Vischio

Professor privado

「ただいま」

帰宅早々、リビングでオレが見たのは無言で向かい合う母さんと瞳だった。
母さんは笑っているようで目が笑っていない。
これは怒ってるときの特徴で、下手に刺激しないほうがいい。

瞳のほうは目を合わせないようにだろう、若干俯いてテーブルの下で意味もなく指先を弄っていた。

……触らぬ神になんとやらだ。
オレは開けたドアに手をかけたまま、足を一歩引いた。

「ねえ、ぐっちゃん、やっぱり塾に行かせた方がいいのかしら……」

ぽつりと独り言のように呟く母さんは、こっちを見て小さく溜息を付いた。

わざわざオレに呼びかけるところがなんというか……母さんだな。
逃げようとしていたのをさりげなく止められてしまい、気付かれないように息を吐く。
面倒なことじゃなきゃいいけど。

「何の話だよ」
「これ」

ひらりと目の前に出されたのは白い紙。
瞳が急いで止めようとしたみたいだったけど、おせーよお前。

「ぐっちゃん、返して!」

手を伸ばしてきた瞳をなんなく避けて、頭を押さえる。
オレは紙を自分の頭上に上げてようやくそれに焦点を合わせた。

「もう、返してよ!」
「うるせーぞ瞳。まだ見てんだから邪魔すんなよ」
「するわよ!!」

喚きながら懸命に遮ろうとする瞳が精一杯腕を伸ばす。
お前がどんなに頑張ってもリーチが違うんだから、届くはずねーだろ。

白い紙には成績表と印字され、ずらりと今学期の成績が並んでいる。
そういや補習って言ってたっけ。
母さんが瞳を塾に、と呟いていたワケもわかる気がした。

……少なくとも、オレはこんな点採ったことねーな。

「なぁ瞳、これ50点満点か?」
「ッ、」

怒りか羞恥か、瞳の顔が赤くなる。
さっきとは別の意味で手を振り上げた瞳を急いで離し、勢いよく振りおろされたそれを止めた。

「暴力女」
「ばか! ぐっちゃんのばか!!」
「バカはどっちだ?」
「なによ、ちょっと頭がいいからって。ぐっちゃんなんか──」

「そうだわ」

言い争うオレたちを遮るように、母さんが手を叩く。
さっきとは打って変わって、にこにこ笑っているのがかえって不気味だ。

「瞳、塾に行くのと家庭教師、どっちがいい?」

瞳は即行で「どっちも嫌」と答えたけれど、今の母さんがそれで許すはずがない。

……とてつもなく嫌な予感がする。
逃げろ、とオレの本能が告げている。

当然、オレは自分の本能に忠実に、その場から逃げることにした。
オレはそっと瞳の成績表をテーブルに戻すと、無言で二人に背を向けた。

途端、片方の腕を母さんに掴まれる。オレ関係ねーぞ!?

「塾とぐっちゃんに先生してもらうの、どっちがいい?」
「ちょ、マジ冗談じゃねーって! オレに瞳の勉強見ろってのか!?」
「あら、嫌なの?」
「ッ、」

嫌なわけじゃない。
ただ……面倒だとは思う。

瞳はともかくオレは自分の気持ちを自覚してるし、同じ部屋で二人きりなんて身がもたねー。

「ぐっちゃんには無理よ」

母さんが詰め寄ってくる傍らで、瞳が不機嫌そうな顔で唇を尖らせていた。

「どうして? 経済的だし、いいじゃない」
「だってぐっちゃんは一年生でしょ。二年生の勉強なんてわかるはずないわよ」

ここで同意すればいいってわかってる。
そうすりゃ家庭教師になることも、密室で二人きりなんて状況にもならないって──わかってるのに。
「勉強なら茜とか雪草君に教えてもら──」
「見てみなきゃわかんねーだろ」

……バカだ。
自分で自分を追い詰めてどーすんだよ……
試しに見てやってよ、とリビングから追い出されたオレと瞳は廊下で顔を見合わせた。
不満気に揺れる眸がオレを見上げてくる。

「……なんだよ。どーせなら塾行きたかったって?」
「違うわよ。おかしいじゃない、どうして年下のぐっちゃんに勉強教えてもらわなきゃなんないのよ」
「瞳がバカだからだろ」

“バカ”を強調して、更に目を吊り上げる瞳に笑った。

──さて、どうしたもんか。

◆◆◆

「瞳……」
「…………黙って、」
「瞳!」
「なによぐっちゃん、気が散るってば!」
「間違ってんだよ、こっからここまで全部! お前どんだけ計算すれば気が済むんだ?」

ノートの半分以上を埋め尽くす計算式。それでも飽くことなく書き続ける瞳をようやく止めた。
普通途中でおかしいって気付くだろ。

「124ページ、公式(b)……ほら」

問題の箇所を指差して言えば、瞳は唸りながら文字を消した。
甘い雰囲気とは程遠く、心配していたようなこともない。

……変に意識しすぎてたんだなオレ。

瞳が集中して計算してる間は暇だからオレも勉強。 時々今みたいに目をやって、様子がおかしかったり(大抵計算違いだ)手が止まってたら口を出すくらい。

家庭教師ってほど教えてねーな。
そもそも瞳はやれば出来るのに、なんで普段からやらないんだか。

それにしても、瞳と向かい合って勉強って……すげー変な感じだ。
普段から部屋は別だし、そもそも学校も勉強内容も違うからこんなこと滅多にない。

ちら、と瞳を盗み見る。
懸命な様子が可愛くて──ぜってー言わねーけど──微かに目を細めた。



「……ぐっちゃん」
「んー?」
「お、教えて……」

弱々しく躊躇う声に思わず笑いそうになる。
“年上”ってプライドなんかさっさと捨てちまえばいいのに。
再度自分を呼ぶ声に手を止めて顔を上げたら、思ったよりもずっと近くに瞳の顔があった。

「あのね、ここ……」

ガンッ

「わ、ぐっちゃん!」
「……ってぇ……」

思い切り頭を仰け反らせたのはよかったけど、後ろにはベッドフレーム。
加減なしにぶつけた後頭部が痛い。

「何やってるのよ……大丈夫?」

身を乗り出して、手を伸ばしてくる瞳を慌てて止める。
何する気だかわかったもんじゃねぇ。

「もう、傷ができてたら大変でしょ!? 見せて」
「いいって! やめ……おいっ、待て!」

いつの間にか追い詰められる格好で、逃げ場がない。
やめろって言ってんのに聞かない瞳はオレの頭が動かないよう、顔の両脇に手を置いた。

……なあ、普通オレとお前の位置、逆じゃねー?

茫然とそう考えたのは一瞬で、間近に迫る瞳に戸惑う。

ってかどこ座ってんだお前!

足の間に座りこんだ瞳はオレの頭を引き寄せて抱え込むと、ゆっくり髪を避ける。
細い指と、微かに香る甘い匂いと、触れた肩──柔らかい身体。

「ッ、瞳! どけって!」
「だったら見せてくれればいいでしょ。おとなしくしてよ」
「どうでもいいから早く──」
「いや」

──煽るのもいい加減にしてくれ……

「……くそ」
「?」

首を傾げる瞳をそのままに、腰を抱き寄せる。

「きゃ、ぐっちゃん!? どうしたの?」

先に近づいて来たのは瞳のほうだ。
そう自分の中で言い訳して、背中に腕をやりながら間近に見える首に口を寄せた。

「ッ!? や、離し──痛!」
「……だからさっさと退いときゃよかったんだよ」

声を出すと瞳がびくりと震えて、それを止めるつもりだったのかオレの頭を押さえつける。
……それが逆効果だって……やっぱわかんねーんだろうな。

なんとなく面白くて、付けたばかりの紅い痕に口付けた。

「っ、や……だ、ぐっちゃん!」

今にも泣き出しそうな声で、ふと我に返る。

……危ねー……

それもこれも瞳のせいだと思うのに、どうしても泣かせたくないという想いの方が強くて手を止める。

「…………バカ瞳」

小さく震えだした瞳の背中を叩いて、ついでとばかりに頬にキスをして離した。
これくらいは許せよな。

「お前は無防備すぎんだよ。ちっとは警戒しろよな」
「ぐっちゃんも……?」
「……瞳がいいってんなら別にしなくてもいいけど?」

トンと紅い痕に触れながら言うと、瞳は急いでそこに手をやりながら首を振った。

くそ……それはそれで傷つくな。

「ぐっちゃんは弟なんだから。絶対駄目なんだから……」

ブツブツ言う瞳は顔が赤くて、なんだか自分に言い聞かせているようにも見えた。
都合のいい解釈だと自嘲して、もう一つくらい意地悪いことを言ってもいいんじゃないかと思う。

「なぁ、向こうでならいいのか?」
「だ、駄目に決まってるでしょ!?」
「なんもないって方がよっぽどおかしいけどな」
「…………そ、それでも駄目!」

その躊躇った“間”につけ込むぞ?

さっきから目を合わせようとしない瞳に笑っていると、階下から夕飯の時間だと呼ばれた。
すぐにでも階下に向かおうとする瞳を慌てて止める。

「な、何!?」
「……まぁ、虫刺されに見えないこともない、か?」
「え?」

着替えるまでもないかと思い直して瞳の腕を離すと、逆に瞳は焦って着替えると言い出した。

「そんなに目立たねーって」
「嘘つき! ぐっちゃんのばか! もう着替えるんだから出てって!!」

強引に押し出されて扉の前で息を吐いた。
……隠れるのは残念だけど、しばらくは消えないだろう。

向こうの瞳にはついてないかもしれないけど、こっちにいる間はそれを見るたびにオレを思い出せばいい。



「お前Tシャツかよ、もっといいのねーの?」
「家の中なんだから何着ててもいいでしょ!?」

連れ立ってリビングに行くと、母さんが目を瞬かせて瞳を見た。
首を傾げて、もっともな疑問を一つ。

「なんで着替えてるの?」

瞳が一瞬オレを睨むように見る。
仕方ないからもっともらしくジュースを零したと言おうとしたのに、それより早く瞳が口を開いた。

「あ、汗かいたから! ね、ぐっちゃん」
「ぶッ、」

勉強してるだけで汗なんかかくかよバカ!!
お前の部屋エアコン完備だろーが!

「あら、瞳ちゃんだけ? ぐっちゃんはよっぽど厳しい先生なのね」

ころころ笑う母さんはやっぱり瞳の母親だ。
オレは一人で変な汗をかいて、白々しく笑った。

もう余計なこと言うんじゃねーぞ……

「瞳ちゃんにはかえってそれくらいのほうがいいんじゃない? 瞳ちゃんの宿題が終わるまでよろしくね、ぐっちゃん」
「えぇ!? お母さん、ぐっちゃんはいや!」
「どうして? ちゃんと教えてもらえたんでしょう?」
「だ、だって、もがっ」
「るーいー? 何言おうとしてんだお前」

さっきので懲りたオレは急いで瞳の口を塞ぐ。
それを見て嬉しそうに「本当に仲良しねぇ」と笑う母さんは、再度オレに瞳の宿題について頼み、話を打ち切った。

「……ぐっちゃん、なんで邪魔したの?」
「じゃあなんて言おうとしてたんだよ」
「ぐっちゃんがスパルタだからって……なんだと思ってたの?」
「オレが襲うから──痛ッて、」
「そ、そんなこと言えるわけないでしょ!?」

……だからっていきなり引っぱたくなよ。

また理性との戦いを強いられるのかと思うと溜息がでる。
少しはこっちの気持ちも汲んでくれよな。

痛む背中をさすりながら、顔を赤くしてそっぽを向いてしまった瞳を盗み見た。

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