ひともをし
今日の授業がすべて終了し、日課にしている愛犬の散歩に行こうと飼育小屋に向かう途中、久々知くんがふらりと現れて「俺もいく」と呟くように言った。
疲れが滲んでいるそれに、更に疲れること(そんなに長距離ではないけど)をするのは辛いんじゃないかと思いながら、一緒にいられるのが嬉しくて「いいの?」と確認を取るような聞き方をしていた。
「俺が、一緒に行きたいんだよ」
柔らかく目元を細めながらそんな風に言う久々知くんにドキッとしてしまう。
私の心を見透かした上で、無理はしてないと言われている気がした。
散歩の後か夕飯時か、お互いに(というか久々知くんの)時間が空くのはそれくらいだと思っていたから、彼の登場は嬉しい誤算で、自分の話し声が弾んでいるのがわかる。
それが少し恥ずかしくて目を合わせずにいたら、そっと手を掬いあげるように取られ、指を絡めて握られた。
思わず久々知くんを見れば「ん?」と首をかしげてからの微笑。
「…………なんでもない、です」
「あ。ごめん、忘れてた」
「え!?」
言うなりパッと指を開いて離れていく久々知くんの手を咄嗟に捕まえて握りしめる。
事態についていけずに間抜けな顔をしてるであろう私と、私の行動にびっくりしてるらしい久々知くんの間に沈黙が流れたものの、久々知くんが小さく笑ったことで私も肩から力を抜いた。
「今、手が汚れてるんだよ。ほら」
私が掴んでいない方の手を開いて、軽く指を動かしながら見せてくれる。彼の言うとおり、指先が土汚れでうっすら黒くなっていた。
「怪我はしてない?」
乾いた指先に触れながら聞けば、久々知くんは少し遅れて「大丈夫」と返事をした。怪しい。
かすり傷や小さな傷を負ってても隠しそうだと疑い混じりに見上げたら、熱のこもった目と遭遇してぐっと言葉に詰まってしまった。
「久々知くん?」
「…名前だなぁと思ってさ」
「しみじみ言われる意味がわからないんだけど…」
「名前まで汚れるぞ」
「洗えば落ちるよ。土だもん」
笑いをこらえてるような言い方なのに、腹が立たないのは雰囲気のせいだと思う。
久々知くんが嬉しそうにしてるから、私まで嬉しくなって堂々と答えたら、掴んだままだった手をやんわりと握り返された。
私と愛犬が散歩をしているとき、だいたいにおいて久々知くんは私の隣を歩く。
私たちよりも少し後ろを歩くときもあるし、たまに影丸が構って欲しそうにすると、ちゃんとそれに応えてくれる。
今日はその“たまに”の日らしい。影丸はちぎれんばかりに尻尾を振って久々知くんの足元をうろうろした結果「歩きにくいよ」と笑い混じりに注意されていた。
その光景がとても可愛くて、どうして私には乱太郎並の画力がないのかを本気で嘆いた。一瞬、乱太郎を引っ張ってきて写生をお願いしようと考えてしまったくらい…………今度頼んでみよう。
「名前?」
足に影丸をまとわりつかせたまま、行かないのかと首を傾げて聞いてくる彼に「今いく」と返事をすると、久々知くんは影丸の頭にポンと手を置いて走りだした。
一泊遅れて駆けだす愛犬を見送ってからハッとする――完全に置いていかれた。
あっという間に小さくなってしまった一人と一匹を追いかけながらも、ほんわかと胸の中があったかくなって頬が緩んでしまった。
「――遅いぞ名前」
ようやく追いついた私を見て、久々知くんがくすくす笑う。
そうだそうだ、と言いたげに吠える愛犬の鳴き声を聞きながら息切れ状態で笑い返すと、今度は水の入った竹筒をくれた。
お礼を言ってその場に座ろうとしたら、腕を引かれて木の傍へ連れていかれる。視線で問えば頷きと目笑が返され、いささかぎこちない動きで幹に寄りかかるようにして座った。
「久々知くんも疲れてるでしょう?」
「んー……まあ、そうだな。否定はしない」
よっ、と小さな掛声と一緒に久々知くんが隣に腰をおろす。位置をずれようとしたら待ったをかけられ、また久々知くんが立った。
「横じゃなくて前に動いてくれないか」
「え、前?このくらい?」
「もうちょっと…うん、その辺で」
言われるままに移動していたけど、これなら場所自体を移動した方がいいんじゃないかと脳裏をかすめたと同時に肩に手を置かれる。
びっくりして背筋を伸ばすと腰に腕が回されて、ぐいっと後ろへ引っ張られた。痛みはないどころか、柔らかく受け止められた背中が温かく、耳元で響く笑い声がくすぐったい。そして…とてつもなく恥ずかしい。
「あの、久々知くん、これは……」
「名前はあったかいな…眠くなる」
「わあああ、首やめてくすぐったい!!」
ぎゅうっと抱きしめられて身動きが取れない状態で、久々知くんが首元に頭をぐりぐり押し付けてくる。
くすぐったさから逃れるために身を捩っていると、ゆっくり頭が離れる代わりに腕の力が増した。
「なら名前が寄りかかってくれないか。頭、のせるから…」
なんだか話し方がゆっくりになってきてると思いながら、様子が知りたくて後ろを窺う。
だけど密着しすぎているせいか久々知くんの顔は見えず、後頭部に顔が押し付けられている感覚だけが伝わってきた。
「大丈夫?」
「ん。眠いだけだ」
「…私が寄りかかったら、かえって寝づらくない?」
「じゃあこっち向いて座りなおして。だっこして寝るから」
「このままでお願いします」
私を枕にする気満々で、しかも寝ないという選択肢はないらしい。
そうっと体重を移動させたものの、落ちつかなくてそわそわしてしまう。
久々知くんはというと、ふう、と満足気な息を吐いて私の頭に口づけを落とし(唐突すぎて思わず固まったあと一人で動揺した)すっかり眠る体勢に入っているらしく静かだ。
いっそ抜け出してしまいたいけど、胸の下を通っている腕の檻ががっちり嵌っていて動かせそうもない。
うう、と唸りながら目の前の景色をあちこち眺めていたら、視界の端に愛犬が映った。半分以上草むらにつっこんでいて頭は見えないけれど、穴を掘っているらしく身体の周りを土が飛んでいる。
きっと前足は土だらけだろうなぁと考えながら苦笑したところで、不意に久々知くんとの会話を思い出した。視線を下げて組まれた手の指先を見ると、さっきは気付かなかった小さな傷痕がいくつもある。
あとで傷薬を塗ろうと決めて、指先には触れないように自分の手を乗せた。
ずしりと重くなった背中と圧迫される感覚にぼんやり目を開ける。ぼうっとしながら首を回すと目と鼻の先に久々知くんの顔があって、口をふさぐのがあと少し遅かったら叫んでいたかもしれない。
ドクドク激しく動く心臓の音を聞きながら、ゆっくり息を吐きだし、記憶をたどる。いつの間に私まで寝てたんだろう。
だいぶ落ち着いたところで、改めて久々知くんの様子をうかがう。
閉じられた瞼を縁取る睫毛が長くて綺麗だけれど、目の下にうっすらと陣取る隈が彼の寝不足を物語っている。
ここしばらくは深夜から朝方にかけての演習が多いんだと言っていたことを思い返しながら、衝動に任せてそっと頬に触れた。
「ん、」
微かに漏れる声にびくりと肩が震える。もう少し、寝ていてほしい。
起きませんように、と祈りながらじっと見つめていると、すぐ傍でワンと鳴き声がしたものだから釣られるように声が出てしまった。
慌てて口を覆ったけど、もう遅いうえに身体も跳ねたから、絶対振動が伝わった。
「…………だれかきた」
ゆっくりと持ちあがる睫毛に見惚れていたのと、久々知くんのぼんやりした声が珍しくて、紡いだ言葉を理解するのにだいぶ時間がかかった気がする。
だれか、きた。って、誰が?
「あー…………尻が痛い…」
ぼやきながら身体を起こした久々知くんが座ったまま伸びをする。
まず私がどかないと立ちづらいかもしれないと思いながら、ほどけた腕と段々冷えていく背中に気を取られてすぐに動けなかった。
「名前、大丈夫か?ごめん、重かったろ」
「……あったかかったよ」
的外れな返答をしたのに、久々知くんは笑って覆いかぶさってくる。ずしっと重さの増した背中に思わず呻き声を漏らすと、久々知くんの笑いが大きくなった。
「やっぱり、名前が一番効果あるな」
なに、と問い返す暇もなく、うなじを噛まれて奇声が――声を出そうとしていたせいもある気がする――漏れて、私は混乱と羞恥でいっぱいいっぱいだったのに、文句を言おうと振り返った先にあった久々知くんの甘さ全開の微笑みに負けて、彼の胸に顔を埋めるという結果に終わった。
「名前、なに溜め息ついてるんだ?」
「……私、久々知くんの笑顔に弱すぎるなーって」
「…………」
「ん、痛い?強く塗りすぎた?」
「いや…大丈夫。大丈夫だから後で抱きしめさせてくれ」
「“だから”が繋がってない気がするよ久々知くん」
「ははっ」
「……………もー、ずるいなぁ本当」
3670文字 / 2014.10.31up
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