まるで、ひめごと(2)
翌日は朝から快晴で、とても過ごしやすい日和。
――なのに、私は身体を緊張させながらこうして木陰で息を潜めている。
遠くの方で争っている音が聞こえるけど、近辺は非常に静かで逆に怖い。
胸元にさがる札を握り、ゆっくり息を吐き出したところでガサリと葉擦れの音がした。
振り返りながら咄嗟に斜め後ろに飛べば、私が今しがた身を寄せていた木に縄が巻きつくのが見える。
続いて聞こえた舌打ちに目をやると、苦笑いをする竹谷が傍に犬を侍らせて姿を見せた。
「なるべく怪我させたくねーからさ、おとなしくしてくれ」
「…………」
声が、でない。
驚いてるせいか、竹谷の雰囲気に気圧されてるせいか――ともかく無言で見返して一つ息を吐き出した直後、私は地面を蹴った。
「やっぱ逃げるよなぁ……」
わかってるなら追うな、と思う。
急速に近づいてくる足音は人間のものじゃない、ということは竹谷がつれていた犬だ。
比較的小さめだったけれど、追いつかれて飛びつかれたら絶対転ぶ自信がある。
かといって木の上では竹谷の方が早いだろうし――
「ど、どうしよう!!」
いっそ捕まって…いやいやそんなことになったら立花先輩からのお仕置きが。
焦っちゃ駄目だと思うほど心臓が早くなる。
振り向かずに走っていたら、サッと足元を通った影が私の目の前で急停止。それを避けようとしてバランスを崩し、結局転んでしまった。
「いったぁ……」
ハッハ、と小刻みに呼吸する犬が私の膝元に寄ってくる。
パタパタ振られっぱなしのしっぽとキラキラした目――自分と遊んでるときの愛犬と一緒だ。
「そうだ、笛…!」
久々知くんにだって念押しされたのに、どうして忘れていたんだろう。
こすれ合ってチャリ、と音を立てるそれの一つを軽く吹いてみる。
ピクリと耳を震わせてその場でグルグル(しっぽを追いかけるみたいに)回る犬に思わず笑ったところで、のんびりした足取りで竹谷が追いついてきた。
「諦めたのか?」
「……誰が?」
にっこり笑い返すと、竹谷が口元を引きつらせる。
目は私の手元――犬笛に釘付けで、思いっきり苦々しい顔をして頭を掻いた。
「あ~~~~、くそっ!交換条件!」
指を一本立てながら私に合わせてしゃがむ竹谷は、相変わらず眉間に皺を寄せている。
ちら、と私の横で次の合図を待っている犬に目をやって、今度は大きな溜息を吐き出した。
「……ここは引くから、それで手打ってくんねーか」
「二度と私を追いかけない、も追加」
「作法ってことか」
「ううん、私だけでいい」
「それだけでいいのか?」
頷くと竹谷はふっと身体から力を抜いて苦笑した。
「連れてくるやつ間違った……」
「とってもいい子だけど」
「だからだよ。お前こいつで俺に反撃する気だったろ」
「やだな、ただ鬼ごっこでも楽しんでもらおうとしただけだよ」
犬の頭を撫でながら笑えば“充分悪い”とでも言いたげに私を見るから笑顔で返した。
木札と一緒に笛を首からさげ、立ち上がりながら土を払う。
竹谷には私を追わないように約束させたから、またひっそり隠れられる場所を探さなければ。
しゃがんでいる竹谷に“もう行く”と告げようとした瞬間、急に視線を鋭くさせてあさっての方を見るからびっくりした。
「なにかいるの?」
「…………いや、逃げた」
「忍たま?」
「お前なぁ……そんなんで大丈夫なのか?笛持ってんなら影丸呼んどけ」
心配してくれた上にアドバイスまでくれるとは。
竹谷を凝視していると、彼は眉間に皺を寄せて「俺だけ追い返されるのは癪だろ」とこぼした。
犬を連れて去った竹谷とは別方向に足を進める私は、アドバイスどおり愛犬を呼ぼうと思った。
けれど、もし影丸が私の元へ来るまでに誰かに見つかったら、そのまま私も見つかるんじゃないだろうか。影丸は戦闘向きじゃないし、させる気もない。
「うーん…」
指先でチャリチャリ笛を弄りながら漏らしたら、ビィン、と耳を震わせる音。
立ち止まって音がしたと思われる頭上を見上げたら、葉を茂らせた枝が落ちてきた。
「え!?」
「いかがですか私の戦輪さばき!!」
「は!?」
足元に落ちてきた枝を観察する暇もなく横から姿を現す四年生。
――ああ、素晴らしい!常に抜群のコントロール、戦輪を放つ瞬間の指先までも美しい!!
朗々と響く口上を呆然と見守る。
滝夜叉丸の左手は額やら髪やら中空やらに忙しなく動いているけれど、右手は戦輪を離さない。
「苗字先輩、その首にある木札をこちらへお渡しください」
「…いやです」
「なんと!私の美しさがそうさせてしまうのですね!?」
「滝」
「ああ罪深い…!ではどうぞ存分にご覧ください、差し出してくださるのはその後で構いませんから!!」
「滝夜叉丸」
私の呆れきった声にも構わず、滝夜叉丸がポーズを決める。
逐一私に流し目をしてくる徹底した姿勢は感動すら覚えそうだ。
「……って違う!札を渡す気はないけど、これは滝夜叉丸に見惚れてるわけじゃないから」
「私とて女性を脅迫するのは忍びないのです……ですが、苗字先輩は7点をお持ちだとか」
「な!?」
声を落ち着けて、僅かに目を細めた滝夜叉丸が戦輪を放つ。
ピッと装束が切れて、左の袖(二の腕辺り)に大きな穴が空いた。ザッと血の気が引く。
「た、た、滝夜叉丸!?」
「こちらにもやむを得ぬ事情があるのです。ご安心ください苗字先輩。怪我をさせるつもりはありませんから」
「いやいやいや!?ちょっと待とうよ滝夜叉丸!7点なんて――きゃあ!?」
話途中の第二投に頭を抱えて身体を縮める。
キン、と金属音が聞こえて、今度はどこに当たったのかと恐々頭を上げたら、
「……ごめん、遅くなった」
息を切らせた久々知くんの背中が見えた。
状況が理解できなくて呆然としていた私は、不思議そうに「久々知先輩?」と声をかける滝夜叉丸の声でハッとした。
夢、じゃ、ない。
そっと近寄って装束の裾を掴む。掴める。やっぱり、夢じゃない。
そのまま背中に自分の額を当てたら、安心したせいか涙がでそうになって吃驚した。
「……名前、少し待ってろ」
とても小さな声で呟かれた言葉に顔をあげると、久々知くんが苦無を持ち直した。
邪魔になるから離れないとと思うのに、今は離れたくない。
離せと言わない久々知くんに甘えて裾を掴んだままでいたら、滝夜叉丸の声が聞こえた。
「作法と火薬は協力関係なんですか?」
滝夜叉丸の問いかけに、久々知くんは少しの間沈黙し「そっちこそ」と言いながら笑う。
「私たちはどことも協力していませんが」
「会計委員――田村と協力してるんじゃないのか?あいつも名前を探してたし、ほら、そこにいるじゃないか」
「むっ!?」
「げっ、滝夜叉丸!!」
声が増えた。
そっと久々知くん越しに窺えば、ユリコを引きずる三木ヱ門と両手に戦輪を構えた滝夜叉丸が睨み合っているところだった。
「どうしてお前がここにいるんだ!」
「それはこちらの台詞……おやぁ?三木ヱ門、札はどうしたのだ、見える位置に提げる決まりだろう」
「っ、滝夜叉丸には関係ない!!」
「ハッ、だろうな!何も持たぬお前は私の敵にさえなり得ない!やはり学年最強はこの私!平滝夜叉丸だ!!」
「…名前」
「は、はい」
「今のうちに行くぞ」
小声で言うなり私の方へ下がってくる久々知くん。
顔は二人に向けたまま、背中で私を押しながら手で行く方向を示した。
音を立てないように気をつけながら指示に従って移動する。
段々と遠ざかる四年二人の声にゆるく息を吐いたところで、久々知くんが私の肩を抱いた。
「怪我は?」
「し、して、ない。大丈夫」
「…………切れてる」
移動をやめた久々知くんに合わせて止まると、彼はついさっき滝夜叉丸の戦輪が掠めた場所を見て顔をしかめた。
布地しか切れてないから大丈夫だと言えば、そういう問題じゃないと返されてしまった。
「……怒ってる?」
「自分にな」
自嘲気味に笑う久々知くんが装束の裂け目に触れる。
ぎょっとしている間に、空いた穴から久々知くんの指が滑り込んできたものだから、思わず久々知くんを見た。
「…名前に教えてもらった場所から足跡を追ったんだ」
目笑されながらポツリと告げられる内容も気になるけど、私が今聞きたいのはそれじゃない。
いつの間にか向かい合わせで背中が木についている状態に身じろいだ瞬間、狙ったように久々知くんの指が私の腕をくすぐる。
全然、話に集中できない。
「でも途中で獣の足跡と別れてて……万が一ってこともあるし、追うのを迷ってたらさ、田村が通りかかって俺に詰め寄って来るんだよ、苗字先輩どこにいますか、って」
耳元で聞こえる声に身体が震える。
きつく目を瞑って、まだ自由だった右手で久々知くんの服を握り、額を押し付けたら右のわき腹をそっと撫でられた。
「っ、」
「聞けば名前に札を取られたって」
「知ら、ない」
「さげてないもんな。でも丁度よかったから田村には獣の跡を追ってもらった……たぶん八左ヱ門に行きついて引き返してきたんだろうけど」
何度も往復する手を止めたいのに、口を開いたら違う声が出そうで言葉にできない。
抗議するように久々知くんの装束をぎゅうっと強く握る。
動きが止まった拍子に睨み上げたら、逆効果だと言われながら口を塞がれてしまった。
「ん……ぅ、…ふぁ…」
「……は……」
舌を舐められてぞくりと背筋があわ立つ感覚と、同時に漏れでた声が。勝手に震える唇が恥ずかしくて泣きそうなのに、久々知くんは微かに笑ってもう一度唇を合わせる。
息がうまくできなくて苦しい。
――もう無理。
とっくに私の許容量は限界を超えて何も考えられないし、足に力も入らない。
なのに離してもらえないまま、その場にずるずる座り込んでしまった。
4089文字 / 2011.08.04up
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