これ終わったら休憩しよ」──そう言って笑った。

紅茶を並べたテーブルで、瞳は横に座りながらオレを覗きこんでくる。
そのまま自分の唇を指でトントンと叩く動作はキスをねだっているようで────用途はまったく違かった。悲しいことに。

「さ、いいわよぐっちゃん。今日はなんの話?」

にこにこと笑う瞳は、オレの声が出なくなってから、暇さえあればこうしてオレに話をさせて唇の動きを読む練習をしている。
オレの時間は拘束されるけど、それは逆に言えば瞳の時間もオレが拘束してるってことだ。
それに瞳の懸命な様子を見られるのも嬉しくて、大抵飽きるまで付き合うことにしていた。

──そういやまだ瞳の答え聞いてねーな。
「?」
──こたえ。
「答え? なんの?」

瞳は最初に比べると慣れたのか、ゆっくり言えばちゃんと読み取れるようになっていた。
小首を傾げる瞳に、人魚姫の本を見せる。あの時は魔女に邪魔されてちゃんと聞けなかったからな。

「う……えっと、私が人魚姫の立場だったら……だっけ?」

正直、覚えてるなんて──しかも何が聞きたいか解るなんて思わなかった。
内心驚いているオレを余所に、瞳はしきりに唸って考え込んでいる。

「う~ん……王子様にはもう決めた相手がいるのよね…………喋れたとしても、消えるってわかってても、主張しないかもしれないわ」

ブツブツ言いながら真剣になってしまったのか、眉尻を下げてしょんぼりしたように俯いた。

「童話とおんなじね」

ポツリとそう零しながら。

「……ねぇ、ぐっちゃんだったらどうするの?」
──…………オレ?
「そうよ。私にばっかり聞くのはずるいでしょ?」
──……伝えんじゃねーの?
「曖昧」

色々誤魔化してーんだよ……なんたって死ぬ間際の告白については前科持ちだからな。

最近のような遠い過去のような、あの日。
オレがここに居ることも、瞳が今でも隣りに居てくれることも、全部幻なんじゃないかと時々思う。
この奇跡はいつまで続くんだろう。いつまで続いてくれるんだ?

「ぐっちゃん?」

呼びかける声にハッとして思考を戻す。
ふとした時に苛まれる不安──終わる時はきっといきなりなんじゃないかと、いつもどこかで考えてる自分に気付いて苦笑が漏れた。

手を伸ばして瞳の髪に触れる。
くすぐったそうに身を捩る瞳をそのまま引き寄せて抱き締めた。

「な、なに? どうしたの……?」

顔を見られたくなくて、驚きで強張る瞳に構わずに腕の力を強くすることで動きを封じる。

──情けねーな、ほんと……

「……不安なの?」

そっと告げられた言葉は瞳のもの。
なんで────

「もうすぐ元に戻るわよ。リュウカさん、だっけ? 一ヶ月って言ってたじゃない」

…………だよな。
激鈍瞳にわかるわけねーよな。
正直、この鈍さに救われる。普段はもうちょい鋭くてもいいと思うけど。

「あ、今失礼な事考えなかった?」
──別に。
「嘘。笑ってるもの。なに?」

腕の中で必死になる瞳が可愛くて──……

オレは瞳がやったように自分の口元を叩いて、動きを読むように促した。
予想外だったのか、瞳は何度か瞬いて頷く。

──ちゃんと読めよ?
「最近上達してるから平気よ」

オレは自信たっぷりに言う瞳を抱き寄せたまま、口を開いた。

「……ア、イ、……シ……? ──ッ、」
──瞳、続きはどうしたんだよ。

逃がさないように額を合わせて覗き込みながら言うと、頬を桃色に染めた瞳が困ったように見上げてきた。

「……ずるい」

オレはお前のその表情のほうがよっぽどズルイと思うけどな。

口付けた瞳は砂糖菓子のように甘くて、確かに腕の中に存在する温かさに安心する。
同時に小さくなっていく不安の片隅で、このままずっと──永遠に醒めることのない奇跡であればいいと……そんな事を思った。

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