どうか私をみたして
どうか私をみたして(1)
私は変装が好きだ。
完璧を目指すために観察も努力も怠らないし、腕前に自信だってある。
悪戯が過ぎて怒られることもしばしばだが、ばれなければ問題ない。
それで好いた相手に近づけるなら、いくらでも騙してみせようじゃないか。
廊下の角から覗き込み、こちらに向かって来るくのたまを認めて素早く鏡で最終確認。
らしくもなく緊張して喉の調子を整え(あくまで静かに)、足を進めた。
すれ違いざま軽くぶつかり、持っていた教材をばら撒く。
ごめん、なんて我ながらわざとらしい。
「こちらこそ、ごめんなさい。私も前見てなくて――」
一緒にしゃがんで散らばった教材を集め始めたくのたま――苗字名前は、私を見て動きを止めた。
それに首を傾げて見せると苗字は焦ったように俯いて、自分の足元にあるものを拾い集める。
どうぞ、と差し出されたそれを受け取る時にさりげなく触れたら、苗字はおもしろいほど肩を震わせた。
「ありがとう苗字さん」
「い、いえ!それじゃあ」
パタパタ走り去る苗字を見送る。
とりあえず、接触は成功と見ていいだろう。
初めて見る表情や仕草を嬉しく思う反面、僅かに寂しさを感じる。
それを誤魔化すように手を握り込みながら、雷蔵とのやりとりを思い出していた。
『――三郎、それでいいの?』
『私の調査によれば“彼”は苗字とあまり接点がないし、バレるようなヘマはしない』
『……僕が言いたいのはそういうんじゃなくてさ……後で後悔するんじゃないかって』
(あの時、“そんなことない”と答えたが……早速揺らぎそうだよ雷蔵)
いつもよりも真剣に確認を取ってきた雷蔵の気遣いを、今になって実感する。
(……あと、少しだけだ)
あと数回だけ、この姿で苗字の反応を見たい。
絶対に私には向けないであろうそれを見たら、終わりにするから。
+++
「――でね、先生が褒めてくれたの」
「すごいじゃないか、おめでとう」
「あなたのおかげ」
頬を紅潮させて実技試験の結果を報告してくる苗字に笑って返すと、苗字は照れくさそうにはにかんだ。
その微笑みに心臓が跳ねる。
苗字は“私”に対して言っているわけじゃないのに、錯覚してしまいそうだ。
あれから数回、やめようと思いながらもその機会を先延ばしにして、逆に距離を詰めている始末。
今では普通に会話を交わし、情報交換までする間柄になってしまっていた。
「苗字、さん…」
呼ぶと柔らかく微笑んで微かに首を傾げる。
ほんのり染まった頬で嬉しそうに口にするのは自分の名前じゃないのに、それを見たいと思う私は自虐趣味があるのかもしれない。
(…………いや、それはない。さすがに)
「どうしたの?」
問いかけてくる苗字に首を振ることで答える。
不思議そうにしながらも「言おうとしていたことを忘れた」と苦笑したら納得してくれた。
こうして会う回数を重ねるたびに、言ってしまおうかと思う。
思うのに……それを口にしたら最後だ。
怒ってくれるならまだましで、嫌われるのは確実。最悪の場合口も利いてもらえなくなるだろう。
けれどこれ以上苗字を騙し続ければ、いずれ本人と苗字が接触する場面が出てくる。
今まではその機会をことごとく潰してきたが――そろそろ限界だとわかっていた。
「あの、さ…」
「思い出した?」
「…………ろ組の鉢屋、って、知ってる?」
「はちや……あ、うん。鉢屋三郎くんだよね、悪戯好きの」
――自分でも、驚くくらい心臓が鳴った。
先生とか友達から聞いたことあるよ、とにこやかに続ける苗字の言葉を聞きながら、さりげなく胸元を押さえる。
たかが名を呼ばれただけ。
存在を知っている、それだけなのに。
その後は、あたりさわりのない会話をした記憶しかない。
話題にした流れでばらしてしまえばよかったのに、きっかけをふいにしてしまった。
「……三郎、部屋に暗い雰囲気撒き散らさないでくれるかな」
「私はもう駄目だ……」
「また苗字さん絡み?」
「………………」
「だからさっさとやめたほうがいいって言ってるのに。……なにがあったのさ」
溜息をつきながらも聞いてくれる雷蔵は優しい。
苗字を前にしたときの葛藤と、“鉢屋三郎”の話題に触れたと話したら思い切り呆れた顔をされた。
「それ単に悪名高いってだけだろ」
「その悪名が役に立っているじゃないか」
「いや……どうだろう……ともかくさ、そろそろ話してあげないとお互い辛いと思うんだけど」
「わかってる…明日、言う。…………なあ雷蔵、」
「ん?」
「私が泣いたら慰めてくれ」
肩を竦めて苦笑する雷蔵から了承の意を感じて、私は口元を緩めた。
どうか私をみたして(2)
――私が決意を固めたのは、少しばかり遅かったようだ。
両の目に涙をいっぱい溜めて私を睨みつける苗字を見下ろす。
少し遅れて痺れるように痛みだした頬に、ようやく自分が引っぱたかれたんだと自覚した。
「…………楽しかった?」
まるで動きを封じるように、自身の手首を握る苗字が声を震わせる。
ボロボロこぼれる涙を拭おうともせず、私を睨むのをやめない苗字は「答えて」と語気を強めた。
+++
意を決して苗字の元へ向かいながら、ことの段取りを考える。
結果的にすること――彼女に会うためにしてきた変装を目の前で解く――は決めていた。
そこへ至るまでの会話運びを幾通りも思い浮かべるが、どれ一つとして苗字の笑顔は望めない。
――当たり前だ。
ただ自分のためだけに、彼女の気持ちを利用して弄んだようなものなんだから。
それなのに、まだそれを回避したいと別の切り口を模索しているなんて――
「……私も、つくづく諦めが悪い」
独りごちて自嘲的な笑いを浮かべる。
段々と足取りが重くなっていくのを自覚しながらも、半ば無理やり足を動かしていた。
いつからか苗字との待ち合わせに使用していた松の下、背を預けながら腕を組む。
未だに何から話せばいいのかまとまらず、焦りばかりが強くなる。
しかし、私の内情など知る由もない苗字は当然待ってくれなかった。
「――こんにちは」
いつものような明るさや華が感じられない、平坦な声。
俯いて足元ばかりを見ていた私はそれに弾かれたように顔をあげ、思わず息を呑んだ。
知られている、と。考えるよりも先に、直感でそれを感じ取った。
苗字はその目に私を映しているが、どこか遠くを見ているようで、私に焦点を合わせない。表情もなく、ただ人形のように立っていた。
「『……苗字さん』」
「昨日、私あなたに会いに行ったよね。試験結果がよかったお礼に、贈り物を持って」
反射のように本人の声で話しかけた私に被せ、“私”には覚えがない内容を口にする。
私が危惧していた本人との接触を匂わせながら、苗字がわずかに首を傾けた。
疑問ではなく、確認を取るような問いかけ。それに答えを持たない私は当然口を閉じるしかない。
「本当は、贈り物なんて口実で…………好きです、って言うつもりだった」
淡々と紡がれていく話に勝手に肩が震える。
後悔と嫉妬と結果を求める好奇心、同時にそれ全てを諌める感情が混ざり合う。
きつく手のひらを握りながら歯噛みした私に、苗字は小さく笑いをこぼした――感情は、全く篭っていなかった。
「でもね……言えなかった」
「苗字、」
「今までのこと、全部、知らないって……自分じゃないって、言われて…私、何も言えなかった」
すっかり俯いて声を震わせる苗字に、何も言葉が出てこない。
痛みを訴える心臓に、こんな形で苗字を傷つけたのは自分だろうと叱咤した。
「あなた…鉢屋くん、でしょう?」
「………………そうだ」
「どうして?」
私を押さえ込むように、苗字が言葉を重ねる。
何度も予想して答えを用意した問いかけなのに、何一つ思い出せない。
ゆっくりと顔をあげた苗字の瞳は怒りと、悲しみと、落胆の色が浮かんでいる。
それから目が離せないまま、思い浮かぶ言葉をそのまま口にしていた。
「……ただ、反応を見たかっただけだ」
直後、パン、と乾いた音が聞こえた。
それは存外近くて、左の鼓膜を震わせている。
私を睨む苗字の目からポロリと涙が零れ落ちるのを見て、綺麗だと場違いなことを考えていた。
「…………楽しかった?」
じわりと痛み出した頬と、苗字の問いかけに引き戻される。
何か言わなくてはと思うのに、私の頭の中は相変わらず役立たずで真っ白なままだ。
「苗字を、からかう気は…なかった…」
私の答えに苗字は一度頭を振って、うそつき、と呟いた。
「だったら、どうして黙ってたの?面白かったでしょう、好きな人だって思いこんで、浮かれて、はしゃぐ馬鹿な女を見るのは」
――そんな苗字を見ているのが、好きだったんだ。
しかし、今更何を言っても言い訳にしか聞こえないだろう。
何も言わない私に焦れたのか、行使されたばかりの手が再び振り上げられる。
目を閉じながら、頭の隅では逃避するように最悪の事態になったなと考えていた。
「…………殴らないのか」
いつまで経っても訪れない痛みに目を開ければ、上がったままだった手が私の一言で力なく下がっていく。
「そのほうが、あなたには効きそうだから」
怒りをぶつけられたほうがましだと思っていたから、その言葉にドキリとした。
苗字は唇を噛み締めると、目元をこすって踵を返してしまう。
このまま終わらせてしまうのかと自問して、同時に彼女の腕を掴んでいた。
「……ごめん」
「っ、」
苗字が声を詰まらせる。
眼光を鋭くさせて私の手を振り払うと、無言で私の手に何かを握らせた。
「――もう、あなたには、会わない」
それだけ言うと、苗字は振り向きもせずくのたま長屋の方へ戻っていった。
こうなると予想できていたはずなのに、やりきれない。
独り残されたまま、木の幹に寄りかかってずるずると座り込んだ。
どうか私をみたして(3)
ぼんやりとしながらも部屋にはたどり着けたらしい。
雷蔵は出かけているのかと思いながら、倒れこむように文机につっぷす。
ふと渡されたものが気になって握り締めたままだった手を開けば、未使用と思われる髪紐が一本。
――なぜ苗字はこれをくれたんだろう。
「……うわ……部屋の空気が淀んでるんだけど」
帰ってきた雷蔵が、溜息混じりに言いながら部屋の戸を開け放す。
こちらを振り返った雷蔵は一瞬驚いた顔をして、無言で手ぬぐいを差し出してきた。
私はまだ泣いてないのに。
「自分の顔鏡で見てみたら?」
それっきり何を言うでもなく文机に向かって勉強を始める雷蔵の背によりかかる。
小さく溜息は聞こえたが、咎められたりはしなかった。
「――雷蔵、私はな…苗字が好きだ」
「…知ってるよ」
「…………あれが最後になるなら言えばよかった」
苗字から渡された髪紐を手で遊ばせながら呟いたら、雷蔵の背中が僅かに震えた。
そのまま身体をずらして私を落とし(完全に寄りかかっていたから床に頭をぶつけた)、困惑顔で私を見る。
「言ってないんだ。ただ傷つけて、泣かせて…………それで終わった」
自嘲めいた笑いと共に身体を起こしながら、思い出して胸が痛む。
苗字にあんな顔をさせたのも、言わせたのも自分なのに。
「もう私とは会わないってさ」
「…………それでいいの?」
いつかと同じような問いかけに言葉が詰まる。
即座に浮かんだのは“嫌だ”という感情。直後に苗字からの別れの言葉が頭に響いて身動きが取れない。
私はこの期に及んでまだ嫌われたくないと思っているらしい。
――これ以上評価が落ちることなんてないだろうに。
「……苗字さんに関しては臆病だなぁ」
私の内情を察したらしい雷蔵がしみじみ言ってくるが、悲しいことに否定できない。
開き直って「ほんとにな」と返せば苦笑された。
「ところでさっきから何いじってるの。髪紐?」
「…別れ際に、苗字がくれた」
「苗字さんが?どうして?」
「私に聞かれてもわからん」
「ふうん……詫びになにか寄越せって言ってもいいくらいなのに。わざわざ三郎の好きな色で…」
なにげなくこぼされた感想にぎょっとする。
何度も瞬いて雷蔵を凝視したら、雷蔵は不思議そうに首をかしげた。
「あれ?三郎こういう色好きだったよね?」
頷きながら、単なる偶然だと返した。
自分自身に言い聞かせる意味も込めて。
なぜなら苗字は“私”の情報なんてほとんど知らないはずだし、さして興味もないだろうから。
「何変な顔してるのさ」
「……自分の考えにへこんだ」
「よくわからないけど、これきっかけにしたらどうかな」
「理由、聞いて来いってことか?」
「いつまでも鬱々されるのも困るし、すっきり玉砕してきなよ」
「…………雷蔵は厳しいな。私はこれでも傷心中なんだが」
茶化すように言えば、雷蔵は「まあね」と笑いながら私の肩に軽く拳を当てた。
――“頑張れ”と。そう言われたような気がした。
+++
雷蔵の後押しもあり、せめて髪紐の意味だけでも聞こうと決めたはいいが、“もう会わない”の一言は思いのほか響いているようで、私の足を鈍らせる。
くのたま長屋で苗字を呼び出そうにも“鉢屋”からでは応じてくれないだろう。
雷蔵や勘右衛門(いつの間にか気付かれていた)が代わりにと申し出てくれたが、それは断った。
呼び出しを拒否されても尋ねるべきなのに。
――こうして苗字と会っていた松の下で、ただ溜息をついているとは。
「……まったく、情けない」
あわよくばを期待している自分に苛立ち、顔を覆う。何度目になるかわからない溜息をついた瞬間に視線を感じて顔をあげれば、いくらか離れたところで佇んでいる苗字が見えた。
反射的に駆け出した私に、苗字が驚いた顔をする。そういえば雷蔵の姿で会うのは初めてだったか――そんな考えが脳裏をよぎったが、今は構っていられなかった。
警戒心をあらわに身を引いた苗字の腕を掴む。
呼びかければギクリと身体を強張らせ、ぎこちなく“私”の名を呼んだ。
どうか私をみたして(4)
「話がしたいんだ…………少しだけでいい、頼む」
苗字は泣きそうな顔をして私から顔を逸らし、きゅっと唇を引き結ぶ。
長い、長い沈黙だった。
実際にはどのくらいだったかわからないが、永遠に続くんじゃないかと錯覚するほどに。
「…………私も、言いたいこと、あるから」
ポツリと聞こえた、遠まわしだが確かな了承に心底ほっとした。
掴んだままだった腕を解放して礼を言えば、苗字は戸惑ったような顔で私を見上げてきた。
「普段はこの顔なんだ。友人のを借りてる」
「……そう」
端的な相槌は納得か、それとも呆れたのか。
わからなかったが、問い返すよりも先を促す苗字の雰囲気を優先して頷き、懐から彼女に貰った髪紐を取り出して見せた。
「――…これ、私が口実にしようとしてた贈り物だよ」
僅かに目を見開いた苗字がまたも泣きそうな顔をする。
そのまま「捨ててよかったのに」と付け足すから、無意識にそれを握り締めながら聞きたかったことを口にした。
「…………なぜ、私に」
「渡せなかったから」
苗字は松の木の方へ歩き出しながら、かろうじて聞き取れる程度の声量で呟く。
あの日の苗字が淡々とこぼした内容を思い出し、追いかけようとしていた足が止まった。
「――あの人、その色好きじゃないんだって」
謝ろうと息を吸った時に苗字がくるりとこっちを向く。
「好きだって聞いたから、それにしたのに」
紡がれたその言葉で、ようやく思い出した。
苗字に会うための変装をしているときに“好きなもの”を聞かれたこと。その中には色もあったが、調査不足で咄嗟に自分の好きな色を告げたこと。
――どうして、忘れていたんだろう。
「元々試験の手伝いしてもらったお礼のつもりで、でも手伝ってくれてたのはあの人じゃなくて……それは、好きな色でもなくて……」
「苗字…」
「だから、鉢屋くんに押し付けたの」
私の呼びかけを遮って、苗字が話を続ける。
苗字は私の足元を見ているから目は合わない。それが、残念でしかたなかった。
「私ね、今まであの人とはあまり話したことなかったんだ。少しずつ会う機会が増えて、話ができるようになって嬉しかった。話上手で優しくて、内面も好きだなって思ったのに…………騙されてたんだって、全部嘘だったんだって思ったら悔しくて――」
顔をあげた苗字が言葉を切る。
ためらいがちに視線を泳がせてから私を見るとぎゅっと胸元を握った。
「……どうして…言ってくれなかったの…?ほんとに、反応が見たかっただけなの?私…わたし、本当に、好きだったのに」
「――っ、」
たまらず、泣き出す苗字を抱き締めていた。
びくりと震えて強張る身体を掻き抱く。
「ごめん…………ごめん。最初は、お前があいつに向ける顔を私にも見せて欲しくて……軽い気持ちで……」
あの日苗字に返した答えは嘘じゃない。
けれど、それでは全然言葉が足りていなかった。私はそれに気付いていたはずなのに。
言い訳はしたくないと、自分のことばかりだったせいでより深く苗字を傷つけていた。
「次第に欲が出て――今度は、言い出せなくなった」
「鉢屋く、」
「嫌われたくなかった。どうしても。好きなんだ。好きだ。苗字が好きだ」
もう順序もなにもない。
私は苗字を掻き抱いたまま、ひたすらに思い浮かぶ言葉を口にしていた。
それで言葉足らずになったんだと、たった今気付いたはずなのに。
身体を強張らせたまま動かない彼女をそっと解放すると、苗字は驚いた表情で固まっていた。
目を合わせていられず、僅かに視線を逸らす。
「私が苗字を騙していたのは事実だし、それを許してもらおうとは思っていない。けど……私がお前を想うのだけは、許して欲しい。……約束は、守るから」
――これが本当に最後だな。
私は静かに深呼吸して、苗字を見つめなおす。途端、苗字の目から引いていた涙がまた落ち始めてうろたえた。
「な…、だ、駄目か?」
「わか…ない、わからない、ごめんなさい」
しきりに頭を振って俯く苗字がもう一度「ごめんなさい」と呟く。
私の気持ちに応えられないからかと謝罪の理由が浮かんで胸が痛んだけれど、そんなのは今更だ。
痛みを強引に押しやって声をかければ、苗字は涙混じりに声を震わせた。
――また、会いたい。
今、苗字はそう言わなかったか。
「……苗字?」
「勝手だって、わかってる。けど、わたし、あなたと……鉢屋くんと、…ちゃんと、話が、したい…」
合間にしゃくりあげる声が入って聞き取りづらかったが、苗字は“会わない”を撤回したいと言ってくれた。
――私がそれを断るはずもない。
「……いいのか」
「私が…、知りたいから。あなたのことと…………私の気持ち」
「気持ち?」
頷く苗字はそれ以上答えてはくれなかった。けれど、久しぶりに見せてくれた微笑みは紛れもなく“私”へと向けられたもので――それがただ嬉しかった。
「三郎、いつまでそれ眺めてるのさ」
「使おうと思ってるんだ」
「ならさっさと使えばいいじゃないか」
「勿体無い気がしてな」
「じゃあ仕舞っておけば?どうせ常に持ち歩いてるんだから」
「『会うときにさりげなく見せると効果的』」
「…って勘右衛門が言ったんだね?」
「あいつ本当だろうな……」
「いいから早くいきなよ、苗字さん待ってるんでしょ」
「しまった!…………どうだ、雷蔵、似合うか?」
「はいはい、似合う似合う」
「よし、いってくる!」
読み切り短編
8138文字 / 2011.10.20up
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