Vischio

恋愛進化論

「瞳、いるか?」

秋晴れの気持ちいい昼休み。
一年生のくせに、遠慮とか気後れとか全くなしで、顔を覗かせたのは元・弟。
横引きの扉に腕をひっかけてキョロキョロしてるのは私を捜している証拠。
ドキドキするのはそれが嬉しいからなのか、それとも恥ずかしいからなのか──自分でもよく、わからない。

***

「お、今日も来た。瞳、呼んでるよ?」

──茜、肘でつつくのやめて。
人の悪い笑みを浮かべながら、茜はとても楽しそう。

「い、いいの」
「は? いいってあんた……」
「いいの!」

ぽかんと口を開けた茜は少し黙った後、何かブツブツ言いだした。
お小言交じりのそれを真面目に聞く気はなくて、右から左へ聞き流す。
そんな中、私は誰にも気付かれないように、扉の方に視線を向けた。

黒い髪、黒い眸……そして、海楠の制服。
中身は同じはずなのに、違う人。
──私……最近ちょっと変。
なんだか、ぐっちゃんといると緊張する。
どうしてなのかしら。 相手はぐっちゃんなのに……

思わずため息をつくと、いきなり頭を押さえ込まれた。痛い。
「茜、何す──」
「よぉ瞳」

茜だと思ったのに。声が違う。
顔を上げると、頭突きでもされそうな位置に、ニヤリと笑ったぐっちゃんの顔があった。

ガタタッ、ガシャン

「あーあー何やってんだよ、バカ」

私が急に立ち上がったことで倒れた椅子と、机の上から落ちた諸々を拾うぐっちゃん。
それを茫然と見ながら、ようやく声をかけた。

「ぐ、ぐっちゃ……なんで?」

合図はしてないし、実はちょっとだけ、諦めて帰ってくれるんじゃないかと思ってた。
……ぐっちゃんは目立ち過ぎるんだもの。
現に今だって、クラス中の視線が痛い……私のせいもあるかもしれない……けど。

「お前な、いるなら返事しろよ」

ため息混じりに言うぐっちゃんが、私の後ろに目をやって小さく頭を下げる。
つられて見ると、茜がにこにこしながら手を振っていた。
……裏切り者。

「何ぶすくれてんだよ」
「ぐっちゃんが大声で呼ぶから……注目されてるじゃないの」
「瞳が暴れたせいだろ」
「暴れてないわよ! それに……私、一応、年上なのに……」

つい、“一応”なんて言っちゃって、これじゃぐっちゃんが私よりしっかりしてるの認めてるみたい。

「なんだよ今更」
「ぐっちゃんは一年生でしょ?」
「誰も気にしねーって」
「するの。ぐっちゃんは目立ってるんだから……知らないの?」
「知らね。興味ねーもん」
「もう! 一年にかっこいい子がいるって女の子たちが──」

ぐっちゃんにしか聞こえないようにボソボソ言うと、怪訝な表情をしてたぐっちゃんが急に楽しそうに……ニヤリと笑った。

「ふーん……お前は?」
「……私?」
「オレのことかっこいいとか思わねーの?」

相変わらず私達にしか聞こえないくらいの音量。
それはいいんだけど……なんか、ぐっちゃん……近くない?

「なあ、どうなんだよ」
「ど、どうって……」

って、ちょっと、なんで手握るの!?

直後に、手を叩く乾いた音が聞こえた。

「はいはい、そこまでにしてねお二人さん」

答えも出せず、かといって逃げられず、一人で焦ってた私に助け舟を出してくれたのは茜だった。
……裏切り者とか思って悪かったわ。

「そういうのはもっとギャラリーの少ないところでやってちょうだい」
「……それもそーだな……」

……ぐっちゃん? 何言ってるの?

「あら、強気。まぁ瞳にはこれくらい押しの強い男の方がいいのかもねー」

うんうん、と腕を組んで頷く茜が私の肩に手を置く。
くれぐれも泣かせないように。
茜は空いた手の人差し指を立てながら、ぐっちゃんに向かってそう言った。

よくわからない言葉の応酬に首を傾げると、丁度予鈴が鳴った。
ぐっちゃんの背中を押しながら一緒に扉まで行く。
……見送りと、監視。授業が退屈だからって、暇があればどっかでサボろうとするんだから。

「ぐっちゃん、ちゃんと教室に戻ってね」
「わかってるよ、うるせーな……っと、忘れるとこだった」
「ッ、」

ピタッと足を止めるぐっちゃんの背に衝突する。
文句を言おうとして顔を上げたら、急に視界が翳った。
ぐっちゃんは私を引き寄せて、耳元で──

「「きゃーー!!」」

悲鳴は、私じゃ、ない。
ぐっちゃんの言葉とその悲鳴が重なって、耳鳴りがした。

「ぐっちゃん! もっと普通に言えばいいでしょ!?」
「真っ赤だぞ、瞳」
「だ、誰のせいよ!」

「──オレ……だろ?」

なんでそんな嬉しそうな顔するの。
そんな顔されたら……怒れないじゃない。

悔しい。悔しい。悔しい。
睨み付けていると、苦笑したぐっちゃんが優しく頭を撫でた。

「先帰ってもいいぜ」

ぐっちゃんはもう一度頭を撫でながら笑って、私の返事を聞く前に去って行った。
……後ろを振り返るのが恐い。
逃げ出したかったけど、そんなわけにもいかなくて。
もうぐっちゃんの大馬鹿!

***

あぁ恐かった……

あの後、授業が始まるまで、私はクラスメート(主に女の子)に囲まれて質問攻めにあった。
キ、キスしたように見えたって聞いたときはかなり驚いたけど、ただ耳打ちされただけ。

思い出して顔が熱くなる。
言われたことはたいしたことじゃなくて、ただ今日は日直だから遅くなるってことだけ。
あの場を茜が納めてくれなかったらどうなってたか……

……考えないほうがいいわよね、きっと。うん。

「ぐっちゃんのせいで……」

二言三言、文句を言ってやらなきゃ気が済まない。
ぐっちゃんは“先に帰っていい”って言ったけど、迎えに行く事に決めた。

── 一年生の教室が並ぶ廊下。
ここにくるのは随分久しぶりだった。それこそ、自分が一年の時以来。

『瞳、まだ用意終わんねーのか?』

いつだってそんなふうに言って、ぐっちゃんが迎えに来てくれたから。

雰囲気の違う廊下は放課後で人気がないにも関わらず、緊張する。
まるで他人の領域に踏み込んでしまったみたいに、場違いな気がした。
ぐっちゃんはどうしてあんなに堂々としてられるのか不思議で仕方ない。

「ここね……」

開けっ放しだった扉から、中を覗く。
日直だって言ってたから日誌を書いてるか、黒板でも拭いてるか、どちらかだろうと思った。

案の定、ぐっちゃんは教室の窓際で行儀悪く机に座っていた。
声をかけようとして、もう一人いることに気付く。

「なぁ、まだ終わんねーのかよ」
「もうちょっとだって……落ち着きないなぁ……」

ぐっちゃんの声に続いて聞こえた高い音程に、私は咄嗟に扉の前に座りこんだ。

……な、なんで隠れてるの私。
廊下に人がいなくてよかった。
今の私、傍から見たら完璧に変な人だもの……
自覚はしているものの、立ち上がる気になれないまま、ゆっくり息を吐いた。
相手の女の子は同じ日直で、仕事が終わらないと帰れないから、だから──

「お前そこは違うだろ!? もう貸せよトロくせぇ」
「あ、酷ッ! アンタには気遣いってもんがないの!?」
「うるせーなぁ、お前に任せてたらいつまで経っても終わんねーじゃねぇか」

落ち着こうとして深呼吸をする間にも漏れ聞こえてくるやり取りは楽しげで、全然入り込める雰囲気じゃなくて。
これ以上聞いていたくなかった。なのに、足が動いてくれない。

「……痛い」

心臓の辺りがズキズキ痛む。
私は制服の胸元を握って、痛みが治まるように小さくなった。

「ほん……に……好き……なの……」

ズキッ

すき。

すき……?

今、好きって言った……?

誰が 誰を?

──あの子が、ぐっちゃん、を──?

「あぁ、知ってる……」

ズキン ズキン……

ぐっちゃんの声は切なげで──私は胸が痛くて……
耐えきれなくて、逃げ出した。

荷物を置き去りにした事も忘れるくらい、逃げることに必死だった。

***

ギィ。
屋上へ続くドアを開ける。
夕暮れ時の冷たい風は混乱した気分をさらってくれそうに思えて、私はそのままフェンスの方に近づいた。

「おかしいなぁ……」

弟だったはずなのに、少し前までは確実に家族に対する感情だったのに。
これじゃ、私──

「ぐっちゃんのこと、好きみたいじゃない……」

溜息混じりに呟くと、後ろでドサッとかガシャとか変な音がした。
なにか壊れたのかしら。
そう思って振り向くと、そこにはぐっちゃんがいた。

静止画像のように、止まったまま動かないぐっちゃん。
その顔は段々赤みがさして、それから呟くように私の名前を呼んだ。

まさか。
まさか、聞かれた……?

「瞳……今の、」

カァッと顔に熱が集中する。
もうこの場にいることはできなくて、また私は逃げ出した。

「瞳! 待てって、おいッ!」

ドアがひとつしかないことも、それがぐっちゃんの後ろだってこともわかってた。

──絶対ぐっちゃんに、捕まるってことも。

すれ違ったときに腕を取られて、後ろから抱き締められる。
拘束はきつくて少し苦しかったけど、その分ぐっちゃんの心臓の音がよく聞こえた。
ドキドキして、とても速い。私と同じか、それ以上。

「なんで……逃げんだよ」

なんで? どうしてかしら。
恥ずかしくて、聞かれたらいけないことを聞かれたみたいで──

「わかんねーの? じゃ、教室から逃げたのは?」

「…………胸が……痛、くて」

私を抱き締めたまま、ぐっちゃんは小さく「なんで?」と聞いた。

「……ぐっちゃんが楽しそうだったから」
「女といて?」

少し考えて頷く。
ぐっちゃんは溜息をついて拘束を緩めると、私の肩の辺りに顔を寄せた。
髪の毛が襟に入り込んでくすぐったい。

「……もう認めろよ、瞳」

声の方に顔を向けると、ぐっちゃんが私をジッと見ていた。
近すぎて、段々心臓が速くなるのがわかる。

「瞳……オレは何度でも言うぜ。お前が好きだ。愛してる」

恐かったの。
認めるのが恐かった。絶対に壊れることのない“家族”と言う絆の中にいたかった。
今までの関係が全部崩れてしまうんじゃないかって──気付かないフリをしてた。
でも本当はきっと、向こうにいたときから……

「……わたし、も……」

“好き”という言葉は掠れて、ちゃんと届いたのかわからない。
それでもぐっちゃんはとっても嬉しそうに笑って、また私を抱き締めた。

「おせーよ、ばーか……」

そんな、憎まれ口を叩きながら。

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