空調不良が起こした話
※真田視点
「…なんか、暑くないですか?」
夏休みも中盤に差し掛かった日の昼、ラウンジに降りてきた苗字は開口一番そう言った。
苗字は宿題に手をつけていたものの、暑さで集中できずに部屋から出てきたらしい。
そう言われてみれば、室内の温度が異様に高い気がする。
「真田先輩って鈍いですよね」
「そ、そんなんじゃない。集中していたから気づかなかっただけだ」
反論すると、はいはい、と流す返事を返される。まったく失礼な後輩だ。
俺との会話をそこで中断した苗字はカウンター内に入り窓を全開にした(とは言っても、そこにある窓はあまり開かない作りなのだが)。それから裏口の方へ移動したかと思うとパタパタ駆け寄ってくる。
忙しないな、と苦笑していたら名を呼ばれた。
「なんだ?」
「空調の電源てどこでしたっけ」
「確か裏口の……いや、俺も行こう」
ありがとうございます、と笑う苗字について空調のコントロール板を見に行く。
全室・フロア共にオフ――設定が変更されているというより、これは故障ではないだろうか。
苗字にそれを伝えていると、背後から耳慣れたブーツの音が近寄ってきた。
「――なんだ、タイミングが良いな」
「美鶴。ってことは…」
「故障だ」
簡潔に言う美鶴は丁度業者に連絡を済ませてきたらしい。
明日までかかる、と告げる美鶴の言葉に苗字が目に見えて肩を落とした。
「すまないな。この暑さだ、業者も忙しいらしい。…ところで、他のメンバーはどうした?天田もいないようだが…」
「あ、みんな出かけてるみたいです。美鶴先輩は確かこれから用事あるんでしたよね?私からみんなに伝えておきますから心配しないでください」
「…助かる」
嬉しそうに微笑む美鶴を珍しいと思いながら見送る。流れで苗字と連れ立ってラウンジのソファに戻ると、どこか不満そうな声で「あの」と声をかけられた。
「……なんで横に座るんですか?」
「元々俺が座っていた場所に戻ってきただけだ。というか、嫌ならお前が移動すればいいんじゃないか?」
「ここが一番涼しい気がするので動きたくありません。…が、密着してると暑いので」
だから場所を譲れと?
…それは我侭と言うやつじゃないのか。
「…頼みごとならそれ相応の内容で聞きたいな」
「優しくて頼りになる真田先輩、お願いします」
「断る」
「ちょ、言わせといて!」
即座に返ってきた反応に思わず声を上げて笑うと、苗字はソファに沈み反対側を向いてしまった。
ブツブツと「反則」とか「卑怯」などと呟いているのが聞こえたが、さすがにからかいすぎただろうか。
謝罪の意味をこめて苗字の頭に軽く手を置く。
どちらにしろ一度外へ出るつもりだったし、そろそろ出なければシンジとの待ち合せに遅れそうだ。説得しに行こうというのに、逆に文句を言われてはたまらない。
「…………それ、癖ですか?」
「うん?」
「頭…なでるの…最近、多いかなって」
言われて、ふと我にかえる。
そんなに頻繁に撫でていただろうか…というか、撫でていたのか俺は。
手を離してなんとなく開閉させると苗字が慌てたように首を振った。
「あ、別にイヤなわけじゃなくて、私は嬉しいですけ…じゃなくて!!その、」
言いよどんでコロコロ表情を変えるのを見ているのは楽しい。
生憎、相手の気持ちを汲み取るのが苦手な俺は苗字が何を言いたいのかよくわからないのだが。
頭は寮を出ないと、と自分を急かしているのに、このまま言葉を待ちたいとも思う。
「だから…ああもう、わかってください!」
「な、無茶を言うな」
やっぱり真田先輩は鈍いです、と言う苗字には異論を唱えたい。
今の流れでなんでそうなる、汲み取れというほうが無理だろう?俺は悪くないはずだ。わかりづらい苗字が悪い。
時計を見ると、もう予定の時間を5分は過ぎている。
俯いたまま唸っている苗字を放っていくのには抵抗があったが、これ以上は本当にまずい。
立ち上がって出かける旨を伝えようとしたら、顔を上げた苗字に服の裾をつかまれた。
「苗字?」
「あ。と、その…なんでもない、です」
すぐさま離れた手は戸惑いがちに彷徨い、苗字のひざに落ち着いた。顔を赤くした様子を見るに、無意識下の行動だったようだ。
やはりひとりで寮に残るのは寂しいのだろう(コロマルもいたはずだが風通しの良いところへ移動したようで姿が見えなかった)と勝手に解釈し、苗字の頭を撫でる。
――嫌じゃないなら構わないだろう。
すぐ戻ると付け加えると、先ほどの勢いはどこへいったのか。素直に頷かれて拍子抜けした。
「……先輩、お土産よろしくお願いします」
「お前な…」
「冷たいアイスが食べたいです」
「……、わかった。何買ってきても文句言うなよ?」
笑顔の苗字に見送られ、目的地へ向かう。
しばらく歩いたところで中途半端に終わった会話の内容が気になった。
結局あいつは何が言いたかったのか。
出かける際の“土産”にも、何かを誤魔化された気がしたが……
「……い、……のか」
ふと自分の手を見る。
撫でるのは癖かと言われて、咄嗟に思い出したのは美紀のことだ。俺は、あいつを美紀と重ねているんだろうか。
そもそも女子に対してアクションを起こすことなどなかったはずなのに、苗字には自分から近づいて関わろうとしている。
放っておけないと思う。時には戦うなと言いたくなる。
――そして、不意に触れたくなる衝動。
これは俺が苗字の中に美紀の影を見ているからか?
沈みかけていた思考は、ゴン、と頭に衝撃を受けたことで中断された。
「おい、アキ!用ねぇなら俺ぁ帰るぞ!?」
「……シンジ…いつ来た?というか、いきなり頭突きはないだろう!」
「バァカ、テメェが気づかねぇからだろうが。こっちはさっきから居たっつーのによ」
「そうか…それは俺が悪いな」
考え事に集中していたのは自覚していたので謝ると、シンジは大きな溜息をついてコンクリートの階段上に座り込んだ。
「で?何呆けてやがったんだ?」
どうやらシンジは俺の話を聞いてくれるらしい。いいやつだ。
苗字については前から話してあったので特に説明はしなかったが、シンジにしては珍しく、俺の話を聞きながら軽く笑った。
「なかなか面白ぇリーダーだな」
「なら戻ってくるか?」
「それとこれとは話が別だ。…つーかアキ。ひとつ聞くが、そいつは美紀に似てんのか?」
「いや、」
「……念のため言っとくが外見の話じゃねぇからな」
念を押されて言葉に詰まる。
見た目に限定するならば“似ていない”とすぐに答えがだせるのに。
――確かに、似ているところはあると思う。
だがよく考えると似ていないところの方が多い気がする。
「…フン、あとはテメェで考えろ」
俺の考えていることがわかったかのように、シンジはそう言い置いて立ち去った。
シンジが居なくなったあとも、俺の思考は美紀と苗字で占められていて肝心の目的(シンジの説得だ、もちろん)を忘れていたことに気づいたのは、だいぶ時間が経ったあとだった。
俺はあいつを妹扱いしているんだろうか。
何度もループしている問いについて改めて考える。
妹か…?本当に?
俺があいつを想う気持ちは、美紀に対して抱くものとは少し違う気がする。はっきりしない違和感が落ち着かない。
――こんなときは体を動かすに限る。
まだ陽が高く茹だるような暑さだったが、トレーニングをかねて走って寮に向かった。
巌戸台分寮を遠目に見つけて速度を緩める。
…片側の扉が開きっぱなしなのは苗字の仕業だろうか。
少しでも風通しをよくしようと思ってのことだろうと容易に想像できるが、女一人と犬一匹しか居ないのに物騒じゃないか。
「ただいま」
いつもの扉を開ける動作がないのはなんとなく物足りない。
帰宅を告げる挨拶に反応したのはコロマルで、普段よりも荒い息をしながら寄ってきた。
「クーン」と何かを訴えるように鳴くので頭を撫でてみるが要求とは違ったらしい。俺の手に自身の鼻をこすりつけ、ソファの方を向く。
つられて視線を向けると、二人がけソファを一人で占領している苗字が目に入った。
居るじゃないか、と思うより先にその姿にぎょっとする。
苗字は肘置きの部分に頭を預け、器用に体を丸めた姿で安らかな寝息を立てていた。
こんなところで寝るなとか無用心にもほどがあるとか、言いたい事は色々あるものの相手を起こさないことには始まらない。
「お前はさながら苗字のボディガードか?」
鼻を鳴らすコロマルを撫でると、満足したのか裏口の方へ向かっていった。
もしかして、そっちも開けてあるんだろうか。
コロマルが動物的勘で涼しいところを探し当てているのであれば、可能性としては有り得る。というか、こいつならやりそうだ。
走ってきたせいで汗だくな俺は今すぐにでもシャワーを浴びたいが、あちこち開きっぱなしの寮内に寝ている苗字を放置するのも落ち着かない。
――起こそう。
「おい、苗字」
ソファに近づき、軽く苗字の肩を揺する。
が、口元でむにゃむにゃ言うだけで目を開ける気配がない。
この暑さで熟睡できることには素直に感心するが、今は褒めている場合じゃないんだ。
「苗字。起きろ」
何度目かの呼びかけで薄く目を開いたものの、何割かは夢の中にいるようだ。
起き上がり目をこする動作は緩慢で、足元に頓着していない辺り目のやり場に困る。
「…………あつい」
「そりゃな。起きたか?」
「…あれ?真田せんぱいじゃないですか。おかえりなさい」
成り立っていない会話に苦笑する。
怪しくはあるが一応起きた状態の苗字に二度目のただいまを告げ、一度シャワーを浴びに部屋へ戻ることにした。
+++
「…予想はしていたが」
さっぱりしてラウンジに戻ってくると、苗字は再び眠りこけていた。
先ほどのように横にはなっていないものの、俯いた状態の首が不規則に動いている。
足元にはコロマルが伏せの状態で待機して、まるで“どこへ行っていた”とでも言うかのように俺に向かって小さく吠えた。
苗字の横に座りながら目を合わせ、コロマルの体を撫でる。
暑さが耐えられないのか呼吸が荒い。数度手のひらが往復した辺りで俺を見上げ、コロマルはさっさと裏口に向かって走っていった。俺はこの場を任されたということか。
寝ている苗字に目をやると、頭がぐらぐら揺れていて不安になる。
そのうちテーブルに激突するんじゃないか、首を痛めるんじゃないか、それより呼吸は苦しくないのか。
「苗字」
呼びかけながら肩に腕を回す。
ただ単に不安定な首を支えたかっただけなのだが、行動に移した後で思わぬ距離に焦った。
焦るというのは変な話だ。
以前も同じように近づいたことがある。だがそのときはこんな風に意識していなかったはずだ。
戸惑っている自分自身にも混乱して腕を引いたが、反動なのか苗字の身体が傾いて寄りかかってきた。
――ついでだから起きてくれ。
完全に動けなくなった俺は必死にそれを願ったが、苗字は希望に反して起きてくれない。
「お、おい」
返事の代わりに返ってくる寝息が気になる。どうしたらいいんだ。
こうなってみると、苗字と美紀は違うとはっきりわかる。理由はわからないが、とにかく違う。
混乱しだした俺を助けるように、陽気な男が帰ってきた。
「ただいまーッス!これ開けといていいの?寮内空気入れ替え中?それとも自動オープンサービス?つかアチー!」
…まったく騒がしいやつだ。
だが俺にとっては救世主になるかもしれない。
キャップを取って自身を扇ぐ順平がようやくこちらの存在に気づいて顔を向ける。
扇いでいた動きをピタリと止めて、目を丸くする。
――どうでもいいが指を差すな。
「順平、悪いがこいつを」
「うっそ、ちょ、マジッスか!?いつの間にそんなことになってんスか~?」
「何を言っているんだお前は」
「はいはい、そのままそのまま。動かないでください真田サン!」
「おい、順平」
「いきますよー」
常々突っ走るところがあると思っていたが、今ほど実力行使に出ようと思ったことはない。
話を聞かない順平は携帯を取り出してこちらに向ける。カシャ、と電子音が鳴った。
「にしても、名前が昼寝って珍しッスね」
「…今のは」
「もち、写真ッス。見ます?」
「け、消せ!そんなもの撮ってどうするつもりだ!」
「えー、消すのもったいないッスよー」
俺の言葉を適当に流しながら、順平は素早く携帯を操作して満足げに笑った。
「んじゃ、オレ部屋に戻るんで。ごゆっくり」
「おい!」
順平の姿が見えなくなると同時に近くで着信音が鳴る。
音に反応したのか(俺の呼びかけには無反応だったくせに)肩に置かれていた苗字の頭がピクリと動いた。
「…………あっつい…」
「っ、苗字!」
ぼんやりと声を発し、おもむろに胸元に風を送りだした苗字の手を思わず掴む。
暑いのはわかるが、それを今、ここでやるな!
「へ……?あ、れ?さなだせんぱ…?ちょ、えっ!なんで、ち、か、近い!なんですか!!?」
「…落ち着け」
相手がパニックになっていると不思議なことに自分は落ち着いてくるものだ。
顔を赤くして離れようと必死になる苗字を宥め、ようやく手を離してやった。
「…な、なんでこんなことになったんでしょうか…」
「それは俺が聞きたい。大体無用心だろう、窓はともかく扉まで開けっ放しで、何かあったらどうする」
「はい…なるべく気をつけます」
「なるべくじゃなくだな……とにかく、ひとりのときはやるな」
「コロちゃんがいましたが」
「……」
「あ、すみません、気をつけます!」
あはは、と笑う苗字はちゃんとわかっているんだろうか。
腰と首が痛いと言いながら立ち上がり、伸びをしながら振り返った表情は満面の笑みで、何故か心臓が大きく鳴った。
――なんだこれは。
「先輩ほんとに早く帰ってきてくれたんですね」
「…いや、それ程早くは…」
「私が早いって思ってるからいいんですよ、実際の時間なんて。それより先輩、お土産は?」
忘れていた。
期待の眼差しを向けてくる苗字から目を逸らす。
「すまん」
謝ると、苗字は残念そうにその場にしゃがみこんだ。
「いいんです…先輩なら忘れるかもなって思ってました…」
「どういう意味だ」
「…暑いですね。冷たいもの食べたくなりません?」
俺の問いには答えず、訴えるように俺を見る。
“いい”と言いながら全然諦めていないじゃないか。
「…でも冗談抜きでほんと暑いですね…今日眠れるかな」
「この中であれだけ寝てたんだ、大丈夫だろ」
「そういえばそうですよ!寝顔見てそのまま放置するなんて酷いです、ずるい!」
「な、なにがずるいんだ。大体、あれはお前が起きないのが悪いんだろう。俺だってお前がくっついてくるせいで身動きが取れなくて」
「わああ言わなくていいです!私が悪かったですごめんなさい」
しゃがみこんだ姿勢のまま、耳を塞ぐ苗字が首を振る。
「戻れるなら戻りたい…恥ずかしすぎる…」
「なにもそこまで落ち込まなくてもいいんじゃないか?」
「…………何か変なことしませんでした?」
「ばっ、するわけないだろう!」
「先輩じゃなくて私がです!な、何か言ったりとか、やったりとか…してないですよね!?」
なんだそういうことか。
いや、別に何かしようとか考えもしなかったぞ俺は。
――一体誰に言い訳しているのか。こうしてわけのわからないことに思考が飛ぶのは暑さのせいだ、きっと。
俺が自分の内で葛藤している間に生じた沈黙に何を思ったのか、苗字は自身の両頬に手をやって絶句していた。
「聞くの怖いんですけど…何、したんでしょう…」
あまりにも深刻に言うもんだから…つい、からかいたくなった。
「気にするな。暑かったし、仕方ないさ。俺としてはまあ…心臓に悪かったが」
わざと含みを持たせて言ってみる。
単に先ほど苗字が寝ぼけ混じりに起こした行動を揶揄っただけなのだが、こちらにも思わぬ弊害がでた。
思い出してしまった。
よりによって…馬鹿か俺は。
「……な、なんで赤くなるんですか……」
「いや、これは、違う!」
「真田先輩が赤くなっちゃう“暑いからしょうがない行動”ってどういうことですか!?まさか脱…」
「み、見てないからな!」
「それ見た人が言う台詞です!どこまでです!?」
「だから見てないって!」
「何色のチェックでした?」
言葉に詰まってしまったのは仕方のないことで…大体、不可抗力だろあれは!
「いやー!!」
「ば、馬鹿!静かにしろ!」
その場で叫んだ苗字は近くのソファにすがりつき、言葉になっていない声を発し始めた。
…これは、本格的に困った。俺はどうしたらいい?
すっかり困り果てていると、叫びを聞きつけたらしい順平が慌てた様子で降りてきた。
「真田サン!今の名前ッスよね!?」
「じゅんぺ……いたの?」
「…………名前っチ~、そりゃねぇっしょー…オレ一応心配してきたのにさ?つかなんだよさっきの。寝てる間に真田サンになにかされたとか?」
「寝てる間……?」
「おい、俺は何もしていないからな!」
順平の余計な言葉でこれ以上苗字が錯乱したらどうする!
誤解の無いようすぐに口を挟んだが、苗字はそれよりも別のことが気にかかるのかフラフラと立ち上がり、順平に近づいた。
「順平も見たの…?」
「へ?なにを?」
「私が寝てたの知ってるってことは、見たの?」
「だから何…ちょ、それ駄目!何しようとしてんの名前っチ!」
声色は異様と感じるほど落ち着いているが、俯きがちの表情が読み取れない。
“危険だ”と訴える本能に従いたい気持ちは嫌というほどあるが、いつの間にか手にしている召喚器を見て放ってはおけない。
引き金を弾こうとする苗字を羽交い絞めにし、召喚器を取り上げる。
しきりに「記憶を消すんです」と言い続ける苗字を宥め終わるころには疲れきっていた。
「…この、暑いのに…オレ、もう死にそ……」
絶え絶えに言う順平に追い討ちをかけるように「手伝ってあげるのに」と呟く苗字は目が据わっている。
「や、遠慮します全力で!…つーか名前さ、勘違いしてるっぽいけどオレが見たのってお前が真田サンに寄っかかって寝てるとこだけだぜ?」
「嘘だ」
「即否定かよ!逆に何見られたのか気になるんだけど…どうなんスか真田サン?」
こちらに話を振ってくる順平と目が合うが、その横から“言うな”と訴えてくる視線が痛い。
俺としても言うつもりはないが、どう交わしたものか。
「…黙秘する」
「ずりー!オレ巻き込まれ損じゃないッスか!」
「ちゃんと助けてやっただろう」
ブツブツ文句を言ってくる順平に半ば呆れに似た感情を抱きながら「わかった」と告げる。
怪訝そうに見てくるのを放置して、俺は苗字に声をかけた。
「…なんですか」
未だ不機嫌な様子の苗字の傍に行き、「悪かった」と謝罪する。
不可抗力ではあるが、見られることのダメージがどれほどのものかわからない身としては、謝るくらいしかできない。
「忘れてくれます?」
「……努力する」
「絶対、忘れてください」
念押しするのには答えず(約束をしても守れる自信がないからで、努力はするつもりだ)、話題を変えるため散歩に行く旨を伝えた。
「まだ外暑いですよ?」
「…冷たい物が食べたいんだろう?希望があれば聞こうと思ってな」
何度か瞬いて、クスリと小さく笑った苗字は立ち上がり、髪を軽く弄った。
その表情がいつもの明るいものに戻っていて安心する。
「私も行きます」
「暑いぞ」
「行きたいんです。いいですよね?」
どこか嬉しそうな苗字に頷いて、順平にも声をかける。おごりだ、と言えば諸手を挙げて「いってらっしゃい」と手を振った。外へ出る気はないようだ。
「じゃあ行くか」
「はーい」
「あ、ちょいまち!名前サン集合」
「……なに?」
呼ばれた苗字が順平の方へ行く。
二人の仲が良いのは知っているつもりだ。だが目の前で交わされる親しげな会話を見て面白くないと感じる。
会話に入れないからか?
自問するが、そんな子ども染みた感情ではないような気がする。
――それにしても今日は色々と考えすぎだと自分で思う。気になるのは、どれも中心に苗字がいることだ。
妹のようで、そうじゃない。美紀とはまた違った意味で大切にしている美鶴とも違う。後輩で友人で仲間だが、それのどれにあて嵌めても微妙な違和を感じる。
こうして考え続けていれば、この違和感の正体がわかるようになるんだろうか。
まだ続いてる会話に痺れを切らしそうになったあたりで、ドスッと響いた鈍い音とともに体を折った順平に少し驚いた。
「イッテェ……、名前おま…少しは加減しろっての」
「グッジョブ順平!さすが親友!でもそっちのは消してね」
「マジ?」
「当然。今すぐ。目の前で」
「へーへー、わかりましたー。…ん、これでいい?」
「うん、確かに」
…どうでもいいがそんなに近づく必要があるのか?
携帯を覗き込む苗字と順平の距離が妙に苛立つ。気に入らない。
「苗字!」
「あ、はーい!じゃね、順平!いってきます」
「あいよー。あー!真田サン、オレ氷系でお願いしまっす!」
一瞬真逆のものでも買ってやろうかと考えたが、それはさすがに八つ当たりが過ぎると思い直した。
隣を見ると苗字が鼻歌混じりで歩いている。やたらと上機嫌に見えるのは気のせいか?
「…わかります?さっき順平からいいもの貰ったから嬉しくて!」
「さっき…?ああ、あれか。そんなにいいものなのか?」
「ですよ。ばれたらきっと血の海ですけどね」
「は?」
嬉しいものだと言う口で正反対の物騒な言葉口にする。聞き違いかと思って見ると、ただ笑顔が返されるだけ。
苗字は笑顔のまま、僅かに歩調を緩めた。
なにかあるのかと調子を合わせてみると嬉しそうに見上げてくるものだから、ついつられて笑ってしまった。
「なんだ?」
「…好きですよ」
「散歩が?」
「…はい。真田先輩と歩くの、好きです」
「そうか。…そうだな。俺も、好きだ」
言われた言葉が嬉しくてそのまま返すと、苗字は俯いて口元に手をやった。
どうしたと聞けば、なんでもないとの返事。赤い顔で言われても全然説得力がないんだが。
「先輩は、ものすごく鈍くて…時々、すごく、ずるいです…」
そう言うと、苗字は俺に問う間を与えず、急に走り出した。
「苗字!?」
「先、行ってます!」
“ものすごく”への力の入れ様と、覚えのない言葉について聞きたかったが上手く逃げられてしまったようだ。
少しずつ遠ざかる背中を見つめながら、俺は苗字の赤い顔を見るのが結構好きなのかもしれないとまったく関係ないことを考えていた。
P3P
9572文字 / 2009.12.10up
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