rkrn
メイン長編
メイン本編 [久々知]
└久々知への片想いから始まる話。作法委員会と五年生が出張る
メイン番外編 [久々知,他]
└本編の合間の話、両想い後の話
メイン特殊編 [久々知,他]
└現パロ、パラレル、季節ネタなど
メイン長編if [尾浜,竹谷,浦風]
└夢主→久々知がそのまま、必然的に片想い一方通行が発生する短編シリーズ
中編・シリーズ
わんこへ! [七松]
└メイン派生。1話完結型の連作
歩くような速さで [尾浜]
└全9話+おまけ
あなた限定 [竹谷]
└短編→続編(全16話)+おまけ
未だ眠れる恋つぼみ [成長一は]
└全7話
二人の秘密にいたしましょう [利吉]
└メイン派生。お試しで書いた1話のみ
読み切り短編 [五年,立花,善法寺,綾部,利吉]
└同年、くのたま夢主多め
企画+α
15万打企画
└長編・シリーズキャラへQ&A complete!
一周年&20万打企画
└アンケート結果を基に短・中編 complete!
50万打企画
└メイン長編設定限定リクエスト
2012年エイプリルフール
2013年エイプリルフール
2014年エイプリルフール
メイン長編if(勘右衛門→夢主)の続き
※尾浜視点
失恋を癒やすには新しい恋かなあ。
学級委員長委員会用の部屋で寝転がりながら、ぼんやりと思考する。
知れずこぼれた溜め息は、自分で聞いてもうんざりするほどの暗さで室内に落ちた。
名前に「嫌い」と言わせてからひと月程が経過した。
あれ以来、彼女とは顔を合わせていない。
誰かに様子を聞くこともせず、兵助との仲については極力耳に入れないようにしていた。それを受け入れるための気持ちの整理がまだつかない。
兵助も、時折考え込む様子はあってもそれを表に出してこないのが幸いだ。相談なんてされたら理不尽な感情をぶつけてしまいそうで怖い。
表面上はいつもどおり、授業や委員会活動にも参加できていると思う。雑用係と揶揄されがちな学級委員長の仕事だって、気を紛らわせるなら役に立つ。
友人とも変わらず付き合っているつもりだけど、どこかぎこちなさが滲みでているのは自覚していた。きっとみんなも気づいているだろうに、なにも言わずにそっとしておいてくれる。
――ひと月、経った。
いまだに名前のことを思い浮かべてしまうのを止められない。
これが遠くに姿を見かけたときだったり、声が聞こえたときだったらまだ当たり前だと思えるのに。
おれの目と脳はだいぶやられているらしく、くのたまの制服を見ただけでってこともあるし、ときには兵助と話しているときだったりするのが困る。
――気持ち的には“まだ”ひと月だけど、引きずりすぎなんだろうか。
名前を思うのと同時に浮上する恋心と、それにくっついてくる痛みはいつ無くなるんだろう。
「尾浜先輩、具合悪いんですか?」
「…………うーん」
クラスの日誌をつけていた庄左ヱ門を見返しながら、ごろりと転がる。
曖昧な返事をしたからか、日誌から顔を上げてこっちを見た彼は“問題なさそう”と言いたげにひとつ頷いて筆を握り直した。
「あっさりしてるなあ、庄左ヱ門は」
「今日は新野先生が不在だそうですから、診てもらうなら善法寺先輩になりますよ」
診てもらいますか?と首を傾げるのを苦笑混じりに遠慮していると、バタバタ廊下を駆けてくる音がして、戸が勢いよく開いた。
「せ、先輩、助けてください!」
転がるように飛び出てきた彦四郎の声で跳ね起きる。
急いで近寄れば、息を切らせたままの彼に袖を掴まれた。
「伝七が、はやく、おねがいします」と彦四郎の言葉からは焦りと混乱が伝わってくるけれど、逆に言えばそれしか伝わってこない。
「彦四郎、落ち着け。いま状況を説明できるのはお前だけなんだよ。伝七がとうしたって?」
「すみ、ません。……さっき、苗字先輩が、倒れて、」
「!? どこだ!?」
「校舎と、食堂のあいだにある、渡り廊下です!」
「わかった、医務室連れて行くから善法寺先輩に連絡頼む!」
落ち着いて説明を、と求めたくせに自分がこのザマだ。
自嘲しながら呼吸音と荒く脈打つ心臓の音だけを耳に入れて、ただ走る。
くだんの場所に駆けつけると、俯いた状態で蹲っている名前と、膝をついて彼女を支える伝七が見えた。
「名前!伝七!」
「お、おはま、せんぱい……」
弱りきった声を出す伝七は、今にも泣き出してしまいそうだ。
励ますように肩を軽く叩いてから、伝七とは逆側にしゃがんで名前の様子を窺う。目を閉じている彼女の顔は青白く、頬には真新しい擦り傷ができて薄く血が滲んでいた。
「名前、医務室いこう」
「……かんえもん?」
「うん。立てる?倒れたって聞いたけど痛いところは?」
聞きながら覗き込むと、ぼんやりしていた瞳が焦点を結んでおれを映す。
――なんだか、様子がおかしい。
「名前?」
「痛いってことは、夢じゃないんだ」
かろうじて拾った声は掠れていて、どこか虚ろで……名前自身、言葉にする気がなかったのかもしれない。
ずっと不安そうにしている伝七が名前とおれを交互に見て、迷った末に手ぬぐいを取り出しながら名前を呼んだ。
「苗字先輩、あの、これ……ほっぺた、血が出てますから」
「え、出てる?」
あ、と思わず声をだす。
名前は無造作に自分の頬――そこにあった傷をこすり、痛みをこらえるように目を閉じながら眉根を寄せた。
「尾浜先輩、僕先に医務室に行って苗字先輩のこと伝えてきます」
「それなら、さっきおれから彦四郎に頼んだぞ」
「一応、です。苗字先輩、膝も痛いはずですから気をつけてくださいね」
「……うん」
覇気がない名前の返事を聞いて、伝七の表情が一瞬泣きそうに歪む。やっぱり、彼女の様子がおかしいのは気のせいじゃないらしい。
伝七は、彼の手ぬぐいを握りしめたままぼうっとしている名前の手をぎゅっと握ってから、おれに向かって「苗字先輩をお願いします」と念押しして医務室の方へ走っていった。
名前へと向き直り、どう声をかけようか迷っていたのに。ぽろぽろ涙をこぼす彼女を見た途端、なにもかも吹っ飛んだ。
「ど、どうした!?痛い?」
「――勘右衛門、あのね」
小さな声を聞き漏らさないよう耳をそばだてていると、なんだか懐かしさを感じる呼びかけが聞こえた。
相槌を打つと嬉しそうに笑ってくれる。その表情を見るのが好きだった。おれが、彼女に恋をしたきっかけ。
兵助の話題に直結しているそれを言われなくなって久しくなった今、ちらりと“聞きたくない”と思ったくせに……どうやらおれは、名前が話すのをやめてしまう方が嫌だったみたいだ。
「なあに?」
自分で認識するよりも早く、先を促す返事をしていた。
泣いている彼女を前にしているからなのか、今までもこうだったのか――甘やかすような響きがある、なんて他人事みたいな感想が浮かんだ。おれ自身のことなのに。
名前はわずかに目を見開いたかと思えば微かに首を振る。顔を青くした彼女からは謝罪の言葉が聞こえた。
案の定、兵助に関する内容だったんだと察すると同時に、気遣われたことにも気づいてしまう。
変わらない彼女を見て嬉しいような寂しいような、複雑な感情が湧いて微かに苦笑が漏れた。
「言いかけでやめられるほうが気になるけど……とりあえず医務室行こうか」
先に立ち上がり、迷った末に彼女の手を取って引き上げる。
しっかり握り返してくれたことが泣きそうなくらい嬉しいなんて、名前は知らないままでいてほしい。
数歩進んで振り返っても、彼女はその場から動かず「行きたくない」と呟いて渋る様子を見せた。
おれと一緒なのが気まずいのかもしれないけど、置いていくわけにはいかない。彦四郎の言うとおり倒れたのなら行くべきだし、頬の怪我を放置するのもよくないだろうし、庇うように自身の腕を掴んでるのはそこが痛むからだろ?
「……彦四郎も伝七も、名前を心配してたよ」
おれの言葉に反応して肩が小さく跳ねる。下級生に弱くて甘い彼女のことだ、彼らに心配をかけたくないなら動いてくれるはず。
「それに、おれ名前のこと伝七から頼まれちゃったし」
ダメ押しのように付け足せば、名前は自身の肘のあたり――装束をぎゅっと握ってから顔をあげ「わかった」と諦めたように呟いた。
頬についた擦り傷が思いのほか目立っていて、見ている方が痛い。もし許される立場にあるなら、いたわるように触れて応急手当をするのに――“友達”としての範囲が、もうわからない。
「手、貸そうか?」
「……だいじょうぶ」
ありがとう、と付け足す名前の言葉で、また胸がうずく。いっそのこと抱き上げて運んでしまいたい。
湧いた気持ちを抑え込み、のろのろ歩き出した彼女に気付かれないように小さく息を吐いた。
医務室への道を先導しながら進み、ときおり彼女がついてきているかを確認するために振り返る。
名前はかろうじて進んでいるものの、気もそぞろで今にも崩れてしまいそうな……どこか危うい雰囲気があった。
――勘右衛門、あのね。
彼女の様子についての答えは、きっとあの呼びかけの続きにある。
気になるくせに、聞くのが怖くて声をかけることさえできないなんて。
(……こんなはずじゃなかったのに)
内心はどうあれ、彼女と遭遇したときはもっと平然と――思いを告げる前のように、向き合えると思ってた。
(けっこう自信あったんだけどな)
ままならないなあ、と溜め息をつきながら、彼女に合わせて速度を緩めた。
たどり着いた医務室では、声をかける前に戸が開いた。
彦四郎と庄左ヱ門と伝七と、それから保健委員が勢ぞろいしている室内は少し圧迫感がある。
「名前……また怪我したのかい?」
びくっと肩を揺らし首をすくめる名前に、善法寺先輩は「まったく」と溜め息混じりに言いながら自分の前に彼女を座らせる。すでに彦四郎と伝七から名前の状態を聞いていたのだろうが、前フリなく彼女の袖をめくりあげるのは心臓に悪いからやめてほしい。
「そんなに酷くないね、かすり傷だ。塗り薬をあげるから、膝も怪我してるなら後で自分でやってね。ほら、こっち向く。なに?痛い?はいはい、痛みよ去れー」
傍から聞いていると善法寺先輩の対応はかなり雑だ。
痛みを逃がす“おまじない”なんて効果がまるでなさそうな棒読み加減だった。
名前の治療中、彦四郎がおれに助けを求めに来た経緯を聞いた。
立花先輩が不在で委員会が休みになったという伝七と一緒に歩いていたこと、途中で遭遇した名前の様子がおかしかったこと。声をかけたら笑って応えてくれたけど、話をしている途中で倒れたこと。
名前はすぐに起き上がったものの、驚いた一年生二人は助けを求めたほうがいいと結論づけたらしい。
そこで彦四郎が思い浮かべたのがおれと三郎だったようだ。きっと委員会に向かっている最中だったからだろう。
三郎は今日忍務で居ない。偶然だろうけど、立花先輩と新野先生も同時に居ないとなると、なにか大きな事件でも起きているような錯覚を起こした。
「――はい、終わり」
「ありがとうございました」
二人の声にハッとして振り返ると、名前は既に立ち上がって退室するところだった。
善法寺先輩が慌てて彼女の手に薬を握らせ、気遣わしげになにかを告げている。頷く名前の表情は見えなくて、わけもなく不安感に襲われた。
「名前!」
「びっくりした……なあに?」
「お、おれ、送ってく」
「一人で平気だよ。勘右衛門はまだ委員会中でしょう?」
微笑んで答える彼女の笑い方に違和感があるのに、それを言われると動けなくなる。
そんなおれに助け舟を出してくれたのは、庄左ヱ門と彦四郎だった。
「苗字先輩、尾浜先輩は部屋でゴロゴロしていただけなので、しばらく不在でも大丈夫ですよ」
「また途中で倒れたら大変ですし、伝七だって心配で泣いて――痛い!」
「な、泣いてない!余計なこと言うなよ彦四郎!苗字先輩、僕泣いてませんからね!」
庄左ヱ門の余計な一言は黙殺し、なにか(おそらくは断り文句)を言いかける名前を促しながら外へ出る。
諦めがついたのか、苦笑をこぼした名前は「ありがとう」と律儀に口にしてから隣に並んでくれた。
「かすり傷ならすぐ治りそうだね」
「うん」
「あっさり出てきちゃったけど、体調はいいの」
「だって転んだだけだもん」
「……倒れたんじゃなくて?」
「転んだの」
ただ転んだだけなら、あんなに彦四郎と伝七が動揺するわけないのに。
明らかに嘘をついている名前は、それを善法寺先輩のところでも押し通したんだろう。退室するときの様子を思い出しながらこっそり様子を観察していると、時々腕のあたりに触れて痛みをこらえるように目を閉じていた。
「運んであげようか」
「へ…き…」
「でも痛むんだろ?おれだから遠慮したい、って言うなら別のやつ……兵助に、頼む?」
「だめ!!」
一瞬ためらってしまったものの、兵助の名を口にできたことにホッとしたはずが――名前の激しい拒絶に驚いて数回瞬く。
彼女は自分の声の大きさに戸惑うように口元へ手をやって、浅く呼吸を繰り返していた。
「名前?」
「だい、じょうぶ……だから、久々知くんは、よばないで」
震える声で、かろうじて聴きとれる程度の音量で告げた名前は、口元に添えた手のひらを握りしめると「もうここでいい」と呟いた。
少なからず動揺していたおれは、それがおれを遠ざけるための言葉だと気づきながらも彼女に近づいてそっと肩に触れる。
びくりと大きく身体を揺らした名前がはじかれたように顔を上げ、その両目から涙をあふれさせた。
慌てて顔を俯ける名前が息を詰める。急に動いたせいで、先ほどから庇っている腕が痛んだのかもしれない。
「……名前、もう少し歩けるならこっちきて」
「でも、」
「無理に聞いたりしないよ。けど、このままでいると目立つだろ?」
彼女の泣き顔を見るのは苦しくて、動悸が激しい。
なにがあったのか問い詰めたくなるのを必死に堪えて、脇道へと誘導した。
「おれにしてほしいこと、なにかある?」
もの言いたげについてきていた名前に向き直りながら言うと、彼女はぐっと息を詰めて迷うそぶりを見せた。
赤くなったままの目元と、浅い呼吸。 いまにも泣き崩れてしまいそうで、目を離した瞬間いなくなってしまうんじゃないかって不安がまとわりついている。
(そんなわけないのに)
馬鹿げた考えだと否定しながらも、落ち着かない気持ちで名前を見つめた。
「かんえもん………」
「うん、なあに」
「はなし、きいて……」
「……もちろん、聞くよ。 おれ、やだって断ったことないだろ?」
軽く聞こえるように意識して言えば、名前は張り詰めた空気を少し緩めて 「そうだね」と同意してくれる。
そのまま何度か言いにくそうに唇を開閉させたあと、ぎゅっと口元を引き結びおれをまっすぐ見た。
なにかをお願いするときの名前の瞳は真剣で、綺麗だ。 それを見返しながら、ああ、こういうところも好きだったなぁ、なんて場違いなことを考えていた。
「今から話すこと、久々知くんには、言わないで」
「……ん?」
「な、泣いてた、 ことも……内緒にして」
いつもとは趣が違う内容に戸惑いながら、既に潤み始めている瞳に気圧されるように頷く。
じっと黙ったままの彼女に改めて 「約束する」 と告げると、名前はほっと息を吐いた。
おれだけの特権を喜ぶ気持ちと、兵助への羨ましさが混じりあって苦しい。
そんな葛藤を抱えるおれの姿を映したように、彼女の表情も苦しげに歪む。 名前は仕切りなおすようにゆっくり目を閉じたけれど、その拍子に涙が転がり落ちていくのが見えた。
「……ふられちゃった」
ほろりとこぼれた音が理解できなくて、地面にできた彼女の涙の跡が少しずつ増えていくのをただ眺めていた。
「――え?」
間抜けにも一音しか出てこない。 だって、 名前が何を言っているのか全然わからないんだ。
それはおれの中で一番あり得なかった言葉で、 未来で、可能性だった。
起きたまま夢を見ているんじゃないかと逃避しかけるおれを引き戻すように、名前のしゃくりあげる声が聞こえる。
「ずっと……と、とも…友達で、いたい、って」
「名前、」
「私のこと、大切だって。 みんなと、同じくらい……女の子の中で、一番好きだって。でも、だから…だから、友達でいたいんだって……私、 “わかった” って 言ったよ。 ちゃんと、 笑って、 ありがとうって、いえた」
「名前!」
衝動のままに彼女を抱きしめて、言葉を遮る。
見ていられなかった。 まるで“褒めて”と言いたげに告げる名前の話を聞き続けるのがつらかった。
装束が引っ張られる感覚を受けながら奥歯を噛みしめる。そうでもしないと、つられて泣き出してしまいそうだったんだ。
「ともだちなら、 ずっと……みんな、みた…いに、ずっと、仲良しでいられ…かもしれな…けど、」
「……うん」
「でも……っ、 わたし、 わたしは…」
「うん」
――よく、 わかるよ。
腕の中に名前を囲い込んで、ただ相槌を打つ。
じわじわと肩の辺りが濡れていくのと、時折揺れる身体と、たえず聞こえる涙声が、おれの涙腺を刺激する。それを無理やり押さえ込んでるせいで、喉の奥が熱くて痛い。
兵助の前では “いい子” を保ってたみたいだけど、その本音をぶつけて困らせてやればよかったのに。
+++
「……ごめんなさい」
「別に謝ることないのに。名前は帰ったらどうするの?家の手伝い?花嫁修業?」
「とりあえずお見合い行かされると思うから……嫁ぐのかなぁ」
「……。……それってさ、相手は誰でもいいの」
「うん。だって、どうせ……」
「じゃあ、おれでもいいよね?」
「――え?」
「だから、 誰でもいいならおれでもいいでしょ?」
「だ、だめ。 勘右衛門は、 だめ」
「それじゃあ、名前が誰かのものになるのを黙って見てろってこと?おれはね名前、兵助だから…名前と兵助が好きだから、二人が一緒にいるのが好きだったから……だから、引いたんだよ。 なのに…なんで……」
「か、かんえもん、泣かないで」
「名前のばか」
雨の日オムニバス【滝夜叉丸編】
※滝夜叉丸視点
朝に確認した天気予報どおり、今日は昼から雨が続いている。
当然、この平滝夜叉丸に抜かりはない。
自らがデザインした傘が使える機会とあって、それを逃すような愚行を犯すはずがないのだ!
「はーっはっはっは!」
「滝夜叉丸うるさーい」
「いいところに来たな名前!どうだ、私の傘は!!」
スイッチひとつで広がる傘を見せながら言えば、数歩遅れて隣に来た名前はじっと傘を見て「派手だね」と一言こぼし、自らのカバンに手を入れた。
「それだけか!?もっとあるだろう、ほら!美しいとか、かっこいいとか、さすが滝夜叉丸、とか!!」
「さすが滝夜叉丸、スゴーイ」
「そうだろう、そうだろう!」
視線をカバンの中に固定したままの名前を横目に頷いていると、急に彼女の雰囲気が変わる。
その場にしゃがみ、カバンの口を大きく開けるものだから中身が見えてしまった。
この滝夜叉丸ともあろうものが女性の持ち物を無断で覗くとは――
「うそ、ない」
「……なんだ?なにが無い?」
「……かさ」
「傘?いつから無いんだ?朝はあったのか?」
自分の傘を閉じつつ、呆然とする名前の隣にしゃがむ。
動かない彼女の代わりにカバンを閉めてやりながら聞けば、名前は眉間にしわを寄せ記憶を探っているようだった。
「天気予報を見て用意はしたの」
「ふむ」
「で、朝……寮を出る時間は降ってなかったよね」
「そうだな」
「……机の上に出したままかも」
「お前な……確認して、無かったらまた明日言え」
学園内で女生徒の持ち物が紛失となれば、不審者が侵入した可能性も考えられる一大事だろう。
しかし、これは名前のうっかりの可能性のほうが高い。緊張を解いて溜め息を吐き出すと、名前は神妙な顔で頷いてから私を見た。
「……なんだ?」
「いつもそうならかっこいいのに」
「な、名前、今なんと!?」
「なんでもなーい」
笑って踵を返す名前の背を見送りかけ、慌てて引き留める。なぜわざわざ校舎内へ戻っていくんだこいつは。
「だって傘借りてこなきゃ帰れないでしょ」
「その点は問題ないだろう!なぜなら、ここに私の傘がある。特別に入れてやっても」
「けっこうです」
「なぜだ!?」
「紫のラメはちょっと……」
「美しいだろう」
「……滝夜叉丸には似合ってると思うよ」
「それは当然だ!――ではなく!!」
「ん?」
不思議そうに見返してくる名前に言葉を詰まらせたのは、言おうとした内容が自分で理解できなかったからだ。
――もし違う色だったら、断らなかったのか。
それを聞いてどうしようというのだろう。
もしも頷かれたら、私はこの傘を持っていたことを後悔するのだろうか。
「滝夜叉丸ー」
「…………む?」
目の前でひらひら動く手のひらに焦点を合わせると、名前が横から覗き込むようにしえ手を振っている。
逆の手には、使い古しの白いビニール傘が握られていた。
「どうしたんだ、それは」
「通りすがりの食満先輩が貸してくれた。用具で管理してるやつだから一本持ってけって。ラッキー」
借りに行く手間が省けた、と嬉しそうに言う名前が傘を開いて雨の下へ出ていく。
少しの汚れとくすんだ色は彼女には似合っていないと思う。
「滝夜叉丸ー、早く帰ろ」
室町の夢を見る現パロ久々知
※久々知視点
――ああ、これは夢か、
ふいに、そう自覚することがある。明晰夢と言ったか、その辺は興味がないから朧げだが、今見ている景色は間違いなく夢だった。
目の前にいる人物の輪郭があやふやで、うっすらと白いフィルターがかけられたように色味すらぼやけている。
かろうじて、目の前にいるのが着物姿の女の子だとわかる程度だ。
彼女が自身の胸元を握る右手には結構な力が込められているようで、ぎゅう、と音が聞こえてきそうだった。
(……名前?)
妙な既視感とともに、反射的に呼ぼうとした名は音にならなかった。それどころか、自分の口が動かない。
やきもきしながら手を伸ばそうとしたのに、それもできない。
これは、夢だから。自在に動けることもあるが、今回は干渉できないタイプなんだろう。
「――ごめん」
傍観するしかないのかと力を抜いた途端、自分の強張った唇が震えて勝手に言葉を紡ぐ。彼女の右手にはさらに力がこめられて、微かに頷いたのがわかった。
「苗字のことは、嫌いじゃないんだ。あいつらといるときと同じくらい楽しいし、ずっと仲良くしていたい」
「…………うん」
「……友達じゃ、駄目か?」
自分の口から飛び出た言葉に理解が追いつかなくて、妙に息苦しい。悪夢かこれは。
よく見れば彼女は俺の知っている彼女よりもいくらか幼いし、時代劇のような着物を着こなしているし、というか、なんだ“苗字”って!
そんな呼び方高校時代に置き去りにしてきたぞ!?
絶賛混乱している俺をよそに、場面は進む。
一呼吸おいて、俯きがちだった彼女の顔が上がる。
困ったように下がった眉と、なにかを言おうと微かに開いた唇が目に入り、自在にならないこの身体に無性に腹が立った。
今声を出したら名前は泣く。それがわかるのに、なにもできない。
どうして俺の腕は動かないんだ。名前が泣きそうなのに。どうして。
「ありがとう、久々知くん」
「苗字、」
「いっぱい、考えてくれたの、嬉しかった」
声が震えないように、しゃくりあげるのをこらえるように、懸命に押さえ込んでいるのがかえってつらい。
彼女の呼吸は浅く、時折ぐっと息を止めている。その様子から息苦しさが伝播して喉を掻きむしりたくなった。悪夢だ、こんなの。
「でも……、わたし……」
ついに瞳からあふれた涙がこぼれ落ちていく。
足元がぼやけているせいで涙の行方は追えず、止まらないそれを強引に止めようとする彼女に手を伸ばしたところでブツン、と思考が落ちた。
がばりと身体を起こしたことで、自分は横になっていたのかと遅れて自覚する。息が苦しくて口元に手をやったものの、心臓の音がうるさくて落ち着かない。
一度大きく深呼吸をしてから瞬いて、枕元にあるライトを着けた。 視界に映るのは見慣れた自分の部屋だ。時刻は午前4時。傍らにはぐっすり寝入っている俺の――
「……なまえ」
手を伸ばし、指先で彼女の前髪を梳く。
あらわになった顔と夢の中の彼女が重なって、覆いかぶさるようにして彼女を抱きしめた。
むずがって微かに声を漏らす名前は温かくて柔らかい。そんな当たり前のことにほっとする俺は、どれだけ身体を緊張させていたのかと笑いたくなった。
「名前」
「んー」
「なまえ……」
「……んぅ、」
夢心地のまま返事をする名前の頭に頬を擦り寄せ、より強く腕に力を入れる。
冷静な部分では、こんな早朝に彼女を起こすのは可哀想だと思っているのに、起きてほしいという要求のほうが強いから止まれない。
腰に腕を回してがっちり抱え込むと、肩のあたりを指が這う感触があった。
「……へーすけくん?」
「名前」
「どうしたの」
寝起きそのままの声は小さく掠れていて、戸惑いに満ちている。
だけど理由をうまく説明できず、そのままでいると彼女の手が後頭部に触れた。
「兵助くん」
「……ん」
「ね、すこし場所かわって」
先ほどよりもはっきりした言葉遣いに思わず名前を覗き込む。彼女は半分寝ている雰囲気をまとったまま、俺の背に触れた。
寝巻き代わりのシャツが軽く引かれたことに意識をやる前に、名前の額が俺の肩を押してくる。くすぐったさに吐息が漏れて、衝動に突き動かされるまま彼女を抱きしめた。
むぐぅ、とくぐもった声が聞こえる。なまえ、と反射的に呼べば、背中に回った腕に力が込められるのが嬉しい。
「名前、ちょっと昔みたいに呼んで」
ふと思い立ったことを頼むと、名前は疑問符をたくさん飛ばしながら、くくちくん?と若干ぎこちない雰囲気で俺を呼んだ。
わんこへ!書きかけ
※七松視点
裏山から下山したその足で飼育小屋へ立ち寄ると、まだ活動中と思われる生物委員が忙しなく動き回っていた。
目の前を横切っていく一年生から飛んでくる挨拶に応えながら視線を動かせば、忍犬が固まっている辺りに目的の桃色を発見した。
「名前!」
びくっと肩を揺らしたのを確認し、こちらを振り返るあいだに駆け寄って柵を飛び越える。
先輩、と咎めるような声を聞きながら名前の隣に着地すると、あからさまにホッとした顔をしてみせた。
もしや、わたしが犬のど真ん中に飛び込んでいくと思われていたのだろうか。
表情の理由を聞こうかと思ったが、それよりも名前の周りに集まっている犬たちがなにかの順番待ちをしているように見えたのが気になった。
「これ、なにしてるんだ?」
「生物委員の手伝い、です……たぶん」
「たぶん?」
「いつの間にかこの状態だったんですよ」
苦笑する名前はちらりと待機している犬たちを見て、自らの膝に乗り上げている一匹を撫でた。
その手には動物用の櫛があり、順番待ちの理由はこれかとその動きを観察した。
ゆっくりと上から下へ。気持ちがいいのか、名前の膝に乗っている犬は目を閉じていて時折鼻先を名前の手に押し付けたり、物足りないと言いたげに鼻を鳴らした。
「ところで、先輩は委員会帰りですか?」
「…………ん?」
じっと犬を観察していたせいか、なにを聞かれたのかすぐには理解できずに名前を見返す。
名前はゆっくり瞬くと、小さく笑いながらわたしのほうへ手を伸ばしてきた。
「擦り傷できてますよ」
傷があるらしい場所を外して頬を撫でていく(痛くなかった)指先を感じながら名前を見る。
不思議そうに見返してきたかと思えばハッと息を呑み、今にも立ち上がりそうな身体を引き留めるために腕を掴んだ。
「ごごごごめんなさい!」
「名前から触れてくれるとはなあ」
「いやいや、全然、まったく意識してなかったので!そこは流していただけると……」
じわじわ顔を赤くしていく名前を見ていると、勝手に頬が緩む。
無意識だなんて、それこそ距離が縮まっている証拠だろう。この調子でどんどんわたしに慣れていけばいい。
「なあ名前」
「……はい」
「わたしにもそれ、やってくれ」
櫛を通され、気持ちよさそうに名前の膝上でくつろいでいる犬を指差しながら言えば、名前は目を丸くして固まった。
暇をもてあました五年生の遊び2 50万打
・童話を演じて遊ぶ五年。細かいことは気にしない人向けです
・基本的に皆フリーダム ・オリジナリティはほとんどありません
【出演】
男の子(カイ) / 王子:苗字名前
女の子(ゲルダ):久々知兵助
雪の女王:尾浜勘右衛門
悪魔 / 王女:鉢屋三郎
悪魔 / 盗賊の娘:竹谷八左ヱ門
語り部:不破雷蔵
参考(青空文庫):https://www.aozora.gr.jp/cards/000019/fi...
暇をもてあました五年生の遊び -雪の女王-(1)
ある日のこと、悪魔はずいぶんとご機嫌でした。それというのも、試行錯誤を重ねた鏡がついに完成したからです。
彼は鏡を手に堪えきれない笑いをこぼすと、鼻歌混じりに友人のもとを訪れました。
「おい八、お前にいいものを見せてやろう」
「また悪戯用のおもちゃか?失敗作ならいらねぇよ」
「なにを言う、失敗作を渡したことなんてないだろうが」
「使った俺にまで影響するようなもんばっかだろ!」
「馬鹿だな、それはわざとに決まってるだろ。それよりこいつを見ろよ」
悪魔の友人は、彼のさらりとした告白に顔を引きつらせましたが、ご機嫌な悪魔はそれを全く気にすることなく持っていた鏡を見せました。
「なんだこりゃ」
「いいか、これに映ったものはすべてが歪んで見えるんだ」
得意気に説明を始める悪魔でしたが、友人は怪訝そうに眉をひそめただけでいまいちわかっていない様子でした。
それに気づいた悪魔は溜息をつき、やれやれと零しながら友人の肩を叩くと実際に彼を鏡に映したのです。
(……なあ、さっきから雷蔵の読みあげてる私って相当性格悪そうじゃないか?)
(悪魔なんだし丁度いいだろ。大丈夫だって、普段と大して変わってねぇから)
(八左ヱ門、それはフォローでもなんでもないからな!?)
「いいから鏡寄こせよ」
映し出された友人の顔は憎々しい笑みを浮かべ、ただでさえぼさぼさの髪が一段と酷い状態に見えました。
悪魔の作りだした鏡は、清く美しいものほど薄く…ときには見えなくしてしまい、醜いものほど大きく強調されてしまうのでした。
「…………ほんとこういうくだらないこと好きだよな」
「くだらないとはなんだ。これを一年…じゃない、天使連中に見せてみないか、絶対面白いから」
「……まぁ、気になるけど……お前はどう映るんだ?」
興味をもった友人は鏡に悪魔を映そうとしましたが、彼は友人の動きをのらりくらりとかわし、まともに取り合いませんでした。
「おいやめろ、もし私の姿が映らなかったらどうする」
「絶っ対ないから安心しろ!」
しばらくお互いに鏡を押し付け合っていた二人ですが、ふいにその手から鏡が滑り落ちてしまいました。
地上へと叩きつけられた鏡は何千万、何億万、それ以上の数に細かく砕けて飛んでしまったのです。
「あーあ…どうすんだよ」
「やってしまったものは仕方ないだろう。かけらの効果なんて鏡以上に興味深い。人間に入ったらどうなるか見に行こうじゃないか」
反省するどころか喜々として友人を誘う悪魔に、友人は肩を竦め「さすがだな」と言いながら笑うのでした。
かくして下界へ降りた二人が見たかけらの効果は、鏡の持っていた不思議な力がそのまま反映されたものでした。
かけらが目に入ってしまった人は物事を悪い方にだけ捉えて見るようになり、心臓に入ってしまった人はその心を氷のかけらのように冷たいものにしてしまいました。
「こりゃあいいな、しばらくは退屈しなくて済みそうだ」
いたるところで起こる騒動を面白がった悪魔は大笑いをし、ますますご機嫌になりました。
地上に飛び散ったかけらの中には、未だに空を漂っているものもありました。
――さて、ここからが今回のお話の始まりです。
暇をもてあました五年生の遊び -雪の女王-(2)
あるところに、男の子と女の子がいました。
二人の家は向かいどうしに建っていて、彼らはまるできょうだいのように毎日仲良く遊んでいました。
中でもお気に入りだったのは、家の近くに生えている樹の下で一緒に本を読むことでした。
ある日、女の子が家から持ってきた絵本を見せると、男の子は嬉しそうに笑って「読んであげる」と言いました。
「……あのね、久々知くん」
「ん?」
「ちょっと近すぎるかなーって……」
「この方が絵も見やすいだろ?」
「隣でも十分なんですが」
――このままでは話が進まないと女の子の言い分を無視した男の子は、彼女を抱えたまま本を開きました。
「ちょっ、(不破くん!?)」
「じゃあ読むぞ。『昔々あるところに――』」
そうして穏やかに日々が過ぎ、冬がやってきました。
さすがに外で過ごすには寒すぎるので、二人の遊び場は自然とお互いの家の中になりました。
こんこんと雪が降りしきる中、窓から外を眺めていた女の子が男の子を呼びました。
「雪の中にも女王蜂がいるって話、知ってる?」
「女王?」
「うん。たくさん降る雪の中にまぎれてて、真夜中になると通りすがりに家の中を覗いていくんだって」
「働き蜂の候補でも探してるのかな」
「……そうかもしれないね」
ぽつりと呟いた女の子がまた窓の外を眺めます。
男の子は不安そうな彼女を抱きしめると、安心させるように「大丈夫」と言いながら、優しく頭を撫でるのでした。
「名前、なんなら今日は泊っていっても」
「も、もう遅いから!帰るね!」
「……残念」
………………えー、男の子に家まで送ってもらった女の子は、彼からの言い付け通りぴっちり戸口を締めきると、再び窓の外へと視線をやりました。
ちらちらと雪が舞うのを見ていると、不意に大きな塊が窓辺に落ちました。気のせいかと思った女の子は何度も目を擦りましたが、塊はみるみる大きくなって一人の男の子になりました。
年のころは女の子と同じくらいでしょうか。真っ白い着物に身を包んだ彼は、女の子と目が合うと優しく笑いました。
しかし、よく見てみると彼の身体は氷でできていたのです。
「だ、誰…?女王様のおつかい?」
女の子は思わずたずねましたが、氷でできた少年は何も答えてはくれませんでした。
二つの丸い目を細めて笑う少年が女の子に向かってゆっくりと手招きしました。微かに動いた唇は“おいで”と言っているように見えました。
女の子はびっくりして、窓から素早く離れると布団をかぶって丸くなり、魔除けの呪文を唱えながらきつくきつく目を閉じました。
翌日、女の子の様子にただならぬものを感じた男の子はそのことを問いかけましたが、女の子は「私は何も見てない」の一点張りで少しも話そうとしませんでした。何度聞いても同じ答えしか返ってこないため、とうとう男の子は諦めてしまいました。
男の子と遊ぶことで気を紛らわそうとしている彼女を見てとった彼は、彼女に合わせるように毎日を過ごすことにしました。
春が来て夏が過ぎ、いつしか女の子の記憶から不思議な出来事はすっかり消えていきました。
そうして、いつかと同じように一緒に本を読んでいた二人でしたが、ふいに女の子が小さく声をあげ胸を押さえました。
「どうした?」
「…なんだろ、ちくっとした。目にも何か入ったみたい」
目を擦ろうとしていた女の子を止めると、男の子は慌てて女の子の顔を抱えるようにして自分の方に向けました。女の子はびっくりした顔で何度も目を瞬かせます。
「っ、久々知くん」
「もっとよく見せて。砂ぼこりかな…まだ痛いか?」
「い、痛くないよ、平気」
女の子は首を振って男の子に返しましたが、彼女の目に入ったのは悪魔の作りだした鏡のかけらだったのです。
かわいそうに、心臓の方にも入り込んだかけらは、近いうちに氷の塊になってしまうでしょう。
心配そうに女の子を見ている男の子を見返しているうちに、女の子はなぜか苛々した気持ちになりました。
男の子の手を振り払うと立ち上がり、急に冷たい言葉を発しました。
「………………、」
男の子の手を振り払うと立ち上がり、急に冷たい言葉を発しました。
(……いいよ名前)
「…………ッ、さ、触らないで!」
「ごめん」
「な、なんともないって、見てわからない?」
ふと二人で読んでいた絵本を見下ろした彼女は、馬鹿にしたように笑い、あろうことかそれを破ろうとしました。
男の子は彼女の手を掴んで絵本を取り上げましたが、女の子はすでに絵本への興味を失ったようでした。
「名前」
「……それ小さい子が読むものだもんね。もう私には必要ないから久々知くんにあげる」
男の子の顔を見ないまま、彼を押して距離を取った彼女は微かに笑いました。
それっきり振り向きもせずにその場から立ち去ると、男の子と遊ぶことすらやめてしまったのです。
それからの女の子の行動は、彼女を知る人にとっては信じられないことばかりでした。
近所の子供たちとも遊ぶのをやめ、隙を見ては悪戯を仕掛けるようになりました。
元々の可愛らしい微笑みや素直さはなりを潜め、人の揚げ足を取るようになり、日に日にひねくれた言動や憎らしい笑顔を見せるようになったのです。
男の子はあれから彼女に避けられ続けていましたが、冬のある日、ついに耐えきれなくなり女の子に詰め寄りました。
「名前、なにがあったんだ」
「…別になにもないよ?」
「ないはずないだろ。最近の名前は絶対おかしい。前はそんな笑い方」
「じゃあ変わったんじゃないかな。久々知くんが知らないだけで、私はずっとこうだったんだもん」
「……矛盾してるだろ。俺は、」
「あ。私、呼ばれてるんだった。そりに乗せてあげるって誘われたの」
「名前!」
男の子の話をまともに聞こうとしない女の子は途中でひらりと身を翻し、遊びに駆け出してしまいました。
女の子が呼ばれた先の広場には、一台の大きなそりがありました。
女の子は真っ白でとても綺麗なそりを一目で気に入ると、持ち主に断る前に乗り込んでしまいました。
「…気に入った?」
「ええ、とても。綺麗だし、すごく速そう」
女の子の返事にくすりと笑いをこぼしたのは、持ち主と思われる人でした。
白くてふさふさの毛皮で包まれて、頭まで覆っているため顔はよく見えません。
女の子は悪戯心を起こして顔を見ようしましたが、毛皮を掴んだところでさりげなく手を外されてしまいました。
「おれのことより、そりの方が面白いよ」
「…それもそうだね。走らせてくれるの?」
毛皮から覗く口元が笑ったかと思うと、そりが音もなく滑り出しました。
少しずつ速度を上げていくそりに、じわじわと恐怖心が浮かんできます。
女の子はそりを止めてくれるように頼みましたが、ゴウゴウと吹く風の音の方が大きくて女の子自身にも声は聞こえませんでした。
いつのまにか降り出した雪が顔にぶつかり、目を開けていられなくなりました。終始吹きつける冷たい風のせいで息もままなりません。
すがるように隣に座る人の毛皮を掴むと、ようやくそりの速度が落ち始めました。
「ごめんごめん、君がか弱い人間だってことすっかり忘れてた」
笑いながら、毛皮を頭から下ろした相手の姿を見て、女の子は思わず息を止めました。
すっかり記憶から消え去っていましたが、彼はいつかの冬の日に見た、氷でできた男の子でした。
「震えてる。寒い?」
「…………」
「そりゃそうか。ほらこれ着て。もっとこっちにおいで」
氷でできた少年が自分の着ていた毛皮を女の子に被せると、彼女はいっそう震えあがり、歯を鳴らしました。
まるで雪の中に埋められたようだと思いながら手足を縮める女の子を、少年は面白そうに見ていました。
「まだ寒いの?」
すかさず頷く女の子の肩を抱いた少年は、女の子の額に――――ちょ、ちょっと兵助、邪魔だからあっち行ってて。乱入禁止だから!
(…………やっぱりなー)
(勘右衛門、近過ぎ)
(そういう筋書きだし。おれ頑張っちゃうタイプだから)
(…早く終わらせたいよ)
(なら名前も頑張んないとね)
…まったく…………えっと、氷の少年は震える女の子の肩を抱き寄せ、額に頬ずりしました。
女の子はあまりの冷たさに息を呑みましたが、氷の塊になりかけていた彼女の心臓にまで伝わった冷たさは、不思議と寒さを和らげるようでした。
「…あなたは雪の女王様のおつかいなの?」
「ううん、違う」
「じゃあ、女王様?」
「見ての通り、おれ男だから。しいて言うなら王だけど、がらじゃないしなー…ま、そんなのどうでもいいじゃん。この城で、ずーっと一緒に遊ぼうよ」
先にそりから降りた少年は、女の子に手を差し伸べました。
彼の手に触れるのをためらう女の子を見てにっこり笑った少年は、自分から彼女の手を掴むと額にそっと口づけを落としました。
女の子はびっくりした顔で額を押さえましたが、にこにこしている彼に苛立ち、反発するように手を握り返しました。
――こうして女の子は、寒さばかりか大切な男の子のことも、彼との思い出も。故郷のことも、なにもかもをすっかり忘れてしまったのです。
女の子は少年の手を握りながら、そっと彼の姿を目に入れました。
優しく微笑み、女の子を自らの城の中へ誘導する彼は、以前に感じた恐ろしさが全くありませんでした。不思議とキラキラしているようにも見え、無邪気に笑う彼は普通の男の子のようでした。
「――、」
「どうしたの」
「今、あなたを誰かと重ねたんだけど……よく、思い出せない」
「思い出せないなら、それは大したことじゃないんだよ。そんなことよりさ、おれにいろんなこと教えて。君の話たくさん聞きたいんだ」
女の子は少年にいざなわれるまま、いつしか城の奥へと自ら足を踏み入れていったのです。
暇をもてあました五年生の遊び -雪の女王-(3)
あの冬の日に女の子がいなくなってから、男の子は毎日毎晩必死になって彼女の姿を捜していました。
ですが、いくら探しても手がかりを掴むことができないでいました。
彼女が遊びに誘われたという場所へも行ってみましたが、女の子が見知らぬそりに乗ったまま外へ出て行ったということしかわかりませんでした。
きっと彼女は神隠しにあったんだ、近場の川に落ちたんだと周りの人は口々に言って泣きましたが、男の子はそれでも諦めませんでした。
進展のないまま冬が過ぎ去り、春になりました。
二人が住む村の中や近隣には、これ以上の情報を望めないと思考を切り替えた男の子は旅に出ることにしました。
「名前は絶対、俺が見つけて連れ帰る」
簡単な身支度を整えた男の子は川辺を進み、太陽や花や様々な動物の声に耳を傾けましたが、なかなか女の子の話は聞けません。
故郷から離れてどれくらい歩いたか、季節はまたも移ろいでいきました。
歩きつかれた男の子が一息つくために座り込むと、そこへ一羽のカラスがやってきました。
カラスは男の子の頭上を旋回し、たった一人でどこへ行くの、と尋ねました。
行くあてなど定まっていない男の子です。疲れたように笑い、「さて、どこだろう」と謎かけをするように返しました。
空振りかもしれないと思いながらも、男の子は女の子について尋ねずにはいられません。
女の子が雪の日に消えたこと、ここまで旅をしてきたこと、彼女の特徴についてをつらつら話し終えるとカラスはぴょんと跳ね、見たかもしれない、と言いました。
「見たのか!?」
男の子があまりに勢いこんで詰め寄ったので、カラスは一度羽ばたいて男の子が落ち着くのを待ちました。
再び近づいてきたカラスが言うには、“王子様のところに嫁いできた女の子がそうじゃないか”とのことでした。
予想外の情報に男の子は眉をひそめましたが、今は少しでも手がかりが欲しかったので、カラスの言う“王女様”の姿を見るためにお城へ向かうことにしました。
カラスが教えてくれたのは、賢い王子様が治めていると近隣でも評判のお城でした。
当然警備も厳重で入り込む隙もないように思えましたが、女の子を捜すためなら男の子はためらいませんでした。
お城の人々が寝静まった深夜、持っている技術を余すことなく発揮して城の内部へ侵入を果たした男の子は、カラスの情報を頼りに王女様の寝所へと潜り込むことに成功しました。
「――夜這いとは感心しないな」
「っ」
布団に潜り込んでいる王女の顔を見ようとした男の子は、突然声をかけられて足を止めました。
「人のものに手を出すなら、それなりの覚悟があるんだろうな(……おい、暴れるなよ名前)」
(……三郎、それ以上名前に近づいたら打つからな)
「ここにいるのは私の妻で、国の姫だぞ侵入者殿」
「………………」
(演技だろ、手裏剣を構えるな!)
…王女様の寝所には、当然のように王子様も一緒にいました。
男の子は驚きながらも、王子様に“王女様のお顔を見せてください”とお願いしました。
王子様は渋る様子を見せましたが、騒ぎのせいで起きだした王女様が王子様を宥め、危険を顧みずに侵入してきた男の子に事情を聞こうと言い出したのです。
「姫はよっぽど侵入者殿が気に入ったと見えるな」
「…………そんなんじゃないよ」
(……なぁ、お前妙に疲れてないか。勘右衛門と遊び疲れたのか?)
(…三郎はちょっと黙ってて)
(心配してやってるんだろうが)
「うん、ありがとう。でも黙っててください」
王女様は王子様を納得させると、寝所を抜け出して男の子の前に立ちました。
彼女の姿は女の子にそっくりでしたが、残念ながら本人ではありませんでした。
王女様に対面した男の子は勢いをなくし、その場に跪くとこうべを垂れて謝りました。
「…分を弁えず、こんなところまで押し入って申し訳ありませんでした」
「あの、」
「――姫。お前は今村娘じゃない、忘れてないだろうな」
男の子があまりにも気落ちしてしまったので、王女様まで元気をなくしたようでした。
王子様は王女様の様子を心配し、男の子に断ってから彼女を寝所へと追い立てました。
「私、具合悪くないのに」
「いいから雷蔵の気遣いに甘えておけ。話なら私が聞いておく」
王女様を宥めて寝かしつけた王子様は音を立てないようにして男の子の前に戻ってきました。
「すまないな侵入者殿。言いだしたのは姫だが、あいにく気分が優れないらしい。代わりに私が事情を聞こうじゃないか」
「…………三郎」
「ん?」
「……いや、いい。気にしないでくれ」
「侵入者殿、遊びならとことん楽しむのが一番だぞ」
「…そうだろうな」
場所を移して男の子の旅の目的を聴き終えた王子様は、たいそう彼に同情しました。
様々な情報に精通している王子様でしたが、彼にも女の子の行方はわかりませんでした。
長い時間をかけて話をするうちに、二人は友人のような関係を築いていました。
「どうせ碌に宿も取ってないんだろう。明朝、姫への顔見せも兼ねて城に泊っていけ」
「…姫、は…大丈夫なのか?」
「お前もあいつも、遊びを真剣に取りすぎだ。私を見習え、傍から見ても楽しそうだろうが」
「三郎は自由すぎると思うけど」
「行動に関しては、兵助も私のことを言える立場じゃないからな。ところで」
「ん?」
「お前がそこまでしてその女を追い求める理由はなんだ?」
王子様はお酒を飲んではいませんでしたが、雰囲気に酔ったのでしょう。
急に男の子に絡み出し、彼を困らせ始めました。答えを言わないと離してもらえそうもありませんでしたので、男の子はため息をついてから口を開きました。
「名前の隣に居たいんだ。それだけだよ」
「…酔ってもいないくせに、よくそんなことが真顔で言えるな」
「俺は割合素直だからな、お前と違って」
翌朝になると、王子様は男の子のために馬車を用意してくれました。
「中に入っている服は姫が揃えたようだ。お前に宜しくと言っていたよ、この先の旅路も気をつけろと」
「…ありがとう」
「兵助、これは私の予想だから話半分に聞いてくれ」
「うん?」
「昨日お前の話では、そりに乗って消えたと言ってたな」
「ああ…名前のことか」
男の子はゆうべの話を思い出しながら、先を促すように頷きました。
王子様は躊躇いがちに周囲を見回すと、少し声を押さえて“雪の女王”に関する話を男の子に伝えました。
「女王とは言うけどな、見る者によっては男にも動物にも見えるらしい。ともかく女王に気に入られた者は氷の城へと招待され、一生でられないという」
「名前はその城にいるかもしれないのか」
「予想だからな。いなくても文句を言うなよ」
「言わないよ。目的があるほうが助かる」
「あー……で、だ。それを先にあいつ…姫に話したから、一応、防寒具一式揃っているはずだ」
王子様は照れくさいのか、押し込むようにして男の子を馬車に乗せました。
男の子が馬車の中を見ると、確かにそれらしい荷物が一纏めになって置いてありました。
お礼を言おうと振り返りましたが、それよりも王子様が先にしゃべりだしてしまい、男の子はなかなか声が出せませんでした。
「いいか、今回のことは私の城だったからよかったようなもので、普通は打ち首だからな。二度とするなよ」
「うん」
「ここまでしてやったんだ、気が済んだら絶対に私を訪ねて来い」
「……ありがとう。必ずお礼をしに来るよ。…またな」
王子様のぶっきらぼうな態度がおもしろかったので、男の子は笑顔でお別れの挨拶をすることができました。
家紋の入った立派な馬車に乗せられた男の子は、王子様に見送られながらお城から送り出されました。
こうして、男の子の旅は続いていくのです。
暇をもてあました五年生の遊び -雪の女王-(4)
王子様と王女様からもらった馬車はたいそう立派なものでしたが、それは外見にも十分に現れていました。
一目見て高価だとわかるためか、道の途中で盗賊に狙われてしまったのです。
山の横合いから突然襲いかかってきた盗賊は、まず馬を押さえました。それから御者を捕えて刃を突き立てようとしましたが、短刀は喉に刺さる寸前で飛んできた石に弾き飛ばされてしまいました。
異変を感じた男の子が、馬車から飛びだしてきたおかげでした。
「へえ……こんな山の中をこーんな目立つ馬車で通り抜けようなんて、どこのお坊ちゃんかと思ってたけど。結構やるな」
「…俺は先を急いでるんだ。馬車ならやるからこのまま通してくれないか」
「ははっ、急いでるのに足をあっさり手放すのか?」
「命の方が大事だからな」
王子様と王女様からもらった馬車を手放したくはありませんでしたが、ここで盗賊に殺されてしまうよりはましでした。
盗賊はあっさり“馬車を譲る”と言い出した男の子から目を離さないまま、様子をうかがっていた手下に合図して馬車の中から金目の物を運び出しました。
馬車の中身が空になったのか、手下からの合図に一つ頷いた盗賊は唐突に男の子に笑いかけました。
男の子が戸惑っているのも構わず、持っていた短刀を男の子の足元に放るとそれを取るように指示したのです。
「――ついでだ、ちょっと遊ぼうぜ」
「な!?」
ガキン、と金属がぶつかり合う音が聞こえました。
盗賊の振りかざした短刀を、男の子は咄嗟に受け止めていました。驚いたのは盗賊です。彼は男の子を殺してしまうつもりでしたから、それも仕方のないことでした。
「なに、するんだ!」
「お坊ちゃんはお偉いさんの影武者か何かか?」
「そんなんじゃない」
男の子が振り回す刀を避けるために後ろに跳んだ山賊でしたが、男の子はあっさりと短刀を放り投げ、懐から飛び道具を――………あれ?手裏剣って有りだっけ?
「無しだよ!!ちょ、ちょっと、待て!待った!兵助!」
「俺は早く名前に会いたいんだ。いいだろ、ここはそういう場面なんだから」
「こっちはそういう準備してねぇんだって!!」
…………男の子の応戦により、樹に張りつけにされた盗賊は溜息を吐き出しながらヒラヒラ手を振りました。
「わかった、降参。もう行っていい。馬車はもう俺達がもらっちまったから返さねぇけどな」
「…聞きたいことがある」
「なんだよ。狩り場なら駄目だぜ」
「雪の女王の城について、なにか知らないか」
男の子の真剣な様子を見て、盗賊は何度も目を瞬かせました。
女王の城といえば極寒の地に建っていると言われていますが、誰もみたことがないという不確かなものでした。
盗賊の沈黙を知らないものとして受け止めたのか、男の子は「知らないならいい」と言って背中を向けました。
「待て待て待て、お前本気でそんなところに行く気か?死ぬぞ」
「…死なないよ。名前に会うまで死ぬわけにはいかない」
「…………ははっ、お前すげぇな。ま、そんなに急いでも遭難するだけだぜ。景気づけに一杯付き合えよ」
感心したように笑った盗賊は、あっさりとはりつけ状態から抜け出すと手下を呼び集め、宴の用意をするように指示を出しました。
男の子は先を急ぎたがりましたが、盗賊が道案内役をつけてくれるというので仕方なく宴に参加することにしました。
「――狼!?」
「美人で驚いたか?こいつは城があるって言われてる森に住んでたんだ」
盗賊は擦り寄ってきた雌狼を愛おしげに撫でると、自慢げに男の子に向かって“道案内役”を紹介しました。
森に住んでいたとはいえ、狼もお城は見たことがないといいました。どうやらお城は噂にあった氷ではなく、雪と風でできているようでした。
「案内っても近くまでしか行けないってよ」
「…十分だよ。助かる」
「なあ、なんでそんなところに行きたいんだよ。名前ってやつのためか?」
「うん。いなくなったのは昨日のことみたいに思い出せるのに…もう、ずいぶん会ってない気がする」
「……へぇ……そんっなにいい女なのか?」
男の子の懐かしむような表情を見て興味を持った盗賊は、傍らの狼を撫でながら女の子の話を聞きたがりました。
何度目になるか分かりませんが、男の子は女の子を捜す旅の道中についてを盗賊に語って聞かせました。
「きょうだいか?」
「どこをどう聞いたらそうなるんだよ」
「でもまだ抱いてな――いってぇ!!」
「名前はやらないからな」
「さーて、俺は奪うのが仕事みたいなもんだしなぁ」
話が終わって一息つくころ、盗賊の肩に一羽の鷹が止まりました。狼と同じく、彼の仲間のようでした。
盗賊は酒を飲みながら鷹の話に耳を傾けていましたが、不意に目を見開いて顔を向けると男の子にも同じ話をするようにと言いました。
見ましたよ、と鷹が言います。
辛抱強く話を待っていると、今度は“その女の子を見ましたよ”とはっきり口にしたのです。
「なんだって?」
驚くあまり立てない男の子は、しきりに目をパチパチさせると喉を潤すために盗賊がついだ酒を舐めました。
鷹がまだ野生だったころ、女の子は女王様のそりに乗って頭上を通りすぎていったというのです。
こうして、男の子の目的地ははっきりとお城に定まりました。
「――さっきの話でさ、一個気になるところがあったんだけど」
「なんだよ」
「性格が変わったってやつ」
「…………あれは、原因があるはずなんだ」
「それ。数年前からここらでよく聞く話でさ、事件になったこともある。原因になったやつのことになると大抵口を揃えて“前とは別人みたいだ”って言うんだよな」
盗賊である彼は男の子が思うよりもずっと噂に詳しく、世間の情報に敏感でした。
稼業のせいなのか、動物のおかげなのか、男の子はほんの少し気になりましたが深くは追求しませんでした。
「これがさ…実は悪魔の作りだした鏡のかけらが原因って話なんだ」
「かけら?」
「しかもこいつは気づきにくいうえに、目に見えないんだとさ。氷みたいにすぐ溶けちまうから、取り出すのはかなり難しいらしい」
「…方法はわからないのか?」
盗賊に耳を傾けていた男の子は心持ち声をひそめて尋ねましたが、盗賊は気の毒そうに首を振っただけでした。
結局一晩盗賊の一味と過ごした男の子は、翌朝早くに道案内役の狼を連れて出発することにしました。
あくびをしながら「持って行け」と盗賊が押し付けてきた袋には、王女様が用意してくれた防寒具一式が入っていました。
「もし名前って女が元に戻らなかったらどうするんだ?」
「…なるようにしかならない。けど、俺は名前が好きだから…離れることだけはしないだろうな」
「…………朝っぱらから勘弁しろよ」
盗賊は寝ぼけていた目を見開くと、うんざりした顔になって溜息をつきました。
「…まあいいや、死なない程度に頑張って来い。それと、俺の狼は安全なとこで帰してくれよな」
「ああ、もちろん。ありがとう」
意表をつかれたのか黙り込んだ盗賊は、男の子に“降参”したときと同じように笑って、大きく手を振りました。
彼の盗賊らしからぬ笑顔に見送られ、男の子はようやく捕まえた確かな手がかり――女の子がいるお城へ向かって歩いて行きました。
暇をもてあました五年生の遊び -雪の女王-(5)
さて、女の子がいるお城は狼が男の子に語ったとおり、吹雪いた雪の壁と、身を切るような風の戸口でできていました。
たくさんの人が詰めかけてもまだ余裕がありそうな部屋がいくつも並び、氷でできた床は一見とても美しいものでしたが、このお城には“楽しみ”というものがひとかけらもありませんでした。
「…名前、今日は新しい遊びをしようか」
「なあに?」
氷の少年――お城の主である彼は、部屋の中央で座り込む女の子の手を取ると、腰を抱いてくるりと回りました。
「踊るの?」
「それも楽しそうだけど。パズルは得意?」
「…うーん…得意かどうかはともかく、好きだよ。でも私より――……」
女の子の答えを嬉しそうに受け止めた少年は、ふと遠くへ視線をやる女の子に気づいて彼女の身体を抱きしめました。
急なことに驚いた女の子は、思い出しそうだったことをまた忘れてしまいました。
女の子の顔は寒さで真っ青でしたが、彼女は寒さを感じていませんでした。
それというのも少年が口づけをして、女の子の身体から寒さを吸い取ってしまったからです。
「もうここも、氷になっちゃってるよね」
にっこり笑う少年が女の子の心臓に指先で触れましたが、温かさは伝わってきません。
少年の言うとおり、彼女の心臓は氷のようになってしまったのでしょう。
「ねえ、新しい遊びって?」
「ああそうだった。こっちだよ」
少年の手を煩わしそうに押しのけた女の子が少年を急かします。
彼は気を害した様子もなく、笑顔で女の子の手を引いて部屋を移動しました。
女の子が少年から示されたのは無数に広がる氷のかけらでした。
薄い板きれになっているかけらを組み合わせて、少年の出した課題――文字を作るという遊びです。
悪魔の鏡のかけらのせいで、女の子の目には氷の板がこれ以上ないくらい美しく、大切なものに見えました。
「もしおれの言った文字が作れたら、名前を自由にしてあげる。名前のお願いも一つだけ叶えてあげるよ」
「本当?」
「おれは人間と違って嘘はつかないんだ」
「それじゃあ、私あの白いそりが欲しい!」
「うん、いいよ」
張りきる女の子と指切りをした少年は、彼女に“永遠”という字を作るように言って出かけて行きました。
温かい地方を回り、冬を振りまくためでした。
はたして女の子は少年がでかけたことにも気づかないまま、無数に広がる氷のかけらを前に動けずにいました。
ぴくりとも動かない彼女は、まるで氷の彫像のように見えました。
女の子がようやく動こうとしたそのとき――狼の案内でお城を見つけた男の子は、降りしきる雪の壁も、身を切るような風の戸も、冷たい氷の大広間も駆け抜けて――とうとう、彼女を見つけました。
「名前!」
しばらく会わずにいましたが、男の子は女の子の姿をしっかりと覚えていました。
「やっと見つけた」
男の子は彼女に抱きついて、掠れた声で呟きました。
けれども女の子は身じろぎ一つせず、微かな反応も見せてはくれません。男の子は信じられない思いで冷たくなった女の子を抱きしめると、きつく目を閉じて熱い涙を流しました。
男の子の涙は女の子の胸の上に落ち、心臓の中まで染み込んでいきました。
氷の塊になってしまった心臓は少しずつ解けていき、ついには鏡のかけらを流してしまいました。
微かに動いた女の子に気づいた男の子は顔を上げ、彼女を見つめました。
ぼんやりと宙をさまよっていた瞳が男の子を映すと、またたく間に涙があふれ、頬を伝って零れていきました。女の子が涙を流すうちに鏡のかけらは目から抜けて出ていきました。
「久々知くん…」
「…もっと呼んで。声、聞きたい」
「……久々知くん、どこ行ってたの……ううん、私…なにしてたんだろう」
頭を振って周りを見回す女の子は、ようやく目をパチパチさせて男の子をまっすぐ見つめました。
男の子は彼女をひしと抱きしめると、両手で女の子を抱き上げてくるくる回りました。
「く、久々知くん、危ないよ!」
「…名前、キスしてもいいか?」
「え!?」
久々の再開を果たした男の子と女の子は、嬉しそうにくるくる回転しながら部屋の中を動き回りました。
二人があまりに楽しそうなので、氷の板きれまでもが一緒になって踊り出しました。
踊りつかれて倒れた氷の板きれは、女の子が作り出せなかった文字――少年の出題した“永遠”という形を作りあげていました。
これでもう女の子は自由です。少年と約束した真っ白なそりも貰えることになっていましたが、女の子はもらえなくても構わない気持ちになっていました。
「……帰ろうか」
「うん!」
大きく頷いた女の子を見て、男の子は彼女の頬に口づけました。みるみるうちに赤くなり、女の子の顔に血色のよさが戻ってきました。
それから女の子の目と、冷たくこわばっていた手のひらと――
(ちょっ…、久々知くん、そこ、違う)
(そこってどこだ。ここ?)
「きゃあ!?ふ、不破くん!早く、次読んで」
…………読みたくないんだけどなぁ……えーと…冷えきった足にも同じように口づけを落としました。
こうしてすっかり元気になった女の子は元気に動き回ることができます。もうお城の主、氷の少年が帰ってこなくても構いませんでした。
約束通り、少年が出した問題はしっかり完成していましたから咎められるはずもありません。
二人は手を取り合ってお城から外へでました。
残念ながら女の子は過ごした日々のことをあまり覚えていませんでしたが、代わりに男の子の方にはたくさん話したいことがありました。
「今度一緒に会いに行こう」
男の子に協力してくれた王子様と王女様、盗賊の話などをした後に、男の子は女の子の手を強く握って言いました。
女の子はその手を握り返すと男の子に寄り添って嬉しそうに笑い、背伸びをして耳元で何かを囁きました。
彼は驚いた顔をしていましたが、やがて同じようにして言葉を返したのでした。
おしまい。
「――異議あり!!」
「勘右衛門うるさいぞ」
「三郎はいいよな、なんかおいしいとこばっか持ってったし!おれ滅茶苦茶中途半端じゃん!」
「名前にちょっかいだして終わってたよな。城に帰ってきてねぇし…お、雷蔵お疲れー」
「のど乾いたー」
「言うと思った、ほら」
「ありがとう八左ヱ門」
「兵助と名前はどうしたんだ、どこかで逢引きか?」
「……あの二人が揃ってる時が一番疲れたよ」
雷蔵は三人から無言で肩ポンされる
桃太郎っぽいなにか
桃太郎っぽいなにか その1
人里離れた山奥で、小平太は気ままに毎日を過ごしていた。
好きな時に寝て起きて、好きなだけ山中を走り回る。強そうなあやかしを見かけては勝負をふっかけ体力を消耗し、気が向けば長い付き合いのある友人を訪ねる、という日々を。
起きぬけに、さて今日はどうしようかとあくびをひとつ。寝床にしていた樹の上から身軽に飛び降りると、微かに鼻孔をくすぐる甘い匂いにつられてひくりと鼻を動かした。
(…朝飯はこれに決まりだ!)
おいしそう、と即座に判断した小平太は表情に笑みを乗せ、匂いの元へと足を進める。
道中、近場にこのような匂いを放つもの(果実か蜜か)があっただろうかと思いはしたが、空腹の前にその疑問は霧散した。
段々と強くなる匂いに木々をかきわけ、ここだ、と確信した茂みに顔を突っ込むと、小刻みにふるえている桃色の塊が一つ――否、身体を小さく丸めて泣いている幼子が一人いた。ひっく、ひっくと微かに漏れ聞こえる声を耳にしながら目を瞬かせると、泣いている子どもの傍へ寄って両手でひょいと持ち上げた。
「ひっ!」
「どうしたんだ、こんなところで。この辺は子どもが一人で来るには危ないぞ」
頭上に掲げ持つようにして顔を見ながら聞けば、子どもはひくりと喉を鳴らし、かえれない、と舌ったらずに答えた。
ポロポロこぼれ落ちる涙が小平太の顔を濡らすものだから、子どもを片腕に持ちかえながら濡れた顔をぬぐう。その際強く香った甘い匂いに動きをとめた小平太は、自分が追ってきた匂いの元がこの子どもであることに気づいて再度瞬きをした。
「――お前は人の子か?」
じっと見つめながら聞いても返ってくるのは小さな啜り泣き。これでは埒が明かないとは思ったが、小平太は現在空腹で他のことをやる気がなかった。
いくら美味しそうな匂いを放っているとはいえ、この幼子を食べようという気にはならずに小さく唸る。
「ううむ…………とりあえず朝飯だ!お前、好き嫌いはあるか?」
子どもを小脇に抱え、本来の目的であった朝食の調達へと山を分け入りながら尋ねる。
奥へ行くにつれて感じる複数の気配。遠目からちらちらと視線を投げられているのがわかったが、この辺のあやかしは全て小平太が叩きのめしたばかりだからか、近づいてくる様子はない。
「お前、わたしに見つけられてよかったな!でなければ今頃は誰かの腹の中かもしれんぞ」
木の実を見繕いつつ言い放つ小平太に、腕の中の塊がびくりと震える。おとうさん、と微かに聞こえた声に気づいて顔を覗き込むと、またポロポロ涙をこぼしていた。
「…そんなに泣くな。水分がなくなって干からびてしまう」
「っ、わ、わたしを、食べますか?」
「ん?食べてもいいのか?」
「ゃ、…だめ、です。いやです…」
ぎゅう、と両手を握り首をふる幼子に、小平太は笑いながら口元に木の実を押し付ける。
正直なところ、小平太にしてみればこれでは全然足りないのだがとりあえずの燃料補給だ。
ちまちまと小さな口で与えた木の実を食べ始める幼子を横目に、漂ってくる甘い匂いに鼻を鳴らす。やはり、匂いの元はこの子どもで間違いないようだ。
「お前はどこから来たんだ。家は?」
「…お父さんの家は、お山の中です。まわりに木がいっぱいはえてて、近くに川があって、それで、お庭には小さい畑があります」
「うむ、わからん!」
子どもが手振り混じりで伝えてきた情報に笑顔で答えた小平太は、“お父さんの家”という言い方に妙な違和感を覚えて首をかしげたが、まあいいかとそれを流した。
全く伝わらないという事実にしょんぼりしていた幼子が両手で持った木の実を一口かじる。知れず、匂いに惹かれて顔を寄せていた小平太を見返して丸い目をぱちりと瞬かせると、食べますか?と食べかけのそれを小平太に差し出してきた。
あ、と口を開けた小平太に驚いた顔をした子どもが、恐る恐るといった様子で木の実を小平太の口へと放り込む。この柔らかそうな小さい手までかじってみたいという衝動を押し殺し、子どもの頭を撫でた。
「お前の家は村じゃないんだったよな」
「…はい」
「この辺りには詳しい方だと思っていたが、家なんてあったかなぁ」
唸りながら子どもを持ち上げて肩に担ぐと、ふと覚えのある匂いがして再度腕へ抱え直す。
不思議そうに目を丸くする幼子をじっと見つめるが、やはり記憶にはない顔だった。
「なにか家から持ってきたものはないか?わたしはこれでも鼻が利くんだ。お前を家まで届けてやれるかもしれない」
「ええと……あ!」
首元から着物の合わせへ手を突っ込んだ子どもが、紐につながれた布袋を引っ張りだす。
途端に漂ってくる薬草の匂いと旧友の気配に、お父さんが作ってくれたんです、という子どもの言葉を聞き流していた。
「――お前は伊作の子か!?」
「! お父さん!」
知った名前がでてきたせいなのか、子どもはパッと顔を明るくして嬉しそうに笑う。反して小平太は、あずかり知らぬところで友人が子どもを授かっていたという事実に驚きながら、確かめるように子どもの顔をじっと見つめた。
「…………うーん。伊作には似ていないな」
母親似なのかと思ったが、子どもがなんとも子どもらしからぬ複雑そうな顔で微笑むのでそれ以上の追求をやめた。
代わりに、子どもが先ほど引っ張り出した布袋を手に取り中を開ける。入っていたのは魔除けの呪符(触れた途端、バチッと痺れるような痛みが走った)と、傷薬、それから――小さな貝の片側。幼子の手のひらに収まる大きさのそれは、ホタルのようにうっすらと明滅を繰り返していた。
「お。これはわたしにも覚えがあるぞ」
「お父さんのお友だちがくれたんです。お父さんと半分こしました」
今は持ち歩いていないが、小平太も仲間内の連絡用として似たようなものを持っている。
伊作と分け合っているということは、これも同じく相手につながるはず。そう思って貝殻を子どもへ渡すが、幼子はそれを握りしめて「きれい」と言いながら嬉しそうに笑うだけで伊作とつながった気配はない。
「使い方は教わってないのか?」
「あ…!」
子どもは小平太の問いかけにハッとして顔を上げると、貝殻に向かってお父さんと声をかけた。何度か繰り返すものの明滅が大きくなるだけで返答はない。
「おとうさん…」
次第にしぼんで震えていく声が悲しげで、小平太は思わず子どもを懐へと抱きよせながら、子どもの手のひらごと貝を掴んだ。すっぽりと手の中に納まってしまう手は温かくて、ふにふにと柔らかい。
指の先が余るほどの小ささに驚きながらも、僅かに貝殻をずらして幼子の手から自身の手へと移動させた。
「伊作!!」
小平太が意識をぶつけるように呼ぶと、ようやく微かな音が聞こえてくる。が、力まで込めてしまったせいか貝殻にひびが入ってしまった。
「しまった…これはヘタしたら壊れるぞ。伊作、早くわたしの方に波長を合わせろ!」
『――っ、――…名前!!』
「お、お父さん!」
『ああもう、心配させて…!今どこにいるんだい?怖い目にはあってないよね?怪我は?というかどうして小平太と一緒なの?』
矢継ぎ早に質問を重ねる伊作の声に、子どもは目を瞬かせて光る貝殻と小平太の顔を交互に見る。まるでこの状態に初めて遭遇したかのような反応だ。
名前、名前と何度も呼びかけてくる伊作の声は、だんだんと焦りをおびてきている。
小平太はその声に先ほどの幼子の様子を思い出し、似ているところもあるなと思いながら笑った。
『名前…お願いだからなにか言っておくれ』
「伊作、名前というのはこの子どものことでいいんだな?」
『小平太!そう、そうだよ。外見は五歳くらいの女の子で桃色の着物と白い帯を着てる』
やや早口で外見を伝えてくる伊作の声を聞きながら、小平太は傍らの子どもを観察した。
いつの間にか小平太の腕をぎゅっと掴み、食い入るようにして明滅する貝殻を見つめている。名前、と伊作が呼んだ名を口にすれば小平太を見上げ、なに?と言いたげにぱちりと一つ瞬いた。
「…うん。こいつは確かに名前らしいぞ」
『よかったー…ちょっと目を離した隙にいなくなってたからすごく焦った……名前、僕の声聞こえてるかな』
うん、と頷く子ども――名前の声は小さくて、貝殻の向こうへ伝わったかどうか怪しい。
小平太は貝殻を幼子に持たせると「話して安心させてやれ」と言って子どもを抱え直した。
「あの、お父さんですか?伊作お父さん?」
『ふふ。うん、そう。伊作です。…ごめんよ。せっかく持たせたのに動作確認で使ったっきりだったから、うっかり留三郎に合わせたままで…』
「お父さん、今どこにいますか。私、お父さんのおうちに帰れる?」
不安げに言いながら、名前は貝殻を握る指先に力を入れる。
伊作が子どもを安心させるように「大丈夫だよ」と笑い混じりに答えると、幼子はちらりと小平太を見て貝殻へ唇を寄せた。
「私、この人に食べられたりしないよね?」
『………………名前、ちょっと小平太と変わってくれるかい。あ、小平太っていうのはキミと一緒にいる豪快で楽観的な男のことで、一応僕の友達だから』
「なあ伊作…説明もいいけどな、そろそろお前の居場所を教えろ。わたしは腹が減ったんだ」
小平太が名前を自分の方へ寄せて後ろから話しかけると、小さな身体がびくりと震える。
焦点を合わせると、名前は手足を縮こまらせてすがるように貝殻を握りしめ、しきりに伊作を呼んでいた。
『ちょっと小平太、名前を脅えさせないでくれよ!』
「なにも名前を食べるなんて言ってないだろう。確かに美味そうだけどちゃんと我慢してる!」
『な!?だ、駄目だからね!!事情は後で話すけど、彼女はちゃんと僕が育てるって決めてるんだから!!』
「わかったわかった……それで、お前は今どこに隠れ住んでるんだ。名前がうろついてたのはわたしの縄張りだし、わたしの鼻でも捕まえられないほど遠いはずない」
きっぱり断言すると、貝殻の向こうから苦笑する気配が伝わってくる。伊作は「僕の術も捨てたもんじゃないね」と言ってから名前を呼んだ。
『帰っておいで。もしかしたら名前の方が先に家に着いてしまうかもしれないけど、そのときは僕を出迎えてくれると嬉しいな』
「お父さんは居ないの?」
『ちょっと名前を捜しに出かけてるだけだから、すぐに戻るよ――小平太、どうだい?』
「ん」
ひくりと鼻を動かせば、唐突に縄張り内になにかが出現した気配がある。結界だか呪だかはわからないが、伊作が身を眩ませていたなんらかの術を解いたのだろう。
伊作と名前が住んでいると言うのだからおそらくは小屋一軒分――それほど大きなものに気づけなかったことに不満を覚え、小平太はむぅと小さく唸った。
「この距離ならすぐに着くぞ。家には勝手に入るがいいよな」
『うん。家の中は名前に案内してもらって。ご飯も作ってあるから名前に食べさせてやってくれ。それから』
「細かいことはもういい!着けばどうにかなるだろ、お前もさっさと帰って来い」
『……それもそうだね。くれぐれも名前を雑に扱わないでくれよ!』
貝殻からくどくど流れてくる小言を聞きながし、それを名前へ返す。相手が変わったのが伊作にもわかったのか、小言はすぐにぴたりと止んで、代わりに優しい声がした。二人は一言二言会話をかわし、名前が「お父さんも気を付けて」と伊作を気遣うのを締めにして通話は切れた。
小平太は幼子が大事そうに貝殻を布袋へおさめるのを待ってから、彼女を小脇に抱えて樹の上に飛び乗る。ひゃあ、と甲高い声がして着物の前身頃が強く引かれた。視線を下げれば、蒼い顔で力いっぱい自分の服を握っている涙目の名前が見えて、小平太は瞠目しながら「どうしたんだ」と声をかけた。
「こ、こわいです…」
「怖い?高いのが駄目なのか?」
「落ちそう」
「お前は怖がりだなあ」
ぎゅっと小平太の着物を握ったまま離さない名前が妙に可愛らしくて、小平太は笑いながら名前を腕に抱き直した。ぶらついていた足を抱えるだけで、いくらか気が楽になったのか名前がホッと息をつく。ごく自然に腕を首へ回してくる名前に、伊作はいつもこうして抱き上げているのかもしれないと思った。
ぐっと近づいた距離から香ってくる美味しそうな匂いにごくりと喉が鳴る。思わず顔を寄せると名前が「くすぐったい」と言いながらくすくす笑いをこぼした。
桃太郎っぽいなにか その2
ゆらゆらと心地よい揺れに身をゆだねて見る夢は、必ずしも心地良いものではないらしい。
いかに摩訶不思議であろうとも、目覚めない限りはこのまま過ごすしかないのだろう…きっと。
だから目覚めた場所が見ず知らずの民家だとしても、私を知らない人のように扱ってくる善法寺先輩が目の前にいても、私の身体が一年生(いや、それよりも幼いかもしれない)くらいに縮んでいて、かつ言葉が自由にならなくても、夢だから…きっと、きっといつか目覚めてくれるはず。
「大丈夫かい?うーん…このくらいの子はもう言葉がわかるものだっけ……ああ泣かないで、よしよし」
布団の上に座り込んで現状を受け止めるべく呆然としていた私は、善法寺先輩にいきなりひょいと抱えられ、先輩の膝上であやされている始末。恥ずかしさと居た堪れなさに身をよじったものの「ここは安全だよ」なんて見当違いの慰めとともに頭を撫でられるだけだ。
身体が幼くなっているせいなのか、不安でいっぱいだったせいか本格的に泣きたくなってきたのもあって、顔を隠すようにしてそのまま少しだけ泣いた。
どうやらこの夢の世界の私は拾われっ子らしい。
善法寺先輩が薬草とりに散策している最中に、私を拾って連れ帰ってくれたそうだ。
どういうわけか私を“モモコ”と名付けたがった先輩には申し訳ないけれど、自分の名前を主張し続けた結果ちゃんと受け入れてくれたことも安心した。
つたないながらもお礼を言ったら「僕のことは兄さんって呼んでいいよ」と笑っていた。
――それからというもの、善法寺先輩と呼ぶとしょんぼりするのがちょっとだけ面倒くさい。
「たしかに僕は善法寺だけど…名前に教えた覚えないんだけどなぁ……だいたい"センパイ"ってなんだい?」
…とのこと。
説明するのも、癖ですという言い訳も上手くない気がして、じっと見上げて首を傾げて返す。
これをやると先輩はだいたい言葉を詰まらせて“しかたないなぁ”と言いたげな苦笑とともに頭を撫でて質問を取り下げてくれた。
数日経つと、不思議と私の身体は急成長を遂げ、何度か段階を経て現実と同じくらいの年格好へと育っていた。驚いたのは先輩がそれを受け入れてくれたこと。さすがは夢の世界…なんでもありだ。
数日とはいえ、わけがわからないまま善法寺先輩の元で世話になりっぱなしの状態なのが心苦しい。
この夢の世界の状態を探りつつ、手伝いを申し出たある日のこと。先輩は真剣な面持ちで「話したいことがある」と言って私を居間に座らせた。
「…なんでしょう善法寺せんぱ…………兄さん」
「うん。名前には黙っていたけど、実は…キミに決闘の申し込みが来てる」
「――――――は?」
「やっぱりそういう反応になるよね」
ははは、と笑いながら先輩が後ろ頭を掻く。
善法寺先輩は呆然としたままの私の手を取り、大丈夫、と堂々と言い放って小さな包みを握らせた。
「名前の助けとなるように、昔馴染みに協力をお願いしたから。彼らと一緒に行っておいで。これは彼らへの駄賃だ」
「いやいやいや。いきなり何言い出すんですか!け、決闘って私がですか?私、はっきり言って全然強くないんですけど!」
「けどほら。桃から生まれた童女っていったら名前のことだし、直接この家に通達がね」
「ちょ、ちょっと待ってください!!桃から!?わた、私は拾われっ子じゃなかったんですか!?」
いくら夢とはいえ、話が唐突すぎる。
慌てて善法寺先輩に掴みかかって説明を求めれば、先輩は平然と「名前は桃から生まれたんだよ」と言い放った。
食用にも薬用にも使えるしと桃を拾った経緯について色々言っていたけれど、私が巨大な桃(正確にはその種の中)から出てきたことに変わりはないらしい。
納得いかないながらも届いたという決闘状の内容を確認すれば――“俺は自分より強い奴しか認めん!”と力強い字で戦えという意志が綴られていた。
…文面に加え、この締めに入っている“留三郎”という名前はもしかして食満先輩のことでしょうか。
「――これ、行かないといけませんか?」
「僕も何度か無視したり、そっちから会いに来いって返事したりしたんだけどさ。どうも相手にも事情があるらしくて、住み家から離れられないんだって。代わりに文が届く頻度が増してね…見るかい?」
「いえ、いいです」
「あ。手紙といえば……名前が生まれたときに握りしめてたやつがあったんだ」
え、と戸惑う私に、くしゃくしゃになった紙を握らせる。
先輩が読んでも意味がわからなかったけれど、大事なもののような気がしてずっとしまっておいてくれたらしい。
妙な胸騒ぎを覚えながらそっと開いて目に入った文面にドクンと心臓が大きな音を立てた。
“ゆめゆめ忘れることなかれ
かえりの道は勝利のさきに”
桃太郎っぽいなにか その3
――桃太郎さん、桃太郎さん。お腰につけたきび団子、ひとつ私にくださいな。
幼いころ、養父に読んでもらった童話と同じ言葉を待っていたのに、目の前で仁王立ちして笑う自称“おつきの犬”の青年は、全く予想もしていなかったものを要求してきた。きび団子ではなく、桃から生まれた童そのもの――つまり、私自身を。欲しいと言われても、おいそれとあげられるものではない。
「あの…これじゃ、駄目でしょうか」
出がけに養父からもらったきび団子を取り出してみたけれど、目の前の彼はひくりと鼻を動かすと僅かに眉根を寄せて「名前が作ったのか?」と聞いてきた。
「いえ、父がもたせてくれました。仲間になりそうな人に食べさせるようにと」
「伊作か……いや、わたしはいらん。やばそうな匂いがするからな」
“やばそうな匂い”とやらが気になったものの、私にはほんのり甘いお団子の匂いしか感じられないからわからない。
「あなたは父のお知り合いですか?」
ひとまず団子を腰にくくりつけ直しながら質問したら、自称犬さんは目を丸くして何度も瞬きをした。
「まさか、わたしを忘れたのか?お前が小さい頃よく一緒に遊んだろう!」
「えっ」
「“わんちゃん”って呼んでいっぱい可愛がってくれたのに、ひどいぞ名前!!」
がしっと肩を掴まれたことに戸惑っている間に、彼の胸に押し付けられる形でぎゅうぎゅう抱きしめられる。苦しい。
自称犬さんは私の頭にぐりぐり額を押し付けながら喚くけれど、全く記憶にないので言いがかりをつけられているとしか思えなかった。
「…本当に覚えていないのか?これっぽっちも?」
「ええと……その…ごめんなさい…」
あいにく、森の奥のずーっと奥。ひっそりとしたひと気のない場所に住んでいたから、関わり合ったのは養父と養父の友人と、森に暮らす動物たちくらいのものだ。養父の友人だという人も年に数回顔を見せる程度で、世話焼きの情報通という印象しかない。
「うーむ……まさか忘れられているとはなぁ」
ぱっと両手を離してお互いの顔が見える位置まで下がった彼は、ぽんぽんと私の頭に手を置いてから自身の胸を叩いた。
「だが、わたしはお前についていくぞ!」
「いいんですか?」
「言っただろう。お前をくれたら旅に付き合うと」
「ああ…そういえばそうでした。でもそれは無理なので、お付き合いいただかなくて結構です」
「なぜだ!?わたしがいれば百人力、絶対に役に立つぞ」
頭を下げ、お礼だけ言って旅路に戻ろうとすると、彼は私の周りをうろうろしながらいかに自分が役立つかというアピールを始めた。
腕は立つから旅の安全は保障されたも同然だし、狩りも得意だから飢える心配もない。鼻も耳も勘も良いから危機管理だってお任せ……らしい。
「他の供はいらんくらいだぞ!むしろ、わたしだけを連れて行けばいい」
「お話はとっても魅力的ですが、私から渡せるのは父の作ったきび団子だけなんですよ」
「う~~~~、なら、その伊作の団子を食べれば私を連れていくか?」
「食べたとしても、変な要求するなら連れていきません」
「くれるって言ったのは名前なのに!」
「すみません、覚えがありませんので」
「そうか……大きくなったら味見をさせてくれると言ったのも無効か」
わかりやすくしょんぼりして言う彼に申し訳なさが浮かんだけれど、その内容にぎょっとして肩が揺れた。
気づけば私の身体は彼の両腕でがっちりと捕えられ、身動きができない状態になっている。戸惑いながら視線を上げるとばっちり目が合って、一気に体温が上がった。じっと見られるのは落ち着かないのに――この目には覚えがある気がする。
怪談をしようとする五ろに巻き込まれる話
※久々知視点
太陽が中天を過ぎるころ、三郎から「話がある」と妙に真剣な面持ちで告げられた。
わざわざ部屋に呼び出すなんて、さぞかし真面目な話をするんだろうと思ってこちらも真剣に頷いたのに――指定の時間に部屋を訪れてみれば、蝋燭を燭台にセットしている三郎と書物をあさっている雷蔵と、それから黒くて大きな布を壁に貼り付けている八左ヱ門がいた。
「……なんの儀式だこれは」
「見ての通り、怪談の準備だが?」
「やー、おまたせー!名前連れてきたよ!」
場違いなほどに明るい声で勘右衛門が入ってくる。勢いが付き過ぎたのか引き戸がぴしゃりと音を立て、一緒にいた名前が驚いて小さく声を上げた。
彼女は望んでここへ来たわけではないのだろう。所在なげに廊下や外へと視線を彷徨わせ、明らかに帰りたがる気配を見せている。
「名前」
あわよくば自分も一緒に帰らせてもらおうと思いながら、近づいて声をかける。
すると、名前は目が合った途端ぱちりと瞬きをして嬉しそうに笑うものだから、咄嗟にその先が言葉にできなかった。
「久々知くんここにいたんだ」
「ああ。もしかして捜してた?」
「……特に、用事はないんだけど…その…うん」
名前は自分の手のひらを合わせたり指先を絡ませたりしながら、恥ずかしそうに俯いてしまう。
ふいに彼女をこの場から連れ出してしまいたいという欲求が湧いて、無意識のうちに手に触れた。びくんと大きく震えた名前が素早く瞬くのを見つめながら、自分よりも一回り小さな手のひらを握る。
「おいお前ら、そこどいてくれ」
「っ、あの、わ…私、今日は帰る!!」
相変わらず壁に張り付いていた八左ヱ門が入口の方まで布を持ってくる。しっし、と追い払われた拍子に名前の手を逃がしてしまい、彼女はそのままくるりと身を翻した。
「残念だが退室はできないぞ名前。どうしても出ていきたかったら、怪談を聞くか話すかどっちか選べ」
いつからそこにいたのか、出入口を塞ぐように立つ三郎が片手で戸口を押さえている。
傍からみたら名前がガラの悪い男に絡まれている図にしか見えない。外見は(一応)雷蔵なのに、こうもあくどい雰囲気を漂わせられるのはある意味すごいと思う。
「今、怪談…って、言った?」
「雷蔵が面白い本を見つけてきてな。どうせだから百物語の真似ごとでもしようってことになったんだ。今日なんて生ぬるい空気がまさにおあつらえむきだろう?」
三郎の話を聞いて固まったように動かなくなった名前を見てハッとする。
彼女はこういう類が苦手だとこの前話してもらったばかりだ。
なにも答えない名前と、ニヤリ笑いを引っ込めて彼女を訝しげに見おろす三郎の間に割り込む。名前を自分の後ろへ追いやりながらさりげなく様子を観察した――顔が蒼い。早く帰してやった方がよさそうだ。
「三郎、名前は勘弁してやってくれ」
「……………ふーん。まあ、こういうものを無理強いするのもな…兵助、お前は戻ってこいよ」
「……わかった」
面倒くさいという気持ちが滲みでてしまったけど、とりあえずは了承しておく。
引き戸から手を離し、後ろ頭を掻く三郎を見れば自然と雷蔵たちも視界に入った。
彼らは見つけてきたという本に夢中なのか、それを広げて意見を交換しているようだ。
「大丈夫か?」
「……うん、ありがとう」
苦笑混じりの彼女から、うっすらと自己嫌悪を読み取る。
単なるお遊びで嫌な気分になることはない。そう思いながら、そっと名前の頭を撫でた。
やんわりと、嬉しそうに目元を綻ばせるのを見るとドキッとする。薄く色づく頬に触れたくなるのをぐっと堪えて、名前を出口へ促すと戸を引いた――つもりだった。
指をひっかけて力を入れて横へ引く。そのいつもの動作ができない。力を込めればガタンと戸板が揺れるのに、それは横というより縦というか前後へ僅かに動くだけで、ぴったりと接着されてしまったかのように開かなかった。
「…三郎、開かないぞ。変な悪戯するなよ」
「言いがかりはよせ兵助。私は戸口にはなにも仕掛けてない」
形だけムッとしてみせる三郎が俺を押しのけて戸口に手をかける。
指先に力が入るのがわかったが、やはり戸板はガタガタと音を立てて揺れるだけだった。
「……開かないな」
「お前じゃないなら誰が仕掛けたんだ?」
「さて。雷蔵、後でちゃんと直すから勘弁な」
「は?」
三郎の言葉に雷蔵が顔を上げた瞬間、三郎が利き足を引く。
咄嗟の判断で名前を自分の方へ寄せて一緒に後ずさったと同時に、三郎は戸板に蹴りを叩きこんだ。
「ひゃ!?」
「ちょっ、ちょっとなにやってんの三郎!」
派手に響いた破裂音に、名前がびくりと震えて縮こまる。反射的に抱きしめた身体の柔らかさに動揺しながら、すがるように俺の装束をぎゅっと掴んでいる名前を見降ろした。
名前はぎこちなく息を吐き出して、僅かに俺の方へ重心を傾けてくる。それがどこか怯えているように見えたから、安心させたくて腕の力を強めた。
穴掘り好きの綾部
※綾部視点
砥ぎ終わったばかりの踏鋤(踏子ちゃん)は本当によく掘れる。完成した三つ目の蛸壺から上機嫌で這い出して、次はどこをどんな風に掘ろうかと歩いていたら、一番最初に掘った穴の中から小さな音が聞こえた。
立ち止まって耳を澄ますと、どうやら人が泣いているらしい。
校庭の隅の目立たない場所。地面に空いた穴から微かに漏れ出てくる啜り泣きは、時間帯さえ違っていたら一種の恐怖体験にでもなりそうだ。
泣き声につられ、まあるくあいた穴の淵に座りこんで中を覗き込む。ここで作法委員会作成の生首フィギュアでも飛び出てきたら、悲鳴をあげてくれる人が頻出しそう。今度やってみようかな。
「……ひっ…ぅ、……ぐす……」
さほど広くは作ってないにも関わらず、泣き声の主は隅っこの方に縮こまって丸くなっている。薄暗さに加えて僕自身が影になっているせいで判別しにくいけれど――――装束はくのたまの色だった。
もしかして、落ちたんだろうか。罠のつもりはなくても面白いくらい引っ掛かってくれる保健委員や小松田さんを思い出して、じっと様子をうかがう。泣いているせいか時折身体は揺れるけど、自分から出てくる気はないみたいだ。
いくら僕でも怪我をしている相手を放り出したりはしないし、引っ張り上げて医務室へ連れて行くくらいはするつもり。
「もしもーし」
とりあえず呼びかけてみたら、小さくなってるくのたまが大袈裟なくらいびくりと震えた。
恐る恐る顔をあげ、僕と目が合ったとたん立ち上がったかと思えば俯いて目元を擦り始める。返事もしてくれないし、一向にこっちを見る気配もなかったけれど、彼女が立ちあがったおかげでさっきよりも穴が広くなったように見えた。
「ほっ」
空いた隙間に飛び降りると傍らから小さく声が上がって、狭い穴の中で距離を置こうと後ずさる。あ、と思った時には遅く、目の前のくのたまは背中を土壁にぶつけて滑って尻もちをついていた。
「…………だいじょうぶ?」
一緒になってしゃがむ余裕はなかったから、壁に手をつきながら見下ろす。彼女は微かに頷いて、膝を抱えて丸くなると再び嗚咽を漏らし始めてしまった。
どうしよう……なんだか面倒なことに首をつっこんだかもしれない。
一度頭上を仰ぎ見てから視線を下げる。くのたまは小さく小さく縮こまり、そのまましぼんでしまいそうな気がした。
「ねえ、僕の声は聞こえてるよね。どこか痛いところはある?ここに居るのは落ちたから?」
頷くか首を振るだけで答えになるように問いかければ、返ってきたのは“はい”、“いいえ”、“いいえ”だった。念のため、出られないの?と加えて聞いてみたら、これにも“いいえ”。
つまり、怪我はしてないし、好き好んでこの場に留まっているということ。それなら、僕のやることは何もない。
「そう。それじゃあ、お邪魔しました」
そうと決まれば穴掘りの続きに戻ろうと踏子ちゃんを土壁に立て掛ける。それを足がかりに穴から出て、踏子ちゃんを引き上げようとしたところで鋤の柄を掴まれていることに気づいた。
「おや。なにか用?」
「どうして、とか…きかないの?」
「? 聞かないといけないの?」
ひっく、と泣き声が混じって震える音はちょっとだけ聞き取りにくい。
問われている理由がわからずに聞き返したら、彼女は顔をあげて数回瞬いてから「変な人」と言って微かに笑った。
「僕からしたら、キミもじゅうぶん変な子だけどね。もう行ってもいい?」
「うん…ありがとう」
今度こそ踏子ちゃんを手元に戻して立ち上がる。
視界の端で穴の隅っこに座り直すくのたまを捉えながら、やっぱり変な子だと思った。
数日にわたり思う存分蛸壺と落とし穴と塹壕を量産して――結果、用具委員会や保健委員会(ほぼ全員が穴に落ちたらしい)、その他色々なところから文句を言われたけれど、いつものことだから気にしない――すっきりしたついでに、なんとなく一番最初に作った穴を見に行った。
ぽっかり空いていた穴はとっくに埋められていて、地面の色がうっすら違うことでしか存在を確認できなくなっている。なんだか物足りない気分を味わったことで、初めて“あの時のくのたまがいるかもしれない”と思いながらここまで来たことに気がついた。
「…いるわけないのにねぇ」
しゃがんで土色の違う場所を撫でていると頭上から影が差し、どこか不安そうな声で「あやべくん?」と呼びかけられる。
視線を上げれば、まさにここにあった穴の中で泣いていたくのたまがいて、ほっとした様子で微笑んでいた。
「おや…まぁ」
「あの、綾部くん……ええと、私のこと覚えてる?」
「この間の泣き虫ちゃん」
「うっ…わ、私、苗字です。苗字名前」
しゃがんだままの僕に合わせるように、泣き虫ちゃんこと苗字名前ちゃん(先輩だったりして)が目の前に座る。どうして正座なのかを不思議に思いながら次の動作を待っていると、ぺこりと頭を下げられた。
「先日はどうもありがとう。おかげですっきりして試験も合格できました」
「はあ、それは…おめでとうございます?」
「それでね、お願いがあるの」
「…その“お願い”、僕に断らせる気ないでしょう」
真剣だった表情が、数回瞬きをした後に楽しげなものに変わる。
嫌だったら断ってくれていい、そう言いながら「諦めないけどね」と付け加えるあたり、やっぱり断らせる気がないとしか思えない。
くのたまには押しの強い子が多いし、彼女もまたその一人だったようだけど、どうやらじわじわと追い詰めながらの持久戦に持ち込むタイプらしい。
溜め息をひとつ落として彼女の言う“お願い”を聞いてみることにした。
「また蛸壺を借してほしいんだ」
「…………それならそこら辺にあるのを好きに使ってくれていいけど」
「それじゃ他の人に見つかっちゃうから、ここに掘ってほしい」
「それで、キミはまたここで泣き虫ちゃんになるの?」
ぐっと言葉に詰まった彼女が小さく頷く。俯いたまま戻ってこない顔を見つめてもう一度溜め息をついた。
「しかたないなぁ…」
「!」
「けど、僕は僕の好きな時に、好きな場所に掘りたいからいつでも蛸壺があるわけじゃないよ。用具委員に見つかったらこうやって埋められちゃうし」
「う、うん」
「それと、目立たない場所にあるのはこれだけじゃないから探してみたら?」
枝を拾って地面に学園内の地図を描く。
例えば裏山に近いこの辺とか。こっちの方は保健委員が良く通る道だからお勧めしない。
そんな諸々を伝えているあいだ、彼女はじっと僕の描く地図を見ながら逐一感心したように頷いていた。
夢主の位置(先輩or同級生)と綾部が夢主をどう呼ぶのかを決めかねて保留
ライフライン:テレフォン
■テレフォン1//尾浜とin居酒屋
「じゃあ~、罰ゲームとして名前に電話すること!」
尾浜は持っていたグラスをテーブルに叩きつけるように置くと、自分のスマホを取り出した。
にこにこ笑って「ほい」と俺に押し付けてくるが、まずその“名前”ってのはどこのどなたですか。
金曜の夜、夕飯時に見知らぬ相手に電話なんて受けとる側も困ると思うんだが。
「だいじょーぶ、名前だから」
ろれつのあやしい口調で、へらりと笑う尾浜のそれは理由になってない。あれよと言う間に履歴から通話ボタンをタップされ、プップップッと呼び出す準備が進んでいた。
俺も酔っていたんだろう、放置はまずいなと(切ればよかったのに)思って尾浜のスマホを耳に当てる。
『――はい、もしもし』
「あ、えーと、名前、さん?」
『どうしたの勘右衛門、今日飲み会って言ってたよね?迎えに来てほしいとか?』
くすくす、耳に届く笑い声がくすぐったいながらも妙に心地良い。冗談混じりに先を促す調子が優しくて、尾浜との親しさを感じさせた。
尾浜のやつ、彼女に電話させるってどういうことだ。睨むように見てやれば、尾浜はにやりと意地の悪い笑みを浮かべて俺の反応をうかがっている。
受話器の向こうでは“名前さん”とやらが『もしもし?』と応答のなくなった俺に呼びかけてきた。
「あ、すんません。俺は尾浜じゃなくてですね」
『え?ごめん、ちょっと待っ…』
『勘右衛門、酒飲んでるときは名前にかけてくるなって言っただろ』
声が遠ざかったと思ったら急に低い声に変わる。
電話越しだというのに、冷たさを読み取って背筋がぶるりと震えた。ぶっちゃけ意味が分からない。誰だあんたは。
『おい、聞いてるのか?』
「や、その、すんません!」
理不尽に思いながらもつい謝ってしまう。条件反射のようにぺこぺこ頭を下げる俺を見て、尾浜は腹を抱えて爆笑していた。
『…………勘右衛門に変わってくれないか』
「あ、はい」
すぐに俺が本人じゃないと気付いたらしい通話相手が呆れをにじませる。
スマホをさっさと尾浜に押し付けると、まだ笑いがおさまってない尾浜はそれをテーブルに置いて、通話をスピーカーに切り替えた。
「兵助ー、名前の電話横取りすんのやめろよ」
『じゃあかけてくるな』
「名前そこにいるんだろ?代わって」
『…………』
「兵助も聞いてていいからさ」
返ってきた無言に(あきらかに渋ってる)相変わらず浮かれた感じのまま言う尾浜。若干酔いがさめてきていた俺は、尾浜の言葉で電話の向こうにいる二人こそが恋人同士なんだと確信した。
……週末、夜、恋人同士のとこに電話させるって、こいつ割と真剣にひどいな。
『……名前。うん……けど変なこと言われたらすぐ切れよ』
「変なことってなんだろうね」
「下ネタとかエロトーク?」
「うーわ、お前女の子にそういうの言っちゃうんだ」
「尾浜が聞いてきたんだろ!?」
けらけら笑いだしながら、酒を煽る尾浜につられて自分もグラスを傾ける。
つながったままの電話からはガサガサ音がしてて、話し相手が交代する気配がした。
■テレフォン2//久々知とin大学
講義も終わり、疲れたなーと隣に呼びかけながら肩を鳴らす。
ノートを取り終えたらしい久々知に、一緒に昼飯をどうかと誘ってみたら豆腐が食べたい、とさりげなく言われた。
知り合ってそんなに経っていないにもかかわらず、こいつの豆腐への執着は並々ならぬものがあると身をもって実感している次第である。
――ガガガガガッ
「うおぉ!?」
「あ、悪い俺のだ」
机上に置かれたスマホが勢いよく振動して大きな音を鳴らす。
マナーモード設定なのに全く意味をなしてないな、と思っていたら、出てもいいかを聞かれたので笑って頷いた。久々知はけっこう気配り屋らしい。
「もしもし――うん、今終わった。……よくわかったな」
ぞわ、と腕に鳥肌が。
なに?なんなのその甘ったるい声。お前そんなキャラだったの?顔めっちゃ崩れてるんだけど。
個人的に、久々知は真面目で冷静、淡白、マイペースなんてイメージを持ってたもんだから思わず観察してしまう。電話相手は女とみた。
それはそうと、チラっとこっちを見て「一人追加で」とか言ってるのはどういうわけだ。
「…………やきもち?」
ぞわりと、またもや鳥肌が。
くす、と微かに笑ったかと思えばなにやら甘ったるさが増した……つーか、ここ教室だし俺もいるんですけど!なんで居た堪れない気分にならなきゃなんねーの!!
さすがに自重しろと声をかけようとした瞬間、久々知は声を詰まらせて頭を抱えるようにしながら俯いてしまった。
「…久々知?」
「友達だよ…男。うん、すぐ行くから待ってて」
腕の間から見える顔が赤い。
通話を終えたらしい久々知は前髪をくしゃりと掴み、長々と溜め息をついた。
「…………名前が可愛すぎて困る」
「おい、俺の心配返せ」
「? ごめん」
「なんなのお前天然なの!?」
「それよく言われるんだよな」
解せぬ、と言いたげに眉根を寄せた久々知は教材を手早く片付けると、カバン片手に「行くぞ」と俺を促した。
「は?どこへ、ってか何?話しについていけてないんですけど」
「昼、食べに行くんだろ?席は取っておいてもらってるから大丈夫だ」
「いやいやいやいや、説明足りてねぇから!」
「あー……面倒だな。行けば分かる」
「そこ放棄しちゃだめだろ!さっきの電話誰だよ、彼女?」
「うん」
「やっぱりかちくしょう爆発しろ!!」
「え、いきなりどうしたんだ」
目を丸くしてたじろぐ久々知を見返して、やさぐれた気分で追いかける。
こころなしか早足の久々知についていきながら、もしかしてデートに乱入する流れになっているんじゃないかと気づいた時にはもう遅く、兵助くん、と呼びながら手を振る女の子が視界に入っていた。
「講義お疲れ様」
「今日はもう先に帰ったかと思った」
――――おい。おい、ちょっと待て久々知。
すいっと近づいたかと思ったらさりげなく頭にキス…ってそれ外でやることじゃねーだろ!!
カノジョは気づいてないのか「兵助くんにお土産」とかなんとかいいながら豆乳のパックを取りだしてニコニコしてた。
※実は雷蔵もいる
変装を学ぼう(仮)
※鉢屋視点
誰もいない教室で日誌をつけている最中、出入口からかけられた声に顔を上げる。
忍たまの校舎内では異質に映る桃色の忍装束――
「…名前?」
呼びかけられた声音でわかっていたはずなのに、つい相手をまじまじと確認して無意識に呼びかけてしまった。
今はペットの世話をしている時間だろう、と咄嗟に浮かんだ相手の予定になんとも言えない気分になり、誤魔化すように咳をする。
「三郎、入ってもいい?」
控えめなそれに小さく溜息をついて手招く。
――わざわざ許可を取るなんてらしくないな。
皮肉めいた言葉は音にならず、名前が嬉しそうに笑ったのが見えて日誌の続きを書き始める筆が不自然に揺れてしまった。
「目的はなんだ」
「え、わかる!?」
「お前がこの時間ここにいるのは変だろう」
言ってしまってから、これでは名前の行動を把握していると告げているのと同じじゃないかと口を噤む。
だが名前は全く気にしていないのか(単に鈍いだけなのか)、「散歩の時間だもんね」と表情をゆるめて何度も頷いていた。
「今日は竹谷が連れてってくれるっていうから甘えちゃった」
「…………ふーん。八左ヱ門には頼るんだな」
付き合いの長さもあってか、お互いに気安いのは承知してるつもりだが――おもしろくない。
苛々しながら日誌に取り掛かるなか、やけに視線を感じる。チラと視線の主を見れば……なぜかニヤニヤしていた。
「なんだよ」
「別にー。なんか妬いてくれてるみたいだなーって」
にやけ顔のまま頬杖を突く名前が からかうように言うのに眉根が寄る。
「悪いか」
「…………え」
「私が妬いたら悪いのか?」
今にも目を逸らそうとする自分をやりこめ、逆に名前の反応を観察していると、名前はぽかんと間の抜けた顔で瞬いたあと一気に頬を赤く染めた。
何度も口を金魚のように開閉し、終いには腕を枕にして机に突っ伏す――どうだ、私の勝ちだ。
謎の達成感と胸の奥にムズムズしたものを抱えて名前から目を逸らす。
ぶつぶつ文句らしきものを零しながら、僅かに頭を動かしているのが目の端に映った。
「……三郎、変装術教えて」
「は?」
――変装?名前が?
たった今聞こえたばかりの台詞を反芻しながら改めて名前を見おろしてみれば、腕から半分ほど覗いている顔は未だに赤く、特に目元の色が濃い。
濡れたように潤んだ瞳はぼんやりと日誌に向けられていて、どうせならこっちを見ればいいのにとらしくもない思考が脳を占めた。
「…………馬鹿か私は」
「?」
不思議そうに瞬いた名前と目が合って心音が乱れる。
自分が声に出していたことに舌打ちしたくなりながら、同じくらい嬉しいとも思う。そんな熱で鈍る頭をどうにかしたくて、とっさに筆で名前の鼻を撫でた。
「なーーー!?なにすんの!」
「悪戯してほしそうな顔でこっちを見るからだ」
「見てない!!」
「いいや見てたね。それより変装術を学びたいなんて、どういう風の吹き回しだ」
集中できそうにないと筆を一旦置いて、気づかれないように深呼吸。悪態をつきながら手ぬぐいで鼻を拭いていた名前は、私の問いに動きをピタリと止めてあからさまに顔を逸らした。
「――誰かに悪戯でも仕掛ける気か?」
「三郎じゃないんだからそんなことしません」
「なら授業の補習か。お前、実技の成績は芳しくないもんな」
「断言しないでよ……違います」
それなら何故?
不満そうな顔に視線で問えば、名前は目をうろつかせて鼻から手ぬぐいを降ろし「庄左ヱ門」と突拍子もなく一年生を呼んだ。
「は…?」
「庄左ヱ門には教えたって、聞いた」
よほど強くこすったのか、僅かに赤くなっている鼻が気になって指の背で触れると名前の肩が跳ねる。
じわりと頬が再び染まっていく。自分まで釣られる気がして軽く鼻の頭をつまんでやった。
「っ、もう!」
「はは、赤くなってるぞ」
「三郎のせいでしょ」
恨みがましい視線を寄こし私の手を押しのけると、目を逸らしながらも名前は“変装術を教えろ”と唐突に言い出した理由を口にし始めた。
こいつは妙なところで素直すぎると思いながら、しどろもどろで無駄に回りくどい話を耳に入れる。内容をまとめれば単純ながら実にわかりやすかった。
「つまり、『庄左ヱ門ばっかりずるい!』ということだな?」
ニヤリと笑いながら言うと、名前はぐっと言葉を詰まらせて微かに身じろぐ。
それから目元を染めて視線を下げ、声真似やめて、と文句をぶつけてくる声は小さくて、羞恥のせいなのか微かに震えていた。
――――ああああまったく、なんなんだこいつは!
からかうつもりで言ったんだからムキになって否定するべきだろう。それともさっきの仕返しか!?
筆も日誌も投げ出して教室の畳に倒れこみ、衝動に任せて爪を立てる。
不意に浮かんだ“可愛い”という言葉が今にも口からこぼれ落ちそうだ。それを落とすのは癪だと妙な意地を張りながら、ガリガリ畳の目を引っ掻いていると「不破くんに怒られるよ」と、思わずツッコミを入れたくなるようなコメントを寄こした。
「駄目なら、別に…いいよ、庄左ヱ門のとこ行ってくるから」
「教えないとは言ってないだろ。お前はもう少し気を長く持ったほうがいいんじゃないか?こと頼みごとに関してはせっかちで早とちり、加えて悪い方に取りすぎるきらいがあるだろう」
ぐっと押し黙った名前が唇を引き結び、目を泳がせる。
そんなことない、との反論は小さすぎるのを理由に聞かなかったことしにした。
「さ、三郎が、ひねくれたことばっかり言うからだもん」
「………………お前は気づいていないだろうが、私は割と献身的だぞ」
自分のお気に入りに対しては。
心の内で付け足し、余裕ぶって見えるように口元に笑みを浮かべてさっさと日誌を書き終える。
無言の名前をチラ見しながら、素直に口にしない自分を棚にあげてよくも言えたものだと自嘲した。
「…つまり、教えてくれるってことだよね」
「先に言っておくが委員会の時間は無理だからな」
先生のところへ提出するべく日誌を持って立ち上がりながら暗に肯定すれば、名前は勢いよく身を乗り出したせいで転びかけた。慌てて腕で支えると反射的に「ごめん」と謝罪が飛んでくる。
しっかり立たせる途中で呆れ混じりに小言を言うつもりだったのに、見降ろした先で喜色のにじむ眼差しにぶつかってしまっては上手く形になってくれなかった。
落ちものパズルゲームvs久々知
※久々知視点
「や…久々知くん、だめ!待って!」
「待たない」
なるべく名前の声を聞かないように画面に集中する。
早々に終わらせたくて起爆点に目的の色を配置すると、狙い通りに連鎖を起こす。
それはそのまま対戦相手――名前の方へ邪魔なオブジェとして降り注ぐ準備を終えた。
「ちょっ…、やだ、あ、あ、あ……あーーー!」
立て続けに画面を埋めていくオブジェに、俗に言う“窒息”状態へと追い込まれる名前。
――ゲームをしているだけなのに、悲鳴(?)のせいでどうにもアレな妄想を掻きたてられるのが困る。
画面を食い入るように見つめていた彼女ががっくりと項垂れて、“負け”を知らせる文字から俺の方へ視線を移した。
「…………ひどい」
開口一番、恨み言でも零すみたいに呟かれ、拗ねる名前の様子につい笑ってしまった。
「ずるはしてないだろ?」
「でも!久々知くんがこんなに強いなんて知らなかったもん!もう一回!」
身を乗り出して指を一本立てる名前は真剣だ。
“勝ったらなんでも言うこと聞く”ってルールでふっかけてきたのは彼女の方だから仕方ないのかもしれない。
「別に構わないけど…さっき俺が勝った分はそのままだからな」
「う…、わ、わかってるよ。だから今度はハンデ有りで勝負」
「それじゃ名前がずるくないか?」
「弱い者いじめ反対!」
「…………わかった」
気が済むまで付き合ってもいいけど、こんな美味しい条件を出されて手加減なんてする気はない。
回数を重ねるに連れて名前の負担が大きくなるんじゃないかと思いながら、「今度こそ!」と気合を入れてコントローラーを握り直す彼女をチラ見した。
こんな勝負なんかしなくても、名前の頼みを聞くくらいならしてやるのに。
猫になった日-彼女の場合-
※久々知視点
委員会の活動時間も終わり、焔硝蔵から外に出ると、先に帰したはずの三郎次と伊助が額をつき合わせるようにしてしゃがみこんでいた。
どうしたのかと声をかけるより早く、「あ」と声が重なり二人の間から小さな影が飛び出てくる。
反射的に焔硝蔵の中に入ってしまわないように身構えたものの、小さな影――猫は俺の足元で止まり、身体を擦り寄せて短く鳴いた。
「わ、可愛いねー。兵助くんの飼ってる猫?」
「……いえ、初めて見ます」
懐かれるような覚えもなく、内心戸惑っているとタカ丸さんがしゃがんで猫に手を伸ばした。
途端、毛を逆立てて飛びのきつつタカ丸さんから隠れるように移動する。俺の足元からは離れないせいで、下手をしたら踏んでしまいそうなのが怖い。
「二人は知らないか?」
三郎次と伊助は一度顔を見合わせたあと首を振り、この猫が焔硝蔵の前をウロウロしていたと教えてくれた。
「…僕たち、久々知先輩の猫だと思ってました。なんだか待ってるみたいでしたし、今も――」
ちらりと視線を下げる三郎次につられて足元を見れば、ぴたりと俺にくっついたままの猫が返事をするようにニャアと鳴いた。
行動を見るとそう思われても仕方ない気もするが、本当に覚えがない。
友人の誰かじゃないかとタカ丸さんに聞かれたけれど、そっちにも心当たりはない……のに、こっちを見上げて訴えるように鳴くから、とても放っていく気にはなれなかった。
「――とりあえず、周りに聞いてみます」
「うん、そうしてあげて!」
わかりやすくホッとする伊助と、僅かに表情をゆるめながら猫に目をやる三郎次につい笑いが漏れる。
焔硝蔵の鍵はタカ丸さんが戻してくれると言って(なかば奪うように)持っていってくれたので、ひとまず移動することにした。
「……そんなに近くにいると危ないぞ」
足元に近すぎると思いながら速度を落とすと、またニャアと一声鳴かれた。
俺には動物の言葉がわかるなんて能力はないから、何を言われたのかわからない。だけど少し離れてくれたから“わかった”とか、そんなところだろうか。
「随分珍しいのを連れてるな、兵助」
「三郎。ちょうどよかった、こいつに見覚えないか?」
「どれ」
言うなり首根っこを掴んで持ち上げる三郎に、猫は今までで一番大きな声で鳴いて三郎の顔を引っ掻くという行動に出た。
雷蔵を模した顔と一緒に猫が落ち、落ちた顔に向かって一気に毛を逆立てる。
…まぁ、不気味だよな。顔だけが地面に落ちてるのは。
「私はこんな乱暴なやつ知らん!」
「…………今のはお前が悪いと思う。それより名前を捜してるんだけど、知らないか」
ニャー、と足元から声が上がる。
つられて視線をやれば、また俺の足に身体を擦りつけ何度も鳴かれて戸惑ってしまった。
「どうしたんだ、いきなり」
「発情期なんじゃないか」
「そうなのか?」
つい問うように猫を見て、思いきり威嚇された。どうやら違うらしい。
「…こいつ、頭いいのかな」
「は?」
「いや、さっきから話が通じてる気がしてさ」
「誰かの飼い猫…にしては、異常なほどお前に懐いてるな」
頷いて返しながら、鳴くのをやめた猫を見下ろす。
ニィ、と弱まった鳴き声は妙に自分を不安にさせて落ち着かない。
「兵助、ちび名前にしないか」
「……いきなりなんの話だ」
「そいつの名前に決まっているだろう、どうだ」
どうだもなにもない。
勝手に名前をつけるのはどうかと思ったのに、俺が返事をする前に猫が何度も鳴く。
「そっちは気に入ったみたいだぞ」
「…………そりゃ、名前はいい名前だからな」
雷蔵に選ばせる話
※不破視点
僕の背中に寄りかかり、退屈そうに本を読んでいた名前が小さくあくびを漏らす。
それを耳にして一度筆を止めると、唐突に「あ」と呟いてくすくす笑いだした。
「ねえ雷蔵」
「ん?」
「好き」
びくりと勝手に身体が震え、書いたばかりの文字がつぶれる。
書き直そうにも心臓がうるさくて筆の先が定まらない。このままだと確実に歪むだろう。
いきなりどうしたのかと大きく息を吐き出しながら呼びかける。
なのに名前は僕の問いには答えてくれず、落ち着く時間さえくれなかった。
さらに体重をかけ、頭を擦りつけるようにしてもう一度同じ言葉を繰り返す。
囁くように、さっきよりも甘ったるく聞こえた“好き”に、一瞬呼吸が止まった。
全然治まらない心音と彼女の微かな笑い声を聞きながら、これはわざとだなと思う。
嬉しいのに素直に喜べないなんて複雑だ。
「…名前」
文字を書くのを諦めて筆を置く。
一度咳払いをして振り向こうとする僕を止めるように、今度はぎゅうと抱きつかれて思いっきり声が出てしまった。
「雷蔵はどっちが好き?」
「な、なな、なにが?」
「言われるのと、抱きつかれるの。どっちが嬉しい?」
僕の背中にぴたりとくっついたまま、楽しそうに問いかけてくる名前。
彼女の考えが全く分からず、自分の腹に回された手に触れながら顔を見ようとするけれど、近すぎるせいで見えない。
「ね、どっち?」
「…………そんなの、どっちも」
「両方は駄目ね」
ぴしゃりと先手を打たれ、ぐっと言葉を飲み込む。
答えに困る僕を見て上機嫌に額を押し付けてくる名前は可愛い反面やっかいだ。
選べるわけないじゃないか、と心の中で吐き出しながら強引に名前の手を外して身体を反転させる。不満そうに僕を呼ぶ彼女と向き合って「名前は?」と逆に聞いてみた。
「私?」
じっと見つめられて、僕がやられたそのままを返そうと思ったのに動きがぎこちなくなってしまう。
腕を引き、やんわりと肩を抱くと微かに息を飲む音が聞こえてドキッとした。
「――……好きだよ」
掠れそうな声で伝えた途端、勢いよく首に抱きつかれ背中を文机にぶつけてしまい、予想外の痛みで息ができなくなった。
墨がこぼれたような音も聞こえたし、机の上を確認したくないなぁと逃避気味に息を整える。
名前を支え起こそうとして柔らかさに戸惑っていると、微かに「もういっかい」と声が聞こえた。
押せ押せスイッチ入ってる夢主
※久々知視点
――どうしてこんなことになっているんだろう。
俺の肩を押さえる弱々しい力を感じながら、真上にある彼女の顔を見上げる。
名前の顔は赤く、苦しそうに眉根を寄せて浅い呼吸を繰り返していた。
呼びかけたいのに声が出ない。
そればかりか、さっきから熱に浮かされたように頭がうまく働いてくれない。
部屋に充満する甘ったるい匂いのせいか。
原因を探そうと思うのに、それを邪魔するように名前の指が首筋を撫でていく。
ゆるりと頸動脈を伝うような動き。ゾクリとした感覚は快楽か恐怖かよくわからなかった。
「…久々知くん…」
名前が発する掠れ気味の声を聞きながらゆっくり瞬きをする。
寝巻きの襟元からそっと差し込まれる指先が異様に熱い。
これは夢かと尋ねるつもりで口を開いたけれど、音になる前に柔らかな感触に遮られてしまった。
「――…っ、ん……」
小さく漏れ聞こえた声に心臓が跳ねる。
同時に反応した指先のおかげで自分が動けることに気づいて、彼女の腕を捕まえる。
控えめに侵入してくる舌先を迎え入れて触れ合わせると名前の肩が震えた。
名前はすぐに身を引いたけれど、俺が腕を掴んでいたからか胸の上に倒れ込んでくる。
ふわりと甘い匂いが鼻孔をくすぐり、めまいがした。
浅く繰り返される呼吸はどこか苦しげで、密着する身体はやわらかく、熱をもって――――……熱?
「はっ…」
「…名前…?」
「……ふふ……久々知くん……」
内心焦りながらも名前を支えたまま身体を起こし、額に手を添える。
ちがう、と唇を動かす名前に見惚れていたら、そっと袖を引かれた。両手で俺の手を握った名前の誘導に視線もつられる。
俺にはない柔らかそうな曲線。ごくりと喉が鳴ったと同時、指先に心地よい弾力が触れた。
ペット志願の勘右衛門 室町ver.
こんな鬱蒼とした山奥に入り込む人間なんて滅多にいない。
よほどの物好きか私の友人か客か…死体くらいかもしれない……だからそこの木の影に隠れるようにして蹲ってるのも、きっと――そう思いながら見ずに通り過ぎるつもりが、つい眼がいく。
死体だと思っていたものが僅かに動いてるのに気づいて、しれず息を止めていた。
「…………尾浜くん?」
「――? あ…れ、幻覚まで見えるとか…いよいよやばいな」
ゼェゼェと荒い呼吸を繰り返し、ぐったりと木に寄りかかっているのは学園にいたころの同級生。
へらっと笑ってみせるものの額には汗が浮いていて、明らかに顔色が悪い。
反射的にそばに座り込んで状況を確認すれば、肩から腕にかけて忍装束が血に濡れていた。
「名前が刺客なら、それもいいかも……」
「なに馬鹿なこと言ってるの!」
断りもせずに装束を裂いて、血止めをしながら傷を確認する。
二ヶ所ほどあるそれはどっちも掠っただけなのか、傷自体はそう酷くないようだ。
「……何でやられたの?」
「…………銃、と…矢」
顔色を見ながら症状を聞き出して、無理やり持っていた毒消しを飲ませた。
「まだ歩ける?無理なら引きずっていくけど文句は言わないでね」
「……強引だなぁ」
「ここで死なれたら後味悪いでしょ。そういうのは私の知らないところでやって」
なかば本当に引きずりながら彼を家に運ぶ。
尾浜はだいぶ消耗しているようで、されるがままだった。
見つけてしまったから、知りあいだったから、たまたま薬を持っていたから。
頭の中で言い訳めいた理由を思い浮かべながら、同時に厄介ごとに首を突っ込んでしまったとうんざりした気持ちが湧いてくる。
――命を狙われている忍になんて、絶対関わりたくなかったのに。
+++
翌日、驚異的な回復力を見せた尾浜は色々と私に質問を投げかけてきた。
それはどれも学園に在中していたころの話で――とはいっても二、三年しか経ってないけど――久々に懐かしさを味わった。
「名前って…まだ独り身?」
室内をきょろきょろしながら言われた言葉に頬が引きつる。
“つい”包帯を巻く手に力が入り、ギリギリと尾浜の腕が締まった。
「痛い痛い痛い痛い!!」
「生きてる証拠だよ、よかったね。言っておきますけど、私は好きで独りなんだから!これでも引く手数多で――」
「知ってる」
痛がりながら口を挟まれて、思わず続きを飲み込む。
尾浜はへらっと笑って呟くように「知ってるよ」と繰り返した。
「…なら、いいけど。それより動けるようなら早く出て行って」
「やだ」
「は?」
「おれさー、帰るとこないんだ。雇われてたとこには捨てられちゃったみたいだし。だからここに置いて」
あえて聞かないようにしていたことをあっさり口にしたあげく、さらっととんでもないことを言い出した。
昔から彼の考えは理解できなかったけど、それは今も変わらないらしい。
「尾浜くんがいたら邪魔なの」
「…恋人が来るから?」
「そんなんじゃなくて、お客さん。私これでも薬屋さんだから」
尾浜はきょとんと目を丸くして何度か瞬きを繰り返す。
薬、とぽつりと零し、自身の腕にそっと触れた。
ペット志願の勘右衛門
今日シャンプーが切れていなければ。
外が土砂降りじゃなければ。
普段は通らない近道を使おうとしなければ――、私に向かって手を振る元同級生を前にしてそんな“たられば”を考えていた。
コンクリートに当たって跳ね返る水滴の高さや傘にぶつかる雨音の重さ。水を吸い込んで濡れる靴の不快感。
イライラしながら公園を通過していたら、この大雨だっていうのに傘も差さずにベンチに腰掛ける人影を発見して一瞬ゾッとした。まるで幽鬼だ。オカルトなんて信じてなかったけど思わず足があるかを確認してしまった。
雨粒が跳ねてるし泥だらけのスニーカーは水たまりに浸かってる。
じゃあ彼は変人だ関わりたくない、と結論付けて素通りしようとしたら唐突に苗字を呼ばれた。
「あれ?苗字だよね?苗字名前ちゃん」
「………………どちらさま?」
「やだなー、尾浜だよ。学級委員長やってた尾浜勘右衛門くん」
足早に通り過ぎてしまおうと思ったのにフルネームで呼ばれて立ち止まったら、私に向かって笑顔でひらりと手を振る。
それからずぶ濡れの髪をかきあげて、すぐそばに置いてあったバッグをごそごそ探り始めた。
顔と名乗りでおぼろげながら思い出していた私は溜息をつきながら彼に近づいて、僅かに傘を傾ける。既にぬれ鼠の尾浜くんには明らかに意味のない行為だけど自分だけ傘に入ってるのも気が引けた。
「ありがと」
尾浜くんはバッグを探っていた手を止めて、へらりと嬉しそうに笑う。
別に、と返せば目的のものを探り当てたのか何かを差し出してきた。
――大川学園大学部の学生証。
「…………それで、これをどうしたらいいの?」
「おれの身分証明。で、今夜一晩泊めて」
「は!?」
「ついさっき彼女に振られて追い出されてさぁ…おれ今日宿なしなんだよね。どうしよっかなーってぼーっとしてたら苗字が通りかかってくれたから」
「いやいやいやいや何言ってんの、その冗談面白くないから」
「え、おれ本気だけど」
あっけらかんと言われて私の方が絶句してしまった。
一応顔見知りとはいえ、大して親しくもない異性に“泊めて”ってお願いするなんておかしいんじゃないの。
尾浜くんの女性事情はわからないけど、私の記憶が確かなら親しい男友達だっていたはず。そっちを頼ればいいと思う。
「それがさー、携帯壊されちゃって…ほら」
「…………えー」
「あは、携帯って結構脆いよね」
見せてもらった携帯は折り目の部分で真っ二つに割れていた。逆パカってやつだろうか、初めて見た。
呆然としていた私は尾浜くんの盛大なくしゃみを聞いてハッと我に返る。自分の携帯を貸してそれで連絡をつけてもらおうとしたけど、元々シャンプーだけ買ってすぐ帰るつもりだったから持ち歩いていなかった。
迷いに迷っている間、二度目のくしゃみ。
「ごめん」
眉尻を下げて笑う尾浜くんを見て、思いっきり大きく息を吐きだした。
嫌々だという感情が表にもでてしまったけど、実際嫌なんだからしかたない。彼に立つように促して、こっち、と行き先を指差す。
「いいの?」
「泊めるんじゃなくて、携帯貸すだけね」
「ちぇー…まあいいか。ありがと苗字!」
――私はこの笑顔と納得したかのようなセリフに騙された。
渋々自分の家に彼を迎え入れて、床をびしょぬれにされたらたまらないと風呂場に押し込んだ。
タオルと一緒に携帯を差し出せば、当然のように「誰のが入ってる?」と聞き返されて顔がひきつった。
「尾浜くんの友達のアドレスなんて入ってるわけないでしょう」
「でもおれ覚えてないし…」
「覚えてないの?一つも!?」
「じゃあ苗字は友達の携帯番号そらで言える?」
「……だ、だけど、それじゃ」
「てっきり苗字の携帯に登録されてるかと思ってたんだけどなぁ……っくしょい!うー…寒い、脱いでいい?」
「だめに決まってるでしょ!」
信じられない。ありえない。尾浜くんと私の感覚は違いすぎる。
だからと言ってブルブル震え始めてしまった彼を外に放りだす度胸もない。
「…外に出なければよかった…」
「おれは苗字と会えてよかったなーって思うよ」
「私はよくないよ!」
叫ぶように言い返しながら、お風呂の電源を入れる。
一方的にシャワーの使い方を説明してバスタオルを押し付けて、何か言葉を返される前にドアをピシャリと閉めた。
ユリコに恋愛相談する三木ヱ門
ふとした用事で忍たま長屋を訪れた帰り道、石火矢を磨く三木ヱ門を見かけた。
ユリコ、と漏れ聞こえた呼びかけにはいつものデレデレした感じはなくて、どこか切羽詰まった雰囲気。
今の三木ヱ門からは、くだらないことで滝夜叉丸と張り合って、二言目には“忍術学園のアイドル”なんて戯言を垂れ流す自称アイドルの面影が感じられなかった。
にょきっと好奇心が芽生えて気づかれないように距離を詰める。耳を澄ますと、やけに重苦しい溜息が聞こえた。
「ユリコに鹿子、サチ子や春子といるときも…急に出てきたりするんだ」
答えなんて返ってくるはずないのに、三木ヱ門はまるで石火矢が生きてるみたいに鉄の塊に向かって話しかけている。
いつもならからかって遊ぶところだけど、どうやら本気で悩んでいるらしくて出ていくタイミングをなくしてしまった。
「そりゃあわたしはくの一教室でも評判の忍術学園のアイドルだけど、あいつにはこの魅力がわからないみたいで…」
――やっぱり、いつもの戯言かもしれない。
くの一教室での評判といっても、三木ヱ門が期待してるようなものとは真逆だって断言できるくらいだもの。
小さく息を吐き出してそうっと覗き見ると、三木は石火矢に覆いかぶさるように寄りかかってぐんにゃりしていた。
「……ユリコ、あいつと会話を続けるにはどうしたらいいと思う?」
沈み込む声は真剣だとわかるけど、なんせ相談相手は石火矢だ。どう頑張ったって答えなんて返ってこない。
せめて同じ学年の忍たまとか、委員会の先輩とかに相談したらいいのに。
(……しかたないなぁ)
すっくと立ち上がってお尻を叩く。
ぎょっと目を見開いた三木ヱ門は口をパクパクさせながら私を指差した。
その動作にムッと眉間にしわを寄せても彼は気づいていないのか、じわじわ顔を赤くしていく。
「お、おまえ……いつから……!」
「ちょっと前。三木ヱ門が女の子の名前ずらずら並べてたあたりかな」
「そ、それは、本物の女の子じゃなくて、」
「火器の彼女でしょ?」
三木ヱ門がじりじり下がっていくのを放置して、石火矢のすぐ横に座り込む。
寄りかかったら怒られるかなと思ったけど、三木は何も言わなかった。
「三木ヱ門、相談なら人間相手にしなよ」
「…………誰に」
「滝夜叉丸とか。仲良いでしょ?」
「仲良くない!誰があんな奴に相談なんか…!滝夜叉丸に言うくらいなら左門や潮江先輩の方がまだマシだ!!」
ギッと目尻を釣り上げて怒りだす三木ヱ門の勢いはちょっと引く。
じゃあその先輩に相談してみたらと言ってみたら、今度は「言いにくい…」と眉根を寄せて顔をしかめた。
「……それなら……私、とか」
「は?」
「ほら、その…聞いちゃったし、交流関係に悩んでるのかなって。くのたま相手なら引き合わせるくらいはしてあげる!」
軽い気持ちで盗み聞きしてしまった罪悪感から、ドンと胸を叩いて言ってみた。
三木ヱ門はなぜか呆れた顔で溜息をつき、少し近寄ってくる。
「名前、協力してくれるって本当か?」
「呼びだすくらいなら」
「…そんなの、お前の手を借りなくてもできる」
「うー…、じゃあ仕方ないから会話が弾むまでいてあげるよ」
不満そうな三木ヱ門に見得を張ったはいいものの、内心めんどくさいなと思わずにいられない。
だってこいつと会話を弾ませるなんて至難の業だ。
三木の口から飛び出る話題といえば、自分の話か火器の話か照星さんの話くらい。滝夜叉丸の愚痴もあった。それと、たまに会計委員会での苦労話。
「呼びだす前に、三木ヱ門は話題の選択から考えた方がいいと思う」
「――例えば?」
「趣味とか好きなものとか…相手の好きなものだからね?三木は自分のことばっかり話しすぎなの、聞いててつまんないもん」
「…………つ、つまらない」
「あ、でも私三木の話で委員会の話は結構好き」
「え!?」
「まだまだ頑張れるって思えるし!」
三木ヱ門→夢主。
いつ“お前のことだ”って言おうか内心そわそわしながら探りいれる三木ヱ門。
小松田さんと幼馴染みな町娘
お手紙です、と受け取った手紙の内容をザッと読み、私は一も二もなく家を飛び出し隣家である扇子屋へ飛び込んだ。
「いらっしゃいませ……って名前か」
「優兄ちゃん!これ、秀作!手紙!」
うんうん、と頷いた優作が苦笑気味で私の肩を叩く。
落ち着いての合図に深呼吸をして、改めて持っていた手紙を見せた。力を入れて握ってしまったせいか、中心に派手な皺ができている。
「なにが書いてあったんだい?」
「忍術学園で、チャリティバザーやるんだって」
「へえ、おもしろそうだね」
「それで、暇ならおいでって…秀作が…」
震える手の中で手紙に新しく皺ができる。
今まで近況報告(と言う名の失敗録)は貰っていたけど、こうしてはっきり招待されたのは初めてだ。
会いたいと思っていても職場に押しかけるのは迷惑だろうし、秀作も秀作なりに頑張ってるみたいだからと、自分なりにずっと我慢してた。
「いってきていいかな」
「もちろん行っておいで。というか、一緒に行こうか」
のんびり言う優作が未開封の手紙を引っ張り出す。
これは招待状だったのか、と独り言を言いながら内容に目を通していた。
扇子屋も出店しようかなぁなんて言い出してるけど、売上金は宣伝費と割り切るつもりなんだろうか…そりゃあ優作の作る扇子は文句なしにいい出来だし、いくつか固定の取引先だってあるし、一般的でない注文にも気軽に対応してくれるってことで安定してるみたいだけど。
秀作ほどじゃないにしても、マイペースな優作には時々ハラハラしてしまう。
「出店するの?」
「お得意様を増やすいい機会だしね」
「…私も手伝う」
「それは助かるけど、名前は秀作に会いにいくんだろう?」
「いいの。それに…ちょっと、照れくさいから」
これなら、ばったり遭遇したときに“優兄ちゃんの手伝いで来た”って理由が言える。
そのまま秀作に会いに来たって言えればいいけど、それはなんか恥ずかしい。
――どっちにしたって秀作はにこにこしながら「そっかぁ」で済ませそうな気もするけど。
+++
忍術学園に向かう日。
私はそわそわしすぎてあまり眠れてなかったものの、それを感じないほど元気だった。
目の前に見えるのは学園の門。ずらりと並んでいる客の先から聞こえた声にドキッとした。
「はい、確かに。ではこちらにサインお願いしまーす!」
ちら、と隣に立つ優作を見上げる。
秀作の働く姿を見て「やってるなぁ」と嬉しそうに笑う優作が、私の視線に気づいて首を傾げた。
首を振ってなんでもないと返しながら、やっぱり秀作の声の方が少し高いんだなと思う。
「あ、兄ちゃん!」
「秀作、店を出すのは無許可でいいのか?」
「それならこっちに名前と並べる商品を――……名前?」
「ひ、ひさしぶり」
「来てくれたんだ」
「優兄ちゃんの手伝いとしてだよ!」
「そっかぁ。なんか見ない間に雰囲気変わったねぇ…背伸びた?」
お前は親戚の兄ちゃんか、とつっこみたい衝動に駆られたけれど、それを寸でのところで耐える。大体、背なんて伸びてない。
そうじゃなくて、綺麗になったとか大人びたとか――秀作が言うわけないか。
「名前?」
「…なんでもない。秀作、後ろ詰まってるよ」
「あ、そうだった。それじゃあ楽しんでってね。後でお店見に行くから~」
ひらひら手を振って、秀作はまた招待状と招待客の確認に戻る。
隣から聞こえた笑い声にハッとして見上げたら、優作が口元を押さえて笑っていた。
「名前、お前、相変わらず、」
「だ…だって、こうなっちゃうんだもん!ちょっと、優兄ちゃん笑いすぎ!」
私をあやすようにぽんぽんと頭に手を置く優作から目を逸らす。
会いたくて来たはずなのに、どうしてこうなるんだろう。
「あ、お面が売ってるな。名前に一つ買ってあげようか」
「いらな……いらない!」
断りかけたときにその面を見て、改めて力いっぱい断ってしまった。
なのに優作は「よくできてるなぁ」と私の返事なんて聞いちゃいない。
「すみません、一つください」
「はーい。ありがとうございます」
ドクタケ忍者隊の首領の面なんて誰が――と思ったけど、隣にいた。
「ほら名前、これ被ってれば秀作にも素直になれるんじゃないかな」
「優兄…八方斎の顔で言われて嬉しい?」
私の質問を誤魔化すように、優作は自分でその面を被って「さあ、場所取りにいこう」と話題を変えた。
デレツン。
いっそ小松田兄弟夢にしたほうがいいんじゃないかって気がした。
病んでる久々知
※久々知視点
「ただいま」
帰宅を告げながら耳を澄ます。
静まり返った部屋の奥からかすかに聞こえる物音に、彼女も起きていることを知った。
「名前」
真っ暗な部屋の片隅でびくりと震える彼女に、もう一度ただいま、と告げる。
弱々しく俺を呼びながら身を縮める名前は、まるで俺に怯えているみたいだ。
「灯りぐらいつけたらいいのに」
「……これ、外して」
ジャラ、と音を立てる足元の鎖を持ち上げて泣きそうな顔をする。
それでも震える声を懸命に押さえ込もうとしている名前に、思わず笑みがこぼれた。
気丈で絶対に譲らない頑固さを持ち合わせている彼女も可愛い――でも、最近はそれが崩れる瞬間にも高揚感が増すことに気づいたんだ。
「おね、が……おねがい、久々知くん、こんな、……やだよ」
ボロッと両目からこぼれたのは大粒の涙。
顔を覆ってその涙を懸命に拭おうとしている手を掴んで引き寄せると、名前はあっさり俺の胸元に倒れこんできた。
泣きすぎて赤くなっている目元に舌を這わせる。
びくりと震える名前を押さえ込んで涙を舐め取るが、それは絶えず流れて止まらない。
「…目が溶けそうだな」
ちゅ、と音を立てて一旦離れると、名前は小さく首を振る。
溶けるわけない――なんて、返答の意味じゃないことはわかってる。
さっきから、か細く聞こえる彼女の声が“嫌”を紡いでいるから。
でも俺はそれを無視して名前の唇を塞ぐ。
何度も何度も、繰り返し。言葉を紡ぐ暇なんて与えない程に。
甘く掠れる吐息と息継ぎの音、今はそれしか聞きたくない。
常用無障(竹谷)
常用無障(1)
さて、どうしたものか。
指先で使用済みの香を遊ばせながら思考に耽る。
――いつでも来て。
そうは言われたものの、生物委員会に割り当てられた予算は既にカツカツで、有料だというこれを注文する余裕はない。
元々使ってなかったんだから、普段どおりに戻るだけだと言い聞かせても一度“便利だ”と経験してしまうとつい頼りたくなる。
「あれ、八だ。一緒に夕飯食べない?」
雷蔵が最近生物委員はおとなしいね、と笑いまじりに声をかけるから、持っていた香の残骸を放った。
「っと。なにこれ」
「そいつを小屋の入口で焚いて、逃がさないようにしてんの。楽だぜー?」
「へえ…ってことは苗字さんのか。いい匂いだね」
残り香に気づいて表情を緩ませる雷蔵に、俺も「だろ」と笑い返す。
別に自分が褒められたわけじゃないのに妙に嬉しい。
部屋で普段使いにしてもいいようになのか、柔らかく控えめな香りを燻らせるそれは一年連中にも人気だ。口にはしないが孫兵も気に入っているようで、たまに入口で足を止めているのを見る。
おかげでもうすぐ貰った分がなくなるわけだが…補充できる見込みは薄い。
「会いに行ってないの?」
「行けねぇだろ…予算ないから交渉は無理だし、かといって用もねーし…」
「ふーん…三郎は会ってるみたいなのになぁ」
「は!?」
そんなの聞いてないぞ!?
初めて知る事実に勢いこんで雷蔵を見ると、雷蔵はわずかに気圧されたように身を仰け反らせ、まあまあ、と俺を宥めた。
「ほら、この前追いかけっこしたときのこと引きずってて、ちょくちょく悪戯を――」
「不破ぁーー!!」
「は、はい!?」
噂をすれば。
随分久々に見た気がする彼女――苗字名前は目を吊り上げて足を鳴らしながら近づいてきた。
「あんたさっきはよくもやってくれたわね!?」
おかげでびしょ濡れよ、と疑問符を沢山浮かべる雷蔵に怒鳴る苗字は、よく見れば髪を湿らせている。
「いや、ちょっと待って苗字さん、それ僕じゃ」
「この際どっちでもいいのよ!憂さが晴らせれば!!」
「うわっ」
言うなりいつの間にか手に持っていた何か(よく見えなかった)を床に叩きつけ、あたり一面を白に変えた。
「なんだこれ煙玉――う!?」
ただ煙いだけかと思ったら、ツンと鼻を突く刺激臭。
鼻は痛いし涙は出るし、ろくにしゃべることができなくなった。
(っつーか…これ、完璧に巻き添えじゃねーか!!)
結局、ろくに会話もできないまま――そもそもあっちが俺を認識していたかどうかも怪しい――俺は苗字との邂逅を終えた。
「――なんだ八、あいつに用があるのか。そういうことなら私に任せておけ」
俺と雷蔵で三郎に灸を据えている最中、なにを思ったか三郎はニヤリと笑った。
どうも反省してないみたいだね、と言いながら雷蔵が室内の温度を下げる。途端に姿勢を正す三郎に溜息をついて、余計なことすんなよと言っておいた。
常用無障(2)
いよいよ香の残りは二つ。
竹谷先輩おねがいします、と一年連中から期待の眼差しを受け、俺はくのたま長屋の入口に立っていた。
交渉するための元手はもちろんない。
持っているものなんて精々この身一つ。この前の侘びも済んでいないけれど、くのたまの実験台になる回数でなんとかしてもらえないだろうか。
本当なら実験台なんてごめんだが、まったくなにもないよりは少しでも確率を上げたい。
「はぁ……」
ゆっくり深呼吸をして、通りがかったくのたまに苗字を呼んでもらおうと声をかけようとして――相手に驚いた。
「苗字!?」
「……よくもまた私の前に顔出す気になったわね……」
「は?ちょ、ちょっと待て!」
俺を見た途端、ギラリと光る苦無を片手に殺気を放つ苗字に後ずさる。
これじゃ交渉どころじゃない。
「この変態!!」
「こら!!全然話が見えねぇぞ!?」
「っ、」
顔の横を手裏剣が飛んでいく。
避けた方向に苦無が突き出されて、反射的に腕を掴み捻り上げてしまった。
苗字の手から苦無が落ちる。
「い、ぁ…っ、…はっ…」
眉間に皺を寄せて、涙目で。短く呼吸を繰り返して痛みを逃がしている苗字。ギッときつく睨まれて、慌てて手を離した。
「しんっじられない、あんたには容赦ってもんがないの!?」
「いや、だってお前エロ」
「ば…、死ね!!」
「ぐぁ…っ…、……!」
股間を蹴り上げられて悶絶する俺を、苗字は腕を組んで見下ろしているようだった。
ようだった、ってのはつまり、上を向く余裕もなにもないってことで……ちくしょう、なんだってこんな目に。
「一度で懲りないって学習能力ないのね」
「…から…意味が……っかんね……」
「だ、だから!さっきも…………あ。まさか」
途端におろおろしだした苗字が「どうしよう」と呟く。
さっきから置いてかれっぱなしの俺は説明を求めたいのに、未だに痛みを引きずってて上手くしゃべれなかった。
「い、医務室行く?」
格好悪いことこの上ないだろ。
首を振って拒絶すると、苗字は俺の腕を引いてくのたま長屋の塀近くに誘導する。
苗字が動くとふわりといい匂いがして、また調合でもしてたんだろうかとどうでもいいことを考えてしまった。
俺の横に座って静かにしていた苗字は、時折俺をちら見して「でも、やっぱり竹谷は変態だ」と非常に不名誉なことを呟いた。
「あのなぁ…男なんてそんなもんだろ」
「う、うるさい!伊作兄さ…先輩はそんなんじゃないから!」
「伊作…って善法寺先輩!?夢見すぎだろ……いやそれよりお前、いきなり手裏剣うつなよ!」
混乱しながらもつっかかると、苗字はムスッとした顔でごめんと呟いた。
全然謝罪してるようには見えねぇ。
「あんたが…竹谷が、来る少し前に、あんたの格好したやつが……」
「…………三郎が?」
もごもご言いよどんで忙しなく視線を泳がせる苗字に嫌な予感がする。
「い、いきなり、抱きついてきて、髪、サラってしたの!しかも、いい匂いって…ば、馬鹿じゃないの!!」
「危ねっ、俺じゃねーだろ!」
振り上げられた手を途中で止める。
カーッと顔を赤くして捲くし立てる苗字の言葉はわかりづらかったけど、三郎がなにをしたのかははっきりわかった。
余計なことすんなって言ったのに、なにしでかしてくれてんだあの馬鹿。
――それじゃあ怒ってもしかたないと思う反面、三郎が羨ましい、なんて思ったのは秘密だ。
「だから正当防衛!」
「……蹴ったのか」
「ついでに殴ったわよ!」
怖ぇ。
苗字は立ち上がると両手を腰に当てて小さく鼻を鳴らした。
それから俺を振り返り、微かに首を傾げる。
「…そういえば、くのたま長屋に用事?」
「お前に用があったんだよ」
「あ、そうなの。なに?」
さっきの今じゃなんとなく言い出しづらい。
出直してこようかと迷っている間に、苗字は「そうだ」と言いながら手を合わせ、にっこり笑った。
「明日の放課後、付き合って」
「へ!?」
「手作り料理を振舞う実習なの。期間内ならいつでもいいんだけど、忘れないうちに」
無条件で付き合ってくれる約束でしょう、と口には出さずに訴えてくる苗字に苦笑を返す。
どうせその料理には何か仕込んであるんだろうなと思いながら、任せろと力なく頷いた。
「それで竹谷の用事は?」
「…俺のは明日でいいや」
「そう。じゃあ明日…そうだ、これあげる」
「なんだ?」
ひょいと投げられたものを受け取ると、見覚えのある形――苗字が作る香と同じものだ。
「竹谷は必要なさそうだけど、安眠効果あるから…いらなかったら誰かにあげて。じゃね!」
ひらひら手を振って長屋にひっこむ苗字を呆然と見送る。
形は同じだが効果は違うのか、と手の中に残った香を眺め、ひょっとしてお詫びのつもりなんだろうかとそれを握り締めた。
常用無障(3)
「三郎てめぇ…よくもやってくれたなぁ」
「…………八か。私は今非常に繊細モードなので近づかないように」
「自業自得だろうが!」
自分勝手なことを口にする三郎を怒鳴りつけると、既に事情を知っているらしい雷蔵が呆れたように溜息をついて、俺に同意してくれた。
「くそっ、だからって殴るか!?平手じゃなく拳だ!これだからくのたまは!」
ダン、と文机を叩く三郎の顔に腫れは見られず、変装で誤魔化しているのかと思った。が、雷蔵の補足でそうじゃないことが判明。
「みぞおちに入れられたんだって」
「……うぇ」
自分がやられたわけじゃないが、思わず腹に手をやる。そりゃ災難だったなと言いかけて、三郎がしたことを思い出した。
「八左ヱ門、こと細かに聞きたくないか?」
「なにを」
「苗字名前の感触」
ぐっと押し黙る俺に、三郎は手をわきわきさせてニヤリと笑った。
同時に何故か涙目で痛がる苗字が浮かんで慌てて首を振る。
(く、くそ…誤魔化されねぇぞ…)
「三郎…君ねえ…」
三郎を睨む俺の隣で雷蔵が呆れた声を出した。
意味もなくそれに何度か頷いて強引に話を終わらせると、なにを思ったか三郎は俺の肩を掴んで、くく、と声を上げた。
「あいつは乱暴で腹立つ女だが、抱き心地は良かったな」
「……ばっ、おま、」
耳打ちしてきた三郎を押しやれば、知りたそうだったじゃないか、とあくまで悪気がなさそうな笑顔。
「俺に恨みでもあんのか!」
明日苗字に会ったら、今の言葉を思い出す自信がある。
そうしたら苗字をまともに見られないじゃないか。
唸りながら自分の頭をぐしゃぐしゃ掻いていたら、兵助と勘右衛門が来てそれぞれ適当に腰を下ろした。
「八左ヱ門は何を騒いでんの。外まで丸聞こえだよ」
「三郎が悪ぃんだよ!!」
「なんでもかんでも私のせいにするのはよくない」
「もっぺん殴られて来い、この変態が!」
「は、まさか八に言われるとはな。お前、さっき想像しただろう」
「ぐっ、だ、誰のせいだと…!」
いかん。これじゃあ三郎のペースだ。深呼吸しろ、深呼吸。
衝動的に掴みかかりそうなのを抑えて息を吐く。
雷蔵が二人に状況説明しているらしいのはなんとなくわかったが、そっちに気を配る余裕はない。
「――ん?なんだこれ」
「あれ。それって…兵助、たぶん八のだと思うよ」
「…なんだよ」
気を落ち着けている途中でつい声が低くなってしまったものの、兵助は気にすることなく俺に何かを放り投げた。
手の中に納まる大きさのそれを確認したら、先ほど苗字がくれた香だ。
もう今日はさっさとこれを焚いて寝たほうがいいかもしれない。
はあ、と大きな溜息を吐き出した俺に集中する視線。
雷蔵は首を傾げて「作ってもらえたの?」と聞いてきた。
そういえば雷蔵にはちょろっと事情を話したっけ。
「いや、これは違うんだ。安眠できるんだとさ」
「怪しい」
「お前なぁ…なら三郎も試してけばいいだろ。これから焚くし」
「……おもしろい」
「え、なにそれ楽しそう。おれもおれも!」
張り切って挙手する勘右衛門がきっかけで、全員雑魚寝することになったはいいが狭いとか寝苦しいとかで、効果が実感できるかわからない。
まぁいいかと割り切って香を焚く。
ふわりと漂ってくるのは、なるほど、虫除けとは違う匂いだ。
「いい匂いだね」
「でもこれ、匂い移らないか?」
「一日くらいなら平気でしょ」
そんな会話を背に三郎の方を見ると、やつは腕を組んで不満そうに鼻を鳴らしたところだった。
「どうしたんだよ」
「あの女は調合師にでもなったほうがいいんじゃないか」
回りくどいが、三郎なりに褒めてるんだろう、たぶん。
適当に横になり、他愛ない話をしていたら段々眠くなってきた。
明日は謝罪がてら使ってみた感想も伝えようと思いながら目を閉じて、苗字はどんな反応をするかなと想像した。
常用無障(4)
――全員揃って遅刻する勢いで起床した翌朝は、非常にあわただしかった。
効きすぎだ、とか、寝すぎて鍛錬の時間が、とか聞こえたけれど、目覚めはすっきりしてたから(少なくとも俺は)あれは優秀だったんだろう。
放課後の約束はともかく、苗字に場所を聞くのを忘れていたことに気付く。
どうしたもんかと校内を移動していたら、後ろから声をかけられた。
「勘右衛門か、なんだ?」
「“くの一教室の敷地入口、用事を全て済ませてから来られたし”だってさ」
「は?」
「名前から八への伝言」
「果たし状かよ…」
呆れる俺に勘右衛門が確かに、と言いながら笑う。
どこで会ったのかを尋ねてみたら、勘右衛門は学園の入口前だと返してきた。
「なんか買出し帰りだったみたい。……八、無事で帰ってこいよ」
「馬鹿、そういうこと言うな」
「だってさぁ、あ、医務室予約しとく?」
「だからやめろって!」
覚悟はしていたつもりだが、伝言内容が不穏で(勘右衛門もそれで察したみたいだし)気が重くなった。
行かない、なんて選択肢はないが。
飼育小屋に寄ったあと、指定されたくの一教室の敷地へ。
入り口には既に苗字が退屈そうに立っていた。
「苗字」
「……ほんとにきた」
「呼んだのはお前だろうが」
目を丸くして俺を凝視してくる苗字に苦笑すると、苗字ははにかみながら「竹谷はいいやつだね」と呟いた。
褒められてるらしいが、いまいち素直に喜べない。
「良いやつってのはなぁ…最後まで良いやつ止まりで終わるんだよ…」
「なんの話」
「どうせなら良い男って言ってくれ。男前でもいいから」
「これ完食してくれたらね」
くすくす笑って小さな包みを取り出す苗字。視線で俺を促すからその後についていく。苗字は木陰の下に陣取ると、隣に来いと地面を叩いた。
「…手料理?」
「もちろん!」
包みを開いて出てきたそれに、堂々と胸をはる苗字。
握り飯というやつじゃないのかこれは。
俺はてっきりこう…手の込んだ定食みたいなものを想像していたのに。
「ユキちゃんがなめくじ料理開発してるの見たんだけど」
「なめ…!?」
「さすがに自分では無理だったからね、普通の…好き嫌いある?」
ゾッとしたが苗字自身が苦手みたいでよかった…そりゃ虫をあれだけ嫌ってるんだから、なめくじだって無理だよな、うん。
俺は虫も平気な方だが、さすがになめくじはちょっと遠慮したい。
「竹谷?」
「あ、ああ、特にねーから…鉄粉とか入ってねぇよな?」
「おにぎりに?それ食べられないでしょ」
苗字は楽しそうに笑うけど、それをやっちゃう先輩が実際にいるから冗談じゃねぇんだよな。
「これが山菜で、真ん中のは焼き魚。で、そっちは具なしね」
指差しで中身を教えてくれる苗字がこっちに寄ってくる。
具だって私が作ったんだから、と笑顔を見せる苗字からは昨日と同じように、ふわりといい匂いがする。
装束に染み付いてるんだろうか。それとも髪か。
「聞いてるの?」
「――ッ、」
至近距離で見つめられてドキリと心臓が鳴り、肩が跳ねる。
いつの間にこんなに近づいていたのかと仰け反り、指先に絡まっていた髪にまた驚いた。
「こ、これは、その、虫がだな」
「えええええ!!?嘘、やだ!取って取って取って!!」
「いてっ、ちょ、危ねっ、落とすって!!」
ドンと体当たりしてきた苗字のせいで膝上に乗せていた握り飯が危険だ。
落とすなんてそんな勿体無いことはできない。
急いで頭上に避難させれば、錯乱している苗字が半ば叫びながら俺の胸元にしがみ付いた。
ぷるぷる震えて、心なしか泣きそうな声で、きつく目を閉じている苗字から目が離せない。
喉がごくりと鳴るのを他人事のように聞きながら、頭上に持ち上げたままだった握り飯をゆっくり脇に置いた。
「た、竹谷、おねがい…はやく…!」
誘ってんのか。
有り得ないとわかっているのに、そう返事をしたくなる。
苗字が装束をきつく握り締めているのか、強く引っ張られる感覚。
額が肩口に押し付けられるのを合図に、俺はそっと苗字の背に腕を回した。
触れた感じが自分のとはまったく違ってて戸惑う。
(ふにゃふにゃしてるっつーか…なんだこれ!)
柔らかくて、温かくて、いい匂いがして。それをもっと感じたい。
――抱き心地は良かったな。
ふっとよぎった声にギクリとした。
勢いよく頭を振ってのぼせかけていた思考を切りかえる。
ゆっくり深呼吸を繰り返し、ちょいちょいと苗字の髪を軽く引いた。
常用無障(5)
「と、とれた?」
見上げてくる苗字は間違いなく涙目で、罪悪感とその他諸々で声が出せずに頷くだけになってしまった。
はぁ、と大きく息を吐き出す苗字が胸を撫で下ろす。
「おかしいなぁ…この木は大丈夫なはずだったのに。あ、ごめん!」
木陰をつくる木を見上げてから、そそくさと離れる苗字が気を取り直すように髪を整えた。
それから脇に置かれた握り飯を指して「早く食べて」と捲くし立てるから、俺も妙に焦って包みを広げなおした。
「――……美味い」
「当然!っていうのは冗談として」
「いや、ほんとに美味いって」
「…ありがと」
にこにこ笑顔とはいえ、俺を観察するように見ている苗字に気づいて動きが止まる。
口の端についた米粒を指で押し込みつつ中身を凝視してみたけれど、いたって普通の具にしか見えない。
痺れるとか、薬臭いとかもないし、厠に飛び込みたいなんて衝動も襲って来ない。
答えを求める代わりに苗字を見ると、お水飲む?と首を傾げられて反射的に頷き返した。
「はいどうぞ」
「サンキュ……なあ、なにか仕掛けてあんのか?」
「何の話?それより、竹谷も私に話があるんでしょう?」
わざとらしい程のはぐらかし方に顔が引きつる。
答える気は無いと言っているのが雰囲気からわかったから、これについてはひとまず保留にすることにした。
「…前に貰った香なんだが、その、有料って言ってたよな」
「言ったね。注文?」
「したいのは山々だ。けど生憎予算がない」
「どこも厳しいらしいもんね。伊作先輩もよく愚痴ってる。……なるほど」
「え!?」
まだ触りの部分しか話してないのに、何故か苗字は納得したように何度も頷いている。
俺と食べかけの握り飯を交互に見て「どうしようかな」と呟いたかと思ったら、また俺に視線を戻した。
「な、なんだ…」
「因みに、代替案の内容は?」
「……俺が無期限で苗字の実験台になる」
やっぱり先読みされたのかと思いながら答えると、それは魅力的、とこぼした苗字が眉根を寄せる。
微かに聞こえた唸り声が途切れ、小さく首を振った。
「結論から言えば、やっぱり無料は難しい。既に言ったと思うけど、私が有料って言った理由は材料費が欲しいから。覚えてる?」
「ああ」
「逆に言えば材料があればいいわけ。でも材料って樹が多いの。だから学園での栽培は無理だと思うのよね」
生物委員の菜園で育てればいいのか、と期待しただけに、がっくり項垂れる。
「だから、さっきの案と併せて、竹谷が私のアルバイト手伝うっていうのは?」
「バイト?」
「そ。私も仕事増やせるし、上手くやりくりすれば少しは余裕がでると思う」
無期限実験台プラス、苗字の手伝い。
これと虫除けの香とを天秤にかけて釣り合いが取れるんだろうか。
――なんとも判断しづらいな。
答えを先延ばしにするために、手にしていた握り飯を口に入れる。うん、美味い。
残りを食べ終わるころ、苗字は立ち上がって微かに笑った。
「まあ私はどっちでも構わないから、決めたら来てよ」
いつかのやりとりをもう一度しているような気分になる。
俺はまた苦笑で苗字を見送って、ヒラリと手を振ることしかできない。
だいぶ距離が開いて小さくなった姿がこっちを振り向いて、大きく手を振った。
「竹谷ー」
「なんだー?」
「夜の7時までには部屋にいたほうがいいかもー」
……。
…………なんだと!?
苗字は笑って、口をあけて呆ける俺に質問する時間を与えず、さっさと姿を消した。
やっぱ、何か仕込んでたってことか。
急に嫌な汗をかきはじめたなと思いながら、長屋へ戻るべく踵を返す。
不安を抱えたまま時間を待つのが嫌で、先延ばしにした問題について考える。
どちらか一方だけなら即答なのに。
お試し期間なんてのがあればな。
「…明日聞いてみるか」
安眠香の礼も言えてないしな。
なんだかんだと会いに行く理由を作りたい気がするのはなんでだろう。
できれば、もう一度触れてみたい…なんて、こんなのあいつらには言えねぇ。特に三郎には。
-了-
常に用いて障りなし
「八ー、今日の自主鍛錬だけどさ、裏裏山まで…八!八左ヱ門!?」
「どうした雷蔵、八がどうか――八!?雷蔵、揺するな!毒かも……ん?」
「…………寝てる」
「こ…、んの、阿呆!!寝るなら着替えて布団で寝ろ馬鹿!聞いてるのか八左ヱ門、起きろ!」
「さ、三郎、落ち着いて。たぶん薬だと思うし…一応医務室連れてく?」
「あー、よかったら僕が診るよ」
「「善法寺先輩!?」」
「どうしてここに…」
「タイミングよすぎませんか」
「いやぁ、名前がさ、“兄さまお願い”って…兄貴分としては妹分の頼みは断れないじゃない?」
「知りませんよ」
「三郎!」
「でね、代わりに今度一緒に出かけることになって」
「チッ、聞いてないな…」
プチリク消化。
もう一度くのたまさんに会うために頑張る竹谷、でした。
なんだかんだで接点ができてればいいなぁと思いつつ、大捕物の二人(+α)が書けて楽しかったです!
大捕物(竹谷)
大捕物(1)
その日、私は学園長先生のおつかいから戻ってきたところだった。
小松田さんの差し出す入門表に記名して、ようやく帰ってきたと実感した私が一息を吐き出したところに彼は突然現れた。虫取り網を片手に。
「小松田さん、こっちにこれくらいの虫飛んできませんでした?」
ぼさぼさ頭に葉っぱをたくさんからませて、顔には擦り傷をつくった忍たま5年生。
言いながら親指と人差し指で間隔をつくる。色はこうで羽がこんなでと続く説明を耳にいれながら勝手に血の気が引いていた。
(冗談じゃない!)
私は虫が大の苦手だ。蝶やトンボくらいなら遠巻きに眺める分には平気だけれどそれ以外は無理、嫌、取り乱すこと間違いなし。
みかけてないねぇ、とおっとり返事をする小松田さんの返答に肩を落とす忍たまに、私は懐から香を取り出して押し付けていた。
当然不思議そうに私を見る忍たま。
「こっちが虫除け、こっちは虫寄せ。上手くつかえば捕まえられると思う」
「え…?」
「なるべく早く、迅速に、早急に、一匹も逃さず捕まえてください!」
忍たまの返答を待たず、私はきょろきょろしながら(もちろん虫がいないかを確認している)足早に長屋の方へ向かった。
(部屋の入口に虫除けを焚かなければ…!)
「どうしたの八、ぼーっとして」
食堂内、いつもの顔ぶれで夕飯を取っていると雷蔵が声をかけてきた。
気づかないうちに箸が止まっていたらしい。
横から兵助が「豆腐食わないならくれ」と言ってきたので器を渡す。
「…八が変だ」
早速手をつけておきながら何言ってやがる。
そうは思ったものの一人で溜め込んでいても俺には解決できそうもないので、仲間の手を借りることにした。
「実はさっきさ、」
事の起こりはいつもどおり生物委員で飼っている毒虫の脱走だ。
もう日常茶飯事と言ってもいいくらいの出来事に声援を送られることも珍しくない。それよりも手伝ってくれと言いたいが。
で、学園内を走り回っていたら丁度外から帰ってきたらしい生徒が香をくれた。
虫除けと虫寄せ。外で使って効果があるのか半信半疑だったけれど(実はいまでも偶然かもと思ってるけど)数箇所で焚いた虫寄せに標的がいたのだ。他にも色々いたのでついでとばかりに捕まえておいた。
「ふーん…だから今日はいつもより早く終わったんだ?」
「そう。で、その礼を言いたいんだ。もらったとき突然で反応できなくてさ」
「八、お前それでも忍か?」
「仕方ねぇだろ」
こっちを向いてからかってくる三郎に、溜め息混じりに返す。
「勘右衛門、しょうゆ取ってくれ」
「はいどうぞ。その恩人さんは上級生?それとも下級生?っていうかどんな子?」
「…歳は…わかんねぇ。背格好からして忍たまの三年か四年だとは思うんだけど」
「瞳の色は、髪の色は、長さは……というか、小松田さんに名前聞いたらよかったんじゃないか?」
「それだ!」
矢継ぎ早に質問を重ねる三郎の最後の台詞に思わず立ち上がった。
すぐに食堂を出ようとした俺を、包丁を片手に持ったおばちゃんが睨む。もちろん、全部食いますとも。
風呂の前にと小松田さんのところを尋ねてみる。なぜか他の四人も一緒だ。
「おや、竹谷くん。また虫が脱走したの?」
「ああ、違うんです。あの、さっき俺が来たときに戻ってきた子なんですけど」
「苗字名前ちゃんかな、彼女がどうかした?」
苗字名前か。
聞いた名前をしっかり覚え………彼女?
「小松田さん、彼女って!?」
「? 名前ちゃんはくのたまの五年生なんだよ。くのたまは上級生になるほど少なくなっちゃって寂しいよねぇ…」
くのたま、の言葉にしばし思考が停止する。
俺たち忍たまといえば、くのたまの“実習”の犠牲にあうのは当たり前、それも今年で五年目だ。条件反射で身構えてしまう。
「……でも、八が貰ったのはちゃんと効いたんだよね?」
小さく雷蔵が呟いたことにハッとした。
そうだ、俺は礼を言いたいんだ。
――しかし、どうやって接触しよう。
夜が明けた今日、俺は肝心なことを考える。
くのたま長屋は男子禁制だし、っていうかそれ以前に近づきたくない。いかにも罠満載っぽいし。
名前と外見はわかっているものの、苗字名前は委員会にも入っていないようで(くのたまは人数のせいか希望者だけらしい)全く会う機会がない。
今日は偶然にも休日だから、運が良ければ街へ出掛けるところに会えるかもしれない。
(でも昨日おつかいから帰ってきたっぽいしなぁ…)
うんうん唸りながら飼育している動物の世話に向かっていると、視界の端に動く桃色が見えた。
反射的に振り向くと学園長の庵に向かうくのたま。
「な、なあ、ちょっと!」
俺は気づいたら声をかけていた。
大捕物(2)
切羽詰った声色に振り向くと、昨日会ったぼさぼさ頭の5年生。
驚いたように目を見開いて、呼びかける姿勢で止まっている。
…これは、私から声をかけなおしたほうがいいのかな…
「…私?」
「あ、え、ああ、うん。君、で合ってる」
そう言ったきり黙ってしまう彼に、私は首を傾げるしかない。
おつかいの報告(学園長先生が今日でいいと言ってくださった)へ向かうから、用件なら早くして欲しいんだけど。
ビクビクしているようにも見えるのは私がくのたまだからか。
今まで散々いたずらしたもんね、と思わず納得してしまう。
「あの、」
「あ、悪い、えーと、お前さ、生物委員にならないか!?」
「は!?」
いきなりなんなの?
思わず一歩距離を置くと、茂みから小石が飛んできてぼさぼさ頭に命中した。
「いでっ」
そこで私は初めて彼の後ろに数人の気配を察知した。
彼らから会話を交わしている気配はするものの、聞き取れない。
――私、からかわれてる?
「…せっかくのお誘いですがお断りします」
これ以上関わるのも面倒くさい。
私は授業を思い出しながら笑顔を作り、さっさと学園長の庵に向かった。
いやー、びっくりした。
偶然て重なるもんなんだなぁ。
たまたま居合わせたくのたまが昨日の子だなんて。はっはっは。
「びっくりしたで済ますな!」
野次を飛ばしてくる三郎を振り返る。
さっき石投げたのはお前か!
「あ、それ僕」
「雷蔵……」
「八左ヱ門さ、なんでいきなり勧誘したの?」
「俺にもわかんねぇ」
「彼女ドン引いてたな。…帰りは警戒してるんじゃないか?」
兵助が淡々とこぼす内容が妙にしっくりくる。
まずい。このままじゃろくに話も出来ないんじゃないか!?
…………よし。
――捕まえよう。
「…………どうしてそういう結論になるのさ」
「アホだから」
グッと握りこぶしを作る俺の後ろで雷蔵と三郎が呆れた視線を投げてくる。
俺の今の目的は苗字名前に礼を言うことだ。
逃げられたら意味ないだろ。頼む、協力してくれ。
+++
「――うむ、確かに。ご苦労じゃった、今日はゆっくり休んでくれ」
「ありがとうございます」
「…ところで名前」
「はい?」
「……いや、気をつけてな」
学園長はなにやら楽しそうだけど、彼が“気をつけろ”ということは何かあるんだろう。
思い浮かぶのはさっきの忍たまくらい……だけど、意味がわからない。
確かに昨日接触した。けど、あれには仕掛けなんて何もないし(第一ほとんど自分のためだし)忍たまに害があったとは考えにくい。
今までの仕返しだとしても…今更すぎる。
「うーん…私、他に何かしたっけ…?」
なんにしても罠が仕掛けてありそうな地面はなるべく歩きたくない。
ひょいと木の上に飛び上がると、その瞬間を狙っていたかのように足に縄が巻きついた。
「!」
思い切り引かれて身体のバランスを崩す。
反射的に目を瞑ると、ぐるんと逆さに吊り下げられたところで止まった。
「あらら、案外どん臭い?」
逆さになった私に声をかけてきたのはさっきのぼさぼさ頭じゃなかった。
忍装束は同じ五年の色だけど……っていうかニヤニヤ笑いやめて欲しい。
「あいにく…実技の成績は悪いの」
「へぇ…ならこのままおとなしく――」
「三郎早く!」
独り言のように呟くニヤニヤ男とは逆側からもう一人の声が聞こえたけれど、それを最後まで聞く義理もない。
私は懐から出した苦無を投げつけて縄を切ると宙返りして着地した。
「うわっ」
……おまけで投げた苦無は運よくもう一人に命中したらしい。
(これが実技試験でも発揮できたらなぁ…)
私は内心嘆きながら溜息をついて、その場を後にした。
――もしかして木の上も危険?
「…あの女、なにが“成績は悪い”、だ…」
「……とりあえず、これ抜いてくれるかな……」
「雷蔵も油断しすぎだぞ」
「うん、ごめん。でも三郎にも言えるからね」
大捕物(3)
忍たま長屋の屋根の上、私は必死で走っていた。
後ろからはぼさぼさ頭の忍たまが鉤縄片手に追ってくる。
「待てって!話するだけ!」
「だったら武器は必要ないでしょ!!?」
あと少しで屋根がなくなる。
でも地面には落とし穴がある気がしてならない。焦りながらチラと下を見ると奇遇にも見知った姿を見つけた。
ヒュッと足元を鉤縄が通る。
私はそれを避けながら目標に向かって落下した。
「伊作先輩レシーブ!」
「ちょ、え、えええええ!!?」
落とし紙の山を両手に持っている彼にそれはさすがに酷だったか。
でも止まれるはずもない。
私は伊作先輩を踏み台にして、近くの木に飛び移った。
「ごめんなさい先輩!おわびは後で必ずしますからー!」
背後で先輩の悲鳴と落下音が聞こえる。
…本当にごめんなさい。
両手で謝罪の形をつくりながらも移動はやめない。
――ああ、擦り傷だらけになってそう。
なんで私、せっかくの休日にこんな目にあってるんだろう。
ようやくおつかいが終わって、久しぶりに甘いものでも食べながらのんびりゴロゴロする予定だったのに。
…それもこれもあのぼさぼさ頭のせい。
沸々と怒りがわいてきた。
そうだ、やられっぱなしなんてくのたまらしくない!
ぴたっと足を止めて両手を握り締めた私は、直後その意思を折られた。
ピュイィィィ、と高らかに響く指笛。
呼応して聞こえた鳴き声は獰猛な獣のそれ。
「あの男…そこまでする!?」
っていうか学園の動物を私用に使うなよ!!
こうしてはいられない。少しでも早くくのたま長屋に戻らなければ。
…と、私は周囲を見渡して愕然とした。
基本的にくのたまは、こちらの敷地内には滅多にこない……そう、つまり……
「迷ったの?」
「ひぇ!?」
木の上でだらだら冷や汗をかいていた私は突然聞こえた声に飛び上がった。
「おっと、おとなしくして、危ないから。兵助、そっち落とすよ」
「ああ」
だ、だれ。
いつのまにか縄巻きついてるし――
「っていうか落とすの待って!」
「あ、ごめんね」
「きゃぁぁぁあああああ!!」
身動きできないまま落下ってどういう拷問なの!
きつく目を瞑ると、ド、と身体に衝撃があった。
地面じゃ、ない、みたい。
怖かった、ほんっと怖かった!なんか痙攣してるし!涙でてるし!
「…大丈夫か?」
「っ、」
まつげ長!!!
――じゃなくて!
「ええと、大丈夫、なんで。降ろして、くだ、さい」
「少し待ってくれ」
(えええええ)
「勘右衛門、」
「わかってる」
八左ヱ門やりすぎだよ、と小さく言って、私とまつげ忍たまより先に地面に降りた黒髪の忍たまは、音もなく姿を消した。近づいていた鳴き声が遠ざかったから、きっと操っていたぼさぼさ頭にでも報告に行ったんだろう。
「――あのー、もう降ろしてくれませんか」
「あ、そうだな」
「いえ。…………あの、縄」
「それはごめん」
内心で舌打ちし、溜息をつく。
縄抜けできないように縛られているのがまた憎らしい。
ここで必殺女の武器、別名涙のひとつでも出せればよかったんだけど、あいにく出せそうもない。
傍らのまつげを筆頭にぞろぞろ集まってくる五年生に囲まれている姿は傍から見たらいじめだ。
「……私、何かしたんでしょうか」
もうひたすら面倒くさい。
投げやり気味に問うと、ぼさぼさ頭がいきなり目の前で正座して勢いよく頭を下げた。
大捕物(4)
「すまん!」
「……は?」
「ごめんな、全部俺が悪いんだ。こいつらは俺に協力してくれただけで…」
「はぁ…それで、どうしてこんなことに…?」
「いや、ほんとは昨日のお礼を言いたかっただけなんだ。でもいきなりあんなこと言ったから警戒して話聞いてくれないかもって思ってさ、つい」
つい、にしては全力出しすぎ。
途中からほんとに怖かったんですけど。
「ともかく昨日はありがとう。おかげで助かった、後輩たちもすげぇ喜んでさ……で、モノは相談なんだが、」
「お断りします」
にっこりとくのたまの笑顔で。
私は彼の言葉を全力で拒絶した。
「そこをなんとか!な、苗字!」
「気安く呼ばないで。大体女性を五人がかりで追い詰めて縛り上げて、頼みごとを聞いてもらえると思ってるなら認識を改めたほうが今後のためかもね」
溜まった鬱憤を晴らすように言えば、慌てたぼさぼさ頭が縄を解いてくれた。
見るからに凹んで「ごめんな」と告げてくる様子になんだかこちらが悪いことをしている気がしてしまう。
このぼさぼさ頭を見守っているらしい四人はいつのまにか遠巻きにしているし…なんだろうこの状況。
「ほんとにごめん。お詫びに俺でできることならなんでもする!」
「…………なんでも?」
「ああ!」
聞き返す私に返事をする彼は満面の笑み。
思わずつられて笑っちゃうような、清々しい笑顔だった。
後ろでは「ばか、くのたまにそんなこと言うな」等双子(?)が騒いでいたけれど、目の前のぼさぼさ頭はそれを「あっちは気にすんな」とこれまた笑顔で一蹴してしまった。
「……今度実習があったとき、問答無用でつきあってくれる?」
今までくのたまから散々な目にあっている忍たまへ、あえての提案。
彼は一瞬グッと声を詰まらせたものの、やっぱり笑顔を見せた。
――へぇ、忍たまにもいい奴っているのね。
毎回伊作先輩に頼み込んで犠牲になってもらってる身としてはとてもありがたい。
「――で、苗字、生物委員に入」
「お断りします」
「せめて全部言わせてくれよ!」
「全部言われても無理なものは無理。私、虫は大の苦手だから」
「…どんくらい」
「群れでもいようもんなら焙烙火矢を二、三個投げつけて四年の田村三木ヱ門からカノン砲奪ってでもぶっ放す勢い」
「そっか…じゃあしょうがねぇな…」
あからさまに肩を落とすぼさぼさ頭に少しの罪悪感。
私お人よし過ぎるんじゃないの?
軽く膝を叩いて立ち上がりながら大きく溜息を吐き出す。
生物委員会は絶対に入らない。否、入れない。でも――
「…名前、」
「え?」
「名前、教えて。ぼさぼさ頭の五年生としか認識できないのは困るから」
「ぼ――」
私の言葉で遠巻きにしていた四人が噴出した。
それを無視して目の前の彼を見つめていると、彼はどこか気まずそうに視線を泳がせる。
「竹谷、八左ヱ門」
「竹谷くん」
「竹谷でいい」
「…じゃあ、竹谷。委員会に入るのは無理だけど、昨日の香でよければ調合することはできるよ」
「ほんとか!?」
「ええ。有料ですが」
わざわざ丁寧に言って笑顔を作った。商売には笑顔、これ基本よね。
「金とるのかよ!?」
「当然でしょ、材料費だってただじゃないんだから。交渉次第で色をつけてあげることはできるけど、無料は困るの。昨日のはたまたま試験作で大量に作ってたのをお裾分けしただけ」
「……」
「呼び出してくれれば応じるから、いつでも来て」
ううむ、と考え込んでしまった竹谷に声をかけると今度は見守っていた四人に囲まれてしまった。
もう帰りたいんですけど。
「私は五年ろ組の鉢屋三郎だ」
「同じくろ組の不破雷蔵です。ちなみに八…八左ヱ門も『ろ組』だよ」
「はぁ、どうも」
唐突に始まった自己紹介にとりあえず頷く。
双子かと思ったのに苗字が違う。
うーん、こんなとき忍たまの情報に疎いと困るな。
まぁ特に影響なさそうだし……聞くのも面倒だし、どうでもいいか。
「久々知兵助、五年い組」
「同じく尾浜勘右衛門。よろしくね」
にこやかに右手を差し出されて反射的に握手をする。軽く上下に振られていると、鉢屋がニヤリ笑いで「お前は?」と聞いてきた。
「…知ってるんじゃないの?」
「名乗ったら名乗り返すのが礼儀じゃないのか?」
「ッ、くの一教室五年、苗字名前。これでいい?」
ムっとして言い捨てるように名前を告げる。
そのままくの一教室へ帰るつもりだったのに……
「――尾浜、くん」
「ん?」
「手を離してくれない?」
「でも名前はくの一教室までの道わかんないでしょ?」
いきなり名前呼びか。
と、ツッコミたい気持ちもあったけど尾浜の言うとおりだったから、渋々頷く。
連れてってくれるのは助かるけど、手を繋ぐ必要はないはず。
「さ、いこいこ」
「ちょ、ちょっと……あ、竹谷!」
ぐいぐい引かれる力に転びそうになりながら振り返る。
竹谷はまだ何かを考えているようで、地面に座り込んだままだった。
私の声に反応して顔がこっちを向く。
「お客さんなら大歓迎!いつでも待ってるから、是非ご贔屓に」
「…ああ、またな!」
手を振って言うと、竹谷は少し困ったように笑って手を振り返してくれた。
おまけ。伊作と会話
「…失礼しまーす…」
「やあ名前、待ってたよ」
(うわあ…すっごく怒ってる…)
「ほら、こっちきて。またあちこち擦り傷つくって…せめて顔は気をつけるんだよっていつも言ってるだろ?」
「う……わかってるんだけど、つい」
「さっきは随分派手に動いてたみたいだけど」
「うん、助かった」
「名前」
「ごめんなさい。……まだ怒ってる?」
「名前の世話は慣れてる」
「え、じゃあ何で不機嫌?」
「最近ここでしか会わないじゃない。いつの間にか“先輩”って呼ぶようになっちゃってるしさ。名前が“兄さま”って呼んでくれるの好きだったのに」
「…さすがに私も14だし、くのたまだし…馴れ馴れしくしすぎるのも迷惑かなって」
「お前の迷惑なんて今更だよ」
「酷い!………………伊作、兄さま」
「うん、よくできました」
「いったぁぁあああああい!!痛い痛い!お、乙女の柔肌になんてことを!」
「それくらいしないと、名前はまたすり傷つくって来るだろう?」
「それは兄さまに会いたいから!」
「はい、嘘をありがとう」
「~~~~ッッ!!」
幼馴染という設定。
カップル観察日記
某月某日
名前は学園の犬を飼いならしすぎだと思う。
俺自身は噛み付かれたりしなかったが、さっき制服を確認したら袖の一部が噛み切られていた。恐ろしい。
いざってときのために名前に衝撃を与えられそうなもの、できれば継続して使えるようなものは何かないだろうかと相談したら、観察日記でもつけたらどうだと提案された。
正直、相談相手を間違えたと思う。
でもまぁ、やるだけやってみるのもありかと筆を取った次第である。
01:一日め、観察日記を始めた理由
某月某日
名前の観察日記なんだからあいつの傍にいないと意味がない。
というわけで今日は一日張り付いていたわけだが、名前の近くには兵助もいるってことを忘れていた。
どこに隠れていても確実に目が合う。怖い。
逆に全然気づかない名前がちょっと心配になる。
百歩、いや一万歩譲って俺を虫呼ばわりするのはともかく、手裏剣を投げてくるのはやめてほしい。
02:二日め、いきなり波乱の予感
某月某日
めげずに観察続行中也。
今日のあいつら…というより兵助は名前にやたらベタベタ触っている気がする。
横に張り付いて寄りかかる光景はイチャイチャしているようにしか見えない。
うらやましいなちくしょう。正直目の毒だ。
勘右衛門からうんざり顔で俺のせいだと言われた。どういう意味だ。
03:三日め、他人もいるのにこの空気!
某月某日
今日は兵助が忍務に出かけて留守だ。ちなみに勘右衛門も。
そのせいか名前は忍たま長屋には来なかった。
一応恒例で一緒に食事を取っているから顔は合わせたが、いつもよりずっとおとなしかった。
三郎が珍しく名前を慰めていた。
わかりづらすぎて伝わってなかったが、まぁこれはいつものことか。
04:四日め、今日は離れ離れの二人
某月某日
「そんなに好きならお豆腐と一緒にいればいいでしょ!」
名前が兵助に向かって怒鳴ったっつー珍しい記念で残しておく。
…しかし、改めて見ても間抜けな台詞だなこれ…
ついでに怒られたくせに無言で悶えていた兵助の様子も併記しておく。
あいつマジで名前馬鹿だ。
名前が逃げるときに使った煙玉の原材料が知りたい。
あの臭さは逃走用じゃなくて兵器だと思う。おばちゃんにも怒られたし最悪だ。
05:五日め、下らん喧嘩に巻き込まれ
某月某日
こいつら喧嘩してたんじゃなかったのか。
なにをどう丸め込んだのか、兵助が名前に手ずから食べさせていた。まるで餌付けだ。
うざいくらいのベタ甘オーラを撒き散らす二人と一緒にとる食事は苦痛でしかない。
素直に喜んでた雷蔵の心の広さを見習いたい。
06:六日め、有名なことわざを実感
某月某日
今日は一日八左ヱ門がおつかいで留守にしてるから、僕(雷蔵)が代わりに二人の様子を記そうと思う。
と、書いてから気づいたけど、二人でいいんだっけ?
まぁ、いつも一緒にいるからどっちでも一緒か。
二人揃って図書室に来てくれたから、仕事をこなしがてら丁度いい。
私語厳禁だよって言ったせいか、筆談しているみたいだった。
お互い幸せそうでなによりだけど、二人を見慣れない忍たま(主に他学年)は早々に退室してしまった。正直、僕も逃げ出したかったです。
07:七日め、本日の日記はお休みです
某月某日
差し向かいでなにをしてるのかと思ったら、着物の色と髪紐の色と、それから紅の色についての話らしい。
それが名前のならまだなんとなく微笑ましい気もするが、兵助のだってんだから気が抜ける。
これに関しては名前がやけに真剣で、兵助は苦笑いだった。
まあ恋人に女装の見立てしてもらうなんて複雑だよな。
化粧をしてあげると言い出した名前を必死に止める兵助がおもしろかった。
08:八日め、二人の真面目な真面目な会話
某月某日
いや、そう、不可抗力。偶然。これは誓ってわざとじゃない。
…書けば書くほど嘘っぽくなるのはなんでだ。
まぁそのなんだ。恋人だし、口付けくらいするよな。
でも友人のはぶっちゃけ見たくなかったっつーーーーーーの!!!!!
しかもへいすけ、あいつしつけえし!!!!!
それ見ちまった俺も俺だけど
(この先解読不能)
09:九日め、見ちゃいましたゴメンナサイ
某月某日
今日も変わらずあいつらはイチャイチャベタベタしている。
おかしいな、名前の弱味が目的だったはずなのに俺の方がダメージ受けてないか。やっぱ三郎の助言は話半分で聞いておくのがいいのかもしれない。
途中補足してくれた雷蔵には感謝するとして、日記は今日で終わりにしたい。
俺の心の平和のために。
10:最終日、今日の彼らと日記の感想
【観察日記10題/TOY様 】
富松と手裏剣特訓
※富松視点
貸し出していた手裏剣は川西から無事返ってきたし(外に打っちまったけど)、藤内との喧嘩の名残を手当てしてもらおうと医務室に腰を落ち着ける。
川西は「すみませんでした」と頭を下げながら、慌てて救急箱を取り出した。
「左近~」
「あれ、苗字先輩。今日は当番じゃないですよね?」
「そんなことはどうでもいいの!手裏剣の成績クラストップだって?おめでとう!」
軽い足取りで入ってきたくのたまは、おれと藤内を軽くスルーして川西にぶつかる勢いで抱きついた。
「いっ――痛い痛い痛い!苗字先輩、ちょ、ギブですギブ!!」
「さっき野村先生に手裏剣投げを教えてもらってたんだけど“左近にコツでも教えてもらったらどうだ?”って呆れられちゃって」
淡々と話すくのたまに関節技を決められている川西がバンバンと床を叩く。
おめでとうなんて言っといて完璧に八つ当たりじゃねぇか。
と思ったが、巻き込まれたくなかったからそっと視線を外した。
藤内なんて自分でさっさと手当てを始めていて、あからさまに“関係ありません”って顔だ。
「……ひ、酷いですよ先輩」
「あーあ。間接技なら上達したのになぁ。手当てする?」
「ぼくじゃなくて、富松先輩と浦風先輩をお願いします。ぼくは先輩にやられたおかげで腕が痛いので」
刺々しく言いながら腕をさする川西の台詞に嫌な予感がする。
ようやくおれたちに気づいたくのたまが、こっちを向いてにこりと笑った。
「……なあ藤内、逃げねぇ?」
「おれはもうすぐ終わるから、このまま自分でやっちゃうよ」
「ひでぇ!」
小声で相談してみたのに、藤内はそれをあっさり蹴って手当ての続きに戻る。
ならおれは、遠慮なく逃げるからな!
「――ってぇ!!」
「あ、腕にも怪我してたの?ごめん」
「ちっげーよ、握りすぎ!!」
腕を強い力でぎっちり捕まれたことに文句を言えば、くのたまは溜息をつきながら力を弱めた。
「柔だなぁ、三年生のくせに」
「あ、あんた、なんなんだよ!」
「私?くの一教室の苗字名前。幽霊気味の保健委員です」
「…因みに苗字先輩は四年生です」
にっこり笑顔のくのたまの自己紹介に川西の補足が入る。
まさかの年上に驚いていたら、いつの間にか両腕を捕まれていた。
「逃げようとしても無駄だからね。そっちの浦風って子も。ちゃんと確認させて?」
「……はい」
じりじり戸口の方へ動いていた藤内は、その一言でピタリと動きを止めた。
自分だけ逃げようったってそうはいかねぇからな!
~作兵衛と特訓することになりました~
「…苗字先輩、楽して上手くなんてなれるわけねぇでしょ。おれの手裏剣にそんな便利なまじないは掛かってません」
ちぇ、と唇と尖らせる苗字先輩に溜息をつく。
そんな甘っちょろいこと言ってっから上手くなれねぇんじゃ……とは思ったものの、口には出さないでおいた。
「藤内だって川西だって、きっちり練習したからクラストップになれたんですよ」
「でも作兵衛の手裏剣のおかげだって言ってたよ」
「……ん。あんたが持ってるやつとなんか違いますか?」
回収した手裏剣を先輩の手に乗せてやれば、苗字先輩はそれを持ち上げて、日に透かしてみたり引っくり返してみたりしながら益々眉根を寄せた。
「…この印になにか秘密が」
「ありませんって!」
苗字先輩が“ト印”を撫でるのを見て、何故かドキッとした。
目を逸らしながら装束を掴めば、なんだか心臓が速い気が――
(…なんだこれ…意味わかんねぇ……)
「作兵衛、見本」
「っ、ちゃんと見ててくださいよ」
苗字先輩から手裏剣を受け取って、的に向かって打つ。
カッと中心近くに刺さったそれを見て、先輩はパチパチ手を叩いた。
「さすが作兵衛。かっこいい」
「……打つとこ見てました?」
「もちろん!」
胸を張ってそう言うと、すっくと立ち上がって手裏剣を取る。
持ち方からして既に違うのはどういうことだ。
「苗字先輩、こう持つんです」
「ん、こうでしょ?」
「そうじゃねぇ……あー…ったく…苗字先輩は力入れすぎてんですよ」
苗字先輩の向かいから隣に移動して、手元を覗き込んで直接持ち方を教える。
(手、ちいせぇ…指も細ぇし……)
これであの馬鹿力を発揮できるのが不思議でしかたねぇ。
「作兵衛?」
苗字先輩が不思議そうにおれを呼ぶ。
自分で思うよりも長い時間眺めてしまっていたらしい。
ハッと顔を上げたら、間近に先輩の顔があっていい匂いがして……って違ぇ!
「う、打ってみてください!それで!」
「…そんなに勢いよく離れなくても…」
ブツブツ不満そうな声を漏らす苗字先輩が的を見据えるのを見守りながら、心臓を押さえる。
ドクドクうるさい。
今度は気のせいじゃないってわかってる、けど、絶対おかしいんだ。
――だってこんなの、おれは知らねぇ。
大きく振りかぶった苗字先輩は、お約束どおり的から大きく外れた場所へ、手裏剣を突き刺していた。
「消えた手裏剣の段」で男前な作兵衛にときめいたので。
べらんめぇ口調って難しいな…
朝の風景with久々知 室町ver.
さらりと前髪を梳かれる感覚に薄く目を開ける。
私の方に伸ばされていた手が一度動きを止めて、いじっていた髪の毛を離した。
「おはよう名前」
くす、と小さく笑われた後の囁くような甘い声が心地いい。
朝から久々知くんに会えるなんて、いい夢だなぁ。
勝手に目元が緩む。
そのまま見つめていたら、久々知くんは優しく微笑んで頬をなでてくれた。
温かくて気持ちいい。
目を覚ましちゃうのがもったいない。
なるべく長く夢を見ていたくて、目を閉じながら身体を丸める。
「寝ぼけてるのか?」
微かに笑いが混じった囁きが耳に届き、腰に腕が回ったと思う間もなく引き寄せられた。
そのまま頬にちゅ、と軽い口付けが落ちてきてくすぐったい。
(――……って、あれ?)
ゆっくり瞬いて寝転がったまま上を向く。
同時に、久々知くんの指が頬を掠めながら、前の方にこぼれた髪を耳にかけなおしてくれた。
「今日は休みだし、まだ寝ててもいいけど」
「え……」
「名前?」
「え…、あ、うぇ!?」
一気に覚醒して身体を起こすと、久々知くんがぱちぱち瞬きをして顔を赤くさせた。
私に合わせて起き上がる久々知くんはあぐらをかき、視線を泳がせつつ私の寝巻きの前を直す。
布越しに伝わってくる体温に大きく心臓が跳ねて、脳裏にチカチカと昨夜の記憶が蘇った。
熱い吐息と声と、一晩中離してもらえなかった身体。
カーッと足元から頭まで一気に熱くなるのがわかって咄嗟に俯けば、視界に入る久々知くんの手。
「……っ」
目のやり場が無くて久々知くんを見ると、彼は困ったように眉尻を下げて笑う。
「――そんな顔されたら、また押し倒したくなる」
驚いて思い切り首を振ると、久々知くんが笑顔で私の腕を引っ張った。
咄嗟に目を瞑ったらぎゅうと抱き締められて、こめかみに唇が当たる。
「我慢するよ」
「ひゃっ」
声と一緒にふっと耳に息を吹きかけられて、思いっきり肩が跳ねてしまった。
逃げようとしたのに、久々知くんの両腕が檻みたいに腰に回されてて逃げられない。
「無理させたもんな」
「そ、れは、言わな…、あっ」
もがいて距離をとろうとする私の行動なんて無駄だと言いたげに、久々知くんが私の耳をかじる。
軽く歯を立てられた直後に舐められて、身体がぶるりと震えた。
勘右衛門とメイン夢主
※尾浜視点
「――頼む」
一瞬だけ崖下を見た後、兵助はそれだけを口にした。
ドン、と胸に衝撃を受けて、反射的にそれを捕まえる。
「兵助!!」
「久々知くん!!」
重なる呼び声に応える表情が困ったような笑顔だったのは、余裕だから…そうだよな?
「久々知くん!久々知くんッ!!」
「っ、名前、駄目だって!」
考え事をしている場合じゃない。
おれの腕を振りほどいて崖っぷちに駆け寄ろうとする名前を慌てて止める。
どこからこんな力を出してるんだってくらい必死で、今にもおれを引きずりそうだ。
「名前!」
「やだ…いやだ、嫌だよ!なんで!?なんで久々知くんが!どうして、私…私が悪いのに、わたし、が落ちれば、」
「名前!!」
パチン、と乾いた音がした。
錯乱して蒼ざめていた名前はおれに両頬を挟まれたまま、じわりと両目に大量の涙を浮かべる。
やりすぎたかと思ったけど、後悔はしてない。
「…落ち着いて名前」
「かん、え、もん……」
「大丈夫」
ゆっくりと、幼子に言い聞かせるみたいに口にする。
名前は顔を伏せ、おれの制服をきつく握ると小さく嗚咽を漏らしながら、繰り返し兵助を呼んだ。
細かく震える肩に手を置いて宥めるように軽く叩く。
おれは自分にも言い聞かせるみたいに「大丈夫」を繰り返した。
君のとなりでねむりたい+α
※尾浜視点
カチャカチャと食器の音が響く食堂で、おれたちのテーブルは不自然な程静かだった。
それというのも珍しく…ほんっとうに珍しく、名前が無言だったからだ。いつもならにこにこ楽しそうにしているのに今日はそれがない。
俯いて、ただ黙々とご飯を口に運んでいる。
それに引きずられるのもなんだけど、どことなく話しかけるのが躊躇われた。
兵助は名前を気にしているものの、特に触れるつもりはないらしい。
それともタイミングを計っているんだろうか。
「…名前さ、何かあったの?僕でよければ聞くけど」
空気に耐えかねたのか(名前の正面に座っていたことも一因かもしれない)、そっと気遣うように雷蔵が口にする。
名前は隣の兵助をちらと見て、小さく何かを呟いた。
「…………ごめん、もう一回言ってくれる?」
「……久々知くんが、どうしても私の兵助パペットを返してくれない」
ムッと眉根を寄せて言う名前はいかにも深刻そうだけど、その内容は忍たま低学年でもやるかどうかって感じのもので、聞き間違えたかと思った。
っていうか何その“兵助パペット”って。
お茶を啜りながら改めて聞けば、平滝夜叉丸作成の人形らしい。
力説する名前の話からすると相当出来がいいみたいだし、部屋に戻ったら見せてもらおうかな。
「……返してやれよ兵助」
「兵助、たかが人形だろうが」
やれやれといった感じで八左ヱ門と三郎が言うのにあわせて名前がうんうんと頷く。
それが気に入らなかったのか、変に意地になっているのか…兵助は憮然として「されど人形だ」と呟いた。ぶっちゃけ意味がわからない。
「それに、俺はちゃんと返す条件も提示した」
しれっと言い放つ兵助の隣で一気に赤くなる名前を見て、これ以上つっこまないほうがいいなと思い至る。人の恋路は邪魔しちゃいけないってよく言うしね、うん。
「ならそれさっさとやりゃいいじゃねーか」
(あーあ……)
八左ヱ門は自ら地雷を踏みに行くのが好きなのかって聞きたくなる。
勢いよく首を振って答えを拒否する名前を肘でついてからかう八は後で兵助からの攻撃を覚悟したほうがいいかもね。言わないけど。
「しつこい!」
「いいだろ?別に減るもんじゃねーんだから」
「~~ッ、わかったよ!…………と……って」
「………マジか………兵助、お前やるな」
根負けした名前がごにょごにょと伝え終わった頃、八左ヱ門はやけに感心したように兵助を見た。
言われた本人は八左ヱ門のその表情が意外だったらしく、訝しげな表情で名前と八を見比べている。
「でも同衾て割に合わなくねぇ?」
「なっ、ば…!添い寝だよ竹谷のばか!」
――一度に三人が噴出したのってすごい珍しいと思うけどさ。
思いっきり味噌汁飛んできたよ兵助。
「たいして違わねーだろ…いて、痛ぇって!」
「全っ然違う!ああもう、やっぱり竹谷になんて言うんじゃなかった!!」
それ以上言葉を重ねる気は無いらしく、名前は赤い顔のまま一人黙々とご飯を食べて「先に帰る」と言い残し食堂を去っていった。
残されたのは咽る兵助と、同じく苦しそうな雷蔵と三郎、顔面を拭くおれ。それと不満そうな八左ヱ門。
「あいかわらず乱暴だなあいつは…」
「…八左ヱ門、お前は『デリカシーがない』と言われてフラれるタイプだな」
「んだとぉ!?」
「――八はともかくさ、追いかけないの?」
雷蔵と図書室常連夢主ネタ
※不破視点
図書室の隅っこ、角の席。そこが彼女の定位置。
いつの間にかそこに座っていて、本を読みふけっていたかと思えば来たときと同じように気づかないうちに消えている。
最初はよく見かける人だな、とか、本が好きなのかな、くらいにしか思っていなかったはずなのに、ふと気づくと目が彼女を捜していた。
名前はなんていうんだろう。同い年かな、それとも年下?
貸し出しの手続きをしにきてくれればこの疑問もすぐに解消されるのに。
「でかい溜息だな雷蔵」
「――え?」
頬杖をついて興味深そうに僕を見る三郎をぼんやりと見返す。
溜息なんてついてたんだなぁ、なんてまるで他人事のように思った。
「また何か悩みでもあるのか?」
「…またって…別にそんなんじゃないよ」
気遣う様子を見せる三郎に苦笑して返す。
本当に大した事じゃないんだけどと前置いて彼女のことを話してみた。
聞き終えた三郎はふうん、と気の無い返事をしてその辺に置いてあった本を片手でパラパラめくる。
「その『図書室の君』は毎日来るのか?」
「うん、時間はまちまちだけどね。っていうかその『図書室の君』ってなにさ」
「その女、とかわかりづらいだろうから私がつけた」
「長くない?」
「じゃあ名前聞いて来い」
「ええ!?」
なんでいきなりそうなるんだよ。
そりゃ、知りたいとは言ったけどそこまで熱心なわけでもない。
「いいじゃないか、常連なら『今日は何読んでるんですか?』って世間話からの流れで聞けば簡単だろう?」
わざわざ僕の声色で、表情まで変えて実演する三郎はあっさり言うけど、そんなに簡単にいくだろうか。
ううん、と唸りだした僕に「とりあえず行ってこい」と言うだけ言って僕を部屋から追い出した。
+++
人気の無い図書室、いつもの席にひっそりと彼女がいる。
僕よりも早いのは珍しいなと思いながら見ていたら、本を読んでいた彼女が急にがっかりした顔で溜息をついた。
何があったんだろう。
まるで彼女につられるようにそわそわしている自分に気づいて驚く。
(どうしよう)
さっさと声をかければいいのに、迷い癖が顔を出した。
――僕は図書委員なんだから、どうしましたって聞いてもおかしくない。
そう自分を鼓舞してカウンターから出ようとしたところで、丁度彼女も顔をあげた。
きょろきょろと何かを探すように視線を動かす。
「長次、」
初めて聞いたその声に、自分が呼ばれたわけじゃないのに妙にドキっとしてしまった。
書棚の奥で本の整理をしていた中在家先輩が音も無く彼女の傍へ移動する。
さすがに遠すぎて内容はわからないけれど、何か言ったらしい中在家先輩に向かって微笑むのを見て何故か胸が苦しくなった。
「……不破……」
「は、はい」
ふいに呼ばれたことに驚きながら傍へ行くと、彼女が読んでいた本を手渡される。
開かれたページはところどころ穴が開いていて、うまく読むことができないようだ。
生物委員に連絡して溜まった虫食い文書の修復をしようという連絡を耳に入れながら頷く。
「どれくらいかかる?」
「あ、ええと…一週間、くらいだと」
「そう…」
長いのね、と呟く彼女に思わず謝ると、きょとんとした顔で見返された。
「ふふ、別にあなたのせいじゃないのに。長次、いい後輩持ったじゃない」
「…あぁ」
「ところでその本の内容覚えてない?あらすじでいいんだけど」
「…………不破の方が詳しい」
予想外の会話発生に思考能力の許容範囲を超えそうだ。
中在家先輩はそんないっぱいいっぱいの僕の肩にポンと手を置いて、場を後にしてしまった。
「不破なにくん?」
「ら、雷蔵です」
「どういう字?」
「え!?」
「あ、でも書くものがないわね。…指で書いてもらってもいい?」
そういいながら、彼女は自分の手のひらを僕に向けた。
ああもうほんとうに、人生何が起こるかわからない。
頭が真っ白なまま彼女の手に自分の名前を書く。
緊張して指が震えたこと気づかれたかも。
「雷、蔵…か。うん、覚えた。因みに私は苗字名前ね。字はこう」
「わっ」
ぐい、と僕の手を掴んで手のひらに指を滑らせる。
なんだか恥ずかしいし、何よりくすぐったい。
そわそわする僕の手に触れたまま視線だけを上げる彼女は、緩やかに唇の端を上げた。
――ああ、この人もばっちりくのたまだ。
「ねぇ雷蔵、私のお願い聞いてくれる?」
顔に熱が上がってくるのを感じる僕に、苗字先輩(だろう、きっと)は綺麗な笑顔でそう言った。