※久々知視点
――満月まで残り数日。
月が円に近づくにつれ、抱いていた不安通り…名前への吸血欲は増していく。
俺は今まで人の血を吸ったことがない。
方法としては教わったけれど、自分から誰かの血が欲しいと考えるようになるなんて思ってもみなかった。
…こんなに悩むことになるなら方法だけじゃなく、心構えも聞いておくべきだったのかもしれない。
名前は俺の不安を聞いたうえで「一緒にいたい」と言ってくれたけど、もし俺が衝動に負けて名前を襲ったらどうなるんだろう。
このごろは名前を見ただけで喉が渇くし、気を抜くとそのことですぐぼんやりしてしまう。
いっそのこと、満月を待つことなく彼女から血を貰ってしまおうか――
「久々知くん」
「っ、名前」
考え事の内容のせいか、呼びかけに過剰に反応してしまう。
振り返って視界に入った彼女は、胸元を握りながら顔を上げた。
「あの、今日…部屋に来てもらってもいいかな」
「? 構わないけど、用事が済んでからでもいいか?」
「う、うん!待ってる!」
俺の返事に対してあからさまにホッとする名前を疑問に思いながら手を伸ばす。
だけど触れる寸前、どくんと心臓が大きく音を立てて一瞬思考が飛んだ。目を閉じれば、嫌がる名前に牙を突き立てる自分の姿がちらつく。
(…駄目だ)
軽く頭を振って嫌な想像を追い払う。不用意に触れてしまわないように手のひらを握りしめ、名前から焦点をずらした。
「…………久々知くん?」
「あ、ああ、ごめん。ちょっと立ちくらみ…それより、どうしたんだ急に」
意識を反らすべく問い返したものの、名前は曖昧に答えをはぐらかしたから、目的を聞くことはできなかった。
+++
一通りの用事を終え、呼び出しに応じて長屋まで忍んで来たのに…肝心の彼女は文机に突っ伏して居眠りをしていた。
脇に積まれた本と机上に転がっている筆からすると、勉強でもしていたんだろうか。
課題かなと思ったけど、もしかしたらくのたまの悪戯計画かもしれない。
起きたら聞いてみようかと名前の方へ視線を移して…ギクリとした。
――――喉が、渇く。
ふらりと吸い寄せられるみたいに眠っている彼女へと近づく。
背後から名前を閉じ込めるように手をついて、触れそうなほど距離を詰めても…起きない。彼女の眠りは案外深いらしい。
この無防備さに悪戯心が湧いたものの、ふと視界に入った細い首に、喉の渇きを思い出してしまった。
――名前はどんな味がするんだろう。
ごくりとつばを飲み込む。
駄目だと思っているはずなのに、思考とは裏腹に顔を伏せ、そっと唇を落としていた。
警鐘のように自分の鼓動が聞こえる。やめろと止める声もするのに……――なめらかな肌に舌を這わせたところで、名前が大きく跳ねて声を漏らした。
「や…、だ、だれ」
普段とは全く違う、強い力で身をよじる名前にハッとして慌てて顔を上げる。
声をかけながら宥めると、名前は何度も瞬いて俺を確認し、空気が抜けたように大人しくなった。
「…ごめん…びっくりして」
「いや、俺の方こそ……ごめん」
すっかり力を抜いて寄りかかってくる名前が、「じゃあおあいこだね」と言いながら微笑む。
圧倒的に俺が悪いと思うのに、眠気の余韻が感じられるそれにドキリとした。
ふいに湧いた衝動に負けて目尻に軽く口づけると、反射的に目を閉じた名前が俺の装束を掴む。
まつ毛が震えてゆっくりとまぶたが上がるのを見つめていたら、なぜか彼女が泣きだしそうに見えた。もう一度触れると、ますます瞳が潤んでしまう。
「…………もう、いいの?」
「うん?」
ぽつりとこぼされた言葉の意味がわからないまま視線を返すと、名前はまぶたを伏せて手のひらを握りしめた。
「最近、久々知くん私のこと…さ、避けてたから…」
「え!?」
「やっぱり、私といるの苦しい?それとも、私…なにか無神経なこと」
「ま、待った!俺、名前を避けたりなんかしてないぞ?」
「でも、全然、目合わせてくれないし、」
それに、と言いよどむ名前が躊躇いがちに俺の背に腕を回してくる。
密着した身体に思わず言葉を詰まらせて、次第に早くなっていく心音を自覚しながら名前をそっと抱き締め返した。なんだか…久々にこうしている気がする。
自分にとっては自重するための行動が、名前からしたら避けているように映ったのか。
「……ごめん。不安にさせてたんだな」
名前は何も言わないまま、ただ腕の力を強める。
行動を振り返り、申し訳ない気分になりながら…こうして態度で示してくる彼女が愛しくて、自然と頬が緩んだ。
名前をそっと上向かせて唇を触れ合わせる。相変わらず、喉は渇いている。
より深く口づけても、当然ながらこの渇きが満たされることはない。
そればかりか逆に酷くなったような気もするけれど、気持ち良さと名前の可愛さの方が勝るからつい夢中になって…彼女を離すころにはお互い息が切れていた。
改めて事情を説明して、理性の残っているうちに(というのもどうかと思うが)自分がどうなるのか、名前はどんな状態になるのか知りたいと告げる。
すると、名前はまたもやあっさり頷いた。
頼む側の俺が言うのもおかしいけど、もう少し渋った方がいいんじゃないだろうか。
「でも、私もどうなるか知りたいし………………その、嬉しいって言ったら、呆れる?」
「…? 噛まれるのが嬉しいのか」
「ち、違うよ!久々知くんの初めてが私ってこと」
…………“初めて血を吸う人間が”という意味なのはわかる。
わかるけど――その言い方は妙にいやらしいと思う。
「久々知くん?」
「俺はいやらしい名前も好きだ」
「!!?」
疑問符を浮かべたまま、一気に赤くなる名前の腕を引いて首筋に口づける。
びくんと大きく震えた名前は短く悲鳴を上げ、ぐっと俺の装束を引いた。
「て…手じゃ、ないの?」
「…そうか、名前はそっちがいいんだっけ」
「できれば」
頷く名前がわずかに身を引く。恥ずかしいのか視線は下がりがちであまり目は合わない。
それでも時折“まだかな”と言いたげにこっちを見るのが可愛くて、熱をもってそうな頬に惹かれるままキスをした。
なにか言いたいのか名前が口を開閉する。
それをちらと見てから彼女の手を取り、指先に口づけて舌で触れる寸前――名前は指先を握りこんでしまった。
「…名前はここがいいんじゃないのか?」
「~~~~っ、その前に、あっち向きたい」
「なんで」
「だって…なんか……」
「…………いやらしいから?」
「ッ!!」
肩を跳ねさせて首元まで赤くなる名前が唇を震わせる。
当たりか、と内心で呟いて笑みを返した。
「久々知くん、わざと――っ!?」
ぎゅっと握られた手のひらの親指と人差し指の間に舌を捩じ込む。
ねっとりと愛撫するように舌を這わせると名前が震えて息を呑み、戸惑いがちに指が動いた。
「ひゃ、ぁ…」
ちゅ、と音を立てて吸いつけば腕に力が入り、逃げようとするから、俺も彼女を掴む指に力を込めた。
「や…、だめ、それやだ…っ」
「……でも痛いのも嫌だろ?」
一度顔を上げて聞けば名前は真っ赤な顔で首を振る。
なるべく痛い思いをさせたくないから(楽しいのは否定しないけど)、やめるつもりはない。
これでどのくらい痛みを緩和できるのかはわからないが、血が出るほどだ。きっと“全然痛くない”状態にはできないだろう。
「っ、も…いい、から…」
逃げようとするのを捕まえたまま、同じ場所に何度も吸い付いていたら、限界がきたらしい名前が声を震わせて俺の肩に額を乗せる。
息が切れているのは、声をこらえるために止めていたからだろうか。
そんな彼女を見ていると……吸血衝動とは別の欲がわいてきてたまらなくなる。
「いた、くても、い…から……早く、…ん、ぅ……!?」
追い打ちのような台詞と表情に耐えられずに唇を塞ぐ。
「……は…っ、…ごめん」
名前の言葉から性行為を連想する自分が悪いのかもしれないけど…やっぱり似ているし、いやらしいと思う。
「……じゃあ、いくぞ名前」
「う、ん」
息を乱しながらぎゅっと目を閉じる名前を確認して、もう一度舌を這わせる。
ぴくりと反応したのは触覚が残っているためだろうけど、痛覚はちゃんと鈍くなってるんだろうか。
鋭くした犬歯をゆっくりと肌にあてがう。
あとは力を込めるだけだ……なのに、どうして俺はここにきて躊躇っているんだろう。
名前の血が欲しい。
この柔らかい肌に牙を突き立てて、血を啜りたいんじゃなかったのか。
「久々知、くん?」
「…………できない」
「え…?」
戸惑う名前を引き寄せて、腕に抱き込む。
不思議そうに俺を呼ぶ名前の声を聞きながら、抱きしめる力を強くした。
「…ど、したの?」
大切にしたい、守ってやりたい――傷つけたくない。
そう思ってる俺自身が、名前に傷を負わせることに対する躊躇い。
「ちゃんと、わかってるつもりだったのに……」
一気に膨れ上がった自分への嫌悪感で目眩がする。
今は衝動よりも欲求よりも…嫌だという気持ちが勝っているけれど、それが逆転したら――少し前に脳裏を掠めた想像通り、俺は躊躇いを捨てて名前に襲いかかるんだろう。
そうならないために、こうして血を貰おうとしていたはずだ、と思考が堂々巡りを始める。
ふいにぎゅっと抱きしめられて、驚きながら視線を下げた。
名前は照れくさそうに「ありがとう」と言いながらはにかむ。
「なんで……」
「……久々知くんが大事にしてくれてるって、わかるから」
うれしい、と呟く表情が見たいのに、俺の肩に顔を伏せてるから見られない。
擦り寄ってくる名前のおかげで心臓がうるさいし、様々な感情が混ざり合って考えがまとまらない。
「けど私ね…久々知くんの力になれるのも、嬉しいんだよ……や、やらしい意味じゃなくて!」
慌てて俺を覗き込みながら付け加え、顔を赤くする彼女を無性に抱きしめたくなる。
だけど、まだ何か言いたそうにしていたから辛抱して先を待っていると、名前は目を泳がせて小さく唸った。
「…………“久々知くんにならいい”って言ったの、忘れちゃった?」
消えてしまいそうな呟きに今度こそ名前を抱き締める。
腕の中であがる驚く声を聞きながら、ごめんとありがとうを彼女に告げた。
「久々知くん、それはもういいってば…!」
「効果が切れてるかもしれないだろ」
「ま、まだ痺れてるもん」
「本当か?」
名前の手を取って、確かめるために指で押しながら彼女を見る。
頬を染めたまま、居た堪れないといった表情で唇を引き結んでいた名前は、唐突に懐を探って手裏剣を取り出した。
嫌な予感しかしなくて、すぐにそれを没収する。
「あ!ちょっとチクって刺してみるだけ。大丈夫、毒とか塗ってないから」
「………………嫌だ」
「い、いやって」
「見たくない」
「でもわかりやすいよ?」
「~~~~~~っ、もう躊躇わないから必要ない」
割と勝手なことを言っている自覚はある。
名前の気の回し方がなんだか恥ずかしくて頬が熱い。没収した手裏剣を自分の懐へしまいこみ、不満そうな声を聞きながら名前の手のひらに顔を寄せた。
軽く口づけてから、そっと犬歯をあてる。
心臓がドクドクと嫌な音を立てているけれど、それを無視して少しずつ力を込めた。
ぷつりと、皮膚を突き破る感触。
名前の身体が同時に跳ねたのもわかったが、舌先にとろりと流れてきたものを反射的に飲み込んだ途端、思考が鈍った。
鉄くさい血の味だというのはわかるのに、甘い。甘過ぎてくらりと目眩がするような感覚。徐々に身体が火照るのを自覚しながら、酔っていると、どこか冷静に考えていた。
(……何かの文献でみた“甘露”って、こういう感じなんだろうか)
ぼんやりした頭のまま、音を立てて何度か吸いつく。
充足感に浸りながら傷口をふさぐために丹念に舐める途中で、ようやく名前が小刻みに震えていることに気づいた。
「ご、ごめん名前、痛かっ――」
「…はっ…、…ぁ……ふっ…」
「――――。」
ごくりと喉が鳴る。
声が、でない。
名前は真っ赤な顔で震え、きつく両目を閉じたまま自分の口を覆っていた。押さえきれていない声が耳朶をくすぐる。
思いきり心臓が跳ねたのは気づかなかったことにして、強引に目を逸らした。
牙の跡を確かめれば、血はちゃんと止まっているし、心なしか傷も小さく見える。
いくらか安心して傷痕にそっとキスをすると名前が声を漏らして跳ねた。
――やっぱり、気づかなかったことにはできない。
「…………名前」
「く……くち、く……たし…、へん…」
戸惑いを含んだ瞳が潤んで揺れる。色気のにじむ掠れ声。
言葉は上手く聞き取れないながらも、扇情的な名前の様子に俺の理性は吹き飛ぶ寸前だった。
吸血衝動はしっかり落ち着いてくれたのに、代わりに名前の方が乱れることになるなんて――これでは同じ結果になりかねない。
うるさい心臓を宥めるように、この状態は俺が血を吸った副作用だと言い聞かせ、彼女を押し倒しそうになる衝動を必死で殺した。
「………………」
「…………名前」
「~~~~~っ」
「…泣くことないだろう…ほら、大丈夫だから」
「だ、だって、恥ずかしすぎる」
「そんなこと言ってたらこの先もたないぞ」
「うう、」
(…まあ、もたないのは俺も同じなんだけど)
scene.3 傷つけたくない
吸血鬼の恋
5563文字 / 2013.04.11up
edit_square