カラクリピエロ

生物委員会(14)



ここを曲がってまっすぐ進めば忍たま長屋、その分岐の手前で私の足は床に張り付いたように動かなくなった。
普段ならあっさりと、駆け抜けてしまうときだってあるのに。

会いに行こうと決めたはいいけど、その後のことは何も考えてない。
会ってくれるかどうかもわからない。もし愛想をつかされていたら…そんなこと、久々知くんはしないって思ってるのに……勝手に悪いほうへ向かう思考を慌てて振り払う。
だけどドクドクと荒くなった鼓動は治まってくれなかった。

「勇気、出すって決めたでしょ…」

呟いて自分を叱咤する。
ぐっと顔をあげて、口実にしようと持ってきた三郎の手ぬぐいを握りしめた。

「――おや、名前。喜八郎は一緒じゃないのか?」
「ッ!! た、ちばな…せんぱい…」
「丁度いい、ちょっと付き合ってもらおうか」

笑顔で言うなり私の腕をつかんで引っ張る立花先輩は、返事を聞く気がないのがよくわかる。
その足が進むのは私が進もうとしていた方角――長屋の方じゃない。

「どこ行くんですか」
「……ついてくればわかる」

急なことにもたつく足を必死で動かしながら聞いたのに、私を見て軽く息をつくとそれだけしか言ってくれない。
ずんずん歩いていく先輩に引っ張られたまま、どこか安心している自分に気づいて唇をかんだ。

どこをどう回ったのか、気づいたら六年生の長屋の辺り…立花先輩の部屋の前に立っていた。
落ち着かなくてついキョロキョロしてしまう私をよそに、先輩があっさり戸を引く。

「文次郎、そこを詰めろ」
「戻って早々…な、おい!勝手に動かすな仙蔵!!」
「邪魔だ」

立花先輩は潮江先輩に一言で切り返すと、うず高く積まれた帳簿(だと思う)をいくつかずらしてどかし、部屋の中央にちゃぶ台を持ってきた。

部屋の半分は紙の束と帳簿で埋まってて、こっちが潮江先輩の領域なんだろうなとぼんやり思う。
それをちゃぶ台のおかげでさらに狭くされ、そこに収まっている潮江先輩はとても窮屈そうに見えた。

名前、こっちに座れ。そのまま少し待っていろ、すぐ戻る」
「え!?」

今度も私が理解する前に、立花先輩は行動を起こして部屋を出ていく。
座るように促されたのは、ただでさえ狭まっている潮江先輩側で…これには逆らったほうがいいんじゃないかと思って動けない。

「座らないのか?」
「で、ですが…その…」
「…っとにあいつは…」

ぶつぶつ言いながら立ちあがった潮江先輩は、おもむろにちゃぶ台を立花先輩の領域に押しだした。
三分の一残ったかどうか…ほとんどを立花先輩側にずらした潮江先輩は、これならいいだろ、と私に言ってまた紙の束と向き合う。
バチバチ響く妙に重い音を聞きながら静かに腰を下ろす。音が止まったかと思えば舌打ちと悪態をつくのが聞こえて、今すぐ逃げ出したい衝動に駆られた。
地獄の会計委員長はやっぱり怖い人かもしれない。

「…………苗字
「は、はい」
「お前これになんて書いてあるか読めるか?」

やけにくたびれた紙をこちらに差し出され、無理ならいいんだが、と疲れた調子で付け足される。
突然のことに戸惑いながら内容を確認すれば、なんだか見覚えのある図形が紙を埋めていた。

「…これ団蔵の字ですよね」
「わ、わかるのか!?」
「ごめんなさい!」

予想外の勢いに反射的に謝る。
そうか…とうなだれてしまった先輩に申し訳なく思いながら、以前土井先生にもらったメモ用の紙束を取り出した。

字の練習をさせたなら、ある程度は似た文字があるはずだ。何が書いてあるのかは一年は組を訪れたときに本人から教えてもらった。

(…………なんか、懐かしい)

懐かしむような時間がたっているわけじゃない。
だけどその周辺は一日がすごく濃くて、嬉しくて…夢かもしれないって何度も思ってた。
その度に手をつないで笑ってくれる久々知くんにドキドキして、夢じゃないことを実感してまた嬉しくなって――

苗字?お、おい大丈夫か?」

潮江先輩の焦った声にはっとして顔を上げる。
つい物思いにふけってしまったらしい。なぜか泣きそうになって慌てて頭を振ると、「大丈夫です」と明るく聞こえるように言った。
ちゃんと、笑えてるといいんだけど。

「潮江先輩、一部でよければ…わかると思います。その…団蔵の字」
「よし、それでいい」

言うなりどさっと重い音がして顔が引きつる。
まさかこれを全部確認しろとでもいうつもりだろうか。

「おい文次郎、私のものをこき使うつもりなら、それなりの報酬は支払ってもらうからな」
「立花先輩」
「言い出したのは苗字だぞ?」

戻ってきた立花先輩の姿に(不覚にも)ホッとしたのも束の間、潮江先輩の返しにぎょっとしながら振り返る。
潮江先輩はしれっと鈍色のそろばんを片手で弾き、バチッとあの重い音を響かせた。

「――関係ないな」

フッと笑った立花先輩はそう言って、向かいに座りながらちゃぶ台に湯気の立つ湯のみを置いた。
ふわりと温かい空気と甘い匂いが漂ってくる。

「そりゃあお前には関係ないだろう」
「違う。名前も含め作法委員は私のもの、私の意見が最優先だ」

いい笑顔で堂々と言い切る先輩に、潮江先輩共々あっけに取られながら立花先輩を見た。

「冷めるぞ名前。せっかく私が急いで運んできたのだから無駄にするな」
「…私に、ですか?」
「文次郎も飲みたいか?」

…上手くかわされた気がする。
いらねぇよ、と苛立った潮江先輩の答えを聞きながら、そんなことを思う。
立花先輩は予算の値上げ交渉を持ちかけはじめ(潮江先輩で遊んでいるようにも見えるけど)、私はなんとなくそれを眺めながら湯のみに口をつけた。
柚子の香りと、はちみつの控え目な甘い味。

「おいしい、です」
「…当然だ」

私が淹れたのだから、と微笑む立花先輩は自身でもそれを確かめるように湯のみを傾ける。
先輩は、わざわざ私をお茶につき合わせるために部屋に呼び寄せたんだろうか。

「――仙蔵が夕飯のあとに外出なんて珍しいとは思っていたが、それ」
「すまん、手が滑った」

びゅっと視界の端を通り過ぎた何かが、斜め後ろでゴッ、と鈍い音を立てる。
振り向くと、うずくまった姿勢のまま動かない潮江先輩が。

「し、潮江先輩、大丈夫ですか?」
「そんなことより名前。喜八郎はどうした、てっきり一緒にいるものだと思っていたのに」

唐突な話題変更に戸惑いながら、食堂で別れた旨を伝える。
喜八郎は“またあとで”なんて言ってたけどあれから姿を見ていない。久々知くんでいいのかと確認された理由も、別れ際の謎台詞についても結局聞けずじまいだ。

「……名前、今日はおとなしく部屋に戻れ」
「は…?」
「夜も更けてきたしな、私が送っていこう」
「ちょ、ちょっと、立花先輩!?」

ぐいっと腕を引かれて来たときと同じように連れ出される。
廊下に出た途端忍たまの長屋だということを実感して、反射的に身構えてしまった。

「――心配せずとも、あいつらとは遭遇しないように連れて行ってやるさ」
「っ、…先輩って、さとりじゃないですよね…?」
「そうか、名前への気遣いは無用だったか」
「ごめんなさい!!」

ぴくりと肩を震わせて振り向く立花先輩は満面の笑みで、思わず謝る。
心を読まれすぎて思わず、と続けざまに言うと笑顔の雰囲気が変わった。

「少しは調子が戻ってきたな」
「…………私は、いつも通りですよ」

私の返しにただ笑う立花先輩からそっと目をそらす。
心配してくれていたんだと、今になってようやくわかった。さっきのお茶も…きっと私のため。
普段はこれでもかというくらい私をからかって遊ぶくせに…

「――名前…今の状態を招いたこと、私は後悔してないぞ」
「…後悔されてたら、逆に嫌です」

言い切る先輩に皮肉を混ぜて眉根を寄せると、立花先輩は私の頭に手をおいて笑う。

「お前に協力してやろうという姿勢は変わっていないからな」
「…………それ、まだ続いてたんですか」
「当然だろう」

立花先輩はきっぱり言って、ふと廊下から外を見た。
何かあるんだろうかと同じ方を見ると、地面に穴が開いている。しかも、複数個。

「喜八郎」

立花先輩の呼びかけに、穴の一つから喜八郎が顔を出す。
また用具委員会に怒られるなぁ、と今後を考えて溜息をつくと、泥だらけの喜八郎が「なんでしょうか」と尋ねながら寄ってきた。

「どこに仕掛けた?」
「…………名前先輩の行きそうなところに」

立花先輩の唐突な問いに喜八郎はしばし黙り込み、諦めたようなため息を吐きながら返した。

「――というわけですから、名前先輩。あまりうろうろしないでくださいね」
「え?」

話がつかめず、手に持っていた鋤で肩を数回たたく喜八郎を見返す。
先輩と喜八郎の会話から罠かなにかの話かなとあたりをつけたところで、食堂でのやりとりを思い出した。

「――喜八郎、食堂で久々知くんがどうこう言ってたけど」
「…大丈夫です」
「いやいや、何が?」
「終わったら迎えに行きますから」

淡々と告げる喜八郎をさらに追及したかったのに、途中で立花先輩に引っ張られてよろめく。
踏みとどまろうとしても力では敵わず、遠ざかっていた喜八郎の姿は唐突に消えた。
たぶん穴掘りに戻ったんだと思うけど。

「立花先輩、私はまだ喜八郎に聞きたいことが」
「悪いな名前。私は喜八郎にも協力的なんだ」

にっこり笑って私を引きずる立花先輩はそれ以降なにを聞いてもはぐらかし、くの一教室の敷地へ私を押し込むと近くを通りかかったくのたまの後輩を言いくるめ、その子に私を押し付けた。
おろおろしながら心配してくれる後輩は、私が大丈夫だと言っても「遠慮しないでください」の一点張り(立花先輩は何を吹き込んだのか)。
しまいには一所懸命さと頑なさに私が折れて、そのまま部屋まで付き添ってもらった。





「仙蔵ーーー!いい加減、首を縦に……ん?何をしてるんだ文次郎。寝てるのか?仙蔵はどこだ?」
「っだーーーー!くそ!!あいつ、瓶ぶつけやがった!!」
「わははっ、避けられんとは修行が足りないな!」
「小平太…お前にもぶつけてやろうか?」
「お、なんだ、やるか?」

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