カラクリピエロ

かくして、彼女は


学園の池を通りかかった私は、バシャンと派手な水の音を捉えて思わず足を止めた。
続けて聞こえたのは悲鳴染みた叫び声と笑い声。直後に池から大きな水柱があがった。

「――な、七松先輩?わわ私には、私のペースというものがありまして」
「わかったわかった!わたしに任せておけ!」

噛みあってない会話の最中に滝夜叉丸がひょいと持ち上げられて、そのまま池に放り投げられる。
水に打ち付けられた音は思いのほか痛そうで、顔から飛び込んだように見えた私は彼に軽く同情した。

七松先輩はというと、ひとり満足そうに頷いて自らも池に飛び込むところだった。

体育委員は陸だけじゃなく水中も活動範囲だなんて大変だなぁ。

改めて体育委員じゃなくてよかったと思いながら踵を返したら、背後で水音がした。

―― 一刻も早くここを離れなければ。

直感が働いたのか、私は振り向きもせずに駆け出す。

名前!!」
「きゃあああああ!!」
「わははっ、びっくりしたか?」

いくらも進まないうちに背後から抱きつかれ、思い切りびくついた上に勝手に喉から悲鳴が出た。
ボタボタ上から降ってくる水滴と、びしょ濡れの七松先輩のせいで背中と肩がじわじわ侵食されている。

「っもう!離れてください!」
「ぬくいなあ」
「話を、聞いて、くだ、さい!!」

ぐぐぐ、と腕を突っぱねると、それが逆効果になったのか殊更強く抱き締められる。
頬を擦り寄せてくる先輩の顔が真横に見えて慌てて顔を逸らした。

「先輩冷たいんですけど」
「そうだ!名前も参加しないか?」
「いやです」

私は今大型犬にじゃれ付かれているだけだ。
そう内心で言い聞かせながら淡々と答える。なのに七松先輩は私の答えなんて聞こえてなかったみたいに、私を持ち上げて肩に担いだ。

「ちょっ…、参加しませんからね!?既になんか寒いですし風邪ひいたら困りますし、今すぐお風呂いきたいっていうか」

ずんずん池に向かって歩いていた七松先輩は、急に足を止めて私を見上げた。

――もしや説得が効いたんだろうか。

「じゃあそっちだな!」
「は?」

ホッとしかかったそのとき、七松先輩が満面の笑みで言う。
私を持ち上げたまま(そろそろ降ろして欲しい)未だ池の中で鍛錬なのか泳ぎの練習なのかをしていた後輩に集合をかけた。

「な、七松先輩、ほんとに、もう降ろして――」
「今日はこれで解散にしようと思う!」

お願いですから私の話を聞いてください。
先輩の背中をぺしぺし叩いて訴えたのに全く気にしてくれず、私はいいさらし者だ。
こうなったらなるべく目を合わせないようにと思ったのに、そういうときに限って七松先輩は私を降ろし、肩に手を置いて(逃げられない)諸連絡を始めてしまった。

苗字先輩…!」
「ありがとうございます!!」
「え……?」

七松先輩の話が終わった途端、感極まった様子を見せる滝夜叉丸に、折り目正しく腰を折る三之助。
どうやら瀕死状態になる前に委員会が終わったのは私のおかげと思われているらしい。
実際どうなのかはわからず曖昧に相槌を打つ。

揃ってくしゃみをした四郎兵衛と金吾に「ちゃんとあったまること」と先輩ぶって、彼らをお風呂へ追い立てた。

「さあ風呂だ、行くぞ名前!」
「どうぞ行って来てください」

先輩のせいで私まで冷えたし、くのたま長屋で温まってこようと考えながら返す。と、またひょいと担ぎ上げられた。

「…………七松先輩」
「ん?」
「いやいや、どこいくんですか降ろしてください。私もお風呂いきたいので」
「だから一緒に行こうって――あいてっ、髪はずるいぞ名前!」
「馬鹿ですか!!」

ぐいぐいと七松先輩の結われた髪を引いて言えば、先輩は「最近の名前は口が悪いなあ」と楽しそうに笑った。
相変わらず通じてない。
一緒になんて戯言を言い始めている七松先輩の気を逸らすにはどうしたらいいんだろう。
考え始めたせいで静かになった私が気になったのか、ふいに七松先輩が足を止めた。

「黙ってていいのか?」
「…………え?」
「後でわたしの部屋までくるならここで離してやるぞ」

言いながらにっこり笑みを浮かべる七松先輩を呆然と見返す。
先輩の考えはわからない。けれど、なんだか……七松先輩は私の話をちゃんと聞いているのに、あえて無視しているんじゃないかと思ってしまった。

「止めないならこのまま連れて行く。答えないときも連れて行く」
「いきます!あ、部屋!部屋ですからね!?」
「来なかったらわたしが迎えに行くからな。半刻だけ待ってやる」

にこにこしたままなのに、妙に逆らえない雰囲気なのはなんでだろう。
ぎこちなく頷く私を見て「よし」と言いながら降ろした先輩は、言い聞かせるように「半刻だぞ」と言い置いて去っていった。

+++

――半刻って短くないだろうか。
言われたことを反芻しながら、長屋の廊下を急ぐ。

本当に温まるだけになって物足りなかったから、後でちゃんと入りなおそう。

「七松先輩、苗字です」

そういえば中在家先輩は留守なんだろうか。
声をかけた直後に思い出したけれど、パシーン!と勢いよく開いた戸と圧し掛かってきた七松先輩にそれどころじゃなくなった。

「っ、お、重いのですが!」
「おおすまん!ん……名前、いいにおいがするな」
「ちょ、ちょっと!?」

てっきりどいてくれるんだと思ってたのに、七松先輩はすんと鼻を鳴らして身を屈めてきた。

これはまずい。この体制はよくない。

肌に触れる髪のくすぐったさの方に意識を集中して、混乱しそうになる思考を無理やり切り替えた――のに。

「ひあ!?ななななにすんですか!!」
「しいて言うなら味見だ」
「そんなこと聞いてません!」
「聞いただろ?」

べろりと首筋を舐められて、無我夢中でそこから抜け出す。
帰りますと言おうとしたタイミングで手ぬぐいを渡され、疑問交じりに七松先輩を見上げた。

「拭いてくれ!」
「…………終わったら、帰りますからね」
「わかった」

やけに聞きわけがいい。
私の前にあぐらを掻く七松先輩はもしや偽物なんじゃないだろうか。
観察するように見ていたら、不思議そうに視線を上げた先輩と目が合って、誤魔化すように髪を拭き始めた。

(…………失敗した)

せめて先輩の後ろに回るべきだったのに、正面からって……恥ずかしいとしか言いようがない。
じっと見られているのがわかって、居た堪れなさに立ち上がろうとした途端、腰をつかまれた。
そのまま抱き寄せられて胸元に先輩の頭が押し付けられる。

「せ、先輩、これじゃ拭けません!」
「ちょっとだけだ」

私の腰にしっかり腕を回し、すり寄ってくる七松先輩のせいで身動きが取れない。
先輩は嬉しそうというか、気持ち良さそうというか、ともかくそういう表情をしていて、ついそれに見惚れてしまった。

「――名前、」
「は、はい…」
「ちょっとだけならいいだろう?」
「なに――…っ、」

そっと鎖骨に唇が触れて、肩が跳ねる。
咄嗟に閉じた目を開けると七松先輩の顔が自分よりも上にあって、いつの間にか私は――

「小平太ー、お前さっき風呂に忘れ物」
「きゃああああ!!」
「あ。」
「え、名前!?」

どこにこんな力があったのか、さっきよりもずっと強い力で私は七松先輩を突き飛ばし、わき目も振らずに忍たまの長屋を駆け抜けた。

「な……なに、なにあれ、なんで!?」
「あ!おい苗字、そっちはさっき伊作が水ぶちまけ――」
「きゃーーーーー!?」
「あちゃー……」

食満先輩の声がしたと思ったら滑って転んでお尻が痛い。ついでに冷たい。
心配そうに寄ってくる食満先輩に助けてもらいながら、雰囲気って怖いと心の中で何度も呟いていた。





「…………とりあえず、これ忘れもの。滝夜叉丸から」
「あー…あと少しだったのに!伊作、お前のせいだぞ!」
「あはは…申し訳ない……」
「あとで鍛練付き合え」
「うぅ…わかったよ」

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