カラクリピエロ

未だ眠れる恋つぼみ(7)



「ご、ごめんね兵太夫!私にはちょっと受け止められない!――っ、わ!?」

背中に戸が触れたのを確認して、後ろ手に開け、転がり出るように部屋から飛び出す。
と、いきなり滑って転んでしまった。

「いたた…なに、これ、油?」

身を起こしながら足を滑らせた原因を確認すると、ふっと影が落ちてきて反射的に身体が強張ってしまった。
私を見下ろしながら、何度か頷いて笑顔を寄越す兵太夫。

(これ…実験始まった気がする)

それを直感で感じ取って、深呼吸した私はごくりと喉を鳴らし、脱兎のごとく駆け出した。

「――逃げられると逆に燃えるよね」
「兵太夫だけだよ!!」
「…耳いいなぁ」

そんなことないと思うけど、と言っているのが微かに聞こえた気がするけどそれに構っては居られない。
とにかく長屋に留まるのは危ない気がして、廊下から外に飛び出した。

「あ、名前そっちは」
「え!?」

思わせぶりなところで言葉を切る兵太夫に足を止める。
僅かに離れた場所から誰かの――聞きなれたような――悲鳴が聞こえた。

「あれ、おかしいな…なんで向こうで…」
「今のって、」

声のしたほうを見ながらけろっと「乱太郎かなぁ」なんて言う兵太夫に、急いで廊下に戻って分岐箇所を目指した。
バタバタ廊下を駆ける私の横とか後ろで色々な音がする(怖くて振り向けない)。
なんとなく忍たまの下級生を巻き込んでしまっている気もするけど、文句は兵太夫宛てでお願いしたい。

きゅ、と角を曲がったところで衝撃。

「いって!?」
「~~~~ッ!!」

勢いに負けてしりもちをつきながら、思い切りぶつけた鼻を押さえた。お尻も痛いし、もう勘弁してほしい。

「おい、ちゃんと前見て――って、名前?なにそんなに慌ててんだ」

私を引っ張り上げる団蔵に聞かれたけど、うまく声が出てこない。
振り向くことで答えると、ちょうど兵太夫と目が合った。トントン、と柱を叩く動作。
咄嗟につかまれたままだった腕を支点にしてぐるっと回ると、直前まで私がいた場所に網が広がっていた。

「……げ」
「ご、ごめん団蔵、私行くね!」

ろくに会話もしないままその場を後にして、目指していた分岐点へ。

「――そっちでいいの?」

一歩踏み出した直後にそんなことを言われて踵を返す。そのまま走り抜けようとしたら、カチ、と何かを踏んだ。

名前!」
「え!?」

思い切り腕を引かれ、すぐに暗くなった視界に驚いて心臓が思い切り跳ねる。
直後に頭上で聞こえた鈍い音と「いてっ」って声、足元には水が――

「あ、わ、わあ!」
「きゃあ!?」

腕の主を確かめる前に、びちゃ、と背中が思いっきり濡れた感覚。
濡れてるのが気持ち悪いし重いしで最悪だ。

「ごめん!」
「……金、吾?え、なん、あれ!?」

慌てて身体を起こす金吾を確認した途端、カァと顔に熱が集まる。
自分でも予想外の反応に頭が真っ白で上手く言葉が紡げない。

「…ごめん」

今にも泣き出しそうな顔をする金吾が私を引き上げる。
私は何故か金吾を直視できなくて、曖昧に頷きながら金吾の手元を見ていた。
ポタ、と手の甲に水が落ちる。

「あ、ご、ごめん!」

また謝ってる、と働かない頭で考えながらゆっくり顔をあげると金吾もずぶ濡れ状態だった。

「助けて、くれた、の?」
「……駄目だったけどね」

自嘲気味な笑みを浮かべる金吾が溜息をつく。
ぎゅっと改めて手を握られて、また心臓が跳ねた。

「いー雰囲気のところ悪いんだけどさ、お二人さん。っていうか金吾、ルール違反」
「…それは認める。でも兵太夫もやりすぎだと思うよ」
「あはは、面白くてつい止めどころがわかんなくなっちゃって」

いまだに上手く機能してくれない頭で二人のやりとりを聞きつつ、兵太夫からさりげなく差し出された手ぬぐいを受け取った。
私よりも頭からボタボタ水をたらしている金吾の方が必要だろう。
自分には三治郎から借りたままのやつがあったはず、と思ってそれを金吾の頭に被せた。

驚いたように目を見開いて、素早く瞬きをする金吾からぎこちなく目を逸らす。

「な、なに?」
名前だって……ううん、いいや。ありがとう」

まただ。
また、心臓がうるさい。
それを振り払うように思い切り頭を振って、懐から手ぬぐいを取り出し、とりあえず髪を拭いた。

「……名前、ちょっとこっち来てくれる?」
「い、いやです」
「じゃあそこでいいや」

兵太夫の呼びかけを断る暇もなく距離をつめられて身構える。
用心深く様子を伺ったけれど、どうも悪戯をする気はないらしい。

「なんで顔赤いの?」
「え!?」
「今までちーっとも意識してくれなかったくせに、何が原因?」

唐突な問いかけに思考が止まる。
いつの間にか壁際に追い込まれていて、背中が壁についた。
冷たさによる不快感を感じたものの、今はそっちを考えている余裕がない。

「なにって…」
「金吾?」
「ん?なに兵太夫」
「ごめん、呼んでない」

しっし、と追い払う所作に、片づけをしていた金吾が嫌そうな顔をした。
ふいに前髪を払う動作だとか、小さく息を吐く様子だとか――それをじっと見続けていた自分に気づいて頭を振った。

「…………名前、今何見てたの?」
「なななに言ってるの兵太夫!金吾が動いてるから、つい目で追っちゃっただけで」
「へぇ、金吾ね……ふーん……」

事実を言っているだけなのに、さらに追求されているようで落ち着かない。
兵太夫から視線を逃がすと、ばちっと金吾と目が合って益々混乱した。

「ど…しよ…」
「うん?」
「なんか、心臓、壊れそう」

金吾のせいだ。
金吾があんなことしなければ、私がこんな風になることはなかったのに。

「…みとめない…」

これ以上考えたくなくて、全部金吾のせいにしようとしている私の耳に、兵太夫の呟きが聞こえた。

「まだ余地はあるはずなんだ…」
「兵太夫…?」

ぶつぶつ言い出した兵太夫は、私と同じように首をかしげていた金吾を促す。内容はよく聞こえなかったけど、どうやら教室へ戻るらしい。

名前も早く長屋に戻って着替えたほうがいいね。風邪ひいちゃうかもしれないからさ」

くるっとこっちを向いて見せた笑顔は有無を言わせないもので(兵太夫のせいだと思ったけど)、私はそれに素直に頷いた。

途中まで一緒にということになって二人の後をついていく。
気づいたら団蔵と乱太郎が合流していて、兵太夫に向かって文句を言っていた。

「お前のせいで下級生に囲まれて質問責めだよ!」
「どうしてあんなところに穴が開くの!おかげでわたしは、」
「長屋に罠があるなんてスリルがあってよくない?」
「「よくない!!」」

そもそも兵太夫はとか、この際だから言わせてもらうけど、とお説教を始めた二人に挟まれて、兵太夫が耳を塞ぐ。
はいはい、なんて適当に返事をしているから改める気はないんだろうなと思った。

「――名前、」
「!!」

いつ隣に来たのか、金吾の声にビクッと肩を震わせた私は反射的に胸元を握る。
問い返す代わりに金吾を見れば、前を向いたままだった彼も私を見た。

「…………僕はね、大きくなって名前を守りたいって思ってたんだ」
「な、に…急に」
「さっきは理由まで言えなかったから――でも駄目だね、身体だけじゃ足りないや」
「っ、」

眉尻を下げ、困ったように笑う金吾のせいでまた心臓が痛い。
顔も耳も熱いし苦しい。

「「「金吾」」」

綺麗にハモった三人の声に苦笑を返す金吾が連行されていく。
それぞれから笑顔で“またね”を言われて、私は頷いて手を振るくらいしかできなかった。

みんなが完全に見えなくなるまでその場に留まって、勢いよくしゃがむ。

「…なんなの…もう…!」

勝手に再生される金吾の台詞に耳を塞ぐけど、当然意味はない。

――まだ気づきたくない。
だって、気のせいかもしれない。

とりあえずは、実家に帰ってやるべきことをやる。
このドキドキもモヤモヤも、全部終わってから考える。

何度も何度も繰り返して、心を落ち着かせた私はようやく腰を上げた。







「議長」
「はい、三治郎」
「僕が思うに、ひよこみたいな…刷り込みの一種だと思います」
「というと?」
「最初に意識したのが金吾ってだけで、確定じゃないかもってこと」
「……だって自由にしていいって決めたじゃないか」
「やりすぎ」
「だよね。僕にやりすぎって言っといて金吾だって名前にベタベタ触ってたけど、それはありなの?」
「いや、兵太夫もあれはやりすぎだと思う…っつーか罠撤去しろよ!おれたちまで危ないだろ!」
「落ち着け団蔵」
「虎若も落ち着こうよ」
「僕は充分落ち着いてるけど?」
「…なんで火縄銃持ってるのさ」
名前を手放すなんてできるわけないだろ!」
「……あー、それより、まずは名前が一旦実家に帰るってことだ」
「また帰ってくるって言ってたよ?」
「そりゃオレも聞いてたけど、念の為だよ」
「じゃあこっそりついてこうよ!」

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